アジア人捕虜 政府は文書公開し解明図れ
内海愛子 早稲田大大学院客員教授(日本アジア関係論)
外務省は、アジア太平洋戦争中にフィリピンで日本軍の捕虜になった米国人元兵士の
日本招待を決定したという。政府は英国、オーストラリア、オランダの元捕虜を招待して
きたが、米国人は初めてだ。5月末には藤崎一郎駐米大使が、ルソン島バターン半島で
捕虜になった「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」に出席し、謝罪した。
捕虜への賠償を決めたサンフランシスコ講和条約第16条から外され、日本への招待も
されてこなかった同会のレスター・テニー会長ら元捕虜にとっては、遅きに失したとはいえ、
朗報だろう。
日本軍の捕虜になった連合国軍兵士は約30万人とされる。この中にはフィリピン、インドなど
連合国の植民地出身の兵士が多くいた。
1942年夏に日本が作成した統計によると「白人捕虜」12万539人、「アジア人捕虜」
16万2226人と、半数以上がアジア人兵士である。
白人捕虜がアジア各地で過酷な労働や飢餓などに苦しんだことはよく知られている。国内でも
約130カ所の収容所に約3万6千人の捕虜が移送され、鉱山などで働かされた。
戦後、いち早く米軍機が収容所に食糧物資を投下し、救出を急いだのは、餓死の危機、
全滅を恐れたからである。
極東国際軍事裁判の判決は、米国や英連邦捕虜の27%が死亡したことに言及している。
この過酷な捕虜体験は、戦後もそれぞれの国で語り継がれ、記憶されてきた。
麻生首相の親族企業である福岡県の旧麻生鉱業でも豪州や英国の捕虜300人を使役
していた。藤田幸久参議院議員(民主党)の追及で昨年12月、このことを示す文書が厚生
労働省の倉庫から見つかった。
アジア人捕虜はどのように扱われたのか。日本はジュネーブ条約など戦時国際法を独自に
解釈し、捕虜として扱う兵士を白人捕虜に限った。
植民地出身のアジア人は国際法上の捕虜ではなく、日本軍が自由に使え.る「労務者」という
扱いだった。
インド人は日本軍が編成したインド国民軍に編入されたり、「特殊労務隊」や各地の日本軍、
特務機関で使役されたりしている。
インドネシア人は、一部は解放されたが日本軍の兵補にされた捕虜もいた。
フィリピンでは朝日新聞(43年3月18日付)が「比島兵三千人を仮釈放」したと報じている。
これら「アジア人捕虜」の実態、犠牲者数は明らかではない。
戦後、ジュネーブ条約に違反して酷使されたと、インド人捕虜が日本兵を訴えた事件がある。
日本兵は、捕虜ではなく労務者だったと主張したが、豪州のラバウル軍事法廷は死刑の判決を
下した。戦時国際法を無視してインド人を捕虜と認めなかった上、虐待したことによって、BC級
戦犯裁判で刑死者を出したのである。
米国人元捕虜の招待は、忘れ去られていた「アジア人捕虜」の存在を改めて問いかけている。
アジア人を含めた捕虜問題の解明のために、厚労省や関係省庁に「俘虜月報」など関係
文書の公開を求めたい。
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内海愛子 早稲田大大学院客員教授(日本アジア関係論)
外務省は、アジア太平洋戦争中にフィリピンで日本軍の捕虜になった米国人元兵士の
日本招待を決定したという。政府は英国、オーストラリア、オランダの元捕虜を招待して
きたが、米国人は初めてだ。5月末には藤崎一郎駐米大使が、ルソン島バターン半島で
捕虜になった「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」に出席し、謝罪した。
捕虜への賠償を決めたサンフランシスコ講和条約第16条から外され、日本への招待も
されてこなかった同会のレスター・テニー会長ら元捕虜にとっては、遅きに失したとはいえ、
朗報だろう。
日本軍の捕虜になった連合国軍兵士は約30万人とされる。この中にはフィリピン、インドなど
連合国の植民地出身の兵士が多くいた。
1942年夏に日本が作成した統計によると「白人捕虜」12万539人、「アジア人捕虜」
16万2226人と、半数以上がアジア人兵士である。
白人捕虜がアジア各地で過酷な労働や飢餓などに苦しんだことはよく知られている。国内でも
約130カ所の収容所に約3万6千人の捕虜が移送され、鉱山などで働かされた。
戦後、いち早く米軍機が収容所に食糧物資を投下し、救出を急いだのは、餓死の危機、
全滅を恐れたからである。
極東国際軍事裁判の判決は、米国や英連邦捕虜の27%が死亡したことに言及している。
この過酷な捕虜体験は、戦後もそれぞれの国で語り継がれ、記憶されてきた。
麻生首相の親族企業である福岡県の旧麻生鉱業でも豪州や英国の捕虜300人を使役
していた。藤田幸久参議院議員(民主党)の追及で昨年12月、このことを示す文書が厚生
労働省の倉庫から見つかった。
アジア人捕虜はどのように扱われたのか。日本はジュネーブ条約など戦時国際法を独自に
解釈し、捕虜として扱う兵士を白人捕虜に限った。
植民地出身のアジア人は国際法上の捕虜ではなく、日本軍が自由に使え.る「労務者」という
扱いだった。
インド人は日本軍が編成したインド国民軍に編入されたり、「特殊労務隊」や各地の日本軍、
特務機関で使役されたりしている。
インドネシア人は、一部は解放されたが日本軍の兵補にされた捕虜もいた。
フィリピンでは朝日新聞(43年3月18日付)が「比島兵三千人を仮釈放」したと報じている。
これら「アジア人捕虜」の実態、犠牲者数は明らかではない。
戦後、ジュネーブ条約に違反して酷使されたと、インド人捕虜が日本兵を訴えた事件がある。
日本兵は、捕虜ではなく労務者だったと主張したが、豪州のラバウル軍事法廷は死刑の判決を
下した。戦時国際法を無視してインド人を捕虜と認めなかった上、虐待したことによって、BC級
戦犯裁判で刑死者を出したのである。
米国人元捕虜の招待は、忘れ去られていた「アジア人捕虜」の存在を改めて問いかけている。
アジア人を含めた捕虜問題の解明のために、厚労省や関係省庁に「俘虜月報」など関係
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