反戦の視点・その82  近代的立憲主義の重要な意義と9条改憲反対運動

2009-06-10 08:51:22 | 憲法
反戦の視点・その82
 近代的立憲主義の重要な意義と9条改憲反対運動のスタートラインについて
                    井上澄夫

注目すべき田村理氏の主張
 5月20日号の「マガジン9条」に、田村理(たむら・おさむ)氏(専修大学
法学部教授・憲法学)のインタビューが掲載されている(「この人に聞きたい」
その2)。筆者(井上)は一読して非常に共感した。田村氏の発言を筆者の問題
意識に沿ってまとめてみたい。
 ※ 「マガジン9条」 URL http://www.magazine9.jp/interv/tamura/index2.php

◆僕が批判する護憲派とは「9条の条文が変わらなければいいから、自衛隊や日
米安保などと9条の矛盾をどうするかは当面議論しない」という考えの人たち、
「中身はどうでもいいから改正しないために大同団結しましょう」と主張する人
たちのことです。

◆憲法論議でありがちなのは「条文ではこう書かれている」とか「こういう条文
にすべき」というレベルの話で終わってしまうことです。肝心なのは「憲法の条
文で定められているとおりに国家=権力を動かせるかどうか」「国家=権力に条
文どおりに行動させるにはどうしたらよいか」です。

◆もちろん、これまで条文を変えないことには多大な意味がありました。9条が
あるからこそ、日米同盟や自衛隊の海外派遣が現状で留まっているのですから。
国家=権力に余計なことはさせないという、まさに立憲主義的な歯止めの役割を、
9条は果たしてきたわけです。でも、今後も「条文をまもりましょう」というだ
けの運動を続けていては、9条を歯止めとして使うことのできる国民を育てるこ
とはできないでしょう。

◆『朝日新聞』が2007年5月3日の紙面で21本もの社説を用意して「提言
 日本の新戦略」と題した記事を掲載しました。この種の「現実主義的護憲論」
は立憲主義を棄て去る棄憲論に陥ります。記事では、「過去の朝日新聞の世論調
査からは、9条も自衛隊も安保も、ともに受け入れる穏やかな現実主義が浮かび
上がる。国民の多くは『憲法か、自衛隊か』と対立的にはとらえていないようだ。
国民の間に、基本的なところでのコンセンサスが生まれ、定着してきたと言える」
ということを大前提にしています。そして、(中略)国連平和維持活動(PKO)
を自衛隊の役割にすべきだと主張。さらには、憲法とは別に一般の法律で平和安
全保障基本法を制定して、「最小限の防衛力として自衛隊を持つこと」(中略)
を明確にすればよいとしています。

◆9条を変えないという点では、僕も『朝日』の主張も同じですが、どうしても
支持できない。なぜかといえば立憲主義の視点が皆無だからです。自衛隊という
憲法からは読み取れない権力機構を一般の法律で創ってもよいとなれば、立法権
への憲法による拘束はなくていいということになります。
 世界情勢や国民意識の変化を理由に、かつてはあれほど反対していた自衛隊の
海外派遣を朝日が認めてしまったことは、「現実主義」というよりは「なし崩し
の論理」でしかない。この種の護憲論には、理想を目指す意志が全く感じられな
い。憲法は、国家=権力の現実を本来あるべき姿に近づけるためにあるはずなの
に。
 護憲派がなすべきことは、中身を問わない「大同団結」などではなく、9条が
目指す理想とは何か、それを実現するために何が必要かについてのコンセンサス
を見解の対立の中で鍛え、リスクも含めて国民に誠実に説くことではないでしょ
うか。

◆いま確実に言えることは、来年5月18日の国民投票法施行後は法的にはいつ
でも国民投票が可能になるということです。僕が想定する最悪のケースは、国民
投票法施行により改正が既定路線となり、あっという間に改正案の発議や国民投
票という展開になることです。僕たちが立憲主義について学ぶこともなく、考え
ることもなく投票をむかえるのだけは避けたいのですが……。

◆例えば、他国が軍事力で攻めてきたとき「国家が国民を守るのは当たり前だ」
という考え方には説得力があります。だけど、国家にどう守らせるかは国民が憲
法で決めるのが立憲主義です。9条は「戦争をしません」という守らせ方を選ん
でいるのです。国家=権力が行なう国防とは、国民を使って国をまもる行為であ
り、そのために何百万人もの国民が犠牲になった歴史がある。そういう形で国民
の命を犠牲にさせないというのが9条です。

◆僕が9条改正も現実主義的護憲論も支持しない理由は、「戦争のない世界」と
いう青臭い理想をどうしても捨てられないということに尽きます。自衛のための
戦力を持ったまま「戦争はやめましょう」と言っても説得力があるとは思えませ
ん。だから、自衛隊は憲法違反だから縮小する努力をコツコツとやっていく、戦
争をなくすためにもっともっとタフな外交能力を身につける、これしかないと思
うのです。

 以上の田村氏の発言を本稿の読者はどう受け止めるだろうか。筆者は日本国憲
法を成立させた根本的な原理である近代的立憲主義に依拠しているという意味で
きわめてオーソドックス(正統な)意見であると思う。田村氏はごくアタリマエ
のことを言っている。筆者がそう判断する理由は、本シリーズ前前回の「反戦の
視点・その80」(「文言死守の防御的反改憲運動ではなく、9条の実現を政府
に突きつける攻勢的反改憲運動を創り出そう!」)で明らかにしている。「その
80」で筆者は立憲主義に関連しこう主張している。
 〈「憲政」(憲法に基づく政治)という言葉は、最近は主として戦前の歴史を
語るときに用いられているが、現在の政治状況を煮詰めて語るなら、「憲政の危
機」という表現が最も適切なのではあるまいか。絶対平和主義、主権在民、基本
的人権の尊重という日本国憲法を支える3大原理の侵犯と蹂躙が公然と行なわれ
ているからである。〉


立憲主義という大前提

 田村氏は「現実的護憲論者」を「9条の条文が変わらなければいいから、自衛
隊や日米安保などと9条の矛盾をどうするかは当面議論しない」という考えの人
たち、「中身はどうでもいいから改正しないために大同団結しましょう」と主張
する人たちと規定している。 筆者もその種の「現実的護憲論者」が非常に多い
ように感じる。憲法の前文と9条に照らし、自衛隊や安保条約をどう考えるかを
はっきり口に出して言うか言わないかは別にして、である。ある知人は9条改憲
反対の集会に講師として呼ばれた。ところが講演の直前になって司会者から「自
衛隊には触れないで下さい」と釘を刺された。知人は憤激して講演で自衛隊が9
条に違反する存在であることを大いに語ったという。またある集会で講師の某国
立大学教師が若者に「9条と自衛隊との関係はどうなっているんですか?」と聞
かれ、「9条は雰囲気が大事なんです。雰囲気を大事にしましょう」と「答えた」
という。余りに不誠実なはぐらかしである。
 「9条を守る」と主張する人は、憲法の前文を踏まえて「守るべき」9条を、
もう一度、じっくり読んでほしい。9条は、戦争放棄(1項)と戦力不保持・国
の交戦権の否認(2項)を明瞭に規定している。9条が「陸海空軍その他の戦力」
を持たないと規定しているのに、日本は現に世界有数の「自衛隊」という戦力
(軍隊)を持っている。さらに安保条約は日米間の軍事同盟であるから、憲法の
前文にも9条にもまぎれもなく違反している。したがって、自衛隊や安保条約の
存在を9条に基づいて厳しく問う必要があることは明らかである。否応なく眼前
に突きつけられている軍事的現実を、9条を基準に検証し、おぞましい現実を変
革して9条に近づける努力をなすことこそ、9条を活かすことである。
 9条改憲反対運動は「9条を守る」一点で団結すべきと言う人びとは、9条を
高く掲げることで問われるこの国の現実を正面からとらえ、9条を踏みにじる現
実について、自らの見解を鮮明にしているだろうか。自民党の良心派を取り込む
ために自衛隊違憲論は棚上げすべきと主張する向きさえある。9条の普遍的な意
味を強調し、世界に9条を広めることを主張しながら、いざというときは自衛隊
に頼るという無惨な実例も目にする。残念ながらそれが現状なのだ。立憲主義に
基づいて「現実的護憲論者」を批判する田村氏の主張は筋が通っている。それを
無視することは、自らの立憲主義からの逸脱に頬かぶりすることではないだろう
か。
 ここで改めて近代的立憲主義を理解するために、以下、大隈義和・編『憲法Ⅰ
総論・統治機構』(法律文化社、2002年刊)から引用する。

 〈憲法は、国家の基本構造を定めた法、つまり国の統治の基本に関するルール
もしくは立憲的な諸制度に関するルールという特別の内容の法規である。立憲的
な諸制度に関するルールの憲法は、近代市民革命期に政治権力を制限する規範秩
序・規範体系として説かれたものであり、「立憲的意味の憲法」または「近代的
意味の憲法」と呼ばれる。「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められて
いない社会は、およそ憲法を持つものではない」と規定するフランス人権宣言1
6条で用いられる「憲法」がこの憲法概念に該当する。
 立憲主義は、絶対王政との対立の中で生まれたのであり、ここで、憲法の目的
は、国家権力を法的に限界づけ、コントロール可能なものとすることであった。
そのような憲法は、個人の自由と自己決定を確保し保障することを目的とする。
この意味において「真の」そして完全な憲法は、国家における個人の基本的な地
位、特に国家権力に対する人間の主観的権利を含んでいるときに、初めて存在す
る。
 このように、国民の自由確保のために国家の最高権力を制限するシステムとし
て憲法をみたならば、憲法は、権力集中を避けたうえで国家の諸任務を異なる諸
機関に配分し、協同作用を規律し、そして国家権力保持者に対して個人の自由を
保障する、権力コントロールの基本的な道具として示される。〉

 近代的立憲主義を構成する原理は、法の支配、基本的人権の保障、国民主権で
ある。そして「日本国憲法はそのいずれの原則も踏襲して明文化している」(粕
谷友介著『憲法〔改訂〕』(上智大学、2003年刊)。すなわち日本国憲法は、
まぎれもなく近代的立憲主義に基づいているのだから、田村氏が現憲法について
の様々な見解を検証する際、近代的立憲主義の視点の有無を問題にするのはごく
自然である。 


9条と自衛隊との関係─久野収と加藤周一の意見─

 田村氏は「護憲派がなすべきことは、中身を問わない『大同団結』などではな
く、9条が目指す理想とは何か、それを実現するために何が必要かについてのコ
ンセンサスを見解の対立の中で鍛え、リスクも含めて国民に誠実に説くことでは
ないでしょうか。」と言う。
 ここで久野収(哲学者、故人)の主張を紹介しよう。

 〈憲法の生死のカギは、その実行細目を規定する法律や条令ににぎられている。
しかし同時に、法律や条例の生死を左右するのは、執行官僚であるよりも、さま
ざまな市民運動、さまざまな住民運動の主体である、市民、住民である。法律や
条令の解釈や執行の仕方を官僚にきめさせるのではなく、市民や住民が運動とし
てきめていかなければならない。憲法は、護憲を直接目的とする市民運動よりも、
護憲を直接目的としないが、間接的結果として、生活のすみずみで憲法を実現し、
違憲を摘発する市民運動によって、その生死を決定される運命にある。
 この関係は憲法第9条と、自衛隊法から出てきた自衛隊との関係の中で、もっ
ともドラマチックな姿をとる。憲法第9条の、したがって憲法全体の生死のカギ
は、自衛隊法と自衛隊ににぎられている。だから、自衛隊法と自衛隊問題をぬき
にした憲法論議は、ほとんどナンセンスに近い。憲法25年が要請しているのは、
この問題の市民運動的解決である。自衛隊を政府にあずけ、市民運動から"疎外"
したままでは問題は解決にすすみようがない。〉(「運動概念としての憲法の獲
得が、今日の課題だ」、『潮』1972年8月号)

 今から37年前に書かれた文章である。この文章を久野が執筆した当時、むろ
ん護憲運動は存在したが、今日(こんにち)ほどの規模ではなかった。改憲の動
きは自主憲法制定運動として続いていたが、さしたる力ではなく、現状とは比較
にならない。その意味で久野が「憲法は、護憲を直接目的とする市民運動よりも、
護憲を直接目的としないが、間接的結果として、生活のすみずみで憲法を実現し、
違憲を摘発する市民運動によって、その生死を決定される運命にある。」とのべ
ていることには十分な根拠があった。しかもその指摘は現在の9条改憲反対運動
のありかたに対する強い警鐘になっている。なぜなら、自衛隊や安保条約を問わ
ない「現実的護憲運動」は、久野の言う「生活のすみずみで憲法を実現し、違憲
を摘発する市民運動」からほど遠いからである。むのたけじ氏は「日本国憲法は
絹のハンカチとして箪笥の奥にしまっておくものではなく、雑巾(ぞうきん)の
ように毎日使うべきものだ」とのべているが、まさに至言と言うべきだろう。憲
法学者・和田英夫氏の次の指摘も傾聴すべきものである。

 〈憲法の平和主義は、その法的規範と政治的現実との間に、とりわけ、第9条
の戦力と自衛隊の存在をめぐって、一般的には、憲法規範と憲法現実との谷間、
あるいは憲法の理念性と実定性の問題として、困難な問題に当面している。しか
し、21世紀を展望しての日本国憲法のかかげる平和主義は、軍縮平和主義をめ
ざして、わが国平和主義への憲法的国是を堅持することにあろう。これこそが政
府が強調するところの「世界に貢献する」日本の責務であり、また、「国際社会
において、名誉ある地位を占め」(憲法前文)るゆえんなのである。〉(和田英
夫編著『現代憲法の体系』、勁草書房、1991年刊)

問題をもっと具体的に現実に引きつけるため、加藤周一(評論家、故人)の主
張も紹介しておく。

 〈憲法の中心問題は前文と9条です。細かい技術問題は別として、その根幹、
中心思想は、国際間の紛争を解決するために武力または武力による脅しを用いな
い、ということです。30年代の日本はほとんど武力のみによって紛争を解決し
ようとしていたでしょう。
 軍国日本を評価するかしないか、排斥するかどうかという根本的な問題は、や
はり9条の評価にかかわる。紛争があった時に軍事力を用いるか用いないかとい
う問題になる。自衛戦争は例外だとか、そういう議論は枝葉末節。というのは、
すべての戦争は「自衛」と言いうるし、現実的には、ある日突然外国が日本に攻
め込んでくる可能性はゼロに近いからです。
 私は道義的な意味と日本の近代史の経験から、軍事力を用いないという考え方
に賛成です。だから私は憲法を守りたいのです。それが第一です。
 第二は、日本に限らず、一般的に言って現在の世界の中で紛争を軍事力で解決
しようとすると、道義上の問題としてではなく、全く政治技術的に見て、目的を
達成することができないからです。現在やたらに起こっている国際問題と紛争を
解決するために、軍事力が有効な手段であるかといえば、違うと思います。軍事
力が全く役に立たない問題が、環境問題からエイズまで山ほどある。軍事力に関
係がありそうに見える問題に限っても、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、第一次湾岸
戦争など、いままでやった戦争で、目的を達成した例はほとんどないですね。
 だから憲法擁護が理想主義的なのではなくて、最も現実的なレアルポリティー
クの立場、パワーポリティクスの立場から言っても、軍事力の行使は、問題や紛
争の解決に有効ではない。犠牲は大きくて、達成した目的は貧しい。〉(「特別
対談:私はなぜ憲法を守りたいのか 加藤周一/大江健三郎」、『世界』200
3年1月号)


問われている9条改憲反対運動の運動論

 世論調査で改憲一般を問えば、大多数が賛成だが、こと9条の改定を問えば、
反対が多数を占める。しかし9条改定反対の人びとの多くが、積極的であるか消
極的であるかは別にして、自衛隊の存在を容認しているという現実を、9条改憲
反対運動はどう受け止めるべきだろうか。9条改憲反対運動は本来、条文の変更
に反対することだけが本旨ではないはずだ。9条を骨抜きにする動きと闘い、そ
れを阻止することを大前提に、解釈改憲を極限にまで煮詰めて明文改憲で9条に
とどめを刺そうとする動きの前に立ちはだかることが目的だろう。「9条を骨抜
きにする動きと闘い、それを阻止すること」を抜きに、条文の死守のみに神経を
集中するなら(冒頭意見を紹介した田村氏は「条文至上主義」という表現を用い
ている)、解釈改憲による9条の死文化はいっそう進行し、〈事実上の明文改憲〉
を自ら招き寄せることになりかねない。
 言うまでもなく、改憲を問う国民投票で勝つ(9条を変えさせない)ことは、
明文改憲で戦争国家化・派兵大国化を最終的に完成するという危険きわまりない
企みを阻止することにほかならないから、その重大さは強調して強調しすぎるこ
とはない。しかし、だからといって、9条改憲反対運動を「国民投票で勝つこと」
にのみ切り縮めることは、解釈改憲を極限にまで推し進めて進行する、この国の
戦争国家化・派兵大国化との対決を回避することである。
 9条を基準に、自衛隊、安保条約、米軍再編、海外派兵などを問い、政府に軍
縮を断行させ、非武装を実現させることが、9条改憲反対運動にとって死活的に
不可欠の内容である。「9条を守る」とは、「9条を実現する」ことであり、
「9条を変えさせない努力」は「政府に9条を実現させる不断の努力」と常に対
(つい)であるべきだ。


求められている主張の鮮明さと率直な議論

 現在参院で審議中の「海賊対処法案」が成立すれば、これまでかろうじて遵守
されてきた9条2項(国の交戦権の否認)に穴が開く。先制攻撃で人を殺害する
危害射撃が認められるからである。政府解釈の変更で「集団的自衛権の行使」を
容認すべきという主張や敵(ミサイル)基地先制攻撃は自衛の範囲であるという
意見まで公然と浮上している。改憲派は改憲のための国民投票を急ごうとしてい
るが、それ以前に、あるいはその準備と同時並行で、9条を葬り去る「蟻の一穴」
を次々に仕掛けてきているのだ。
 9条が変えられるのは困るが、いざというときは自衛隊に守ってほしいという
思いは、およそ論理的なものではない。「9条が変えられるのは困る」というの
は、9条は日本を本格的な対外戦争に踏み込ませないための歯止めになると漠然
と期待しているからである。それでいて「いざというときは自衛隊に守ってほし
い」というのは、非武装=丸腰ではやはり不安だということだ。この心情はまず
何より9条をきちんと理解していない。そのうえ問題なのは、周辺諸国との関係
で軍事的な危機を激しく煽られれば、好戦的なムードに乗せられ、9条を忘れか
ねないことだ。
 いや、近未来の話をしているのではない。麻生首相は6月7日、東京都内での
街頭演説でソマリア沖の海賊問題について「泥棒に襲われるのなら守るのは当た
り前。北朝鮮に対しても同じ。少なくとも我々は戦うべき時は戦わなければなら
ない。その覚悟だけは持たなければ、国の安全なんか守れるはずがない」と獅子
吼(ししく)した。「戦う」?? 麻生首相の辞書に9条はないようだが、ここ
で問題は「9条が変えられるのは困るが、いざというときは自衛隊に守ってほし
い」と思う人たちが、こういうためにする煽動に耐えて、やはり9条を守ろうと
考えるかどうかである。
 9条改憲反対運動は、9条は日本が戦力(軍隊)をもたず、どんなことがあっ
ても戦争しないという世界に向けた誓約なのだと鮮明に主張すべきであり、それ
ゆえにこそ私たちは、日本政府に非武装・不戦=9条の実現を強く要求しなけれ
ばならないと繰り返し説得すべきである。そうなれば当然のことだが、「9条が
変えられるのは困るが、いざというときは自衛隊に守ってほしい」と思っている
人たちと議論になる。そしてそれこそ望ましいことなのだ。
その議論でめざすべきは、動揺する「護憲」意識を9条の実現に向け直すこと
だ。それが可能になるとき、9条改憲反対運動は本来発揮すべき政治的機能を取
り戻す。非武装の実現を現実的でないとして回避する傾向は、一見、政治的判断
に基づくように見えるが、実は日本の非武装化を恐れる心理から生まれている場
合が多いのではあるまいか。そういう姿勢はこの上ない規範としての9条をない
がしろにするもの、いや、そもそも9条の実現をあらかじめ見果てぬ夢として遠
ざけてしまうことだ。
 日本が周辺諸国の動向にいっさいかかわりなく、一方的に非武装を実現するこ
とこそ私たちが果たすべき責務であることに確信をもたないなら、9条は実現で
きない。困難であろうがなかろうが、目標は公然と掲げるべきであり、そうでな
い限り実現できない。9条改憲反対運動は《非武装・不戦》という9条の核心的
意味を、正確に、正直に押し出すことから始まる。

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