「歴史観」科目廃止も=統幕学校の幹部教育で防衛省/時事通信

2008-11-25 23:15:12 | 社会
 防衛省は24日までに、統合幕僚学校で1佐、2佐の幹部自衛官を対象に行っている「歴史観・国家観」の講義について、廃止も含めた見直し作業に着手した。日本の過去の侵略行為を正当化する論文を発表して更迭された田母神俊雄前航空幕僚長のように、偏った歴史教育が行われているのではないかとの疑念を払しょくするため、抜本的な見直しが必要と判断した。

 歴史観・国家観の科目は、田母神氏が統幕学校長時代に新設したもの。同氏は講師の選任にもかかわったとされ、08年度の講師6人のうち2人は、「自虐史観」によらない教科書づくりを掲げる「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長と理事を務めている。

 浜田靖一防衛相はこうした講師陣の顔触れに疑問を呈しており、「バランスの取れた教育」を目指し、早期に選任方法を見直す方針だ。 
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-081124X261.html

歴史教育の講師選定見直し=浜田防衛相
 浜田靖一防衛相は21日午前の記者会見で、田母神俊雄前航空幕僚長が統合幕僚学校長時代に新設した「歴史観・国家観」の講義の講師陣選定について「適切だったと判断するのはなかなか難しいのではないか」との見解を示した。その上で、「バランスのとれた教育をするよう、講師の選定も含めて見直しについて検討したい」と述べ、幹部教育を改める方針を示した。
 防衛省は歴史観・国家観の講義に外部講師として、これまでに「新しい歴史教科書をつくる会」副会長の福地惇大正大教授や、同会理事の高森明勅日本文化総合研究所代表らを招聘(しょうへい)。野党からは、政府見解と異なる論文を発表して更迭された田母神氏に近い考えの講師が選ばれているとの批判が出ている。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200811/2008112100405

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▽浜田防衛相「歴史観・国家観」の講師、「見直しについて検討したい」

 これまでに「新しい歴史教科書をつくる会」副会長の福地惇大正大教授や、同会理
事の高森明勅日本文化総合研究所代表らを招聘するなどして、「歴史観・国家観」の
講師としてきた防衛省。浜田防衛相は21日、「適切だったと判断するのはなかなか
難しいのではないか」(時事通信)との見解を示し、「バランスのとれた教育をする
よう、講師の選定も含めて見直しについて検討したい」(同)と述べ、幹部教育を改
める方針を表明。

 安倍政権は「改憲」を旗印に掲げて自滅したが、自公政権はその後もその路線を捨
てていない。防衛省内部で行われてきた異常な「講義」を不適切と認めるだけにとど
まり、自民党内部に巣食う「靖国・改憲派」の日本国憲法逸脱を放置するようなこと
があれば、それは当面の「総選挙対策」にほかならない。防衛省だけでなく、政治家
の資格の根本的な検証が必要だ。

自衛隊統幕学校 「歴史観」講師見直し 防衛相表明 “適切でなかった”
(しんぶん赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-22/2008112201_03_0.html

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<Column>

「愛」と「国」とのつれづれ草 国家神道と記紀神話のそもそもを追及する(4)

                                奥田 史郎

12 【支配者が書いた正史の編纂責任者】

『古事記』と『日本書紀』の内容は、第二次大戦後はそれまでの神がかり的強制の反
撥で歴史価値は全面的に否定された。しかし最近は考古学的遺構・遺品との照合研究
や、中国・朝鮮との関係からの視点、また個々の記述から一定の"歴史的な事実"や"必
然的な寓意"を読み解く方法など、多様な研究が進んでいる。

『古事記』(712年完成)と『日本書紀』(720年完成)は同じ世紀の作としてひとく
くりにされることが多いが、作られた動機がまったく異なる。『日本書紀』は兄・天
智天皇の子=大友皇子と骨肉の争いを演じ(壬申の乱= 672年)、力づくで王権を奪
い取った天武天皇が、 682年に自分の息子たちに「南紀」や「上古諸事」を記して定
めるよう命じたことが端緒となって編纂されたとされる。

 つまり自分が手にした王位の正当性を後世に残すために作られた正史だから、天武
天皇(ヤマト政権)にとって都合よく書かれた"偽装の歴史"だ、少なくとも矛盾と作
為に満ちていると、戦後は徹底的に批判されたのである。

 しかし天武天皇が 686年に死んで、その後30年以上の編纂実務は、天武の後を継い
だ持統天皇と権臣・藤原不比等の手によってすすめられた。だから『日本書紀』にお
ける歴史偽装の陰謀主体はこの二人にこそある、という学説も説得力がある。

 とくに持統天皇が天武天皇の皇后で、しかも天智天皇の娘であるという複雑な立場
にあることと、藤原不比等がその娘を持統天皇の息子(後の文武天皇)と結婚させて
聖武天皇を生ませ、藤原家と皇室との関係を緊密にした策略家だから、その歴史偽装
の"真意"(政敵の抹殺など)がいやがうえにも深読み・裏読みされるわけである。

13 【古事記に登場する最初の朦朧たる神様】

 一方の『古事記』は稗田阿礼の語り伝えを太安万侶が文字化した素朴で自由なもの
とされるが、『日本書紀』とは異なる政治立場の人たちによって編纂されたという見
方もある。

 政治立場の真偽は不明だが、『日本書紀』が朝鮮半島の百済を重視しているのに、
『古事記』は新羅を尊重しているというし、表記の方法も『書紀』が漢音であるのに
対し、『古事記』や『万葉集』(770年代完成)は呉音で書かれているという。

 記紀は日本最古の歴史記録というが、『書紀』には、各所に「また―書にいわく」
と、先行著書からの引用があって、それが複数に及ぶ場合もしばしばあるから、すで
にいくつかの記録文書が存在したことを窺わせる。また当然のことながら、両者に表
記の違いが見られることは、日本語の表記法が定着するまで、かなりの期間が必要と
されたことも想像される。

 ところで記紀神話というと、最初に現れる神はイザナキ、イザナミで、日本列島の
国生みから物語が始まると思い込んでいる人も多いだろう。実は『日本書紀』では最
初に登場する神は国常立尊(クニノトコタチノミコト)で、イザナキ、イザナミはそ
の7代後に現れる。

『古事記』ではクニノトコタチノカミのさらにその先に5代の神々がいて、この神々
はみな独身で、しかも姿を見せない(身を隠したまま)で出現(?)することになっ
ている。クニノトコタチの孫の代になって、初めて男神と女神が対になって表れる。

『古事記』最初の神は天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)という名だが、こ
れは中央・中心の思想的神格表現とも、空間の表示ともいわれ、それゆえにその神の
活動も伝えられないのだと解説される。つまり、日本神道の神の系譜は、もやもや、
からっぽ、何もない、姿も見えぬところから始まるのである。

 神話の始まりとしてはそれなりに納得できる話でも、天皇中心の強権的な国家体制
の精神的・思想的基盤として喧伝された―国の誇るべき歴史が、「空白」や「無」の
神から始まるというのは、その精神を国民に対して声高に強要しつづけた時代の結末
を冷静に振り返ると、きわめて象徴的である。

「無」から生じた末裔の"権威や権力"機構が、その方針の徹底によって国民や周辺国
家に与えた莫大な被害や惨害に責任をとる必然は、芯のないタマネギやラッキョ同然
に、最初からどこにも存在しなかったのだ。無責任体制は、この国の開閉以来の"栄え
ある"伝統なのである。

14 【人が神になる場合】

 日本ではまた、古くから「カミ」と「オ二」とは同じ概念でとらえられていた。人
間も「借りるときのエビス顔、返すときのエンマ顔」に変わるのと同じに、時と場合
によって「カミ」も「オ二」になる。

 すぐれた活躍や業績によって尊敬され崇拝されて祀られる神ばかりではない。時の
敗者や被害者であった死者の霊の"怒りや祟り"を恐れて祀る場合もけっこう多い。祟
りの神="荒ぶる神"の御霊を鎮める目的で祀るのを「怨霊信仰」とも「御霊(ごりょ
う)信仰」ともいう。

 このような考えから、ヤマトタケルとか神功皇后など伝説上の悲劇の主人公も多く
神として祀られてきた。実在の人物で有名なのは、菅原道真(天満宮)や平将門(神
田明神)、崇徳上皇(京都・白峯神宮)など、平安末期の人物が多い。時代の要請で
あったのかもしれない。

 鎌倉期以後は活躍を顕彰して神にするようになり、豊臣秀吉も徳川家康も死後、新
たな神社の祭神になった。明治の「国家神道」では天皇の権威を高めることと、国家
に功績あった人物を祀るために、桓武天皇と孝明天皇を祭神とする平安神宮(京都)
や織田信長を祀る建勲(たけいさお)神社(京都)、楠木正成・正行父子(湊川神
社)、本居宣長を祀る本居神社(松阪市)などが創られた。

 政府にとって都合のよい"国民の手本とすべき人物"も神として祀られるようになっ
て、その筆頭として「軍神」という概念が作られ、軍国主義時代に、広瀬武夫中佐
(広瀬神社=大分県竹田市)、乃木希典夫婦(乃木神社=東京)、東郷平八郎元帥
(東郷神社=東京)などが相次いで神として祀られた。

 封建時代を躍起に終わらせ、近代科学が取り入れられるようになったという時代に、
神の世界と人間の世界をへだてる仕切りがかえって低くなるという奇妙な現象が起こ
った。誰かを神様にするもしないも、その時代時代の人間の都合次第なのである。

(つづく)
<Column>

「愛」と「国」とのつれづれ草 国家神道と記紀神話のそもそもを追及する(5)

                                奥田 史郎

15 【明治神宮の森づくり】

 その最たるものは、明治天皇を祀る明治神宮である。1913(大正 2)年に帝国議会
で明治天皇のための神宮造営が決議され、それから7年後に、東京・代々木の地に約
70万平方メートルの広大な敷地をもつ明治神宮が完成した。神宮の敷地には全国の小
学生をはじめ各地自治体やいろんな団体から数十万本に及ぶ各種の樹木が献納されそ
れらを植樹するために人々が勤労奉仕をして、人手による"神宮の森"をつくった。

 この間(1914=大正 3年)に明治天皇の皇后である昭憲皇太后が没したので、皇太
后も明治神宮に合祀されることになった。新設の神社にもかかわらず、明治神宮は東
京の総鎮守と決められて多くの信仰を集めた。明治天皇と皇后が祀られていることか
ら、明治神宮はいつのまにか縁結び・夫婦和合・家内安全・良縁の祈願成就などの御
利益があるとされ、そのため、地の利の良さもあってか、現在も毎年正月3が日には
150万人を超える参拝者があり、とくに若い男女たちはそのいきさつを知ってか知ら
ずか、初詣の人気スポットとなっている。

16 【東京招魂社の建設と改名】

 神道にはもともと、戦死者をまとめて一か所で祀るという発想がなかった。死者は
すべて、それぞれの家の先祖の一人として、家の御魂舎(みたまや)や墓に祀られて
きた。ところが明治維新後まもなく、明治政府のなかから、維新戦争のときの官軍
(皇室側・政府軍)の戦没者を慰霊する施設を造るぺきだという意見が出てきて、
1869(明治 2)年に東京・九段に東京招魂社が建てられた。

 この前の年には、京都に霊山招魂社(いまの京都霊山護国神社)がつくられていた。
また各藩でも招魂社が次々に建てられていた時期でもあった。死んだ人たちの怨霊の
祟りを恐れたのであろうか。そこで東京招魂社では、まず鳥羽・伏見の戦いから函館
戦争までの戦没者(約3500柱)を皮切りに、度重なる戦没者を神として祀ることにし
た。

 対象者は官軍の戦没者に限るから、どんなに維新の功労者であっても、たとえば西
郷隆盛は西南の役で官軍に敵対して死んだから招魂社に祀られることはない。1873
(明治 6)年には徴兵制が布告され、成人男子は洩れなく国のために兵役の義務を課
せられた。

 1890(明治23)年、第一回帝国議会が召集される直前に「教育に関する勅語(教育
勅語)」が発布され、さらに国民に向けて「親に孝行するのと同じ倫理で、天皇(国
家)には忠義を尽くす」こと、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」ることが徹底され、
子供たちはまず「大きくなったら兵隊になる」と答えるように教育された。

 これより先、東京招魂社の名称は1879(明治12)年、明治天皇の意向によって靖国
(やすくに)神社と改められた。「靖国」とは「安国」と同じに国を平安にする意味
で、平和な国づくりをするために戦死者をしのぼうという発想から名付けられた。し
かしこの後、日清戦争にはじまる対外戦争が拡大の一途をたどり、国家のために戦死
した者が次々に靖国神社に「英霊」として合祀されるようになり、戦死者の家には
「英霊の家」と貼り出され、国民は皇居と同じに靖国神社を遥拝するよう義務付けら
れた。

 春秋の例大祭や臨時大祭には天皇はじめ国の高官が参拝して、戦死は名誉なことと
され、兵役に召集された国民は互いに「死んだら、九段(靖国神社のある場所)で逢
おう」を合言葉にし、陸軍の徽章が桜だったことから「花は桜木、人は武士」=桜の
花はパッと咲いて散る時もパッと散っていさざよい、まさにこれこそ武士道の精神だ、
と国のために散る兵士の心がけの模範とされ、国民を戦争に駆り立てるのに役立てら
れた。

 敗戦によって靖国神社は国家の保護下を離れて一宗教法人となったが、戦没者の遺
族と保守(右翼)政治家の思惑と支えによって存続した。とくに東京裁判のA級戦犯
を合祀して(昭和天皇は、これを機に靖国参拝を中止した)侵略したアジア諸国へ挑
戦する態度を示していることと、歴代の総理や閣僚たちの公式参拝が、サンフランシ
スコ講和条約や日本国憲法に抵触すると問題化していることはご存じのとおりである。

 靖国神社の境内にある「遊就館」は戦争博物館といわれるほど、展示品解説の精神
や説明用語は、今も戦前・戦中思想そのままで凍結しているので、戦後生まれの人々
には"皇国史観教育"の見本を見聞できる稀有な場所として一見の価値がある。自民党
政治家の多くの歴史観は、戦後教育を受けてもよほど成績が悪かったのか、この戦争
博物館の展示説明同様、完全に戦時中の「時代のまま凍結状態」にあり、その延長線
上に敗戦があることを「愛国者たち」にはっきりと理解させる必要がある。

17 【日本独自の文化には何がある?】

 日本には古くから独自の古い伝統や文化が存在する、と愛国主義者たちは声高に言
うが、真実はどうだろうか。文字ひとつ考えてみても中国から学んだものだし、紙を
すくことも、文章を書くことも、筆記用具なども、みな中国からの移入である。

 儒教・道教・仏教、孝行や忠義という考えもそうである。天皇という呼称も、王の
変り目にする年号の改正も中国渡来である。日本独自と思われる「花鳥風月」という
美意識も中国の六朝時代(後漢が滅んで隋が興るまでの3世紀半ばから6世紀の末ご
ろまで)の貴族間で手紙を書く際に確立した"美意識"だといわれる。花鳥風月に加え
る「雨」が日本特有か。

 遣隋使や遣唐使が派遣されて、あらゆることを学びに行った歴史的証拠もたくさん
ある。縦長の掛け軸に絵や字をかくことも、横長の巻物に絵や物語をかくことも、陶
器や磁器をつくることも、石臼や水車をつくることも、鵜飼でさえ日本で発明された
ものではない。

 明治以後、記紀神話の挿絵で、天孫二二ギノミコトが雲に乗って高千穂の峰に降り
てくる図を見せられたが、これも浄土教が説く、臨終の際に多くの菩薩が西方浄土か
ら雲に乗って来迎する経典の図を参考にしたものに違いあるまい。来迎図の方がはる
かに古いからである。

 何から何まで中国文化・文明のお世話になっているのを忘れはて、日本が中国や中
国文化を蔑視し始めたのは、明治になって「脱亜入欧」を言い出してからである。韓
国を併合し、中華民国に対しても西欧帝国主義と歩調をそろえ出して植民地主義むき
出しになり、辛亥革命関連で来日していた多くの若き中国の留学生たちを失望と怒り
の淵に追いやった。

 幸田露伴は「愛という範疇には、メグシという概念がふくまれるのはもちろんだが、
少し間違うとムゴシというところまで行ってしまう場合があることを知らねばならな
い」と、言っている。「愛国」も同じである。

 また、永井荷風はずいぶん早くに「われらは徒(いたずら)に議員選挙に奔走する
事を以ってのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷士の美を
永遠に保護し、国語の純化洗練に努むる事を以って第一の義務なりと考えるのである」
(『日和下駄』1915〔大正 4〕年)と、開発事業が活発で旧来の東京の風景が失われ
つつあることを嘆きながら警告している。

 愛国心もこのへんならば、少なくとも他人に「ムゴシ」という類の迷惑をかけない
ですむのではなかろうか。
                                   (了)



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