天皇出席の水俣「海づくり大会」反対!10・13大阪集会/反戦反天皇制労働者ネットワーク

2013-09-20 12:36:04 | 社会
●天皇出席の水俣「海づくり大会」反対!10・13大阪集会
  水俣病問題の幕引きを許さない!


◇日時:10月13日(日)午後1時30分~5時

◇場所:ドーン・センター5階 セミナー室 (大阪市中央区大手前1丁目3番49号)
     京阪および地下鉄谷町線「天満橋」駅下車。1番出口より東へ約350m
     http://www.dawncenter.or.jp/shisetsu/map.html
◇水俣からの報告「水俣病と労働者」
   石田博文さん(元チッソ労働者〔合化労連新日窒労組〕)
  ◇参加費(資料代):1000円(経済的に厳しい方は受付まで)
  ◇主催: 参戦と天皇制に反対する連続行動

 10月27日、「第33回全国豊かな海づくり大会~くまもと~」が熊本で開かれ、天皇が出席する。式典は熊本県立劇場で、海上歓迎・放流行事はエコパーク水俣で行われる(放流行事は熊本港と牛深漁港でもある)。
 この目的は、大会の「開催意義」によれば「水俣湾の環境復元が完了し、国内の他の水域と変わらぬ清らかな海となってい」るのに、「今でも公害被害地域というイメージは拭いきれていないことから、水俣の海が素晴らしい豊饒(ほうじょう)の海であることを発信」することにある。「公害被害地域というイメージの払拭」を天皇の「権威」を借りて行うというのだ。
 「公害被害地域というイメージの払拭」とは何か。
 1956年の水俣病(戦後4大公害の一つ)公式確認以降、現在まで、国家(と原因企業チッソ)は水俣病の認定をたった約3千人しか行わず、約7万6千人の患者を切り捨てきた(朝日新聞4月24日)。当然のことだが闘いは続いた。そこで、国とチッソは2009年、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(特措法)を制定し、「幕引き」を強行したのだ。「お上」(国とチッソ)が、わずかだが「被害者」(「患者」とは認めない!)を「救済」(謝罪・賠償・補償ではない!)してやると。これで、「紛争を終結させ、水俣病問題の最終解決を図る」(特措法前文)というのだ。厖大な数の患者の棄民化と遺族の切捨て、そして闘いの圧殺である。その一方で、特措法はチッソ
を、「水俣病の責任を負うチッソ」と「負わないチッソ(JNC)」に分社し、「責任を負うチッソ」の倒産と「負わないチッソ(JNC)」の企業存続(繁栄)を保障した。
 こうしたことが「公害被害地域というイメージの払拭」である。天皇出席の水俣「海づくり大会」はその祝賀なのだ。
 私たちは、こうした「海づくり大会」を許せない。熊本現地での闘いと連帯して、大阪でも反対集会を開催する。多くの参加を!

■「満州事変」2ヵ月後―天皇裕仁、朝鮮侵略企業チッソを激励
 天皇の水俣訪問は過去2回あり、今回は3回目である。
 初めての訪問は1931年11月16日。天皇裕仁は「満州事変」2ヵ月後の陸軍大演習の「統覧」で熊本を訪れたあと日窒水俣工場を訪問した(いまも工場内に「臨幸記念碑」がある)。それは植民地朝鮮への侵略企業に対する天皇の期待を示すものであった。
 日本窒素は1910年の韓国併合後、日本帝国主義(朝鮮総督府)の権力をバックに朝鮮侵出。26年には朝鮮水力発電を設立し赴戦江の電源開発を進めた。工事で事故続出、多数の朝鮮人・中国人人夫が死傷した。飯場設備もない厳寒の高原に野宿させられた中国人人夫は、寒波の襲来のたびに何百人と集団凍死をしたという。27年に朝鮮窒素肥料を設立、29年に朝鮮窒素を中心に世界最大規模の電気化学工業コンビナート「興南工場」を設立して植民地朝鮮の搾取・収奪・支配の全面展開に入った。工場では、事故や爆発、毒・劇物曝露が起きて当然で、「朝鮮人はぼろくそ使え、朝鮮人になめられるな」と日本人の暴力が公認され、日本人は朝鮮人が死んでも風が吹いたほども感じない状態であったという。日本
人と朝鮮人の関係は、常に支配民族と被支配民族という関係であり、それが日本人労働者にとって「お国のため」という意識や自分の出世とも結びついていた。
 日中戦争全面化の前年の36年ごろから興南工場は事業の多角的展開と軍需工場化が進み、海軍の要請で航空燃料イソオクタン製造工場の建設まで始めた。チッソは国策会社として新興財閥となったのである。42年のチッソの利益の9割以上が朝鮮の工場によるもので、水俣工場が生み出す利益は全体のわずか7・7%であった。
 ところで、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造を開始した32年の当初から水銀を含む廃水を百間港(水俣湾)に無処理で放出していた。水俣病らしき症例が見られ、43年にはヘドロで水俣湾の漁場が荒廃し、漁民は抗議行動で漁業被害補償をさせている。

■裕仁・49年水俣訪問―戦後復興を激励・鼓舞
 天皇裕仁の2度目の日窒水俣工場訪問は1949年6月1日で、中断された戦後「巡幸」の再開のなかでのことである。46年2月から始まる戦後「巡幸」は、「神」から「人間」に変身する天皇を演出することで、天皇存続の危機を乗り切る策略であったが、最初の訪問地が昭和電工川崎工場であったように、戦争犠牲者への訪問と並んで、戦後復興を担う生産現場への激励が組み込まれた。それは、インフレと失業と食糧不足という戦後社会のなかで「戦後復興」激励の先頭に立つ、という喧伝戦でもあった。
 チッソは爆撃で壊滅状態の水俣工場で敗戦2ヵ月後から、全国のトップを切って「至上命令」とされる食料増産に必要な硫安の製造を再開した。硫安産業は石炭や鉄鋼と並ぶ重要産業として戦後統制のなかにあっただけに、裕仁の水俣工場訪問はチッソを大きく鼓舞したに違いない。もちろん、それは大儲けの「激励・鼓舞」でもあった。

■戦前も戦後も労働者・民衆を犠牲にして国家と共にあることがチッソの哲学
 天皇の水俣訪問の3回目は明仁である。水俣病問題の幕引きのために訪れるのだ。
 私たちはこの反人民的国家セレモニー水俣「海づくり大会」を許してはならない。
                                        
 参戦と天皇制に反対する連続行動
    

   *賛同のお願い   賛同費 個人・団体とも1000円。
   郵便振込 00900-8-168991 口座名 反戦反天皇制労働者ネットワーク


よろしければ、下のマークをクリックして!


よろしければ、もう一回!
人気<strong></strong>ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。