広瀬隆氏の「福島 あんなところ」発言に見られる他者を思いやる共感力が欠如した・・・/東本高志@大分

2011-11-06 00:53:48 | 社会
一昨日の3日、私は、大分市であった反原発評論家の広瀬隆氏の講演会に参加し、広瀬氏の3時間30分
にわたる長時間の講演を聴くことがありました。

その講演を聴いた私の感想は、下記でご紹介する池田香代子さんのご感想とほぼ同じで広瀬氏の長年の
反原発の活動とその主張については共感をするところも多く、また尊重したいとも思っているものの彼の主
張には首を傾げざるをえないところも少なくない、というものでした。

■反原発評論家・広瀬隆氏についての池田香代子さんの感想(弊ブログ 2011年3月27日)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-297.html

いま、その首を傾げざるをえないところを何点かメモ的に記しておきます。

第1。ECRR(欧州放射線リスク委員会)とその科学セクレタリーのクリストファー・バスビー氏を必要以上
に過大評価しすぎていると思われる点。
(参照:http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-356.html

第2。ときの民主党政権やマスメディアを激しく非難、批判する一方で、特定の民主党議員(川内博史衆院
議員)やまた特定のメディア(たとえば東京新聞)を今度は激しく絶賛する(川内衆院議員は私も一定評価
していますが、たとえば彼の鳩山グループの一員としての「小沢一郎擁護」論など評価できない点も少なく
ありません。また、東京新聞についても、現在のわが国のマスメディアの中では一頭地を抜くメディアだと
いうのが私の評価でもありますが、私として評価しえない論説、記事もこれもまた少なくなく見受けられます)。
当然のことながら広瀬氏の政党、政治家、メディア評価は自己の視点、また、自己の視野の範囲内での評
価、すなわちおのれの主観的な評価を超えないものであるにもかかわらず、その自己評価にすぎないもの
をさも客観的、科学的な評価でゆるぎのないものであるかのように論じる。その夜郎自大な姿勢。

第3。1日に福島第1原発2号機から放射性物質キセノン133、135が検出された問題で広瀬氏は再臨
界と核暴走が生じたのは確実と3日の講演で断言したのですが、原子力の専門家の小出裕章氏は同キ
セノンが検出された翌日の2日の時点で「キセノンを検出したというのであれば核分裂がいま起きている
証拠であり、再臨界が起きている可能性がある」としながらも、「それが起きたからといって原子炉が爆発
する(核暴走する)というようなことには多分ならないと私は思います」、とそのように判断する理由を含め
て述べています(毎日放送「たね蒔きジャーナル」2011年11月2日)。小出氏は警鐘は鳴らしながらもわか
らないことは「多分ならない」と言うのみで断言しないのです。これが科学者の本来のあるべき姿勢だと思
うのですが、広瀬氏には残念ながら上記した夜郎自大な姿勢は見られも、科学を論じながらそうしたサイ
エンティストらしい、あるいはサイエンス・ジャーナリストらしい姿勢は見られないという点、などなどです。
http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/11/03/tanemaki-nov2/

そうした点、広瀬氏の姿勢は上記の第1の弊ブログで批判しているクリストファー・バスビー氏のデマゴギ
ッシュな姿勢と類似するものがあるように私には見えます。

さて、上記は前説で、私がここで批判しようと思っているのは上記の講演会で福島県民は放射能で汚染
されている「<あんなところ>になんで帰ろうとしているのか私には信じられない」、と3・11以後のいまも
なおこの福島の地に残って生き抜こうとしている人々への思いやりと共感力を欠いた発言をして、その自
らの発言の暴力性に一向に気づかない、気づいていない広瀬氏の思想の質についてです。

この講演会の終わりに延長して45分ほどの質問の時間がありました。10人ほどの人が質問し、私は一
番最後の質問者になってしまったのですが指名されて広瀬氏の「福島 あんなところ」発言を問題にする
質問をしました(私以外の質問者は広瀬氏に感謝の謝意を述べるものばかりでした)。

その質問の趣意は次のようなものです(質問時間は1、2分程度に制限されていましたから下記に記述す
るようなことを十分に話すことができたわけではありません。しかし、その要旨は伝えたつもりです)。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
広瀬さんは講演の中で福島県を<あんなところ>呼ばわりし、福島県民が「なんで<あんなところ>に帰
ろうとしているのか私には信じられない」という趣のある種福島県民を愚弄する発言をされましたが、その
発言に関連して原発事故被災地の福島の人々の避難の権利の問題と、かなりな量の放射線被爆を覚悟
しながらも、それでもなお東電や政府、自治体に徹底した同地の除染を求め自分と自分たちの父母祖の
地である福島の地に留まって生きようとしている人々の心の問題との関連について質問したいと思います。

先週末の10月29日、30日には全国で多くの脱原発集会が開かれました。29日には大分でも「さよなら
原発 おおいた集会&パレード」が開かれ(注1)、東京では福島県の女たちと全国の女たちによる経済
産業省前座り込み第1次フィニッシュとしてのデモ行進がありました(注2)。また、福井市でも「さようなら
原発1千万人署名」の県内浸透を目指す市民組織「草の根ふくい」のスタート集会が開かれています(注
3)。また、30日には福島市で佐藤栄佐久前知事や保守系首長と共産党の志位和夫委員長が同席する
という異色の顔ぶれが集って県内除染の徹底を求める1万人大集会も開かれています(注4、注5)。

注1:「原発即時停止を求め集会」(朝日新聞 大分版 2011年10月31日)
http://mytown.asahi.com/oita/news.php?k_id=45000001110310010
注2:「女たちの脱原発 座り込み集会ルポ」(毎日新聞 2011年11月2日 東京夕刊)
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20111102dde012040025000c.html
注3:「『脱原発署名』県内浸透へ 福井で集会、草の根ふくい始動」(福井新聞 2011年10月30日)
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/nuclearpower/31267.html
注4:「除染徹底、被害賠償を要求=原発事故受け、1万人集会-福島」(時事通信 2011年10月30日)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201110/2011103000095
注5:「脱原発:福島で集会 保守、共産同席」(毎日新聞 2011年10月30日)
http://mainichi.jp/photo/news/20111031k0000m040057000c.html

先に福島の人々の避難の権利の問題についていえば、先月の10月27日から経済産業省前で座り込み
を続けている福島県の女性たち(いまは全国の女性たちに引き継がれています)は除染、除染というより、
子どもたちを一日も早く疎開させてほしい」と座り込みを始めた女性たちの総意として訴えています(注2)。
私もこの福島県民の損害賠償を含む「避難の権利」は一刻も早く具体的なありようとして実現させなけれ
ばならないと考えています。

しかし一方で、放射能に汚染されているけれどもその福島の地にあえて留まろうと決意している福島の
人々もたくさんいます。10月30日付けの時事通信はその人々の決意を次のように伝えています。

  東京電力福島第1原発の事故を受け、国や東電に除染徹底やあらゆる被害の賠償などを求める1万
  人規模(主催者発表)の集会が30日、福島市内で行われた。福島県浪江町の馬場有町長があいさつ
  し、「一日も早く除染をし、3月11日以前の元の生活に戻してほしい」と訴えた。/浪江町は原発に近く、
  国の警戒区域や計画的避難区域に指定されたことで全町民約2万1000人が故郷を追われた。町長
  が「福島県内に1万4000人、全国に7000人が避難している。心が折れないように、皆さんの気持ち
  を大切にしながら生き抜いていきたい」と訴えると、会場から大きな拍手が起きた。(注4)

福島県浪江町の町長が上記のように訴えた1万人規模の集会は反原発派の市民グループが主催した
「なくせ!原発 安心して住み続けられる福島を!10・30大集会inふくしま」という集会で、この集会には
福島県前知事の佐藤栄佐久氏や保守系首長、さらに共産党の志位和夫委員長も参加し、福島県内居住
を前提にした「徹底した除染」の必要性を訴えています。自分の生まれ育ったところ、また父母祖の地で
ある福島県という〈故郷〉に住み続けたいというのは一方で福島県民のなにものにも代え難い心の底から
の叫びであり、願いなのです。

福島の地を<あんなところ>呼ばわりする発言はその福島県民の心の底からの叫びを虚仮(こけ)にする
発言というべきではありませんか? 

放射能汚染の恐ろしさ、低線量被爆の恐ろしさ、また、その危険性を声を大きくして広く知らしめようとする
意図はよくわかるつもりです。しかし、福島の地に留まろうとするのもこの地から避難しようとするのも同地
の人々自身が決めることです。その一方の留まろうとする人々が現に住んでいる福島の地を<あんなとこ
ろ>呼ばわりするのは思慮のある態度、また正当なこととも思えません。

先日、毎日放送(MBS)で約40年間にわたって原発の危険性を訴え続けてきた〈熊取6人組〉といわれる
京大原子炉実験所(大阪府熊取町)の研究者たちの3・11以後の活動に密着取材した「放射能汚染の時
代を生きる~京大原子炉実験所・“異端”の研究者たち~」と題されたドキュメンタリーが放送されていまし
たが( http://youtu.be/hvi6GaecKM8 )、その研究者たちのおひとりの小出裕章氏は福島第1原発事故
の地福島で行われた講演会で福島の人々の避難の権利の問題と同地に留まって生きようとしている人々
の心の問題との関連について次のように発言していました(結論部分のみ)。

  わたしは何とか、福島の子どもを逃がしたいと思います。でも親も一緒に逃げなければ、家庭が崩壊し
  てしまいます。残れば健康被害が起きます。逃げればこころが崩壊してしまいます。どっちを選ぶかで
  す。この事故が起きてから、わたしは度々、たくさんの人から聞かれました。「どうしたらいいですか」。
  でも、わたしにはわからない。「すみませんが、わかりません」と、わたしは言います。わたし自身がそう
  いう選択を迫られている。わたしもどうしていいかわからず、悩んでいます。みなさんも1人1人、そういう
  なかで今日まで来られたのではないかと思います。残念ながら、いまだにわかりません。でも、どちらか
  を選ぶしかありません( http://www.hibinoshinbun.com/files/203/203_toku1.html )。

上記が私たちが福島県民に言いえる精一杯のことであり、また、最大のことというべきではないでしょうか
?(もちろん、同地での放射線量と放射能汚染の危険性についての市民に対する正確で迅速な情報開示
という作業が大前提であり、また必要絶対条件でもあることはいうまでもありません)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

同じように福島県内の放射能汚染の恐ろしさ、また、低線量被爆の危険性について市民に対して語って
も、原子力研究者の小出裕章氏と反原発評論家の広瀬隆氏とはこれだけの言葉そのものに含まれる認
識の深さという意味での言貌(「思想」とも呼び換えうるものですが)の違いがあるのです。

広瀬氏は福島県内に留まろうとする人々の心の問題について、その心情を深く尊重しなければならない
のではないか、と言う私の質問に対して「福島県民は(正確な情報を知らされずに)騙されている」と私に
説諭しました。内閣府の発表によれば指定された区域外(福島県内を含む)に避難した人は11万3000
人(2011年6月2日現在)に及ぶということですが、福島県にはいまなお199万1506人(推計人口、2011
年9月1日現在)の人々が暮らしています。その200万人に及ぶ福島県民のすべてが、すべてといわない
までもその多くの人が「(政府、あるいはメディアによって)騙されている」と広瀬氏は言うのでしょうか?

講演会の帰り際、私に広瀬氏が福島を<あんなところ>と表現したのは、「放射能に汚染されてしまった
<あんなところ>という意味であって、福島県及び福島県民を愚弄しているわけではない」と自信たっぷ
りという感じでまた私を説諭する人がいましたが、では「(福島県民は)騙されている」という広瀬氏の発言
はどのように理解しうるものでしょうか。彼の論は福島県民の知性、また、ものごとを認識する力、また判
断する力をこと放射能問題、また原発問題に関しては一切否定する論というよりほかありません。福島県
民を愚弄するにもほどがある、といわなければならないだろうと私は判断します。

広瀬氏は講演の中で東京の自分の自宅の庭の土の放射線量を計測したところチェルノブイリをはるかに
超える線量が計測された、と東京の目に見えない放射能汚染の実情と危険性についても警鐘を鳴らしま
したが、彼の論理に従えば東京も<あんなところ>となるはずであり、その東京に住んで講演が終われば
また帰京するはずの彼自身が「なんで<あんなところ>に帰ろうとしているのか私には信じられない」とい
うことになりはしないでしょうか? それとも自分と自分の家族だけは例外であるとでも考えているのでしょ
うか? 左の例も彼の論理には論理としての一貫性がないというひとつの証左になりうるでしょう。広瀬氏
にあるのは自分本位の論理の展開だけであるように私には見えます。

広瀬氏にあるのは自分本位の思想と他者を思いやる思想の欠如と共感力の欠如(他者を思いやる思想
と共感力という人間の内面の底のところにある識閾の深さ(認識する力)があればおのずから<あんなと
ころ>発言など出ようもないはずだと私は思うのです)、というのが広瀬氏の講演を聴いての私の正直な
ところの評価です。それでも広瀬氏は反原発の人です。はじめに述べたように広瀬氏の長年の反原発の
活動には敬意を表するものですし、彼の反原発の基本的な主張にも共感するところも少なくはありません。

しかし、人々に広く共感をえられる論理の構築のためには、私として広瀬氏の論理の底にあると見受けら
れる自己本位性は卒業されなければならない性質のものだろうと思います。また、すでに書いていること
ですが( 「反原発運動家・田中優氏に対する私見」http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-296.html )、
いわゆる市民運動の中には、一個の人間をそのかけがえのない一個の人間としてそのまま評価するの
ではなく、有名であること=人間の内実であるかのように倒錯しているある種の有名人病のようなものが
あります。この病弊も卒業されなければならない性質のものだろうと私は思っています。

まだ書いておきたいことはありますが、長くなりましたのでこれで一応の終わりにします。

東本高志@大分
higashimoto.takashi@khaki.plala.or.jp
http://mizukith.blog91.fc2.com/

****************

Yさんのコメント

始めまして
広瀬氏の「あんなところ」発言について書かれているのを読んでこちらにきました
私は東日本から西へと3月に避難した者です
「ある福島県という〈故郷〉に住み続けたいというのは一方で福島県民のなにものにも代え難い心の底
からの叫びであり、願いなのです」と書かれていますが東本さんは福島に住んでいる人たちから直接聞
いたのですか?
健康も命の保証もない場所になってしまっているのだとわかれば、例外はあってもそんなところに住み
続けたいとはほとんどの人が思わないと思います。安全、安心をふりまかれ、本当なのかと漠然とした
不安を持ちながらも、そこに住み続けるしかないのです。国がきちんとした補償をしてくれれば安心して
くらせるところに移りたいと沢山の人は思っているはずです。だいたい都会は故郷を捨てた人たちで成
り立っているのではないですか、なぜ福島の人間だけが故郷を捨てられないと決めつけるのですか、貴
方こそ決めつけはやめてください
(yaeko 2011/11/06 Sun)

********************


先に発信した「広く共感をえられる論理の構築とはなにか? ――広瀬隆氏の「福島 あんなところ」発言に
見られる他者を思いやる共感力が欠如した貧困なる思想としての論理について」という記事について、3・
11以後に「東日本から西へと避難」されたYさんという方から下記の「参考」のようなコメントをいただき
ました。私の先の記事への反論、反感を綴ったコメントです。しかし、福島第1原発の事故によって「東日本
から西へと」追われてきた人のコメントです。その心情にはていねいに応答しておく必要を私は感じました。

「避難の権利」と「留まる権利」についてあらたな観点から論じている先の記事の補論的側面もあります。本
メーリングリストにもあらためて発信させていただこうと思います。

Yさん、はじめまして

3・11以後に「東日本から西へと避難」されてこられた、とのこと。たいへんなご決断だったと思います。私
はそのご決断はきわめて当然なご決断であろう、と思います。当然のことですが私はそのご決断は人間の
生きる権利(生存権)、そういう意味での根源的権利として最大限尊重されなければならないものだと思っ
ています。私は先の記事においても住民の生存権としての「避難の権利」について次のように書いていま
す。

「先に福島の人々の避難の権利の問題についていえば、先月の10月27日から経済産業省前で座り込み
を続けている福島県の女性たち(いまは全国の女性たちに引き継がれています)は『除染、除染というより、
子どもたちを一日も早く疎開させてほしい』と座り込みを始めた女性たちの総意として訴えています。私も
この福島県民の損害賠償を含む「避難の権利」は一刻も早く具体的なありようとして実現させなければなら
ないと考えています。」

その人間の根源的権利としての「避難の権利」についていささかでも批判をすることなど私には思いも及ば
ないことです。

さて、「『福島県という〈故郷〉に住み続けたいというのは一方で福島県民のなにものにも代え難い心の底か
らの叫びであり、願いなのです』と書かれていますが東本さんは福島に住んでいる人たちから直接聞いた
のですか?」というご糾問についてですが、いささか的の外れたご糾問であるように私は思います。

私が「福島県民のなにものにも代え難い心の底からの叫びであり」云々と書いているのは、そのフレーズの
前文で紹介している「除染徹底、被害賠償を要求=原発事故受け、1万人集会-福島」(時事通信 2011
年10月30日)という報道記事を承けてのものです。同記事には、先月の30日に福島市であった1万人規模
の集会では福島県浪江町の馬場有町長が「福島県内に1万4000人、全国に7000人が避難している。心
が折れないように、皆さんの気持ちを大切にしながら生き抜いていきたい」とあいさつするとともに「一日も
早く除染をし、3月11日以前の元の生活に戻してほしい」と訴えたとあります。また、その町長の訴えに対し
て「(1万人が集まった)会場から大きな拍手が起きた」とも書かれています。私は、左記の福島県浪江町長
の訴えは「心の底からの叫びであり、願い」と解釈して誤りないものだと思いますし、その町長の訴えに
「(1万人が集まった)会場から大きな拍手が起きた」わけですから、このことを「福島県民のなにものにも代
え難い心の底からの叫びであり、願い」と表現してもこれも誤りある表現になっているとは思いません。「直
接聞いた」かどうかをここで糾問される筋の問題ではないだろう、と私は思います。

そうして「直接聞いた」かどうかの問題に関連してもうひとことほど申し上げておきますと、私は3・11以後
に福島の地を訪れたことはありませんのでもちろん「福島に住んでいる人たちから直接聞いた」わけでは
ありません。が、本エントリ記事でも紹介している毎日放送(MBS)の『放射能汚染の時代を生きる~京大
原子炉実験所・“異端”の研究者たち~』( http://youtu.be/hvi6GaecKM8 )というドキュメンタリー番組に
は3・11原発震災以後に生まれたばかりの生後5か月の乳呑み子を含めて3人の子どもの子育てをして
いる福島市に住む赤井マリ子さんの原発被災地の福島で生き抜こうと決意した姿が紹介されています。

赤井さんは言います。

「4月、この子がまだお腹の中に入っていて8か月の頃に車を運転していたときちょうどいつも通る同じ道
に桜が咲くところがあるんですね。その桜を見てなんか違うく映ったんですね。上のお兄ちゃんたちは小
さい頃外で遊ぶということを経験してきたので、だんご虫にアリに・・・春になるとアリの巣を探してアリの巣
をほったりとか。でも、この子はできないんだなあなんて、なんでここまで福島県が背負わなければいけな
いんだろう、背負うものが大きすぎるななんて思って運転している車の中で涙が知らず知らずツーと垂れ
てくることがよくありましたね。」(37分34秒頃)

子どもたちのこれからの成長のことを思うと少しの放射線量の数値の上がり下がりにも気になる赤井さん
ですが、しかし、赤井さんは福島の地で生きようという決意をします。「夫と相談して住み続けることに決め
ました。不安もありましたが、住むと決めたからにはどうすればより快適に暮らせるかに気持ちを切り替え
ている」といいます。「やっぱりね福島に。好きなんだと思うんです、ここがすごく。でも、好きでもご自身の
判断で避難されている方はまた辛いんだと思うんです。私は避難している方とかここにいるのがどっちが
正しくてどっちが間違っているのかもわかりませんし、それぞれの判断で、ね・・・」

この赤井さんの決断も「自分の生まれ育ったところ、また父母祖の地である福島県という〈故郷〉に住み続
けたいというのは一方で福島県民のなにものにも代え難い心の底からの叫びであり、願い」であるひとつ
の例となっているといえないでしょうか? 「安全、安心をふりまかれ」、ただ騙されて福島に留まっている
人たちばかりではない、という。

また、同じく上記のドキュメンタリー番組の中で映し出されている小出裕章さんの福島での講演を食い入る
ようにして、また歯を食いしばるようにして聞き入っている福島の人たち(画面で見る限り女性が多いです
ね)の姿もいまの福島の状況を正しく認識した上で福島に留まるべきか避難するべきかを真剣に模索して
いるいるたくさんの福島県民がいることのもうひとつの例証になりえているようにも思います。

さらにもうひとつの例としてこの8月にNHKで放送された「徐京植:フクシマを歩いて――NHKこころの時
代、私にとっての『3・11』」という秀逸なテレビ・ドキュメンタリーで紹介されていたスペイン思想研究者の
佐々木孝さんご夫妻、また、農業者の清水初雄さんのことも。彼らもまた福島における放射線被爆の危
険性について正確な知識を持ちながら、それでもなお自らの意思として福島の地に留まることを決意した
人たちでした。

上記は私が「福島に住んでいる人たちから直接聞いた」例とはもちろんいえませんが、映像を通じてこの
目で見た、あるいは聞いた例です。「直接」性だけを厳密に求めるとすると、私たちの視野、情報はごくご
く限られたものでしかありえなくなってしまうでしょう。メディアを通じた情報でもある程度の「直接」性、また
「真実」性を担保できることはあります。だから、むしろ問題にすべきは私たちの「真実」性を見抜く目であ
る、ということになるのではないでしょうか?

上記で紹介した「徐京植:フクシマを歩いて・・・」で徐さんはユダヤ系イタリア人作家、プリーモ・レーヴィの
『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞社 2000年。原著 1986年)を援用して「同心円に近い人たちの現
実を直視することを避けようとする」心理について、逆に「同心円的に遠ざかっているからこそ恐怖や不安
を自覚することができる想像力」ということについて語っていました。この徐さんの話も、私は、「『真実』性
を見抜く目」ということについて語っているひとつの例だろうと思います。
(参照: http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-330.html


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2 コメント

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あんなところとは言いませんが (rienrikiriki)
2011-11-06 16:31:48
フクシマに残っている人がいれば、その人達の生活を守らなければなりません。そのために余計な被曝をしてしまう人に対する思いやりは不要なのですか?私も、「あんなところ」とは言いませんが「お願いだからそこから早く逃げて」と思っています。
返信する
Unknown (ねずみ)
2012-05-08 04:51:32
ブログ主さん、あなたは、放射能被曝をどう考えているのか、自分自身の考えを表明していませんね。それをせずして、番組の内容や限られた登場人物の言葉を引用しても、私には、薄っぺらい印象しか持てません。あなたは肝心なことから逃げています。赤井さんにしても、本当は逃げ出したいのだと思いますよ、夫がノーだったのでしょう。彼女の苦しい胸の内と、可愛いお子さんたちのことを思うとやりきれない気持ちになります。
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