〈核の時代を生きて〉(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)/朝日新聞

2011-08-05 08:57:29 | 社会
〈核の時代を生きて〉66年目、またも放射能

北へと逃げる車中で広島で被爆した記憶がよみがえった。また、放射能に苦しめられるのだろうか。

 自宅から約17キロ先の福島第一原発で3月12日、水素爆発が起きた。20キロ圏外に逃げるように言われ、福島県南相馬市の遠藤昌弘さん(85)は妻と娘の3人で、親類の車に飛び乗った。

 手元にあるのは自宅の鍵、財布、健康保険証と自身の被爆者健康手帳のみ。着の身着のままだった。

 あてのないまま10キロ北の体育館へ。3泊した後、福島市の親類宅へ身を寄せ、1週間後には約250キロ離れた神奈川県相模原市の知人宅にたどりついた。

 目に見えぬものに逐(お)われて春寒し

    □

 1945年夏。2等兵の遠藤さんは体調を崩し、広島市にある陸軍病院の三滝分院に入院していた。

 8月6日午前8時15分、爆心地から2キロ。爆風は仮眠していた遠藤さんを吹き飛ばし、壁にたたきつけた。外に出ると、黒く、肌がずるむけになった女性たちが「助けて」とうめきながら倒れていく。死んだお母さんの乳房に吸いついた赤ちゃんが、泣いている。

 「無残すぎて、もう広島は思い出したくない」

 避難先の小学校の講堂で敗戦を知った。8月も終わろうとするころ、髪が抜け下痢が止まらなくなった。

    □

 戦後、大阪の設計事務所で働いた遠藤さんは50年、父の死で郷里の旧小高町(現在の南相馬市)に戻った。29歳で町役場に就職し、土木課に配属された。

 原爆のことは、家族にも多くを語らなかった。あのとき、ぼと、ぼとっと音を立てて、黒い雨粒が落ちてきた。服も黒く染まってゆく。雨には強い放射能が含まれていた。体中のできものが化膿(かのう)して治らないのはそのせいだろうか。いつ原爆症で死ぬのか。不安だった。心境は句に寄せた。

 夏草や生きて原爆受洗の徒

 日本経済は驚く速さで成長を始めていた。鉄鋼や造船、自動車などの重工業は、働き手として農村から若者を引っ張っていった。

 小高の人々の暮らしを支えた稲作だけでは食えない時代。出稼ぎも多い。

 福島第一原発1号機が71年に稼働を始めた。それを追いかけるように73年、町は浪江・小高原子力発電所の誘致を決めた。補助金で町が豊かになる。雇用も生まれる。色めきたった。

 遠藤さんは、原発建設に必要な石を運び出す道路をつくるため、地権者との用地交渉にあたった。

 町長を先頭に、説得した。「原発は平和産業、雇用をつくる地場産業です」と頭を下げた。

 仕事なんだ――。放射線が体をむしばむかもしれない不安を打ち消すように、反対する人には言った。

 「私は被爆者だから放射能の怖さをよく知っています。原発と原爆は違います。安全なのです」

 道路は完成したが、原発は未着工のまま、遠藤さんは定年。再就職先の建設会社を退いた後は、妻幸子さん(82)と茶道を楽しみ、俳句を詠む日々だった。

 原発事故は、そんな日常を一瞬にして奪った。

    □

 仮住まいは4カ月を超えた。つかの間の安らぎはあるものの、この先どうなるのか先行きが見えない。

 小高の町のことを考えない日はない。原発は「平和産業」だと信じてきた。悔しい。妻と過ごしてきた自宅は、警戒区域にある。どうなっているのだろう。

 放射能の町離れ来てみどり立つ

 今秋、あの日から一度も足が向かなかった広島を家族で訪れてみたい。(高木智子)


〈核の時代を生きて〉黒い雪の恐怖を語る

 1954年3月。

 高知の室戸船籍「第二幸成丸」は、南太平洋ビキニ環礁の周辺海域にいた。

 甲板員、桑野浩(ゆたか)さん(78)はデッキに出た。

 空からパラパラと降ってくる。黒い雪のようだ。灰にも見える。

 「なんだ?」

 黒いものはデッキにうっすら積もり、頭や顔、首筋にもつく。汗とともに手でぬぐう。2、3日は降り続いた記憶がある。

 好漁場で知られた周辺海域には当時、数百の日本の漁船が行き来していた。

 ビキニ環礁では米国による水爆実験が行われていた。乗組員は知るはずもなかった。

    □

 突然、桑野さんの体に変調が表れたのは、十数年が過ぎた30代初め。白血球の数が異常を示した。医師に聞いても、原因はわからないというばかり。

 米国、南米、中東、アフリカ、旧ソ連。小麦や車を積んだ商船で、海外を回っていた。母一人の手で育てられ、マグロ船に乗って稼いだ学費で、国の海技専門学院を卒業。航海士となる夢を実現していた。

 不思議なことが続く。40代半ばごろから、世話になった幸成丸の乗組員の訃報(ふほう)を次々、耳にした。

 知っているだけで、79年に54歳の機関員が心臓まひ、85年に68歳の漁労長が大腸がんで逝く。さらに別の54歳の機関員が肺がん、59歳の機関員が血液がん……。海外から田舎へ戻るたび、仲間の死を知る。

 忘れていたビキニの記憶がよみがえった。

 「あの黒い雪が関係している。きっと、そうだ」

 桑野さんを乗せた幸成丸が東京・築地に戻る1カ月前、米国の水爆実験で「死の灰」を浴びた船がいた。第五福竜丸。乗組員23人は下痢や吐き気、脱毛、やけどを訴えた。急性放射能症と診断され、全員が入院。騒ぎになっていた。

 桑野さんたちも集められ、船や魚が放射能に汚染されていないか検査を受けた。水揚げ30トンのうち、5分の1が廃棄された。船は被曝(ひばく)していた。

 「体はなんともない。大丈夫だ」。福竜丸の乗組員とは違う、と思ってきた。

 だが、立て続けに仲間が死んでいく。

 次は、おれだ。

 福竜丸は有名だが、だれも高知の漁船のことは知らない。「自分もビキニの被害者だって言いたくても、振り向いてくれる人なんていなかった」

 寄港先でアルコールを買っては、船の自室で飲んだ。1日にウイスキーを1瓶あけるのは当たり前。酒量が増えていった。

 恐怖が心と体をぼろぼろにした。55歳で船を下りた。酒が手放せない。幻覚と幻聴。妻に当たり散らした。耐えかねた妻が、アルコール依存症が専門の病院に駆け込んだ。

 5カ月半、入院した。

    □

 酒を断って20年、幸成丸の仲間で連絡が取れるのは2人になった。5年前からビキニの体験の証言を始めた。原発事故が日本で起き、海を汚している。

 「人間が扱うものには過ちもあるし、天災もある。だから核は放棄すべきだ」。あの海で見たこと、それから起きたことを伝えていきたい。(高木智子)

     ◇

 〈ビキニ事件〉 1954年3月~5月、米国は南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁などで6回にわたり水爆実験を行った。1回目の3月1日の爆発で、マグロ船「第五福竜丸」が「死の灰」(放射性降下物)をあび、全乗組員23人が被曝。半年後、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死去した。事件で原水爆禁止運動のうねりが世界に広がった。

 当時、多くの漁船や貨物船、現地住民、米兵らが被曝したが、55年の日米両政府による政治決着で、第五福竜丸以外の被害実態は調査されなかった。

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〈核の時代を生きて〉原発が奪った夫の命

沖縄県うるま市。喜友名(きゆな)末子さん(59)は、自宅の台所にある琉球の神棚、ヒヌカン(火の神)に手を合わせた。同い年の亡き夫、正(ただし)さんにこう語りかけた。

 「原発で事故があったよ。病気になる人が出ないか心配」

 原発で働いていた正さんは2005年3月、悪性リンパ腫で急死した。53歳だった。3年後、「原発労働がもとで死亡した」と労災が認められた。

 6年あまりの間に八つの原発や施設で累計99ミリシーベルトの放射線を浴びた。規則で認められる範囲の線量だったが、「悪性リンパ腫を発症しうる量」と放射線の専門家が指摘した。

 「原発が主人を奪った」。今も悔しさがこみ上げてくる。

    □

 正さんは高校卒業後、那覇市の電機販売会社で20年以上、修理の仕事をしていた。週末には末子さんや長男と海に行き、ミーバイ(ハタ)やタコを捕った。夜に夫婦で台所に並んで刺し身や煮付けにした。

 暮らしに変化が訪れたのは94年末、正さんが会社を辞めてからだ。「会社は自分より、給料の低い若手を増やしたがっている」。当時の月給は県平均の2倍の約45万円。居心地の悪さに我慢できなかった。

 「原発で働くことにした」。97年夏、職を転々としていた正さんが夕食時に突然切り出した。大阪の会社の臨時職員として配管を検査する仕事をハローワークで見つけたという。病院で医療事務に就く末子さんは「放射線を浴びると病気になる」と反対した。

 でも、家のローンや長崎の大学に入った長男への仕送りがある。原発作業の稼ぎは多ければ1カ月で40万円。「同じ給料をいま沖縄のどこで得られるんだ」

 耳を貸さず、正さんは沖縄を出ていった。

 泊(北海道)、伊方(愛媛)、敦賀(福井)……。ときに1カ月ほど泊まり込み、原発を転々とした。検査機器を運んだり、データをまとめたり。防護服とマスク姿で配管が張り巡らされた区域にも入った。

    □

 04年3月のことだ。

 沖縄に帰っていた正さんの顔の右半分が突然、殴られたように腫れた。駆け込んだ病院で「鼻に腫瘍(しゅよう)がある」と言われ、緊急手術した。5月に入院した別の病院の医師は、家族を会議室に集めてこう告げた。

 「治療しても助かる確率は50%です」

 正さんの口のあちこちに口内炎ができ、食事もろくに取れない。70キロの体重は47キロに。体力はみるみる衰えた。1年近い闘病生活。酸素マスクが必要となった末期、何かを伝えようと正さんがメモ帳を手に取った。「末子」と書くのがやっと。後が続かなかった。

 30年の2人の生活は数日後、終わりを告げた。

    □

 心に開いた穴は、埋まらない。「前を見て生きよう」とあえて思い出の品を処分した。しかし、頭に浮かんでくる正さんの姿までは、どうしようもない。隣近所から時折、ほかの夫婦の声が風に乗ってくる。奪われた日常は、戻ってこない。(釆沢嘉高)

    ◇

 〈原発労働者の労災認定〉 厚生労働省によると、原発労働者が「被曝(ひばく)により病気になった」と労災認定されたのは1976年以降で10件。うち6件は白血病で、多発性骨髄腫と悪性リンパ腫がそれぞれ2件。累積被曝線量は、最大129.8ミリシーベルト、最少5.2ミリシーベルト。

 国は規則で原発労働者の被曝を平常時で年50ミリシーベルト以下にするよう義務づける。一方、旧労働省は76年、白血病の場合で、年平均5ミリシーベルト以上であれば労災を認めると局長通達で示している。被曝量が規制値以下でも「絶対安全」と言い切れないため、労働者保護の観点から「二重の基準」が設けられている。

*2011.8.1

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〈核の時代を生きて〉臨界事故、語り継ぐ

原子力施設が密集する茨城県東海村。大泉恵子さん(71)は、雑草に覆われた敷地に立った。平屋の建物に「大泉工業」の色あせた看板が残る。

 まなざしの先に、木に囲まれた大きな工場がある。12年前、国内初の臨界事故が起きた「ジェー・シー・オー(JCO)」だ。

 「あの事故を一生引きずっていかなければいけないのでしょうか」

 現場からわずか120メートル。恵子さんは、自動車部品工場を切り盛りしていた11歳上の夫、昭一さんとともに被曝(ひばく)した。直後から体と心の不調に襲われ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。今も精神安定剤を飲む毎日だ。

 昭一さんは今年2月、82歳で亡くなった。晩年まで、「事故で工場が廃業に追い込まれ、悔しい」と口にしていた。

    □

 昭一さんが自動車会社を辞め、東海村に隣接する日立市の自宅で夫婦だけの工場を始めたのは1979年。7年後、約2700万円の借金をして手にしたのが東海村の工場だった。

 「この調子だったら、70歳まで働けるね」。月末の製品の納期だったあの日、恵子さんは昭一さんや女性従業員3人と朝からはんだ付けに追われていた。

 午後1時半すぎのことだ。消防署員がやって来て「窓を閉めて下さい」と言った。午後4時前、今度は「避難を」と促された。訳が分からなかったが、車で自宅に戻った。何が起きたのかを知ったのは、夕食を食べようとした午後7時のテレビニュースだった。

 大量の放射線を浴びたのでは――。

 国が示した夫妻の推定放射線量は「身体への影響はない」とされる6.5ミリシーベルト。だが、恵子さんはその夜から5日間、ひどい下痢が続いた。それが治まっても、体が鉛のように重い。朝、洗面所に行くとその場でへたり込んだ。工場が近づくと体がこわばり、動悸(どうき)が激しくなった。薬を大量に飲み、死のうとしたこともある。

 歯車が狂っていく。昭一さんも事故から1カ月あまり後、紅皮症(こうひしょう)という全身の皮膚が赤くなる持病が悪化。ともに工場に出勤できない日々が続き、月々数十万円の赤字を出すようになった。昭一さんが入院した01年2月、廃業した。

    □

 夫妻はJCOなどを相手に裁判を起こしたが、昨年5月、「被曝が健康被害を発生させたとは言えない」として敗訴が確定。その直後、昭一さんが81歳で立ち上げたのが「臨界事故を語り継ぐ会」だった。

 広島、東京……。各地を講演に回っていた昭一さんは昨年10月、脳梗塞(こうそく)で倒れた。病床で何度も「会を続けてやってくれるか」と恵子さんに問いかけた。

 「風化すれば再び同じような事故が起こる」。恵子さんは、昭一さんのこの言葉を胸に刻む。

 臨界事故のあと、村では毎年、健康に不安を抱く村民ら250人前後が健康診断を受けている。

 福島では避難を余儀なくされている人がいる。恵子さんはあのころの自分の姿が重なり、やりきれない思いを募らせている。(江崎憲一)

    ◇

〈JCO臨界事故〉 1999年9月30日、茨城県東海村のウラン加工工場「JCO」東海事業所で、制限量を大幅に超えるウラン溶液が投入され、核分裂が連鎖して続く「臨界」が起きた。多量の放射線を浴びた作業員3人のうち2人が急性放射線障害で死亡し、周辺住民ら667人が被曝した。県は半径10キロ圏の住民に屋内退避要請を出した。事故の重大さは国際評価尺度で当時、国内最悪の「レベル4」だった。

*2011.8.2

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〈核の時代を生きて〉第二の故郷よ、認めて

 今年7月12日、長崎市。強い日差しが照りつける。

 韓国昌原市鎮海区の画家、張令俊(チャン・ヨンジュン)さん(81)は、15歳のころに父を捜して歩いた道をたどった。

 1945年8月9日、爆心地の北約30キロの長崎県川棚町にいた。一緒だった母や弟妹は無事だが、長崎市で土木業を営む父の安否がわからない。3日後、一人で列車に乗り込み、市内を目指した――。

 父の無事を確認した、その記憶をたどるように進む。爆心地付近の浦上からJR長崎駅前、路面電車の走る沿道を過ぎ南東へ。目的地は本河内の水源池だ。

 到着するや、張さんが声を上げた。「あの雑木林です。そばに父の飯場があったんです」

 張さんは長崎市に被爆者健康手帳を何度も申請したが、「被爆を証明するものがない」と退けられた。

 「これほどはっきり覚えているのに、なぜ被爆者として認められないのか」

 涙がこぼれた。

     □

 あの夏、日本は戦争に敗れ、一家は3カ月後、解放された祖国に戻った。だが、朝鮮半島はまもなく南北に分断され、50年には朝鮮戦争が始まった。

 体に変調を覚えたのは、戦争のさなかだった。

 当時、陸軍兵長として韓国南部・釜山の基地で後方支援をしていた。急に鼻血や歯茎からの出血が目立ち始めた。下痢が続き、熱が出るようになった。

 「栄養不足か過労だろうか」。原因がわからないまま、満足な薬もなく、我慢するしかなかった。

 30代半ば。日本の雑誌で被爆者の記事を目にし、疑問が膨らんでゆく。

 「おかしな体調が続くのは、原爆投下後の長崎市に入ったことが原因では」

 しかし、原爆被害のことは周囲で理解されてはいない。父親が被爆者だとわかると、息子や娘がいわれない差別を受けるのでは。

 口を閉ざした。

    □

 被爆者手帳を取るために最初の申請をしたのは、90年代前半だった。

 そのころ、韓国原爆被害者協会の活動を知った。被爆者同士が助け合い、日本政府に補償を求めていた。

 会員になり、韓国で被爆者と認められ、韓国政府から診療補助費が支給されるようになった。だが、現在でも月10万ウォン(約7500円)に過ぎない。

 「手帳をもらい、日本できちんとした治療を受けたい」と願ってきた。

    □

 数年前、張さんは「白血球減少症」と診断された。耐えかねて今年5月、長崎市を相手に、手帳を求める裁判を起こした。

 7月、長崎地裁の法廷で裁判官に直接訴えた。

 「病状は刻一刻、悪化していっております。この先、自分の体がどうなるのか、毎日不安を抱えて生きております」

 日本で生まれ、教育を受けた、滑らかな日本語。

 「私の半分は日本人。第二の故郷と思っていたのに」。憤りより、寂しさがこみあげてきた。

 協会によると、会員の被爆者約2650人のうち約140人が、「証人がいない」「証明するものがない」との理由で手帳を持てないでいる。(佐々木亮)

    ◇

〈在外被爆者〉 厚生労働省によると、2011年3月現在、海外で暮らして被爆者健康手帳を持つ人は37カ国・地域で約4450人で、約3050人が韓国在住者。海外から被爆者手帳の申請ができるようになるなど一定の改善もみられるが、日本政府の援護から長い間置き去りにされてきた。例えば、国内では被爆者援護法に基づいて医療費を国が全額負担するのに対し、国外在住者には適用されず、医療費助成に年間十数万円の上限があるなど格差は少なくない。

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〈核の時代を生きて〉ヒバク 地球の裏にも

赤土の高原が広がるブラジル内陸の地方都市、ゴイアニア。中心部から西約30キロの丘陵に、有刺鉄線で囲まれた場所がある。

 「ここは人類の英知が造った墓場ですよ」。7月半ば、約900キロ南のサンパウロから訪れた盆子原(ぼんこはら)国彦さん(71)が言った。

 24年前に249人が被曝(ひばく)し、死者も出たセシウム137流出事故。地下10メートルでは汚染された住民の服やアルバム、家のがれきが放射線を出し続けている。

 「あれは青く光ってきれいだった。親戚が集まり、みんなで触っていたの」

 25歳の息子をがんで亡くしたアレッシー・バス・ボージェスさん(73)に、盆子原さんが語りかけた。

 「私もヒバクシャです。母と姉をヒロシマで失いました」

 時折この地を訪れ、被害者と語り合う。

     □

 1945年8月6日、広島。

 5歳のあの朝、建設現場の監督だった父と自宅近くの事務所にいた。窓が突然ピカッと光り、父に机の下に押し込まれた。爆心の南2キロ。爆風でガラスを浴びて血まみれになり、近くの川で父と洗った。

 自宅は倒壊していた。大粒の黒い雨がぼたぼた落ちてきた。勤労奉仕に出かけていた母と姉を捜したが、ついに見つからなかった。

 戦後、郊外の農家の納屋を借りて父や兄ら家族4人で住んだ。たびたび全身に10円玉大のできものができ、緑色のウミが出てなかなか治らなかった。小学4年のときに肺病を患った。

 「そんなに長いこと生きられん。生きてる間に何でも見てやろう」

 高校卒業後の1960年12月、海外移住事業の一員として神戸港から単身ブラジルに渡った。30代半ばで始めた測量会社が軌道に乗った。めまいをよく起こして倒れていた体も次第によくなった。

 日本からの巡回医師団の健康診断を初めて受けた88年のことだ。全土から集まった100人ほどの被爆者が口々に言った。

 「仕事がしたいのに体が動かない」「被爆者だと知れて、息子の縁談が破談になった」。みんなまだ苦しんでいる――。

 ブラジル被爆者平和協会に加わった。

 いま、副会長として会長の森田隆さん(87)と学校で被爆体験を語っている。川に浮いていた無数の遺体。電車の中で黒こげになった大人や子ども。「核は絶対に許せない」という思いを込め、あの日の惨状を伝える。

     □

 3月12日、平和協会の事務所はブラジルの放送局や新聞の取材でごった返した。「安全最優先の日本の原発でなぜ事故が」と尋ねる記者たちに訴えた。

 「やはり核と人類は共存できない。私たちはずっと訴えてきた」

 1カ月ほど後、同様の日本語のメッセージを動画投稿サイト「ユーチューブ」にも流した。ポルトガル語、スペイン語、フランス語で字幕をつけた。

 広島、ゴイアニア、そして福島。「放射線の被害はどれも同じだ」と1人でも2人でも多く伝えたい。核に苦しむ人がこれ以上生まれないように。(工藤隆治)

     ◇

 〈世界の核被害〉 ブラジル・ゴイアニアでは1987年、がん治療病院跡から放射線治療装置が盗み出され、買ったくず鉄業者が解体。光るセシウムの粉を近所や親類に配った。同年だけで6歳の少女ら4人が死亡したという。

 米スリーマイル島(1979年)や旧ソ連チェルノブイリ(86年)の原発事故のほか各地で核被害は相次いでおり、ビキニ事件など2千回以上の核実験で多くの住民や兵士が被曝した。ウラン採掘時の健康被害も問題になっている。

 軍事施設では、57年に旧ソ連チェリャビンスクと英ウィンズケールの核施設が爆発や火災を起こした。原子力潜水艦で兵士らが被曝、死亡する事故も発生している。

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〈核の時代を生きて〉反核の種、世界にまく
東京・町田に暮らす、詩人の橋爪文(ぶん)さん(80)は3月16日午後、西へ向かう新幹線に飛び乗った。

 福島第一原発1号機が水素爆発を起こして、5日目のことだ。

 自宅にいても、落ち着かない。午後9時、広島駅のホームに降りた。

 翌朝、平和記念公園へ向かった。原爆供養塔の前にいた。

 「被爆国なのに、空も海も大地も、放射能で汚してしまった」

 あの広島に立ち、福島を考えたかった。

     □

 「半年の命でしょう」

 42歳のとき、医師に宣告された。

 広島で被爆したときのことが思い浮かんだ。

 爆心地から約1.6キロ。14歳だった。学徒動員されていた貯金支局のビルの窓際にいたら、爆風で全身にガラスを浴びた。

 死の街をさまよい、家族と再会できたのは翌日。7歳の弟は背中に大やけどを負い、亡くなった。

 両親と妹ら家族5人のバラック暮らし。すぐに下痢が始まり、数年続く。鼻や歯ぐきからの出血、脱毛、高い熱。白血球は減少し、体はいつもだるかった。

 30歳で結婚。家庭を築いたが、「原因不明」の病気に苦しめられてきた。

 だから、死をそのまま受けとめようと思った。

 9歳、6歳、3歳。3人の息子の顔が浮かぶ。彼らのために詩を書き始めた。

 医師の予測は外れ、10年後、詩の題材は原爆へと移っていった。

 ひとつの詩を作った。



 もし あなたが生きのびることができたなら/母に伝えてください/ぼくが ここで死んだことも




 黒こげの死体やおなかが破裂した子どもたち。人間らしく死ぬことができなかった人たち。あの日を思い出すことが怖く、原爆に触れられなかった心が少し、軽くなった。被爆から30年以上たっていた。

    □

 それからの人生、原爆の詩をこつこつ書いた。心の重荷が下りていく感覚。出版した詩集は、4冊。被爆体験も本にした。

 還暦を迎え、戦争中にろくに学べなかった英語の教室に通い出す。英スコットランドに留学した。

 「出身は広島です」と自己紹介すると、原爆の話を聞かれる。けれど言葉が壁になり、うまく話せない。友人が英訳してくれていた詩を渡すと、伝わった。



 一瞬 炭素と化した少年は/焦土に大の字に横たわり/空洞の眼を大きく見開いて/天を睨(にら)んだ



 生き残った自分にできることが、見つかった。

 「平和の種、反核の種をまこう」。原爆詩と自らの被爆の体験を英訳してもらい、リュックに100冊を放り込む。ひとりで世界を回る旅が始まった。訪れた国は15カ国を超えた。

    □

 原発事故のあと広島には40日間いた。街を歩き、友人と語らい、原爆のこと、原発のことを考えた。そして、ペンをとった。



 「広島から 日本のみなさん、世界のみなさんへ」

 自然と調和して生きていく道を拓(ひら)くのが、人間の英知ではないでしょうか


(高木智子)=おわり

     ◇

 〈被爆者の健康被害〉 熱線や爆風によるやけどや外傷のほか、大量に放出された放射線による障害がもたらされた。急性症状は吐き気や下痢、脱毛、血便、発熱、皮膚の斑点、白血球の減少など。のちに白血病や甲状腺、乳、肺などのがんになる確率も高まる。原爆投下後に爆心地近くに入った人らも健康被害を訴えており、ほこりや食べ物で放射性物質を体に取り込む内部被曝(ひばく)の影響が疑われている。


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1 コメント

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参考にさせていただきます (yaekazu5691)
2011-08-05 15:20:33
始めまして;
朝日新聞の記事を探していましたらこちらにたどり着きました。
記事の内容を参考にさせていただきました。よろしくお願いいたします。
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