映画「風立ちぬ」と私たちの現在/久下 格(駅員)さん ほか(追記あり)

2013-09-03 12:52:04 | 社会
「風立ちぬ、いざ生きめやも」

「風立ちぬ、いざ生きめやも」
 難しい言葉ですね。堀辰雄が代表作「風立ちぬ」の中でポール・ヴァレリーというフランス人の詩の一節を訳した言葉です。「風が吹いてきた。そうだ、生きよう。」とでも言い換えられるのでしょうか?
 風が吹くことと、人が「生きよう」とすることに関係はありませんね。けれども人は、たとえば不意に背後から風が吹いて頬をなでていく感覚を覚えた後に、「生きていこう」という気持ちがふっと沸いてきたりする、そういう生き物でしょう。風が頬をなでることは「生きる」ことの根拠にはならない。そもそも生きることに根拠などないけれど、ただ「生きていこう」という気持ちが沸いてくる。「生きる」ことはそういうことだと。「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉はそう言っているのだと私は思います。

 宮崎駿監督の新作映画「風立ちぬ」は、戦争に向かって日本がひた走っていた時代。生きることが、誰にとっても戦争に向かう社会の趨勢とは無関係ではいられない、そうした時代が舞台です。「美しい飛行機を作りたい」という二郎少年の夢はひたすら美しい夢でしたが、成人した二郎が夢を実現しようとしたとき、それは、敵国米英を打ち負かすことのできる最新鋭の戦闘機を作ること以外にはなり得ませんでした。世の中全体が不況に沈んだ暗い世相の中で、二郎たちは自分たちの作る戦闘機にかかる金で、たくさんの子供たちが飢えを満たすことができるというような会話もします。軍人たちの、無意味でひたすら威張り散らすばかりの演説を、ただただ聞き流す、そうしたシーンも描かれています。「機関銃さえ外せば、要求された性能を達成できるんだが」と言って、若い同僚たちと笑い合うシーンも出てきます。しかし、基本的に、二郎は社会全体が戦争に向かう趨勢に抗うことなく、ただひたすら「美しい飛行機を作りたい」という夢を追い続けます。そして、それは、大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機、ゼロ戦として結実します。
 映画の最後のシーン。二郎が夢の中で友情を結ぶイタリア人の航空機制作者カプローニとともに、無惨に焼けこげた無数のゼロ戦の残骸の折り重なった草原を歩くシーンがあります。「飛行機は美しい夢であり、また、殺戮と破壊の道具にもなる呪われた夢だ」と告げたカプローニの予言は的中していました。延々と続くゼロ戦の残骸。その中を行くカプローニと二郎。背景にはとてつもなく美しい音楽が流れて(ベートーベン? どなたか教えてください)、それが美しい夢のなれの果てだということを強調しています。
 残骸の山を指して、カプローニは「我々の夢の王国だ」と言い、二郎は「地獄かと思いました」と答えます。君の夢は実現したのかと問うカプローニに、「終わりはズタズタでした」「一機も戻ってきませんでした」と答えます。そこに、結核で死んだ二郎の妻、菜穂子がどこからともなく現れて「あなた、…生きて」と呼びかけ、そしてまた、どこかに消えてしまいます。

 美しい夢を持って生きたことが地獄のような結末を生むこともある。「生きる」ということはそういうことではないか。それでも「生きよう」、「生きていこう」というのが宮崎監督のメッセージでしょう。映画「風立ちぬ」のポスターには「生きねば!」というキャッチコピーが黒々と書かれています。

戦争を賛美しているという批判

 「風立ちぬ」は戦争を賛美する映画だという批判があることを、最近になって知りました。

 堀越が三菱に属し、海軍のために造りだした戦闘機がこのようなこと(重慶への無差別爆撃 ※引用者注)を担ったことについて、映画「風立ちぬ」では何か捉え返しがあるだろうか。
 無い、といわざるをえない。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130818/1376755046

 夢の飛行機をつくる人生もいいですが、戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある。宮崎駿が戦争を賛美しているとは思いませんが、戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺(わくでき)する姿には、還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男のように子どもっぽい印象が残ります。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130722org00m200999000c.html

 私の母は、東京大空襲の被災者である。戦闘機に追われ、機銃掃射を受け、あと30センチ横にずれていたら母は死んでいた。そして、母と一緒に逃げ惑った母の友人は機銃掃射の弾丸に打ち抜かれ亡くなった。もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかったのだ。
どう妥協しても、私は戦闘機を設計した人間を、たとえ国が違えども許すわけにはいかない。
http://www.labornetjp.org/news/2013/0727eiga

 上映が予定されている韓国でも批判する声が上がっています。

「(『風立ちぬ』を公開するのなら)米国の原爆開発者ロバート・オッペンハイマーを主役に、『爆弾裂けぬ』なんてアニメを作って封切りすればいい。それなら見ものだ」
「徹底的に自分たちを被害者として描く、戦争の惨禍は描いてもその原因には言及しない、典型的な日本国民用の自慰的映画だ」
「そもそもゼロ戦を開発した三菱重工業は、朝鮮人を徴用して働かせていた会社ではないか」
http://www.j-cast.com/2013/08/12181362.html?p=1

・・・以下全文は
http://aoisora.org/hansen/2013/201309kazetatinu.html

*********

レイバーネットMLから
正木Toshさん

遅ればせながら「風立ちぬ」を見てきました。

 そして、それまでは、と封印してきた久下格さんの論考も読みました。

 色々と批判的な意見を聞いていたので、かなり矛盾の多い、理解困難な映画なのかなぁと思っていましたが、結論をいえば、今までの宮崎駿監督作品の中ではいちばんよくまとまっていて、様々なエピソードやストーリーが破綻なく展開されている優れた作品という印象を持ちました。

 私には、この作品のどこが「戦争賛美」なのか、はなはだ疑問に思えます。
 登場人物の誰かが声高に「戦争反対」を叫ばないと気に入らないのかなぁと思いますね。

 川柳の世界で鶴彬を反戦川柳人として高く評価する人がいます(私ももちろんそのうちの一人ではありますが)。
 しかしあの時代に、鶴彬みたいにあからさまに政府批判をしない川柳人はみんな戦争賛美派だったかといえば、当然そうではないでしょう。
 時流に流されながらも自分なりに抵抗した人も多いわけで、この映画の主人公堀越二郎もまた、戦争遂行への疑問を感じながらも飛行機づくりに邁進していた一人。

 久下さんも書いておられるとおり、技術者としての関心事と戦争協力の問題については登場人物の口を通して、矛盾があることを宮崎駿はちゃんと言わせていますし、飛行機作りを無条件に賛美しているわけではありません。

 そういうところを見過ごして、映画の中に三菱重工が出てくるから戦争への反省がないだの、主人公は裕福な家庭のエリートだからダメだのと、なんとまぁ表面的な評価かと思います。
 タバコを吸うシーンが多いからダメな作品だ、などとは噴飯物です。
 その程度の批判をしているから、左翼はサヨクなどとバカにされるんじゃないでしょうか。
久々に「左翼小児病」なんて言葉を思い出してしまいました。

 そんな枝葉末節、重箱の隅をつつくより先に、この作品の意図をしっかり理解した上で批評してもらいたいものです。

 宮崎作品では、人権と環境の問題をやや消化不良のまま積み残してしまった感のある「もののけ姫」、カオナシなどの面白いキャラクターがメインストーリーに絡まない単なるエピーソードに終始してしまった「千と千尋の神隠し」と比べても、「風立ちぬ」はテーマ性、叙情性、ストーリー構成、そして映像的な美しさといった点で、上を行く作品だと私は評価します。
 (若干の不満をいえば、これまでの作品より少しコマが粗いことでしょうか)。

 正木俊行



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2 コメント

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被害意識だけでは勝てば官軍思想に (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2013-09-03 16:37:47
韓国からの批判には耳を傾けるべきでしょうね。
宮崎も、現在の多くの日本人と同じく、あの戦争について被害の観点からは取り上げても加害の反省は曖昧ですからね。
しかし、被害の保存だけなら「英霊」を信奉する靖国主義者だって反対しないでしょう。そこからは、侵略の事実に無反省な「勝てば官軍」思想だって芽生え得る。

諸個人が競争を強制されている近年の日本社会では、戦争被害だけを問題にするような反戦はかえって有害なのかもしれませんね。競争で振るい落とされた側は、敗北の忌避や敗者の嫌悪を通した強者願望を土台に「負けた賊軍」的事実を隠蔽し、「勝てば官軍」思想に傾倒するのかもしれません。ネトウヨなどを見ていると、彼らからそんな印象を受けますから。

やはり、日本社会には依然として加害の総括が求められています。
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過去の価値観 (N.O.)
2013-09-03 19:43:10
戦前戦中の教育では、上から言われたことに疑問を持たず、非合理な命令にも従える人間を大勢育成することを目指していたと思います。だから二郎のように「自分が置かれた場所で懸命に生きるしか」眼中になく、結果として戦争に大きく加担する人々が出てきたのではないですか。
戦後の教育は、その反省に立って、批判精神や判断力を育てることを目指していました。つまり、二郎と同じような立場に立たされたときに、「できません」というなり、仮病を使うなり、良いアイデアが出ないふりをして誤魔化すなりして、軍部に「やっぱりだめか」とあきらめさせることも、今の人ならできるだろうという事です。
仕事人として能力を充分に発揮できないのはつらいことですが、今の人なら、その先に何が待っているかということも、自分の責任で考えることができるはずです。
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