こんな本を出して恥ずかしくないのか、安倍晋三『美しい国へ』/五十嵐仁の転成仁語

2006-07-30 23:45:40 | 新刊・新譜情報
「この人」の頭の中を覗いてしまったような気がしました。あまりにも思っていた通りで、誠にガッカリさせられました。


 「この人」というのは、次期総理候補としてほぼ「当確」となっている安倍晋三官房長官のことです。実際に覗いてみたのは、頭の中ではなく、『美しい国へ』(文春新書)という最近出された著書です。
 この本は、安倍さんという人を知るのに、大変、相応しいものだと思いました。「やっぱりこんな人だったのか」と、改めて失望させられること、請け合いです。
 どういうつもりで、この本を出したのかは分かりません。こんな本を出すことで、安倍さんの評判が高まるとでも思ったのでしょうか。


 安倍さんがダントツで支持を伸ばし、自民党総裁選挙への関心が急激に低下しています。慌てた片山参院幹事長などは、「安倍さんの独走のままの消化試合は、自民党のためによくない。今後の自民党の活力のためにも志がある人は出て、堂々と政策論争をしてもらいたい」と言っています。
 このような声が出ることを予想してか、安倍さんは新著を出しました。先日、フランスのAFP通信社から取材を受け、「まあ、選挙で言えばマニフェストのようなものでしょう」と答えました。総裁選に向けて政見を明らかにし政策を提言するというのは悪いことではない、とも……。
 そう答えた手前、早速、本書を手にとってパラパラとめくり、「おわりに」という部分を読んでガックリ来ました。そこには、「本書は、いわゆる政策提言のための本ではない」と書いてあったからです。


 この本は、「わたしが十代、二十代の頃、どんなことを考えていたか、私の生まれたこの国に対してどんな感情を抱いていたか、そしていま、政治家としてどう行動すべきなのか、を正直につづったもの」なのだそうです。そんな本を、どうして総裁選の前に出したのでしょうか。なぜ、堂々と、「政策提言のための本」だと書かなかったのでしょうか。
 そう言えない訳があるからです。この本は、自らの生い立ちや体験、自分の関心のあること、知っていることで成り立っており、「政策提言」のようなものは、ほとんど出てこないからです。
 すでにここに、安倍さんという人の限界が示されています。総裁選に向けて何か自分を売り出すような本を出したい。だけど、まともに「政策提言」をするような政見はない。さし当たり書けることを掻き集めて、本にして出してしまおう、ということだったのではないでしょうか。


 本書を一読してすぐに気がつくのは、経済について何も書かれていないということです。財政や金融問題も出てきません。
 安倍さんという人は経済のことは何も分からないのだな、ということがよく分かります。このことは、目次からも明瞭です。
 「わたしの原点」「自立する国家」「ナショナリズムとはなにか」「日米同盟の構図」「日本とアジアそして中国」というのが、第1章から第5章までの構成です。以下、「少子国家の未来」「教育の再生」というのが、第6章と第7章です。


 この構成からも明白なように、本書の半分以上は、安全保障、外交、歴史認識、憲法などの問題で占められています。第6章は「少子国家の未来」という表題ですが、中身の大半は年金の問題です。
 途中で、「メッセージ性の高い少子化対策を打ち出さなければならない」とか、「効果のある経済的な支援を検討していかなければならない」(172~173頁)などの言葉も出てきますが、具体的な内容は皆無です。何も思いつかなかった、ということでしょう。
 そもそも、この「少子国家の未来」という章の最初の書き出しが、「2004年(平成16年)の国会は、『年金国会』と呼ばれた」となっています。以下、30頁ほど年金問題についての叙述が続き、その後に出てくるのが介護問題です。「少子国家の未来」においては、年金と介護が重要だと言いたかったのでしょうか。


 このように、本書の構成と内容は、極めて独特です。それは、安倍さんの「考えていた」こと、「抱いて」きた「感情」、「政治家としてどう行動すべきなのか」という問いへの回答が独特であるということを物語っています。
 このように偏った関心と知識しか持っていないのが、安倍さんという人なのです。そのことを、本書は誰にでも分かるように明らかにしてしまいました。
 こんな本を出して、恥ずかしくないのでしょうか。これが総理候補としての「マニフェスト」だとしたら、哀しくなるほどに貧弱だと言わなければなりません。


 以上は、『美しい国へ』を読んだ総括的な感想です。個別の問題についても、引き続き取り上げることにします。


安保改定と歴史認識の問題
引き続き、安倍晋三『美しい国へ』(文春新書)についての感想を書かせていただきます。総括的な感想は、すでに昨日書きましたので、個別の問題についてのコメントということになります。


 まず初めは、日米安全保障条約の改定問題です。よく知られているように、安倍さんは、安保条約を改定した岸元首相のお孫さんです。
 岸元首相は、戦前回帰的な強権的手法によって歴史的な安保反対運動を引き起こした“功労者”ですが、その孫であるだけに、安倍さんとしてもこの問題については無関心ではなかったようです。第1章「わたしの原点」の第3項目「うさんくさい気がした『安保反対』の理由」で、次のように書いています。



 このとき、社会党、共産党の野党、そして多くのマスコミは、日米安保条約の破棄を主張していた。「日米安保の延長は自衛隊の海外派兵を可能にする。すでに日本はアメリカのベトナム侵略の前線基地になっており、日本帝国主義はアメリカと結託して、ふたたびアジア侵略をはじめようとしている」というわけだ。進歩的文化人と呼ばれる学者や評論家の多くも、同じような理由で反対していた。


 安倍さんは、このような主張が的はずれだったとはっきりと言っていませんが、「うさんくさい気がした」とは書いています。しかし、イラクへの自衛隊派遣、在日米軍の再編と日米安保のグローバル化などが着々と進行している今日、このような文章を目にすると感慨深いものがあります。ここで主張されているとおりになっているのですから……。
 ベトナム戦争は「トンキン湾事件」という偽りの理由から始まった侵略戦争であり、安保条約によって日本はその「前線基地」となりました。同じように偽りの理由によって始められたイラクへの侵略戦争に、自衛隊は占領軍の一員として「海外派兵」されたではありませんか。
 先の訪米によって、小泉首相とブッシュ米大統領によって発表された共同文書「新世紀の日米同盟」は、もはや「極東の範囲」を超えて地球的規模にまで「日米同盟」を拡大しています。小泉首相の靖国問題もあって、中国や韓国などの周辺諸国は「日本帝国主義はアメリカと結託して、ふたたびアジア侵略をはじめようとしている」のではないかとの懸念を強めています。

 このような歴史的な経過を振り返ってみれば、「『安保反対』の理由」は「うさんくさい」どころか、誠に正しかったというべきでしょう。安倍さんの属する自民党は、安保改定後の40年以上の歴史を通じて、「日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉」だったことを実証したのではないでしょうか。
 安倍さんには、このような日米安保をめぐる歴史も「日米同盟」が変質しつつある現実も見えていません。「お祖父さんを弁護したい」という気持ちがあるだけです。
 「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ」という岸首相の言葉が出てくるすぐ後の項の見出しが「隷属的な条約を対等なものに変えた」となっています。「守ってもらう」ためのものがどうして「対等」なのか、ということにすら気がついていないようです。


 次に問題となるのが、過去の歴史の見方と憲法改正の問題です。ここでは、安倍さんの特異な歴史認識の方法が示されています。
 それは「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」ということです。「先の大戦」は、「軍部の独走」によるものであったにしても、「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか」と問います。
 だから、軍部だけに責任があるのではなく、「マスコミを含め民意の多く」にも責任があったのだ、と安倍さんは書きません。「こうした国民の反応を、いかにも愚かだったと切って捨てていいものだろうか」「歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではない」と書くのです。


 こうして、歴史認識は相対化され、「独走」した軍部やそれを支持した「マスコミを含め民意の多く」の責任が曖昧にされていきます。「歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではない」として、過去の歴史に対する善悪の判断停止を正当化するというのは、侵略戦争を弁護したり美化したりしようとする人々の常套手段です。
 確かに、歴史には単純ではない側面があります。しかし、だからといって善悪の判断を停止して良いというわけではありません。
 まして、安倍さんは学者ではなく政治家です。歴史観や歴史認識を曖昧なままにしておくことは許されないでしょう。


 とりわけ、安倍さんにとって曖昧なのは、「先の大戦」についての認識です。「それはやむを得なかった」と考えているのでしょうか。それとも「悪かった」と考えているのでしょうか。
 このように問えば、きっとこう答えるにちがいありません。「歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではない」、と。
 しかし、これから日本のトップリーダーになろうという人が、それでは困ります。過去の過ちを過ちとして直視し、その原因を明らかにしたうえで、二度とそのような過ちを繰り返さないように努めることこそ、トップリーダーに求められる態度だからです。「歴史というのは、……そう単純なものではない」などと言って逃げてはなりません。


 ということで、これはまだ続きます。


それなら何故、憲法を変えようと言うのか
いやー、見事な啖呵です。さすがに、小泉首相の後継者と目されるだけのことはあります。
 これだけ、堂々と居直られると、反論しづらくなります。「さあ、どうだ」と胸を張っている姿が、目に浮かぶようです。


 安倍晋三『美しい国へ』の68頁をご覧下さい。69頁にかけて、安倍さんは次のように書いています。



 靖国参拝をとらえて「日本は軍国主義の道を歩んでいる」という人がいる。しかし戦後の日本の指導者たち、たとえば小泉首相が、近隣諸国を侵略するような指示をだしたことがあるだろうか。他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとうとしただろうか。核武装をしようとしているだろうか。人権を抑圧しただろうか。自由を制限しただろうか。民主主義を破壊しようとしただろうか。答えは、すべてノーだ。今の日本は、どこからみても軍国主義とは無縁の民主国家であろう。


 「靖国参拝をとらえて『日本は軍国主義の道を歩んでいる』という人がいる」というのは、問題の曲解です。確かに、一部にはそういう人もいるかもしれませんが、多くの人は過去の侵略戦争の正当化や美化につながるのではないかと懸念しているのです。
 「近隣諸国を侵略するような指示」は、「戦後の日本の指導者たち」だけでなく、「戦前の指導者たち」だって出していません。「邦人の保護」などの口実で、明確な意図と指示なしにずるずると侵略戦争を拡大していった戦前の歴史を、安倍さんはご存知ないようです。
 「軍国主義」は、過去の侵略戦争への反省を忘れたところから芽生えてきます。「靖国参拝」は、そのような可能性を高めるのでしょうか、低めるのでしょうか。

 その次の文章を読んで、仰天した人は少なくなかったでしょう。私も驚いた一人です。
 だって、「他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとうとしただろうか。核武装をしようとしているだろうか」と、書いているんですから。北朝鮮のミサイル発射に刺激されて、「敵基地攻撃能力保有論」を唱えたのは、いったい誰だったでしょうか。安倍さん自身ではありませんか。
 それはすなわち、北朝鮮にある敵基地を攻撃するための武器を保有するべきだということになるでしょう。つまり、「他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとう」ということではないのですか。


 「核武装をしようとしているだろうか」と書くに至っては、開いた口がふさがりません。2002年5月13日、早稲田大学で行った講演をお忘れなのでしょうか。
 このとき、安倍さんは、①ミサイル燃料注入段階で攻撃しても専守防衛、②攻撃は兵士が行くと派兵になるが、ミサイルを撃ち込むのは問題ない。日本はそのためにICBMを持てるし、憲法上問題はない、③小型核兵器なら核保有はもちろん核使用も憲法上認められている。都市攻撃はダメだがミサイル基地の核兵器による先制攻撃は専守防衛だ、というものでした。明らかに「核による先制攻撃論」であり、「ICBMは攻撃兵器だから持てない」という政府見解にも反する発言です。
 核保有はもちろん核使用も憲法上認められていると発言しておきながら、「核武装をしようとしているだろうか」とは、誠に見事な居直りというほかありません。この発言については、『サンデー毎日』2002年6月2日号の「安倍官房副長官核使用合憲発言」という記事に詳しく出ています。


 さらに続けて、「人権を抑圧しただろうか。自由を制限しただろうか。民主主義を破壊しようとしただろうか」と畳みかけています。安倍さんは、「答えは、すべてノーだ」と、書いていますが、「すべてイエスだ」と書くべきでしょう。
 安倍さんは、日の丸・君が代の強制と処分によって、「内心の自由」などの人権が抑圧されている現状を知らないのでしょうか。NHKの番組への政治介入によって放送の自由を犯したのは、安倍さん自身ではありませんか。
 ビラまきなどで簡単に逮捕されて有罪とされ、何もやっていなくても目配せだけで逮捕されるような「共謀罪」の新設は、「民主主義を破壊しようと」するものではありませんか。まさに、人権を抑圧し、自由を制限し、民主主義を破壊する政治が横行していると言わざるを得ません。


 したがって、「今の日本は、どこからみても軍国主義とは無縁の民主国家であろう」などと、能天気なことは言えません。自衛隊の存在感が増し、「専守防衛」の国是は踏みにじられ、膨大な無駄でしかないMD(ミサイル防衛)構想が具体化され、在日米軍基地の再編によって日米軍事一体化と融合が図られようとしているのが現実です。
 このような動きは、「軍国主義とは無縁」だなどと言えるのでしょうか。軍国主義が一国の政治における軍事的価値の浸透と増大を意味するのであれば、今の日本はまさにそのような方向に向かっています。
 安倍さんも認めているように、「拉致事件をきっかけに、日本人が覚醒してしまい」(99頁)、ナショナリズムや軍国イデオロギーも、急速に高まっているではありませんか。これまでの戦後日本は、基本的には「民主国家」だったと私も思いますが、小泉さんや安倍さん自身の手によって、その基盤は、日々、掘り崩されてきています。


 安倍さんは、冒頭に掲げた文章に続けて、次のように書いています。



 日本の国は、戦後半世紀以上にわたって、自由と民主主義、そして基本的人権を守り、国際平和に貢献してきた。当たり前のようだが、世界は、日本人のそうした行動をしっかりみているのである。日本人自身が作り上げたこの国のかたちに、わたしたちは堂々と胸を張るべきであろう。わたしたちは、こういう国のあり方を、今後もけっして変えるつもりはないのだから。


 「わたしたちは、こういう国のあり方を、今後もけっして変えるつもりはない」という言明は重要であり、そのこと自体は歓迎したいと思います。次の首相と目されている方が、戦後日本のあり方を肯定し、それを「今後もけっして変えるつもりはない」というのですから……。
 それならば、このように問わなければなりません。「この国のかたち」や「こういう国のあり方」を生みだした根本には何があったのですか、と。それは、日本国憲法の賜物ではなかったのですか、と……。
 それなのに、何故、この憲法を変えなければならないのでしょうか。憲法を変えることによって、「この国のかたち」や「こういう国のあり方」が大きく変容してしまう危険性はないのでしょうか、と……。

「政策提言のための本」に「再チャレンジ」してみたら?
全国行脚を始めたのだそうです。次期総理の座ををほぼ手中にした安倍官房長官のことです。


 安倍さんは、岩手県を皮切りに、自民党総裁戦に向けた全国遊説をスタートさせました。今日も、「再チャレンジ支援推進議員連盟」によって地方議員と交流する「東京タウンミーティング」が開かれ、安倍さんも出席しています。
 できるだけ注目されず、盛り上がらないままに総裁選が終わることを願っている私としては、勝敗が決まっている「できレース」に一喜一憂することはないだろうと思います。しかし、それでも次の日本のトップリーダーを選ぶ選挙です。
 政策を明らかにし、政権構想が理解されるようにするべきでしょう。その意味では、政策を訴える全国行脚の開始は、悪いことではありません。


 この遊説で、安倍さんは自ら提唱する「再チャレンジ(挑戦)」支援政策をアピールする「再チャレンジふれあいトーク」をスタートさせると言います。
 はて、「再チャレンジ」? そう言えば、『美しい国へ』(文春文庫)のなかでも、何か書いてあったなー、と思って本を開きました。
 でも、なかなか出てきません。やっと見つけたのは、本文の最後から2頁目の「再チャレンジの可能な社会へ」というところです。


 驚きましたね、これは。いくら「政策提言のための本ではない」といっても、これはあまりにもひどい。
 総裁戦に向けた全国遊説でアピールしようという「再チャレンジ」支援政策が、総裁選目当てに書かれた本の一番最後に出てくるなんて……。
 しかも、「『再チャレンジ可能な社会』には、人生の各段階で多様な選択肢が用意されていなければならない。再チャレンジを可能にする柔軟で多様な社会の仕組みを構築する必要がある」と書かれているだけで、そのためにどうするのか、が全く触れられていません。


 それも当然でしょう。何しろ、このテーマが登場するのは、この本の一番最後の部分なのですから……。
 これからの安倍政治の柱になる政策であるなら、どうして「再チャレンジ可能な社会」という章を立てなかったのでしょうか。何故、この問題から書き始めなかったのでしょうか。
 どうして、第7章「教育の再生」の最後に、ちょこっと触れるような低い位置づけにしたのでしょうか。せっかくの目玉政策なのに……。


 私は最初に、「こんな本を出して恥ずかしくないのか」と書きましたが、この「恥ずかしい」点の一つがここにあります。中心となる政策を真正面から訴えることができず、その具体的な中身も詳しく書くことができないということが、この本によってはっきりしてしまっているからです。
 恐らく誰かに、「安倍さん、総裁戦に向けて本でも出したらどうですか」と、誘われたのでしょう。それで気楽に引き受けて書き飛ばしたために、このような本ができあがってしまったにちがいありません。
 日ごろ考えていることを「正直につづった」ものだから、日ごろ余り考えていないことは書けなかったということではないでしょうか。この本を読めば、安倍さんの頭の中は拉致問題やナショナリズムの問題で一杯になっていて、経済政策や「再チャレンジ政策」などは入り込む余地がないということがよく分かります。


 安倍さんにおける「再チャレンジ政策」の位置は、全部で228頁もある『美しい国へ』という本の最後の2頁弱を占める程度のものにすぎません。何のために、このような本を出したのか、どうしても不思議になります。
 自民党総裁戦に向けてアピールするというのなら、きちんとした「政策提言」の書を出すべきではないでしょうか。安倍さんには、このような著書の執筆に、是非、「再チャレンジ」していただきたいものです。

http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2014-03-16 22:34:21
「美しい国」を批判する意味が分からない。

汚い国ならよかったの?
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。