「国家保安法違反」嫌疑と闘うイ・シウ氏裁判傍聴記/木村英人

2008-12-10 09:34:10 | 世界
 国家保安法違反の嫌疑で裁判にかけられている、
韓国のフォト・ジャーナリスト、イ・シウ(李時
雨)氏の公判が11月18日にあり、検事側は、「懲役10
年」を求刑したとのこと。判決が出されるのは、12月
24日。
 以下、福岡の緒方貴穂さんが送ってくださった、
木村英人さんの公判傍聴記です。
 張り詰めたイ・シウ氏の思考と思いが込められ
た、歴史的な陳述と感じます。無罪判決を祈念しつ
つ、そのまま転送させていただきます。

 イ・シウさんの今回の裁判の経緯については、今
年広島で8月6日に開かれた「NO DU 全国交流会」で出
された「イ・シウ氏の無罪判決を求めるアピール」
(下記サイト)をご参照ください。
 http://www.nodu-hiroshima.org/campaign/179

                       
  嘉指信雄  NO DU ヒロシマ・プロジェクト

***
 最終弁論は裁判というより、一つの講演・祈りで
あった
           -イシウ氏の第6回公判を
傍聴してー
                       
         木村英人

11月18日、ソウル高等法院の前庭は赤や黄色の落葉
におおわれ、冬も間近な装いであった。最終弁論と
なる第6回公判は前回と同じ、302号法廷。午後4時か
らがイシウさんの公判であった。3時からと言われ
ていたので、3時前から法廷に着いていたのだが、4
時という掲示物を見て、2回のロビーで本を読んで
いた。ジョンウノクさんも3時と言われていたの
か、早く到着した。4時前に再び302号室に行き、皆
を待つ。4時少し前に、イシウさんや弁護士さんが
やって来て挨拶をした。法廷の方は4時半になって
も、5時になっても前の事件が続いていた。イシウ
さんの裁判が始まったのは5時25分からであった。
 最初に証拠書類の提出があり、その中で裁判長
が、「これはストーンウォークのですね」という発
言があったので、緒方さんが集められた署名用紙が
提出されたものと思ったが、後の緒方さんのメール
によると嘆願書だけであったようだ。しばらく書
類、手続きの話があり、その後検事の発言があっ
た。小さな声の、2,3分の話であり、ぼんやり聞い
ていが、最後に懲役10年という言葉が聞こえ、思わ
ず緊張した。その時、ようやく論告求刑であったこ
とを知った。ボケた頭を整理してみながら、検事の
言葉を反芻した。「DMZの写真撮影、破壊団体・親北
韓団体との交流、北韓支援、これらは利敵行為であ
る、国家保安法違反である。故に10年の懲役を求刑
する」 そんな言葉が続いていたようであった。あ
まりにも簡単に述べられた、懲役10年の求刑という
印象を抱かざるを得なかった。ほぼ、地方法院での
主張と同じものであったのだろう。
 その後弁護側の最終弁論ということになった。弁
護士が4名、そしてイシウさんの陳述を含め、1時間
半ほどの弁論が続けられた。裁判長はその間に何度
か「5分以内にしてください」という要望をした。
主任弁護士に当たる方が、国家保安法の時代錯誤
性について、述べた。現在は北韓との関係は頂上会
談もあり、人物の往来も頻繁であり、敵であるとい
うより、同伴者のそれである。また北韓は国連にも
加盟し、多くの国が認定している立派な国家である
ことなどを考える時、北韓との関係で国家保安法を
持ち出すこと自体が時代錯誤と言わざるを得ないと
いう趣旨であった。
又別の弁護士は、「撮影した写真が利敵行為に値
すると言うが、現在ではインターネット、新聞等で
一般人が誰でも見、接することのできることだ。イ
シウさんの写真作家としての指向として、平和、
DMZ、地雷ということで、それは自由の創作活動と考
えるべきだ。平和、反戦ということは、個人として
は誰にでも認められている活動であり、それは我が
国の平和、未来、統一に関する社会問題でもある」
と主張した。
又別の弁護士は、「イシウさんの写真は芸術的創
造作品であり、哨戒所の写真一つでもいま私達の暮
らしている現実の一面を表現しているとも言えるの
である。私達がこのような現実の中で生きざるを得
ない分断の歴史の中で呻吟している姿を表している
ものと理解できるはずである。地雷を写すことで、
地雷による被害者の苦しみ、痛みを共感し、愛情を
抱くことができるのである」と述べながら、フォト
ジャーナリズムの芸術性を述べもした。
又別の弁護士は「イシウさんは個人的には平和活
動を写真を通して行っているのだが、その活動を見
ると検事の言う破壊的な、暴力的な人でなく、思索
的であり温和な人である。DMZなどを共に歩くとき、
本当に平和を愛する人だということを実感する。ま
た、日本、沖縄などでは観光客も自由に米軍基地を
撮影している。組織的な活動をする人でないことも
明らかなことで、彼の感受性を見ると利敵行為、あ
るいは北韓を助ける行為、国家保安法に該当する行
為がどこに見いだせるかさえ疑問である」等の発言
があった。
そして最後に、裁判長はイシウさんに「何か言う
ことがありますか?」と尋ねた。イシウさんは、レ
ポート用紙を手にし、おもむろに立ち上がり、「は
い、あります」と答えた。
手にされたレポート用紙を見た裁判官は、「どれだ
けの分量があるのですか?」と尋ねると、「13
ページ」と答えた。裁判長は「証拠書類と提出され
るのですから、要点だけを5分以内にお願いした
い」との要望を述べた。
イシウさんは、「膨大な資料を検討する裁判長、公
安部から刑事部に移動し苦労が多かった検事、そし
て寄る辺のない私を自費で弁護してくれた弁護士の
皆様に感謝申し上げたい。又会ったこともない海外
からの支援、Amnesty、対人地雷禁止キャンペイン
ICBL、日本で署名活動を繰り広げてくれたストーン
ウォーク、国際劣化ウラン反対キャンペインICBUW の
温かい友情に感謝したい。そして国内の多くの先
輩・後輩諸氏にお礼を申したい。そして私を支えて
くれる家族に対しても」という挨拶で最後の陳述を
始めた。途中で何度か時間の注意があり、陳述は飛
び飛びになされた。
以下の文はイシウさんの陳述書を送ってもらい、
当日イシウさんが読み上げたと思われる部分を大略
翻訳したものです。13ページの中の3ページ程度であ
るので、十分イシウさんの発言を伝えられるか心配
ではあるが、どのような思いで裁判に、国家保安法
に対峙しているかが少しでも理解できればと思いま
す。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~
一審判決後
人には捨て去ることのできないものが二つあると
いう。それは夢と恋しさ・懐かしさである。ふたつ
の内一つだけを選択しようとするなら、懐かしさで
あろう。懐かしさというのは経験された夢であり、
説明できない喪失感である。説明できるものは復元
が可能であり、捨て去ることはできるが、説明でき
ないものは未練がのこり、執着心が生まれ、懐かし
くなるのだ。私達が未来に向かおうとすればするほ
ど、過去を振り返らざるを得ないのは説明のつかな
い喪失感に対する未練と懐かしが残るからだ。訳も
分からず去って行く恋人を恋しく思うように、私達
も歴史の喪失を懐かしみ、病み焦がれたことがある
か思い出して見るべきことだ。一審判決は幸いなこ
とであったが、私のことより私のことで胸を痛めた
人々を慰めることになると思い、一層嬉しかった。
私のことで、対人地雷被害者補償法の推進が中止さ
れていたからだ。それ故、無罪判決をまず告げたの
は対人地雷被害者たちであった。しかしながら、そ
の後の幾つかの出来事がそんな喜びを雲散霧消させ
た。
一審無罪判決後、ソウル市庁の野外広場で写真展
を友人たちとしたことがある。自分の写真はDMZ関連
の写真であった。それを見ていたある市民が、「こ
のパルゲイン(アカ)が!」という言葉を発するの
を聞いたことがある。法廷での判決が社会の判断を
訂正することはないのだ。一審時のスパイのイシウ
という言葉とは別に、パルゲンイ(アカ)という言
葉が重くのしかかって来た。私が拘束されてから、
江華島の村の在郷軍人会館には「国家保安法を死守
し大韓民国を守れ」という懸垂幕がいつの間にか掛
けられていた。その後も地元では色々の行事から爪
弾きになるような経験もした。国家保安法と言うの
は法廷の判決とは関係なく‘世論の判決’というも
のが存在する領域があるようだ。人間が社会的関係
を結び存在とするならば、社会的な関係を制約する
のは監獄に隔離するだけでないことを実感した。忌
避対象者としての烙印が押されているのを認めざる
を得なかった。私に民主化勢力でなく、進歩派でも
なく、左翼でもない、‘パルゲンイ(アカ)というお
も面がいが着せられたのだ。一審判決で裁判長は
「国家保安法は厳密に使用されなければならない」
と言ったが、その言葉は判決内での言葉であり、ベ
ニスの商人に一滴の血も流さずに肉を抉りとれとい
う注文と同じであると実感した。検事はそうなるこ
とを意図しての起訴であったのだろうか。あるいは
意図したことではないのか。法を圧倒する枠組みが
あることを知らなかったのか。それともよく知って
いるからこそ起訴したのか。いずれにしろ、私は法
の判決とは無関係な恐ろしい現実の前に立たされた
ことになった。
パルゲンイ
そうしていたある日、ふと‘パルゲンイ(ア
カ)’という単語を調べて見た。左翼や共産主義者
を意味する言葉と書かれていた。自分が共産主義者
であるのか自問してみた。自問自体は意味がないよ
うに思えた。パルゲンイはそんな限定され意味の言
葉ではないようであった。そんな時、4.3事件当時の
済州島民をパルゲンイと言うべきでないと公式に決
意したというニュースを目にした。済州島民はどれ
ほど‘パルゲイン’という言葉に苦しめられたの
か、一つの言葉のために会議を開き、使わないよう
に決議までしたのだ。パルゲンイという言葉は‘反
逆の烙印’であり、そこに込められた共産党より
もっと強烈な敵対感を読み取ることができる。島民
がこのような決議をしたのは、パルゲンイという言
葉を投げつければ、どんな虐殺も蛮行も可能であっ
た西北青年団(解放後北韓より逃げてきた右翼の青
年団、民衆弾圧の最先端に当たった)、軍隊、警察
隊に対する恐怖心からであった。    
当時の精神病理学的分析をした医者の文書がある
が、その最後に次のような言葉がある。「パルゲン
イでない事実を証明しろ」、という脅迫の前で、何
ができるか。別のパルゲンイをでっち上げ、弾圧に
加担するだけだ。私にも同じような体験がある。検
事が「不穏思想を持っていないことを証明しろ」と
発言した時、西北青年団の「パルゲンイでないこと
を証明しろ」と同じ脈絡の言葉であるという認識し
た。これは過敏な反応であろうか。
済州島では多くの青年団が後にパルゲンイ狩りの
尖兵である海兵隊に入り、掃討の先頭に立ったと言
うことだ。又、4.3当時にもパルゲンイの汚名を晴ら
そうと、パルゲンイを告発する猟犬になったと言
う。私も転向書を書き、パルゲンイを根絶やしにす
る先頭に立てば、反省し、その穢れを払ったと認め
られるのだろうか。しかしながらパルゲンイを巡る
この国の歴史はそのような転向も無駄であることを
確認させる。陥穽討伐という言葉を作り、済州島ト
ピョンリでの集団虐殺がその一例である。
共和国旗を掲げ、村に入って来た銃を持った者た
ちが、「トンム(友)よ、トンム、何故山にいる者
に協力しないのか?」と叫びながら住民達を運動場
に集めた。その中に顔見知りがいたので、罠には
まってはいけないと、「パルゲンイと闘え、大韓民
国万歳」と叫んだ。しかし、住民70名程が銃殺され
た。殺したのは警察と特攻隊員たちであった。
パルゲンイに向かって戦う以外、自分がパルゲン
イでないことを証明する方法はないのではないかと
も思えるのだが、警察や特攻隊はパルゲンイだから
殺すのではなく、<たまたま殺された住民はパルゲ
ンイである>という論理で、無差別虐殺を行ったの
だ。死人に口無しである。人々は殺されたから、パ
ルゲンイになったのだ。古ぼけて幼稚とも思われた
パルゲンイという言葉に、一審無罪判決後、私が体
験した説明できない状況に隠されていた本質を認識
させられた。
言葉というのは意味を盛る器でもあるが、意味を
作る器でもあり得る。パルゲンイという言葉が左翼
や共産主義者という意味を越えて、自由主義者ある
いは中道右派にも適応されるとしたら、それは客観
的に実体を示す言葉としては誤謬であることは明ら
かだ。しかしながら、‘あいつはパルゲンイだ’と
いう暗黙の合意がなされると、その人の実体とは関
係なくパルゲンイになり、意味が言葉を示すのでな
く、言葉が意味を規定するという逆説が起こるので
ある。「私が話すのでなく、言葉が私を通じて行わ
れているのである」という哲学者の理論のように、
私がパルゲンイという言葉を使うのでなく、パルゲ
インという言葉が私に関して使われる時、そこには
一つの人間疎外状況が生まれる。パルゲンイという
言葉を使う人は、このような疎外現象を洞察する必
要がある。
パルゲンイを捕らえようと作られた国家保安法の
歴史で、むしろパルゲンイを作って来たという逆説
が生まれるのもこれと無関係ではないと思う。言葉
の意味は言葉自体の定義ではなく、それを規定する
脈絡によって決まることは常識だ。パルゲンイとい
う言葉が法を超越する概念として作られたて行く脈
略は済州島の4.3事件にあると思う。勿論4.3事件の経
験は国家と国家保安法等全ての問題に関する完全な
説明になるとは言えないが、今この瞬間でも解決で
きない宿題がそこにあることは明らかである。今更
パルゲンイなどという言葉を取り上げてどうするの
かという意見もあるであろう。しかし私達が現実を
直視するという勇気があるとするなら、それは実際
には避けることのできない主題であるというのが私
の考えである。(5分内にお願いしますという裁判
長の言葉が何度か繰り返された。途中は飛ばされた
部分は、小見出しだけを記す。)
済州4.3とパルゲンイ / パルゲンイと国家 / 近く
の敵を作ること / パルゲンイと国家保安法 / 人民
のいない国民、国民のいない国家 / 主人のいない構
造、自由のない慣性 /涙
判決
「月印千沓」という言葉は田に稲を植える前に水
を張り、その田圃ごとに月の光が満ちている風景を
言う言葉である。皓々と輝くのは月ではなく月の光
である。月が存在の概念とするなら、月の光は関係
の概念である。月光がそうであるように、社会的な
烙印も存在の概念でなく、関係の概念である。パル
ゲンイという烙印も実際に存在するのではなく、私
達の社会が作り出した関係の虚像というのが私の概
念である。そこでは法の判決もブラックホールのよ
うに吸いこんでしまう説明しがたい体制であるのだ。
判断というのは人が関係を結ぶ行為の結び目であ
る。各瞬間の判断で私が結ぶ関係の方向は決められ
る。判断には、利になる判断があり、智恵のある判
断があり、賢明な判断がある。一審で述べた地主、
商人、船員の比喩を持ち出せば、利になる判断は利
害関係に縛られた地主の判断であり、智恵のある判
断とは利害関係を折衷することを知っている商人の
判断であり、賢明な判断は巨大な構造自体の動きを
洞察してする船員の判断なのだ。法が利を求めれ
ば、社会も利益だけを追い求める。法が智恵のある
ものであれば、社会も智恵のある社会になる。法が
賢明であれば社会構造も賢明であり得るのだ。法的
な判断は社会構造の中で最も権威のある判断である。
法で救済するのが難しく、力に余る社会構造の中
では、ただ希望を託せるとするならそれは法の中で
の賢明な判断であると言える。痛みと疎外の中で涙
かれることがない日々を送って来た人々がいる。耐
え難い歴史を抱きしめて自ら涙となった人々がいる。
法はその涙を拭いてくれるハンケチになれないだ
ろうか。
法は彼らがもたれかかり涙を流す肩になることは
できないのだろうか。
裁判長の賢明な判断を願う。――
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 次回の公判、宣告と言う言葉が韓国では使われて
いたが、判決は12月24日1時30分の日程を検事、弁護
両方に確認し、閉廷になった。時間は7時30分であっ
た。その後、近くの食堂で弁護士さん達を含め、一
緒に純豆腐(スントゥブ)を食べながら話をした。
イシウさんを始め、皆さん懲役10年という言葉は何
処吹く風か、と言わんばかりに、「クリスマスイヴ
だから、いい結果が出るでしょう」と笑いながら談
笑した。イシウさんの前になされた公判で、検事の
目つき、頬杖に噛みついたパク・クンヘの支持者の
選挙違反の話で賑わった。被告は検事の睨みつける
目、そして頬杖をする検事の態度に「止めろ」、と
怒鳴り注意を求め、それに検事が怒鳴り返すという
場面が何度かくりかえされた。被告の言うようにそ
の検事は正にヤクザの表情をしていた。国選任弁護
人を裁判席上で解任するという言葉も飛び出してい
た。誠に物怖じせずものを言う韓国人を絵で描いた
ような人であった。そう言えば、イシウさん達の弁
論も自分達の考えを滔々と述べることに始終したよ
うでもあった。結果が見えているから、こうも堂々
と自分達の主張を述べるのか、あるいは塀の向こう
もこちらも問題にならないという考えなのか、しば
し、不思議に思った。裁判と言うより、人の生き方
を教えてもらっているような思いになった。12月24
日のクリスマスイヴは韓国で過ごすことになるとい
う予感がした。


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