12月31日から1月5日までの6日間、東京・日比谷公園で展開された年越し派遣村の運動は、年の瀬を迎えた派遣労働者の首切りと寮退去=ホームレスという深刻な事態を受けて、マスコミでも連日大きく報道された。そして5日以降、厚生労働省と東京都が急遽、準備した施設への村民の移転で、この運動はひとまず終了した。それまでの6日間を数字で示せば次のとおりである。
入村者=499人(宿泊者489人)、ボランティア数=1692人、カンパ金額=2315万円(現金のみ、郵便振替・銀行送金は未集計)、米・野菜をはじめとする食料品多数(集計不能)、多数のテント・貸蒲団の貸与。
これは大変な数字である。不況を理由に始まった大量の派遣切りによって、食と住さえ失いかねない労働者が急増することは、すでに事前から予測されていた。政府と行政はこれらの事態に対して、何らかの手を打たねばならなかったはずだが、何もしなかった。動いたのは災害救助の自衛隊でも警察でもない。市民運動と労働組合が年末年始の6日間、極寒の中での凍死さえ危惧された事態に対応して、500人の人々の命と尊厳を守り切ったのである。
しかし、ボランティアによる支援に限界があることを、誰よりも年越し派遣村実行委員会は自覚していた。彼らは入村者が当初予定の200人を大幅に超えることが明らかとなった1月1日、大村秀章厚生労働副大臣との交渉で厚労省会議室の開放を勝ち取り、続いて3日の要望書提出後の交渉では、次のような回答を引き出した。
5日以降、500人の入村者に対して東京都などの4つの施設で1週間分(5日から12日まで)の食と住の提供。労働相談・生活相談・貸付相談などの窓口の設置。雇用紹介は求人を精査して提示し、生活保護について速やかな情報提供。
年越し派遣村の闘いが、ついに政治と行政に対して大きな風穴を開けたのである。
湯浅誠派遣村村長(NPO法人自立生活サポートセンターもやい事務局長)は年越し派遣村開村に先立つ12月29日の記者会見で、「今回の取り組みは、命をつなぐだけではなくて、命を踏みにじる企業に対する教育活動でもある」と述べたが、その訴えはマスコミを通じて日本の民衆の心を大きく揺り動かした。
打ち明け話をすれば、年越し派遣村に携わる友人から私に次のような連絡が来たのは、12月30日夜のことである。
「派遣村への支持は地鳴りのような勢いで、派遣村事務局が設置されている全国ユニオン連合事務所に押し寄せている。支援の勢いは、私がボランティアとしてかかわった阪神淡路大震災を彷彿とさせる。労働運動の現場で新しい何かが始まろうとする雰囲気を感じる。」
それまで傍観者的立場にあった私は、彼の言葉に突き動かされて31日9時半頃、派遣村開村式への参加のため日比谷公園野外音楽堂前に到着した。受付のテントには10代から60代までの各世代の男女が、ボランティア志願で長蛇の列をなしていた。その数は開村式スタート時点で100人、終了時の11時には200人、当日夜のマスコミ報道によると350人に達した。
午前10時からの開村式では主催者である湯浅誠村長が、派遣切りの絶望的状況に対して「生きさせろ!」との思いから派遣村開村に至った経過を報告。連合の龍井葉二さん(非正規労働センター総合局長)、全労連の生熊茂実さん(JMIU委員長)、全労協の藤崎良三さん(同議長)、笹森清さん(前連合会長)、保坂展人さん(社民党衆院議員)、棗一郎さん(日本労働弁護団)、笹渡義夫さん(農民連事務局長)、中野麻美さん(弁護士・派遣労働ネットワーク)からは連帯のあいさつ。寒気が足元を襲う中、身じろぎもせずに発言に聞き入っているボランティアの人々の強いまなざしは、強烈な迫力を感じさせるものだった。
そのような中で、前連合会長の笹森さんが述べた次のような発言が、私の印象に強く残った。この発言の中に今日必要な現状認識と今後の方向性が、エッセンスとして凝縮されていると思えたからだ。
「私が連合会長をしていた1999年、派遣労働の原則自由化を許してしまった。その敗北が今日の派遣切りの原因であり、責任を痛感している。しかし、今回の年越し派遣村運動にはこのように多くのボランティアの皆さんが参加しており、支援物資のカンパも類例を見ない勢いで集まっている。私はつくづく、日本の人々も捨てたものではないなと思う。しかもこの場には、市民運動の人たちとともに、連合、全労連、全労協という立場も主張も異なる労働団体がそろい踏みしている。これは大変なことなのです。格差社会のもとに作られた貧困社会を本気で変えるための運動を、本日、日比谷からスタートさせよう。」
私は5泊6日の年越し派遣村の運動を振り返ってみるとき、次の2点をその成果として確認したい思いがするのである。
その第1は、政府と中央行政組織の驚くべき無対応と、それに対抗する自主的社会運動の出現である。大企業による大量の派遣労働者切りの結果、数万単位の労働者が職と住を奪われ、極寒の師走の街頭に放り出された。しかも緊急支援の必要性を訴える野党の声を無視して、政府は救済策を盛り込んだ第2次補正予算さえ成立させようとはしなかった。まさに国家と政府の無能の証明であり、結果としての行政の機能麻痺である。
この時に、政府と行政には頼らない自主的な社会運動が姿を見せ、独力で500人の命と人間としての尊厳を守りぬいた。大げさな表現を許していただけるのならば、瞬間的ではあっても、独立的な統治機能を持った下からの社会運動が登場したのである。
その第2は、新しい主体のあり方を垣間見させた点である。年越し派遣村実行委員会を構成したのは、反貧困運動を担った様々な社会運動や弁護士などの専門家集団、労働組合である。しかも労働組合の中心を担ったのは、非正規雇用労働者の組織化と権利拡大に直接携わってきた様々なユニオンであり、同時に派遣村運動を下支えした連合、全労連、全労協という中央労働団体である。
ジャンルの違い、組織の大小、思想の違いを超えて、1つの目的のために横につながるネットワークが日比谷公園に出現した。「社会運動と労働運動が結合した新しい運動」のあり方の登場である。
私がここで思い出すのは、21世紀初頭から始まった世界社会フォーラム(WSF)の運動である。新自由主義とグローバリゼーションに対抗して始まったWSFは、労働運動、農民運動、フェミニズム、環境、貧困、マイノリティの運動や反戦運動を担う活動家が、全世界から結集するイベントである。その特徴はAnother world is possible(もう1つの世界は可能だ)を合言葉にしている点で、あらゆる社会運動を横に結びつけた対抗社会の構想と、その手段としての直接民主主義が模索されている。
日本でもWSFと結合する試みはなされていたが、具体的に目に見える運動にはなっていなかった。今回の年越し派遣村の運動をWSFと短絡させることは、当事者にとって迷惑この上ないことかもしれないが、世界的レベルの質を持った運動がインパクトを持って登場したと私には思えるのだ。(1月9日 現代の労働研究会・江藤正修)
*原文は、NPO現代の理論・社会フォーラムNEWSLETTERから。同フォーラムのホームページはこちら。
*写真はレイバーネット
■筆者紹介
江藤正修(えとうまさのぶ)
1977年「労働情報」創刊時から事務局員として活躍。2004年に退職し、現在は「現代の労働研究会」事務局長。レイバーネット会員。
レイバーネット
入村者=499人(宿泊者489人)、ボランティア数=1692人、カンパ金額=2315万円(現金のみ、郵便振替・銀行送金は未集計)、米・野菜をはじめとする食料品多数(集計不能)、多数のテント・貸蒲団の貸与。
これは大変な数字である。不況を理由に始まった大量の派遣切りによって、食と住さえ失いかねない労働者が急増することは、すでに事前から予測されていた。政府と行政はこれらの事態に対して、何らかの手を打たねばならなかったはずだが、何もしなかった。動いたのは災害救助の自衛隊でも警察でもない。市民運動と労働組合が年末年始の6日間、極寒の中での凍死さえ危惧された事態に対応して、500人の人々の命と尊厳を守り切ったのである。
しかし、ボランティアによる支援に限界があることを、誰よりも年越し派遣村実行委員会は自覚していた。彼らは入村者が当初予定の200人を大幅に超えることが明らかとなった1月1日、大村秀章厚生労働副大臣との交渉で厚労省会議室の開放を勝ち取り、続いて3日の要望書提出後の交渉では、次のような回答を引き出した。
5日以降、500人の入村者に対して東京都などの4つの施設で1週間分(5日から12日まで)の食と住の提供。労働相談・生活相談・貸付相談などの窓口の設置。雇用紹介は求人を精査して提示し、生活保護について速やかな情報提供。
年越し派遣村の闘いが、ついに政治と行政に対して大きな風穴を開けたのである。
湯浅誠派遣村村長(NPO法人自立生活サポートセンターもやい事務局長)は年越し派遣村開村に先立つ12月29日の記者会見で、「今回の取り組みは、命をつなぐだけではなくて、命を踏みにじる企業に対する教育活動でもある」と述べたが、その訴えはマスコミを通じて日本の民衆の心を大きく揺り動かした。
打ち明け話をすれば、年越し派遣村に携わる友人から私に次のような連絡が来たのは、12月30日夜のことである。
「派遣村への支持は地鳴りのような勢いで、派遣村事務局が設置されている全国ユニオン連合事務所に押し寄せている。支援の勢いは、私がボランティアとしてかかわった阪神淡路大震災を彷彿とさせる。労働運動の現場で新しい何かが始まろうとする雰囲気を感じる。」
それまで傍観者的立場にあった私は、彼の言葉に突き動かされて31日9時半頃、派遣村開村式への参加のため日比谷公園野外音楽堂前に到着した。受付のテントには10代から60代までの各世代の男女が、ボランティア志願で長蛇の列をなしていた。その数は開村式スタート時点で100人、終了時の11時には200人、当日夜のマスコミ報道によると350人に達した。
午前10時からの開村式では主催者である湯浅誠村長が、派遣切りの絶望的状況に対して「生きさせろ!」との思いから派遣村開村に至った経過を報告。連合の龍井葉二さん(非正規労働センター総合局長)、全労連の生熊茂実さん(JMIU委員長)、全労協の藤崎良三さん(同議長)、笹森清さん(前連合会長)、保坂展人さん(社民党衆院議員)、棗一郎さん(日本労働弁護団)、笹渡義夫さん(農民連事務局長)、中野麻美さん(弁護士・派遣労働ネットワーク)からは連帯のあいさつ。寒気が足元を襲う中、身じろぎもせずに発言に聞き入っているボランティアの人々の強いまなざしは、強烈な迫力を感じさせるものだった。
そのような中で、前連合会長の笹森さんが述べた次のような発言が、私の印象に強く残った。この発言の中に今日必要な現状認識と今後の方向性が、エッセンスとして凝縮されていると思えたからだ。
「私が連合会長をしていた1999年、派遣労働の原則自由化を許してしまった。その敗北が今日の派遣切りの原因であり、責任を痛感している。しかし、今回の年越し派遣村運動にはこのように多くのボランティアの皆さんが参加しており、支援物資のカンパも類例を見ない勢いで集まっている。私はつくづく、日本の人々も捨てたものではないなと思う。しかもこの場には、市民運動の人たちとともに、連合、全労連、全労協という立場も主張も異なる労働団体がそろい踏みしている。これは大変なことなのです。格差社会のもとに作られた貧困社会を本気で変えるための運動を、本日、日比谷からスタートさせよう。」
私は5泊6日の年越し派遣村の運動を振り返ってみるとき、次の2点をその成果として確認したい思いがするのである。
その第1は、政府と中央行政組織の驚くべき無対応と、それに対抗する自主的社会運動の出現である。大企業による大量の派遣労働者切りの結果、数万単位の労働者が職と住を奪われ、極寒の師走の街頭に放り出された。しかも緊急支援の必要性を訴える野党の声を無視して、政府は救済策を盛り込んだ第2次補正予算さえ成立させようとはしなかった。まさに国家と政府の無能の証明であり、結果としての行政の機能麻痺である。
この時に、政府と行政には頼らない自主的な社会運動が姿を見せ、独力で500人の命と人間としての尊厳を守りぬいた。大げさな表現を許していただけるのならば、瞬間的ではあっても、独立的な統治機能を持った下からの社会運動が登場したのである。
その第2は、新しい主体のあり方を垣間見させた点である。年越し派遣村実行委員会を構成したのは、反貧困運動を担った様々な社会運動や弁護士などの専門家集団、労働組合である。しかも労働組合の中心を担ったのは、非正規雇用労働者の組織化と権利拡大に直接携わってきた様々なユニオンであり、同時に派遣村運動を下支えした連合、全労連、全労協という中央労働団体である。
ジャンルの違い、組織の大小、思想の違いを超えて、1つの目的のために横につながるネットワークが日比谷公園に出現した。「社会運動と労働運動が結合した新しい運動」のあり方の登場である。
私がここで思い出すのは、21世紀初頭から始まった世界社会フォーラム(WSF)の運動である。新自由主義とグローバリゼーションに対抗して始まったWSFは、労働運動、農民運動、フェミニズム、環境、貧困、マイノリティの運動や反戦運動を担う活動家が、全世界から結集するイベントである。その特徴はAnother world is possible(もう1つの世界は可能だ)を合言葉にしている点で、あらゆる社会運動を横に結びつけた対抗社会の構想と、その手段としての直接民主主義が模索されている。
日本でもWSFと結合する試みはなされていたが、具体的に目に見える運動にはなっていなかった。今回の年越し派遣村の運動をWSFと短絡させることは、当事者にとって迷惑この上ないことかもしれないが、世界的レベルの質を持った運動がインパクトを持って登場したと私には思えるのだ。(1月9日 現代の労働研究会・江藤正修)
*原文は、NPO現代の理論・社会フォーラムNEWSLETTERから。同フォーラムのホームページはこちら。
*写真はレイバーネット
■筆者紹介
江藤正修(えとうまさのぶ)
1977年「労働情報」創刊時から事務局員として活躍。2004年に退職し、現在は「現代の労働研究会」事務局長。レイバーネット会員。
レイバーネット