
私たちの左脳は、「分析、計算、言語」をつかさどっていると言われます。
それに対して、右脳は、「直感、感性、非言語」の領域です。
私たちの周りに渦巻く世界を、右脳が感知し、左脳が分析、計算、言語化する。
言葉を変えていえば、右脳は明文化できないアナログの世界で、左脳は、それを言語や数値という記号に表した、デジタルの世界。
人類は、この脳のシステムが正常に働き、進化してきたのではないでしょうか。
ところが、今ある勉強って、分析、計算、言語、暗記に練習のくり返し、左脳の領域ばかり鍛えているような気がします。
だから、うっかりすれば、勉強ばっかりしていると、ほとんど左脳だけの訓練に拍車をかけて、左脳だけしか働かない脳に、陥りやすくなってしまうんじゃないでしょうか。
右脳の世界には、本来、比較や競争なんてないのだけど、今の左脳社会の比較競争の中で、へとへとになっていませんか。

大いなる世界の情報は、右脳がキャッチします。
左脳だけで世界を見れば、ざるで、水をすくうようなものかもしれません。
同じ情報を受けても、人によって違う反応になるのは、ある種の人々は、左脳が勝ちすぎて、右脳はどうやらお休み中のようだと、このごろ私は理解できるようになりました。
本来、人間は、左右の脳が同調、調和して働くことが望ましいと思います。
勉強もしてもいいけど、良い芸術を見たり、良い音楽を聴いたり、動物と触れ合ったり、自然の中でぼんやりしたり、ゆったり、まったり、感性も大切にしてね。
★写真は、フリー素材写真「花・鳥・風・穴」様よりお借りしたダイサギとムラサキサギゴケの花です。
金木犀さんの文章で救われる時が良くありますよ。
ありがとう。
私は昔から自分は勉強が出来ないんだと思い込んでいました。
だけど、最近 思うのはただ単に試験の為の勉強などだけが勉強ではなく、社会に適応できる逞しさ、人とのコミニケーション力を「勉強」する事も勉強に入るのではないかと思うようになりました。
その方が難しいかもしれません。
子供達には、自然を見て感動する気持ちをもっと
養えるようになってもらいたいです。
もちろん勉強が楽しくてたまらない人たちに、勉強するななんていいませんが、私自身含めて今の大人たちは、ほとんどが戦後生まれ、高度経済成長の競争社会で、負けてはいけないと、お尻を叩かれて勉強してきた世代です。
もしかして、その中で、生き物としての人間の大切なものを劣化させてしまったんじゃないかなと、思ったしだいです。
>思うのはただ単に試験の為の勉強などだけが勉強ではなく、社会に適応できる逞しさ、人とのコミニケーション力を「勉強」する事も勉強に入るのではないかと思うようになりました。
>その方が難しいかもしれません。
そうですね。机の上だけじゃない勉強が、この世に生まれてきて学ぶ本来の、「勉強」なのかもしれませんね。だとしたら私達は、一生かけて、勉強中なのかな!
でも確かに、高校くらいまでは、左脳ばかり使わされたような気がします。右脳を使うような事をしようとしても、左脳で勉強していたなぁと思います。高校の授業は、体育芸術の時間が減らされました。
でも、今は、自分が学びたい事を、時間も試験も気にせず、学ぶ事ができるようになって、「分析、計算、言語」だけでなく「直感、感性、非言語」も人生を豊かに生きる糧だと思います。むしろ後者の方が大切なくらいでね、きっと。
>「分析、計算、言語」だけでなく「直感、感性、非言語」も人生を豊かに生きる糧だと思います。むしろ後者の方が大切なくらいでね、きっと。
そうですね、後者があって、前者があると思います。
過去の大きな発見発明は、右脳が情報を受けて、それを左脳がなんとか具現化する、そんな図式があったと思います。
世の中には、理屈理論重視のあまり、実際に目の前で起こっていることさえ説明がつかないとか、権威の裏づけがないとかの理由で、すべて否定したがる人たちがいます。
ザルの目からこぼしたことが、新しい発見につながるかもしれないのに、残念なことです。
これは私個人の体験からもとづく意見ですが、日本の教育では、人間性は育たないと思います。男主義をベースとした制服や丸刈りを強要する学校(私はセーラー服に萌えますが、それはあくまでもアニメの世界に限ります)、部活で髪型を強要する学校、部活での顧問の生徒に対する「体罰、修正、しごき」という暴行、先輩から後輩へのしごき、また大学の部活やサークルなどで、通過儀礼として後輩は飲酒と禁煙の癖を強制的につけさせられて、そういう場の空気に逆らえないような人格に育ててしまっているのは、とても問題があると思います。また、年功序列という基本的人権に反するような「先輩後輩」のシステムという学園での仕組みも問題があります。とくに、体育教師は、そういう年輩者による「しごき」を正統だと思っている人格欠陥者が多く、そういう根本から教育基本を誤っている人間が生徒指導にあたっていたのは、遺憾だと思います。だから、私の中学のときも、美術と音楽は削減されましたが、体育だけは削減されませんでした。私にとっては、体育こそ、廃止されるべきだと思っていましたから。もし、彼らが、アメリカであのような教育法を行ったならば、児童虐待で刑務所に行くことは間違いありません。学力の低下を招くようなものが「ゆとり教育」ではなく、生徒の自主性を尊重することこそが、「ゆとり教育」だと思います。しかし、日本のような教育では、自主性は、潰れてしまうでしょう。インディゴの子どもたちにとっては、もっとも良くない教育法です。また「でる杭はうたれる」というのが日本の教育だと世界的に有名です。高度経済期に「スポ根アニメ」が流行りましたが、日本の教育はそのスポ根から、抜け出せていないように思えます。今は、インターネットの時代なのですから「ゆとり教育」もそろそろ本格的に実施されるべきだと思う次第であります。
でも、嫌なのはそれ一人だけで、好きな先生もいたから救われたけど・・・
まだ、いじめとか校内暴力は問題になっていなかった時代の話ですが、ヘルメスさんの頃は、一番ひどくなってきた頃だったかもしませんね。
本音と建前を使い分けた、嘘ばっかりの学校生活。
ヘルメスさんが言われるように、特に運動部の男子は、縦型社会に順応させられてしまうかも。
日本は今だに、そんな感じかもしれません。
ただ、公立は髪型や服装は以前ほど厳しくなくなりました。
特に女子のスカートは、長いときは怒られたけど、今はとれほど短くても怒られないようです。無防備にもほどがあるってのに!教育委員会の親父もミニが好きなんでしょう。
>学力の低下を招くようなものが「ゆとり教育」ではなく、生徒の自主性を尊重することこそが、「ゆとり教育」だと思います。
本当にそう思います。日本のゆとり教育の失敗は、勉強時間を減らすことがゆとりだと現場が勘違いしたからだと思います。
総合的な学習の中で、応用的な学びをより深めていくことを目的としたのだと思いましたが、残念ながらそれを指導できる教師がいません。
だって、教師だって偏差値世代の詰め込み教育で試験に受かって教師になったんだから、それ以外のやり方なんかわからないんですよね。
そうですか、「スパルタ教育」を流行らせたのも、やはり彼でしたか。私はその犠牲になってしまったんですね。スパルタ教育をウィキペディアで調べたんですけど、軍式教育についていけない貧弱な子は、殺されるか捨てられてしまうなんて!戸塚ヨットスクールも、敗者は、死ぬしかないという、ルーザーは用なしということですね。あの事件は、いずれ起こったことだったのではないかと思います。ナチやファシストがやりそうなことです。とくにあの人は。
理数系の先生はヴィトゲンシュタインのようなタイプが少なくないですからね、私の工学部の友人も、教授がそのようだったと言っていましたよ。
ああ、そうか、偏差値世代、教師たちは詰め込み機械だったんですね。インディゴ・チルドレンにとって、これほど学びにくいことはないでしょう。
ファッションは、個人の自由ですが、ミニでは、確かに眼のやり場に困ってしまいますね。私も大学で、女学生のあまりのセクシーなファッションに、授業に集中できないことがたびたびありました。
閑話休題、右脳左脳ということで、最近日本で、「うさうさ占い」が流行っているそうじゃないですか。ちなみに私は「うう男」でしたよ。まあ、Oリングテストにくらべたら、子ども地味たものかもしれませんが、子どもに還った気持ちで。
http://www.nimaigai.com/shindan/index.php?method=step3
ヘルメスさんも、よく当たってるみたいですね(笑)
でも、インプットが右脳、アウトプットが左脳って言う意味でこの記事書いたのは、自分がそういうタイプだからだったんだ。そうじゃない人もいるってことは、私の記事は書きなおさなきゃならないのかも・・・^^;
なんにせよ、自分が考えるのと同じように他人も考えているだろう思いがちけど、そうじゃないってことに気づかされました。ヘルメスさん、ありがとうございました。