虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

マルクス・エンゲルス選集

2012-01-19 | 読書
古本の新潮社版マルクス・エンゲルス選集(全16冊)を入手した。
昭和48年版で16刷とあるが、カバーの背に少しヤケがあるものの、状態は悪くはない。以前の持ち主がいかにこの本を大切に保持してきたかがわかる。

いくつかの巻にはうすくえんぴつで線引きがしてあった。でも、その線引きも、実に紳士的で繊細。

わたしも、線引きをよくするが、わたしのはめったやたら、乱暴にページが破れるような勢いで線を引く。しかも、大事なところを線を引くというよりも、ただ線をひっぱってると、文章をかじってるという気がするからだ。頭だけでは理解できず、肉体の作業をしないと読めないからだ。

この古本は以前の持ち主の知性と性格を感じる。わたしとは大違い。きっと、全巻を静かに根気よく読んだにちがいない。どんな人物だろう。ボーナスをはたいて全巻を購入し、少しずつ読み通したのだろうか。わたしのようながさつな人間ではないのはたしかだ。

今頃になって、やっとマルクスを読んでみたくなった。
なによりも、その発想、視点が今の日本の言論界に欠けていると思うからだ。

かつて、40年ほど前は日本のマルクス研究は世界のトップレベルだといわれたことがある。
マルクス経済学者というのはどこの大学にもたくさんいたようだ。
しかし、かれらは、今、何を研究しているのだ?いったい、かれらは、何ものだったのだ?

マルクスに群がり、マルクスを奉じ、マルクスを解説する学者が姿を消したことは、しかし、いいことかもしれない。

余計な解説者なしに、それぞれが、直接にマルクスに向き合えるようになったのだから。
わたしなど、おそらく、10のうち、9も理解できないだろうけど、10のうちせめて1くらいは、なるほど、そうか、と納得できる部分もあると思う。それで十分だと思う。








年をとるということ

2012-01-19 | 日記
先日、朝日新聞の読書欄で、島崎藤村の「夜明け前」がテーマになっていて、読者かだれだか忘れたが、青山半蔵は認知症になっていたのではないか、という感想があったような気がする(よく覚えていないのだが)。

期待していた明治維新に裏切られ、そのために青山半蔵は狂気になったのだと思っていたが、なるほど、そういう考え方もあるかもしれない。いったい青山半蔵は何歳くらいから狂気になったか、小説では、その経緯についてどう書いているのか、もう1度、読んでみたくなった。青山半蔵が認知症になるのはちょっと早すぎる気もするが。

一緒に住んでいる90歳の伯母は、わたしがだれなのかわからないようだ。外に一人で出るのは危険なので、家に一人でいるときは、カギをかけている。座敷牢と同じかもしれない(一人で家にいることが苦にならない人だけど)。

年をとると、親しかった人の顔もわからなくなる。以前、あたりまえのように出来たことが出来なくなる、ということはきっとつらいことにちがいない。