生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

「つばさをなくした天使」あと書き

2008-09-06 09:09:24 | 童話

今日は午後から子供家庭集会のきらりんクラブに出かけます。夕方からヒックンが来て泊まり、日曜は一日預かります。7日は教会学校の奉仕はできませんが、礼拝にだけは行けそうです。(「1時間半ぐらいならひとりでヒックンをみているから、教会へ行っておいで」と主人が言ってくれたのです!)
月曜、火曜はクリスチャン・ペンクラブの研修会で寄居(埼玉県)に一泊します。
 
これから掃除と夕飯の下ごしらえをしなければなりません。時間がないので、ワードで下書きに書いていたけれど更新していなかった記事を掲載します。
「つばさをなくした天使」は8月1日から27日にかけて10回の連載で掲載しました。原稿用紙40枚の童話です。
掲載してから日にちが経ってしまったので、やや間が抜けた気がしますが、今日はあと書きを掲載させていただきます。


「つばさをなくした天使」は、10年ほど前に書いた童話です。聖書(ヨハネの福音書5:1-15)に38年も病んでいてベテスダの池のほとりにいた人がイエスキリストに出会って病が癒されたんことが書かれていますが、わたしはこの箇所にずうっと心惹かれていました。

イエス様がその人に「よくなりたいか」と尋ねます。わかりきっていることなのにあえて尋ねるのです。その人は、素直に答えません。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(ヨハネ5:7)」
長い間病んでいたことで少し卑屈になっています。そこがわたし自身と似ていると思ったのです。

自分も小児喘息で長い間病んでいたのですが、中学生の時、父の知人の紹介で漢方薬屋さんに連れて行ってもらいました。そのとき店員さんに「この薬を煎じて飲み続ければ必ず治りますよ」と言われました。そのとき、ひねくれていたわたしは(そんなに簡単に治ってなるものか)と思ったのです。

治りたくてたまらないのにそう思ってしまったのはなぜでしょう……。わたしの心はかなり屈折していたようです。

ベテスダの池のほとりにいた病人は、信仰深い者ではないように思えますが、イエス様によって癒されます。癒されてからの人生は、主をほめたたえる人生に変えられたようです。
 
さて、物語の主人公エルは天使ですが、罪を犯してしまいます。実際は、天使(み使い)は罪を犯しませんし、いたずらもしないのですが、擬人化して書いています。書いているうちにエルの心とひとつになっていきました。

エルがゲッセマネのイエス様に出会うシーンは、「子どもの聖書絵物語」の絵を見て思いを巡らしました。
間近にイエス様の苦しむ姿を見たかのようにはっと胸をつかれました。ゴルゴダの丘に行ったときはイエス様の体からしたたる血を感じ、イエス様が十字架にかかってくださったのは、わたしのためだったのだと激しく泣きました。この童話を書くことによって、十字架の意味が強く迫ってきました。

聖書を舞台に作品を書くにはまだまだ勉強不足の者だと感じ、つばさ以来、聖書を舞台とした童話は(クリスマス童話以外)書いていませんが、いつかまた書きたいと願っています。


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2 コメント

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Unknown (zhizi)
2008-09-06 11:37:09
お早うございます。ヒックンの面倒をみること、御主人が協力してくださって良かったですね。私も文香さんの今回の童話、最後まで読んで、主イエス様の十字架の意味が強く心に迫り、心が釘付けにされました。
zhiziさんへ (文香)
2008-09-07 09:16:17
童話、最後まで読んでくださって有難うございます。

zhiziさんのうえに聖霊が働いてくださったのですね。大変嬉しく思います。

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