これも京都の詩仙堂の一枚である。このときは似たようなカットも多いが、村山聖の写真をいっぱい撮っている。今観ても、弟子としてよりも私のカメラには魅力ある素材だった。
どちらかいえば、つらくなると村山聖のことを思い出すようだ。懐かしさもあるが、自分のこれから歩く道に迷いがでているときなどだろうか。泣き言を聞いてほしいようなものかもしれない。
村山聖と深夜に歩いて一緒に帰ったことが何度もあるが、ふたりともしゃべらないでトボトボだった。「それじゃあな」「はい」きちんと返事をして別れた。
悩みをいっぱい抱えているのは変わりない・・
どちらかいえば、つらくなると村山聖のことを思い出すようだ。懐かしさもあるが、自分のこれから歩く道に迷いがでているときなどだろうか。泣き言を聞いてほしいようなものかもしれない。
村山聖と深夜に歩いて一緒に帰ったことが何度もあるが、ふたりともしゃべらないでトボトボだった。「それじゃあな」「はい」きちんと返事をして別れた。
悩みをいっぱい抱えているのは変わりない・・
この悲しみを村山さんが知ったらどう言うでしょう。
そんなものは悲しみのうちに入りませんよ。
そう言われそうです。
このお写真の目はキラキラしています。
久々にお邪魔しました。新しい写真が増えていて、とても嬉しいです。
今回は、このお写真にコメントさせていただきます。
撮り手のモリノブ先生がうまかったということは当然ですが、何ともきれいな、村山さんです。
見ていて、心が洗われるようなという表現がしっくりくるお写真です。
お顔の丸みから、お身体の状態があまりよくなかったとだろうと推察したのですが…。
でも、まるで天使のようなお顔です。純真無垢な笑顔、キラキラとした眼差しに惹きつけられる私です。
前世でおふたりは親子でいらしたと信じて疑わない私です。
来世もきっと、お互いが引き合って出会われることでしょう。
私も来世、「村山聖九段」と「森信雄先生」にお会いできますようにと、思わず祈ってしまいます。
先生、もっともっと、村山さんのお写真、コメントをお願いします。
できましたら、先生と村山さんの思い出を回想録として出版願いたいです。
晩秋になり、寒くなって参りました。
先生、お身体ご自愛くださいませ。
このときは本当に好きな雰囲気の時間が持てて、写真も気持ちが入っていますね。
今は村山聖の存在は自分への叱咤激励のような存在かもしれません。
村山聖の目線や暗黙の言葉を気にかけて生きているような気もします。それを通じて今の弟子にも伝えたいものがあるのですが、なかなかうまく言えません・・