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朝日記240221 我々の社会進化形態と「技術圏」思想についてと今日の絵

2024-02-21 12:30:47 | 自分史

朝日記240221 我々の社会進化形態と「技術圏」思想についてと今日の絵

加筆復刻版です;

 

我々の社会進化形態と「技術圏」思想についてと今日の絵

 ~「技術圏」は 敵対的’怪獣’か~

初稿朝日記190619 A10080

加筆版2024/02/21

荒井康全

 

 ふたつのエッセイです。

徒然こと1 我々の社会の進化形態についておもうこと

畏友安部忠彦さんから切り口として;

「 最近、人類の究極的進化形態が日本社会というコミュニティの構築ではなか というかんがえにとりつかれています」という投げかけがあり、そのことに刺激をうけ、われわれの社会についておもいつくままに、以下書いてみました。2019年のことであた。

Yasumasa Araiの応答

 妙に、同感ですね。思い切りよく、和魂洋才としてうってでて、多分、

中国や近隣から、節操のない’さる’となじられた。列強側は、優等生としてしばらく、同じ道をとるよう受けいれたが、「洋魂」のないところに「洋才」が芽をだすはずがないと半分確信していたのではないかと思います。

日露戦争のころを境としてあるいは、キリスト教的近代啓蒙思想や理性支配以外あるいはこれから止揚した近代人間像があるのではないかと当時の日本の識者はひそかに感じていたかもしれません。

T.ホッブスノのレヴィアサン辺りも、理性の所有は、キリスト再臨までの援けとして、キリスト教徒に付与されたということを堂々と記述していますし、グロティウス辺りも、その理性所有するキリスト教国のみが、国際法上の資格として見ていますね。

イスラムにしても、インドにしても、中国、インディオにしても、全く理性的な存在ではないとみていたとおもいます。 日本人自身も、生存のために必死に西洋近代を取り入れ、相変わらず自信はないが、何か手ごたえは獲得していたやに思いを馳せます。

それはWWII後の日本の興隆と言えるものが今も確実にあり、地位を今後も保つと思えるからです。

しかし、この「理性」にからむ近代超克問題は、あいかわらず日本人に、課せられた宿命的課題であり、その意味では、世界史的課題に先鋭的に晒されている民であろうと思います。科学はもとより、文学芸術の世界でも、一級のものが出てくると思います。音楽なども、しばしば、技巧的のみで、表現的でないと揶揄されましたが、最近はさすがに言われなくなったようです。そして、令和ですね。年号が変わったからどうということはないですが、自覚への誘いとしては、千載一遇かもしれません。

それにしても、失礼ですが日本の人たち、特にしっかりしてもらわないといけない層の人たちの知的重みが軽すぎる感がします。お前はどうかと問われれば、残念ながら、余命がわずかになって、残された年月での思考活動の重みは、大きいものがあります。現役のころのプラグマティズム(分析哲学)に、偶然に目がむかい、それがカントを代表する超越主義の哲学とは、明らかに位相が違うことに気が付きました。

 哲学的な知の蓄積や発信は、実務卒業者であったゆえをもって、なお為しえる意味があるとおもっています。

 

徒然こと 2 「技術圏」という思想について

 友人のドイツのエアハルト大学の経済学者Carsten Herrmann-Pillath氏へ、飛び込みのメールを出して、3年ほど前(2016)から、交流がはじまりました。彼は、情報科学と熱力学との相互のアナロジーから、社会科学へのエントロピー概念の導入に意味と期待を持った人です。 生物圏の持つ自律再生系システムと、人間系が持つ情報社会とエネルギー社会の集合体系discipline of something aggregationを熱力学的とくに非-平衡(非-均衡)エントロピ流系熱力学系を生物系と同水準カテゴリーの自律再生系としておくことを提案しました。この系をTechnosphere「技術圏」として論考しています。

彼の発想のベースは、生命体の自律再生が自己触媒autocatalystにあるとみて、そのからくりが、エントロピー流と自己触媒のある化学反応論と見ています。実は、Pillathは、非平衡熱力学でのエントロピー流までは来ていたのですが、化学速度論に着目することの意味についての、こちらのアドヴァイスを積極的に取り入れてくれたようです。

   Technosphereは「技術圏」と訳しました。これまでの西側の哲学や自然科学では、数学や物理学,化学や生物学など学としての領域[discipline]を大切にして、技術について、精々 あの秘密結社のfree masonaryでのmason,つまり石工レベルとして、人間精神活動としては、地位の低いものとしてきた歴史があります。貴族と奴隷に関係ですね。これが今は、逆転してしまっている。貴族(知的専門家)が、結局技術に手を焼いて、旧約に出てくるあの怪獣Golemとして恐ろしい存在として見るならいとなり、頼りにはなり、援けになり、まことに不可欠であるが、機嫌を損ねると何をするかわからない、そもそもわからないなにか見目うるわしくない怪獣的、厄介者あるいは下男として見ている状況ではないかと思います。ローマ時代のゲルマン人などをそういうものであったのかもしれません。しかし、みえないところでエジプトのピラミッドや、エルサレム神殿の構築技術はゴッシック建築へと伝承さえたであろうと想像します。

「技術圏」は 敵対的’怪獣’か

これに対して、Pillathは、そもそも「技術圏」として、怪獣次元 の得体のしれないものとして外から見るのではなく、内側からみることを提案するとみます。人間が気が付かずに抱えた卵をふ化したひとつの非生物的な生命体と見ようとした存在圏discplineの提案です。

人間意思や活動がこれと独立として技術圏に関与するのか、人間が技術圏の一部になるのかは、十分なる思考の到達点に至っているようにみえませんが、人間集合体である機関agentは、完全に技術圏の一部とみます。むしろ技術圏は人間であるか、どうかを問わず、agentをそのなかの生命体としてとりこんでいます。そこでagentは生命体としてつぎの4つの進化機能を所有する;代謝性(環境とのやりとりでの体の維持)、自律性(自らの組織の再生)、目的性(意思決定)および学習性(進化の取り入れ)です。

 

人間の理性と自由意志はどこにはいるか

個人の理性と自由意志は技術圏の外からか、内からかは残る問題です。生物圏と同じように情報階層連鎖ネットワークのなかで個人はagentに入らない可能性もでてきます。

このあとに来るものは、やはり、「技術圏」が負うであろうagentのモラリティと責任の位置づけです。彼の中では、経済系での、方法論的個人主義methodological individualityを前提としてます。

したがって、集合体に人間人格personificationがあるのか、集合体責任(collective responsibility)とはなにかに繋がっていきます。 意図の次元は、個人に帰すか、国に帰すかのあの次元の問題です。ドイツの哲学者ヤスパースJaspersは、刑法的、政治的、道徳的、形而上学的と個人と国(集合体)との責任を分けていますが、戦争裁判の結果がしめすように人類はこれにまだ最終決着をつけていません。モラルや責任に絡んだ重要な課題です。

 

agent意思のトレース問題

彼の発想のもう一つのベースは、あのアメリカのプラグマティズムの祖Peirceの情報記号論Tryad(観察-対象-記号、そして機能(関数))です。いまの論の段階では、個人の意思や、一agentの意思は多階層ネットワーク論理の中に、どれだけトレースできるかの重要な課題があり、学問的には初期の段階です。しかしこういうことを抽象次元の社会哲学として一生懸命に考え頑張っている人たちに敬意を持つものです。

 

WineとGlassの問題 エントロピー流でまだ残る課題として

彼の、この論文を結局は和訳することに手を染めています。 彼の論文を読みながら、一つだけ、特に気の付いたことを私流に手短に言えば、「Wine and Glass」です。Wineを飲むためにはGlassが必要です。だまっていれば、これが出てくるわけではありません。彼の発想では、化学反応論の意味でのwineの醸成(process)はありますが、反応釜つまり、Glassの位置づけが、まことに希薄であったことでした。 Glassも実体entitiesは物質ですから劣化という反応の半減期があります。これはWineの化学反応の半減期と比較すれば大きいので一定と扱うこととみれば、おおきく二つの時間単位での化学反応とみられないわけではありません。(大きいとうっかりいいましたあ、Glassを長持ちする「木樽」とみるか、すぐ朽ちる「紙コップ」とみるか、あるいはちょっとして衝撃で割れてしますガラスでみるかという半減期の次数の極端に異なる問題を喚起します)

彼はHayekの思想に忠実であり、世界は、設計よりも活動で決まるという考えを取ります。したがってWineのprocessを強調していますが、Glassの存在はfacility,accomodation,infra-structureのような目的的なものteleomic;設計的なものの存在であります。それへの思考が希薄であることであるのではないか、彼にアドヴァイスするつもりです。

 

まとめ

 かれのこの論文でこれからのことは以下です。

1.「技術圏」でのwineとglass問題。

2.個人と集合体責任の問題。

3.「技術圏」と経済(圏)について構成論および構造的力学系モデルとしての展開。

 

Pillathは、さすがにドイツ人の学者らしく、カントとの相性のよいPeirceを使って、「技術圏」論を構築してきましたが、最終章で、結論の途中ということで、カントの認識批判哲学での有名な提言命令に触れていきます。この超克で、集合体間での異なる意思が止揚され、「第二自然」The Second Natureをつくるヘーゲルの哲学への誘いを少し見せています。これからの思考展開には興味深々なるものがあります。

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朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

2024-02-19 11:41:07 | 研究論説

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

コメント 現代意識問題と総合知科学の挑戦について  荒井康全 

2024・2・17

現代意識問題と総合知科学の挑戦について

1.ゾンビについて

2.クオリアについて

3.こころと他者のこころ

4.クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦として

 

付録1 Russell主義の一元論 Russellian monism

 

ゾンビについて[1]

ゾンビは、哲学的には‘other minds’ problem想像上の被創造物でありconsciousness意識とphysical world物理的世界との関係についての問題を際立たせるために企画されたものである。  

映画や魔術のなかとは違って、それらはphysical respects物理的省察における我々と全く似ていとはいえ、しかし、conscious experiences意識的経験を伴わない者である。

ゾンビはまさしくわれわれとおなじくふるまい、そしてある者は意識性を論じるのに長い時間を費やすものである。ほとんどのひとは、例外はあったとしても、ゾンビは存在していると考えてない。

しかしおおくの場合かれらは少なくともconceivable認知的であり、そしてあるものはpossible.可能的であるという見解をもつ。

それはつぎのようにもみえりょう、もしゾンビが実際に可能ならば、物理主義は誤りとなり、そして二元論のある派には真となろう。

おおくの哲学者にとって、それはゾンビ観念の中心的な重要性である。

しかし、ゾンビは意識とこころの他の視点について哲学的理論化への鋭い焦点をあたえる価値あるものである。(see for example Howell 2013; Kriegel 2011; Stoljar 2006; Tye 2008).

ゾンビの観念を物理主義に対してつかうことのはimaginability想像性、, conceivability,認知性および possibility可能性との間の関係についてのより一般的な問いをおこすことにもなる。

最終的に、ゾンビはepistemological認識論上の困難性をおこす;それらは‘other minds’ problem他者のこころの問題を再度考えるとになろう。

 

クオリアについて[2]

ものを感じることや経験はひろく変わる。たとえば、サンドペーパーにわたしはゆびを走らすとなにかきな臭いにおいを感じ、わたしのゆびにするどい痛みを感じる、なにかあかるり紫いろをみるような気がして、わたしはひどく怒り出す。これらのどの場合も私はこころの状態の主観(主体)であり、非常にはっきり区別のある主観的性質をともなう。

そこには自分にとっていまある状態が似ているなにかがあり、それはなにかこれまでにもあった現象的なようなものである。

哲学者たちはしばしばそれを‘qualia’ (単数 ‘quale’)という術語をつかい内的視点でうけいれ、われわれのこころのいのちの現象的一面として紐づけする。この語のひろい感覚で、qualiaが存在することを否定することは困難である。典型的な非合意としては、こころの状態がqualiaを所有するところに集中する、それはqualiaがそれを抱えるひとの内的な質であるのか、そして如何様にqualiaが頭の内および外の双方での物理的なものに関係しているかということである。Qualiaの位置づけは現在の哲学でのホットな議論である、それは意識の本質についての適正なる理解の中心であるからである。

 

私のこころと他者のこころ

デカルト以来、近代の哲学で こころとからだの二元論において、このこころはあくまでも自分から出発している。「われ考える」はわたしの主観が出発となっている。わたしという個人individualであり、他人とは違う。他人についての主観は分からないのであるが、人間としての個人ということで共通であろうという仮定のうえに立っている。

「われ考える」の「考える」は自分が見て意識しているものつまり「からだ」である。その「からだ」は自分の体もそうであるが、意識してとらえてそれがなにであるかを考えようとしてとらえた対象つまり客観のことである。

 

ここで焦点にあてたいのは、デカルトの二元論としては「他人」の主観は「私」はわからないことになる。それを対象として客観を経て、それをあらためて「私」の主観へととり

かかることになる。この主観とはあくまでも「私」のであり、対象となった「他人」の主観とは同じかどうか、違いもじつはそのままではわからないことになってしまうのである。あくまでも「私」の思考経験を経た産物でそれを表現することになる。

 

対象からの経験の中身は共通のものがあるという信念の伝統があり、人類は対象についての観察、対象への入出力から共通の知(認知)をしようという行動への意思が近代科学を

生んだといえよう。哲学者カントによれば経験から共通知の獲得つまり概念である。

確か、社会学ではMethodological based Individualism 方法論的個人主義とよばれて思考的枠組みを設けてけっきょく「ひと」の概念へ落とし込むようである。これはMax Weberの社会科学の基盤となっている。もちろん、Methodological based Collectivism方法論的集合主義というたちばもあり、これは最初から集合的自我を想定してる立場でありフランスの社会学の祖であるDulchemに代表されているといまは言っておく。

 

さて、いまここで我慢して踏みとどまって、うえで「私」の思考経験を経た産物といったが、「私」は経験から主観がなぜ、どのように生まれるかについて考えるひとたちがいる。しかし科学の歴史のなかで未だその道すじに信頼できる存在はないのである。

 

 

クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦として

 

二元論では主観と客観、こころとからだ、あるいは思考と対象というカップルでの問題の捉え方であるが、それはそう単純なカップルではないことは容易に想像できる。

いま、意識について考えてみたい。ここでは一旦、二元論から、その名辞だけをのこして、「私」と「他(対象)」の次元と、「こころ」と「からだ」の次元とで考えを展開してみたい。

「私」はそのときどうあるか?という状況設問である。

最小限、「私」のこころにたいして「対象」のこころと「私」のからだと「対象」のからだ(外延)の2x2のマトリクス問題があらわれるのである。

 

 

「わたし」はそのときどうある?

 

 

 

 

 

「わたし」のからだ

「他(対象)」のからだ

「わたし」のこころ ;qualia

What is it like?

の存在(意識)

 

対象への直観からの理念ideaの発生

II

「他(対象)」のこころ ; qualia(zombi)?

awareからの(反応)

対象としての経験からの概念conceptの獲得

 

 

行 Iが 意識と理念の存在を意味していて、これをqualiaクオリア空間とし、

行 IIへの反応と概念の存在獲得を意味していて、これを敢えてzombiaゾンビ空間と定義しておく。

一般にはここもqualiaとしてひろく定義にいれるひともいる、これがzombiaの存在論議を曖昧にしている所以ともなっていると指摘しておく。

 

列1と列2は二元論的視点からは主観と客観(対象)を区別して焦点を当てようとする定義ある。特に列1は主観には階層あり、上部I―1の高位の主観意識と下部II―1のからだの機械的反応の層を区別している、対象そのものにこころがあるかどうか意識問題の焦眉であるが、最近の脳神経情報科学の領域を上部主観意識階層の形而上学的論理展開を層別して統合展開する学問的総合知しての戦略性がここにある。

物理主義的にのみとどまると意味乾燥したゾンビが不気味にのこる。とうぜんながらゾンビよる人間世界の支配の危惧が起ることは当然であろう。それらを回避しおおきな人類知の構築と人間性安全保証のための高度意識社会への挑戦がもとめられるのである。

クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦なのである。

 

付録1

Russell主義の一元論 Russellian monism[3] [4]

 

Russellian monismは、 neutral monism.[46][47] 中立的一元論である。この理論はBertrand Russellに帰するものであるが、 Russell's panpsychism, Russellの汎心論もしくはRussell's neutral monism.[9][46] Russellの中立的一元論ともよばれている。 Russellはすべての causal properties起因的特性は、identical intrinsic properties.内的特性の対するextrinsic manifestations外的操作であると信じたのである。Russellはこれらの同様なる内的特性をquidditiesクイディティと呼んだのである。物質の外的本質特性がより高次-秩序構造を形成することができるように、それらの内的本質特性も対応し、そして同一なquidditiesを形成することができる。Russellはconscious mind意識的こころはそのような構造であると信じたのである。[48][9] 

 

[1] Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

https://plato.stanford.edu/entries/zombies/

First published Mon Sep 8, 2003; substantive revision Tue Mar 19, 2019

 

[2] Qualia (Entry from the below)

Qualia (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

https://plato.stanford.edu/entries/qualia/

First published Wed Aug 20, 1997; substantive revision Thu Aug 12, 2021

 

[3] Wikisource has original text related to this article:

The Relation of Sense-Data to Physics

 

Wikisource has original text related to this article:

The Analysis of Mind

 

[4]  https://en.wikipedia.org/wiki/Panpsychism#Panprotopsychism

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

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朝日記240219 その6 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 11:09:11 | 研究論説

朝日記240219 その6 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

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Acknowledgments

Many thanks to David Chalmers and to Bill Fish for valuable detailed comments and suggestions on drafts of this entry.

Copyright © 2019 by
Robert Kirk <Robert.Kirk@nottingham.ac.uk>

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical background

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朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 11:02:58 | 研究論説

朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. Other issues 他の案件

もしゾンビが本質的に可能なものなら、物理主義は問題的であるばかりでなく、ひろくうけとめられていた他のトッピクスの観点もまた問題的である。 ここでは顕著な例を三つ紹介する。

 

6.1 Mental causation こころの因果性

 

デカルトDescartesはつぎのような共通の仮定を受け入れた、それは物理的事態にはこころへの効果をもつばかりでなく、こころの事態もまた物理的効果をもつ(たとえば、ある政治的状況が私をして手紙を書かせることになろう)。

彼の二元論の困難性は、言われてきたように、非物理的なものが物理的なものに影響を及ぼすのは如何にしてなのかを理解する点にある。

しかし、ゾンビが可能であるなら-その物理的世界は因果的に閉じていることが要求されるので-そこには非物理的なクオリアがはたらく余地はなにもないことになる。

ゾンビが可能であるといま仮定しよう、その結果はこころの因果性についての共通の仮定を大胆に変更してparallelism平行主義やepiphenomenalism随伴現象主義を代替のものとして持ち込むみることがむずかしくなり、これらのオプションのどれもが容易ではない。

経験的検証おいて因果性が閉じていることを放棄する;一方では現象論的もしくは擬現象論的特性が基本であるという観念は曖昧となる。

まさに、ゾンビの友人たちは随伴現象主義でありもしくは平衡主義者であるというactual world実際の世界についての義務はもたないとみてよいだろう。

かれらは、相互干渉者かもしれない、それはわれわれの世界が物理的に閉じているのではないことを、そしていずれにしても、非物理的特性が物理的に影響を及ぼすことを保持するのである。 

または彼らは‘panprotopsychism’パンプロトサイキズムを好むかもしれない、それによればそこでmetaphysically fundamental形而上学的基本であるものは、いずれもphysical properties物理的特性ではないということである、しかしそれはphenomenal現象的もしくは‘protophenomenal’原型現象的であるとするのである(Chalmers 1991, 297—299; 1999, 492) —これはthe causal closure of the physical物理的なものこそが因果的に閉じているということと共存する観点である。 

因果的に閉じていることを放棄することは経験的検証との争いを引き起こす;一方で現象的もしくは擬現象的特性が基本的であるという観念も曖昧になる。

その場合につぎの困難性を理解すべきであろう、それは見かけにもかかわらず、非物理的なものは物理的なモノに影響を及ぼすことに失敗する可能性があることである。

 

6.2 The function of consciousness 意識性の機能

 

ゾンビの見かけ上の可能性は進化論のための課題を構成するように見えよう。

なぜ、qualiaクオリアをもつcreatures被創造物が対向相手counterpartsである被造物のzombieゾンビよりも生き延びてきたのか?  

もしゾンビが生き残っていたのであれば、consciousness意識の利用とはなんであるか?

Owen Flanagan とThomas Polgerは、ゾンビの見かけ上の可能性の要求を支持してきた、それは「経験から主観がなぜemerged発生するかについての信頼できる筋道がいまだに存在しないことについてである、それら主観からの進化論へのたたかい-もしくは勝利することが期待されてきたというべきたたかいといえるかもしれないが、それは非常に ’intelligent zombie-like information-sensitive organisms’知的なゾンビ的情報-感覚的組織へのた進化的なたかい(1995, 321)であるが、なぜそれに勝利したようにみえているかについてである。」:possibility of zombiesゾンビの可能性を拒否するひとたちはひとつの問題にも立ち会っていないのである。 

それを受け入れる人たちを代表する答えのひとつはthe phenomenal現象的なものとthe physical物理的なものとが基本法則でつながっているということを示唆しているということである。

そのような法則はconscious creatures意識的被造物が進化的にあらわれたかどうかに依存しているのではなく、そのようなケースでは、異論のあるところではあるが、evolution進化にspecial problem特定問題を持ち込まさないとする点にあるである(Chalmers 1996, 171)。

 

6.3 Other minds 他のこころ

クオリアがもし物理的効果を持たないというなら、なにごともひとをして他のだれかが実際にクオリアをもつということの確かさを決めえないことになるであろう。

哲学者たちはother minds他者のこころについては懐疑主義的にきまりきった応答をしてきたと信じているが、それゆえに彼らは、このconsequence of the zombie ideaゾンビ観念の必然性については全面却下で十分であると結論しているようである。 

しかしながら、他の人たちはその懐疑的必然性が‘a confirmation’確認されたものとして見なしているが、それはothers’ minds他者のこころについてはわれわれが無知であるということとに基づいてのことなのである(Campbell 1970, 120)。

もちろん、すべてではないにしろ、他者のこころへの懐疑主義への応答からはzombiesゾンビというものがinconceivable認知できないことを意味している。 

 

  1. Conclusion 結論

zombie ideaゾンビ観念についての洞察的アッピールは勢いを増している。

しかし、それはいまに始まったものではないし、現在も懸題としてわれわれのまえに立ちはだかるのである、科学の側がこれまで非物理主義的なものごとに配慮することなくものごとの事態観念の真理を語ってきたことにも依っている。

ある反物理主義者はかれらの対立者の関与が人をして盲目にして困難性に陥らせると信じている。

ゾンビの可能性否定にひとたちは導かれているようにみえているという、かれらはなにかの理論をもちだしては、それがただしいとして掲げてはいるが、そのような理論の正当性はひとえにthe question of possibility(ひらかれた)可能性の問いに基づくべきものであると主張する(Chalmers 1996, 96)。 

一方で、物理主義者のある人たちはzombie ideaゾンビ-観念そのものが反物理主義思考へ向かわせる不合理性をふくむもとであると懸念する、それはその反物理主義的論点がすでに独立した力を得て合理性ある洞察として認めようとする陰謀が隠されているとみるのである。 (Loar 1990/1997, 598).

両サイドについての論争はますます知的に込み入ってきている、もしくは多分それ故か、論争は決着の様相が見えない状況である。各陣営はそれぞれの方向への説得はつよいものになっている。

 

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朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:56:58 | 研究論説

朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. Does conceivability entail possibility?  認知(概念)獲得性は可能性につながるか

conceivability論議での前提(2)は:conceivableであるものはどれもpossibleであるというものである。

これは防御的要求であるようにみえるが、いくつかの角度から攻撃されてきたのである。

 

5.1 Objections based on a posteriori necessity 後天的必要性にもとづく反対

たくさんの哲学者はKripke’s ideasが事後的に必要なものであり、それが物理主義の防御を提供すると論じた。

かれらはゾンビ世界がconceivableであってさえ、それがものごとの筋道でpossibleであるということを確立していないことを促している。

心理物理的同定があたえられるなら、それはan ‘a posteriori’ fact事後的事実であり、われわれの世界の物理的複写がなんであろうともそれは感覚状態の積極的事実の視点においてわれわれとまったく似ているということでなのである。」(Hill and McLaughlin 1999, 446. See also Hill 1997; Loar 1990/1997; 1999; McLaughlin 2005; Webster 2006).

 

ある哲学者たちはconceivabilityがpossibilityへのa guideひとつの案内という仮定でさえ拒否し、それは証明の負荷はゾンビの可能性を否定する者に掛るという観点に挑戦するものである。(Block and Stalnaker 1999; Hill and McLaughlin 1999; Yablo 1993)

Chalmersはいくつかの場所(1996, 131–134; 1999, 476–7; 2010, 141–205)で応答してきた。

かれのconceivability論争での最も詳細版(2010)は二次元的意味論の枠組みを使っている。

これは彼をしてふたつの種類のpossibilityとふたつの種類のpossibilityの違いをかれに可能にさせている。

‘primary’ sense第一次センスでは、conceivabilityはpossibilityに尾をひいていく;たとえば水はH2Oとは化学的に異なる物質であるべきであったということがconceivableである。

他は、‘secondary’ sense第二感覚であり、水は化学的に異なるべきであったということはconceivable でもなく、かつpossibleでもない。

Conceivabilityの論議のためのむずかしさはゾンビ世界が第一次的にconceivableでそして、したがって 第一次的に possibleであってさえ、それが二次的にも可能であることを引きずらないことを言うことによって表現されうるのである。

そして後天的(事後的)物理主義者がゾンビ世界の第二次的possibilityのみがphysicalism物理主義のfalsity欠陥をひいているという地盤のうえにいることを典型的否定をしているのである。

 

この点で、Chalmersは効果的に対立者が二律背反をしていることを顕わにしたのである、それは(かれの結論をまとめるには粗いが)ゾンビの第一次的conceivabilityが第二次的possibilityに尾をひいていること、そのpossibilityについてのケースでconceivabilityの論議がはたらき、そしてmaterialism物質主義はつじつまがなくなったということである。 

あるいは、かれが‘Russellian monism’とよぶものは真であるとしたのである、これについては以下のSection 5.3にて簡単に触れる(See also Jackson 1998; and for discussions, Brueckner 2002; Loar 1999; Hill and McLaughlin 1999; Perry 2001, 169–208; Piccinini 2017; Sebastián 2017; Shoemaker 1999; Soames 2005; Yablo 1999.)

 

 

5.2 The phenomenal concept strategy  現象的な概念戦略

沢山の物理主義者はゾンビ概念とFrank Jacksonの知識論議の双方をあつかうのにthe nature of phenomenal concepts現象的概念の自然性へのproper understanding固有理解をとおすことである(粗くいえば、この概念はわれわれの経験の性質を運ぶときにわれわれが使う概念である:たとえば、‘sweet’甘いとか, ‘the way I see blue’わたしが青をみる道すじ)

Conceivabilityの論議の成果はthe physical物理的なものとthe phenomenal現象的なものとの間での想定される‘explanatory gap’説明ギャップ―ゾンビがconceivableであるという観念で表現される―がontological gap存在論的ギャップをもたらすのである。 

 

 

これらによるとconceptual gap概念的ギャップのみが実際にあるのである;

phenomenal concepts現象的概念はわれわれをミスリードする様相をもっていてontological gap存在論的ギャップ、さらにくわえてepistemic one認識論的ギャップがあると思わせようとすることになる。

斯くして、ゾンビ世界は事実的にconceivableであってさえ、それがわれわれの世界でnonphysical properties非物理的特性が存在するとこにつながらないのである。 

もしそれが正しいのであれば、物理主義者はゾンビのconceivabilityを認めることができる一方で、phenomenal concepts現象的概念の意味でわれわれがそこからとりだす特性はphysical物理的であるということとに整合させるのである。

 

「もし特性がその世界によって構成されるものであり、そしてわれわれの概念によるものではないならい」Brian Loar はいう「それは物理主義者がその過程の正当性を要求するのはフェアであり、その仮定とはconceptually概念的に明確なconcepts 概念がmetaphysically形而上学的に明確なproperties特性を表現していなければならない」(Loar 1999, 467; see also his 1997).

かれはさらにphenomenal concepts現象的概念は‘recognitional’「認知的」であること、これは‘theoretical’「理論的」であるphysical concepts物理的概念とcontrast対照的であると論じた。

  

 

 

 

Phenomenal concepts現象的概念は、Loar はかたる、「Kripkeは‘pain’「いたみ」のケースで観察したように、それらがとりだすそのまさに特性を表現する」(1999, 468) 

かれは考えるのは、これらのポイントがゾンビ世界のconceivabilityを説明するものであり、一方でrelevant physical propertiesこれにrelevant physical propertiesむすびついた物理特性がconsciousness.意識からは区別できるような可能な世界は何ら存在しないといことを保持していることでる。  

ChalmersはLoarの勘定がphysical concepts物理的概念がphenomenal properties現象的特性を参照する見解を正当化していないことに反対した。

かれがさらに論議した(2007)のは、このアプローチからの出てくる二律背反の直面である。

いまCがなんであれ心理学的な‘key features’としよう、そしてゾンビはそのfeatureを持たないとする。

一方、もしそれがconceivableでないならば、かれのその観点でCはわれわれのepistemic situation認識的状況を、that of zombiesゾンビの状況とはcontrasted対照したような説明ができないことになる。

斯くして、これはつぎのいずれかになる、Cがphysicalistically explicable物理主義的説明できるものでなくなるか、もしくはそれはepistemic situation認識的状態説明できなくなるかである。(この考察には以下をみよ  Ball 2009; Balog 2012; Carruthers 2005; Chalmers 1999; 2007; 2010; Crane 2005; Loar 1990/97; Papineau 2002; Pereboom 2011; Stoljar 2000; Tye 2008.)

 

 

5.3 Russellian monism ラッセルの一元論

 

Russell (1927)に従って、ある哲学者たちは、物理学はわれわれに‘structural’ properties of thingsものの構造的特性についてのみ語る、―それはdispositions配置状態 とnomic 名辞関係のようなもの―であるが、そこではstructural properties.構造的特性がかかえていると想定される‘intrinsic’ properties内的特性は第二義的なものとなっている。

斯くして、Daniel Stoljar (2001)はthe physical物理学的なものおよびそれに対応するphysicalism物理主義のふたつを区別するnotions名辞観念を論じたのである、それらはひとが物理学によって提供されたものにおいてのみか、もしくは物理的対象のintrinsic properties内的特性にも対応するものか、そのアッピール依存しているとしたのである。 

かれが示唆するのは、conceivability認知(概念)性の論争で対応する2つの版で、そのひとつがsound(なるほどとうける)である場合と、他はsoundでもないとする場合であるが、われわれはゾンビの可能性については‘strongly’ conceive 強度に認知(概念)しえないとするものである、それは粗くいえば物理主義者たちはつねにゾンビに反対するのは、われわれが物理的世界について十分に知悉しえていないとする言い訳があるからである。 

 

このような観念はChalmersが‘Russellian monism’「ラッセル的一元論」 (a variety of neutral monism中立的一元論からの出自のもの)として呼称され、現今その位置を得ている。

われわれの世界では、かれの示唆するところで、「intrinsic properties内的特性はphenomenal properties現象的特性であり、またはprotophenomenal properties原現象的特性といってよいであろう;これは、しかるべきappropriate way適宜な道すじで組織化されたときの集合的phenomenal properties現象特性が構成される」(2010: p. 151);一方、他の世界ではその対応するintrinsic physical properties内的物理特性はconsciousness意識のためには供しない。

もし、そのintrinsic properties がわれわれのconsciousness意識に与えられたとするとその特性はそれでもなおphysical物理的なものとして分類されるなら、支持者たちはこれらがわれわれの‘full’ physical duplicates十分な物理的複写であると理解して、ゾンビのpossibility可能性を否定することができるのである。  

 

同時に彼らはpossibility of zombiesゾンビの可能性をみとめることができる、それはstructural properties構造特性においてのみ、われわれを複写したものということになる。 

かれは指摘するように、この観方は「物理主義のhighly distinctive form高度識別形式のものであるとし、それはproperty dualism特性的二元論におおくを共有する、そして物理主義者のおおくが実は拒否したくねがっているものでもある。」(Chalmers 2010, p. 152; see also Pereboom 2011).  

 

physicalism物理主義としてそれを吟味することへの障害は、なぜ、われわれの世界での特別なintrinsic properties内的特性がconsciousness意識のために寄与することへ説明することが出来ないようにみえることにある、一方でその同じ機能が他の世界においては寄与しない:これは野蛮な事実として受け入れなければならないことである。 

Philip Goff (2010)は物理主義のラッセル版のためのこの曖昧性はゾンビ論議を弱めることを示唆している。

かれはそのかわり、幽霊からの論議を推奨するのである;物理的自然のいかなるものをともなわないpure subjects of experience純粋経験主観である。 

かれはそのような幽霊はconceivable であり possibleであるそして、幽霊たちは物理主義に対して論議を挑む、それは物理主義がラッセル一元論はなんら曖昧さloopholeをのこさないことに対してである。(物理主義者がたぶん反対するのは、この論議がゾンビのconceivabilityに抗するからであり、それが幽霊に抗する動機ともなりうるからである)

 

 

 

5.4 Other objections 他の反対

 

Special factors.  特別ファクター

これまで示唆されてきたものとして心理物理的ケースでの研究での特別ファクターがわれわれをミスリードする強い性向があるというのである。

たとえば、consciousness意識の状態についてわれわれをしてimagineしもしくはconceiveすることができるものは、われわれをして物理的事実をconceiveすることができるものとは異なるcognitive facultyであるという主張である; 

 

「Cartesian intuitionsデカルト的洞察に対応するcognitive factors[ゾンビについてのそのようなものの]と、ひろくてさまざまな種類のmodal intuitionsに対応するそれらのcognitive factorsとの間にある顕著な差がある」(Hill and McLaughlin 1999, p. 449. See also Hill 1997) 

この示唆はこれらの差が説明の易しさをたすけ、われわれはゾンビをconceiveすることができるようになるが、そしてにもかかわらず、それらが、impossibleであるという要求を理解する困難性の説明するたすけともなるのである。

Conditional analysis. 条件的分析

反対の他の筋としてはクオリアの概念についての条件的分析がある。

その観念とは、粗くいえば、if もしそこに実際にたしかな非物理的特性があって、それがわれわれのクオリア概念にフィットしているなら、それがクオリアであり、その場合ではゾンビはConceivableである;

しかし、if もし そこにそのような非物理的特性がないなら、クオリアは物理的特性がなんであれ、それにみあう機能を遂行するかぎりはそこにあり、ゾンビはconceivableではないという観念である。

このアプローチは物理主義者をして一方でゾンビがconceivableであることを否定しておいて、ゾンビの可能性がconceivableであることを受け入れることになり論議を起こしている。

これに関連する点Stalnaker 2002と、批判についてはAlter 2007; Chalmers 2010, pp. 159–59; Crane 2006をみよ).

 

 

Causal essentialism. 因果性基本主義

 

因果基本主義の理論によれば、physical properties物理的特性についてのcausal properties因果特性がそれらに基本的なものとする。

Brian Garrett (2009)はこの理論を展開したのは物理主義に抗するゾンビ論議はひろくHumean assumptionsヒューム哲学の仮定に依っている、それは因果基本主義の欠陥を予め考慮した自然法則とその特性についてのものである。

もしわれわれがこれらの仮定を拒否し、そしてあるなにかの物理特性が意識を産む能力が基本的にもつと受け入れるなら、「われわれはゾンビ世界の本来的な可能性を受け入れることはできない」、そこではそのような世界がconceivableであったとしてもである(see also Aranyosi 2010)。 

 

More on zombies’ utterances.  ゾンビについてのつぶやき

あるゾンビ世界を考える、それはわれわれの世界の全き物理的複写であり、すべての哲学者の双子ゾンビとなっていて、そこにconceivability論議をアッピールするなにかを含んでいるそのようなゾンビ世界である。

Katalin Balog (1999)がは、かれらのつぶやきが、意味があるような一方で、かれらの文章はそれらが我々の口のなかにあるそれとかならずしも意味しないようなことを論じたのである。

彼女はさらに論じる―それは過度に単純化される言であるが―もしconceivability論議が実際の哲学者の口のなかで説得的であるなら、そのときそれはゾンビ哲学者の口においても説得性あるものであろう。

しかし仮説によって物理主義がかれらの世界において真であるなら、その論議は説得性のないものである。

したがって、実際の哲学者が用いるconceivability論議もまたどれも説得性のないものである。

もしこの論議がはたらくとなれば、それは香辛料的な様相をもつのであり、それは「反物理主義者が結果的に可能と考えるゾンビの可能性を確立することを目論む論議がそこに内蔵している」(502. Chalmers offers brief replies in his 2003; 2010, pp. 159–60).

 

Conceivability論議は―それは物理主義者がゾンビはimpossibleであるということをひきずっていると仮定していて―ゾンビたちがpossibleであることをみせることによってそれ(その論議)を拒絶しようとする魂胆のものである。

 

われわれが見るように、この論議のもっとも簡潔版は以下となる;

(1)ゾンビは  conceivableである;

(2)  conceivableなものはなんであれ  possibleである;

 (3) したがってゾンビは possibleである。

 

 

 

しかしながら‘anti-zombies’反ゾンビは―われわれ自身の複写は純粋に物理的事実によって意識をつくる―conceivableであるようにもみえる;

斯くして、われわれは平行的論議をもつ;

(1*) 反ゾンビは conceivableである;

 (2) conceivableなものはなんであれ  possibleである;

(3*)したがって反ゾンビは  possibleである

 

 

(3) と(3*)は双方とも真とはなりえない、なぜなら反ゾンビについての純粋に物理的事実がゾンビたちに意識をつくるなら、そこでゾンビたちについて全き単純な物理的事実もそのゾンビたちに意識をもまたつくることになる、そしてとどのつまりそれらはゾンビではないことになる。(Frankish 2007; Marton 1998; Piccinini 2017; Sturgeon 2000, pp. 114–116).

 

 

ひとつのモラルとしては,われわれはconceivabilityからpossibilityへの推論を拒絶すべきであるというものである。(Brown 2010 は反ゾンビがconceivableならゾンビたちはinconceivableであるかを論議した)

このconceivability論議からの成果としては反ゾンビがconceivableであるということを否定すべきであるということであろう。(Chalmers 2010, 180)

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

 

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朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:46:04 | 研究論説

朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

本文

 

  1. The conceivability argument for the possibility of zombies ゾンビの可能性のための認知能力(概念能力)論議

この論議の最も単純な版は以下である;

  1.ゾンビはconceivableである。 

  2.conceivableであるものはすべてpossibleである。 

  3.したがってゾンビはpossibleである。

(Kripke used a similar argument in his 1972/80. For versions of it see Chalmers 1996, 93–171; 2010, 141–205; Levine 2001; Nagel 1974; Stoljar 2001.)

あきらかにconceivability認知(概念)性の論議は有効である。

しかしながらその前提のふたつとも問題的である。 

それらは言明として不鮮明でありそして論争含みである。

肝心な問いは、この文脈においてわれわれは‘conceivable’をどのように理解すべきかである。

多くの哲学者はゾンビが、ある意味においてconceivableであることをすすんでconcede認めたがっている。(e.g. Hill 1997; Hill and McLaughlin 1999; Loar 1999; Yablo 1999).

しかしながら、この意味はときに全くひろがりをもっている。

たとえば、「pain痛みの概念とC-fiber 刺激の概念との間で実質的な先見的つながりがなにもない」という主張は、「原理的に(そのつながり)は他の概念を十分にマスターしないで、それら概念のどれかをマスターすることが可能である」という点によって支持されてきた。

この standard基準に依ると、以下のことになろう;円周とその直径との比が実数でない場合があっても、その比が原理的に実数であるということがconceivableであるということになる。

もしconceivabilityがそのような意味でpossibility可能性とつながっているならthe ratio to be rationalその比が実数である可能性とその不可能性両方おきてしまう:そのことはconceivabilityに関するその論議が目的でありながら、無用のconceivabilityをつくりだすことになる。 

そのように理解するなら前提(1)の論議はやさしくのみこめる;しかし(2)は拒絶されるべきである。

注意深くみても、conceivabilityに対する閾値を低くすればするほどに、(1)は受け入れやすくなる―しかし(2)を受け入れるのは、より難しくなる。

前提の(1) と(2)にて呼び込まれたこの種のconceivabilityはつよく制限される必要がある。

共通にして有用なる定義は先見的に誤りであることを知りえないこと;cannot be known a priori to be falseつまりAがconceivableであるのは、非Aが先見的にルールにはずれている場合、そしてその場合のみとしている。

(For sophistication of these and related ideas see Chalmers 1999, 477; 2002; 2007; 2010; 5.1 below.)

 

Joseph Levineはかれの2001年論文でconceivability論議を展開した。

かれはゾンビのconceivabilityはexplanatory gap’説明ギャップがもたらした結果とした。

かれの見解によれば、そのギャップとはthe phenomenal現象的なものがthe physical.物理的なものにどのように関係するかを説明するepistemological problem認識論上の問題である。 

かれはこの問題を解く道すじが見えず、そしてそれはゾンビが不可能であるとしてもさえ残ると考えた。

Campbell, Copeland and Deng 2017は、いかなるcoceivability論議には対応する‘mirror argument’「鏡像論議」が存在するというまったく一般的な論議を展開したのであった。この‘mirror argument’は主なる論議に内蔵しているコストの膨大性から拒絶されそしてすべてのconceivability論議は‘logically bankrupt’「論理的破産」と結論づけされた。

われわれは目下、二つの鍵となる質問に遭遇している:ゾンビは上で説明した意味においてconceivableであるか?

もしそうであるならば、それはpossibleということに続くのか?

ふたつの質問への答えがYesであるときにのみ、conceivability論議は成功することになろう。以下でこの順にしたがってとりあげる。

 

 

  1. Are zombies conceivable? ゾンビはconceivableであるか?

1970年代にゾンビの観念が使ったひとたちに共通していたことは、ゾンビはまさにconceivable なものではなく、possibleなものとして仮定したのであった。(e. g. Campbell 1970, Nagel 1970)

Chalmersはその観念を再活性化したとき、彼はゾンビのconceivabilityが‘obvious’自明であることを見出し、つぎのように付言した「一貫的な状況については確かに記述されるように思える:私はこの記述性について何ら矛盾性を感知していないのである」(1996, p. 96)

しかしながら、彼もまたこのintuition洞察性が信頼しえないものであることを認知している。

conscious experience意識的経験のnature本質性を目下のところ、理解することは困難である;人たちにあきらかに可能としてせまることの底に隠れた矛盾に光を当てるべきであろう(Nagel 1998; Stoljar 2001).。 

あきらかに、ゾンビがconceivableであると支持する人たちはその正当性を示さなければならない、それはepistemic claim認識論的要求は、われわれのcognitive abilities認知的能力に依存しているのであり、その意味でさらなるひらかれた論議展開が望まれるのである。

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4.1 Arguments for the conceivability of zombies ゾンビのconceivability想定能力の論議

 

Kirk (1974a, 1974b)はその正当性を与えるべく試みた、そしてその論議のなかで、ゾンビがpossible可能なものであり(よってconceivable想定可能である)ことを証明することを意図したのであった。

しかしながら、それらは目標に到達しなかったのであった、それは出発になる観念としての似たような洞察のかたまりの多さにあった。

Chalmers (1996)は物理的な事実からこころの事実へのa priori entailment先見的なひも付きがあるという観点に対してのシリーズで5つの論議を著した。

その各論はzombie ideaゾンビ観念の直観的アッピールに直接的および間接的に力をあたえたようである。 

最初のものについて要約すると;

他の4つそれぞれが、物理的な違いをともなわないもとでの‘inverted spectrum’「逆スペクトル」の可能性へのアッピールである(see inverted qualia);

purely physical information純粋に物理的な情報を基にしたconscious experience意識経験のlearning学習についていわゆる impossibility非可能性の主張である; 

 

Jackson’s (1982)の ‘knowledge argument’ 「知識論議」(彼の最近のものに関連して);およびChalmersは‘the absence of analysis’「分析の不在」とよぶもの;そのポイントは以下である、彼の対立者は「existence of consciousness意識存在がphysical facts物理的事実によってentailed紐づけされるさまがhow 如何様であるかについてを観念としてわれわれに示すべきであるというものである」、もし「そのようなひも付きを明示するどのようなこころみはもともと破綻している」と宣告するならばである(1996, p. 104)。

彼の最初の論議を粗くいえば以下である。

いま、一群の小人たちがあなたの脳活動を止めて、彼ら自身の機能をそこに複写するとしよう、この場合きみの体の他の部分はこれまでどおり働いているとする(see Block 1980a);

小人たちはそれぞれ携帯電話をもっていて相互にsignal-receiving信号受信しそしてindividual neuronその個人のニューロンのsignal-transmitting functions機能伝達機能をも遂行する。

 

そのようなシステムは意識的といえるか?

直観的にひとは否定側に傾くかもしれない。

あるものは、多分機能主義者であろう、弾丸に食らいつきそしてyesと答える。

しかしながら、この論は、そこの小人の頭は意識的がないだろうというの仮定には依存しないのである。

この論は、そこに意識ある者がいないということがconceivable想定可能であるという仮定にのみ依っている―おおくのひとたちはそれがreasonableであることを見出す。

Chalmersのこの言ではいっていることは、以下である、われわれがそのシステムにconsciousness,意識が欠落しているようだというときに、実体として「a meaningful possibility意味ある可能性が表現されていて、そしてconsciousness意識が起きているかいないかの問いに対してひろく開かれているか」ということを意味している。(1996, p. 97). 

もし彼のいう事がただしいなら、そのシステムはconscious意識がないということになる。

そのケースでは、それはすでに非常にゾンビ・ライクにある、唯一の違いはそのシステムではゾンビがニューロンを占拠していて、そこに小人たちが働いているということである。

そして何故そのことが、situation状態状況が意識的であるかどうかの違いをつくることになるのか? 

小人たちからニューロンへのスウィッチが何故、意識の光へスウィッチとなる必然性があるのか?

(小人たちの頭に意識が欠落しているということがconceivable想定可能性であるという仮定に対して懐疑的であるひとはつぎをみよ;e.g. Loar 1990/1997, pp. 613f.)

ゾンビのconceivability想定可能性に好意的な他の考察についてはBlockにみることができる (1995, 2002); Levine (2001); Searle (1992).

Chalmers (2010)はかれのさらなる防御を展開している:本稿5.1 をみよ。

 

 

4.2  Arguments against the conceivability of zombies  ゾンビのconceivability認知能力(概念能力)に対する論議

過去においてゾンビがconceivableであることは,全くひろく受け入れられていたのであるにもかかわらず、懐疑主義が伸長してきている。

その観念について なにか直接的な攻撃を考えるまえに、われわれは三つの観点を簡単に思い起こそう、それはかつてわれわれが二元論では間違いとするa priori 先見的なものを知ることの要求を支持するようにみえたものある―而して、ゾンビはinconceivable想定概念化できないであるというreasonable assumptions,納得性のある仮定であった。

 

第一は証明主義である、これによって(宣言的)文章は、それがそのケースにおいて真か僞かを証明しうることにおいて意味あることになる。

これは証明されえない文章は文字通り意味がないということに紐づけされる、それは観測できない非物理的項目が存在することを要求する形而上学的なものに対して何ら真であることはできないというものである。

しかしながら、われわれがexperiences経験についてthink 考えそしてtalk語るability能力はそれ自体verificationism証明性に関わる課題である、それはzombie ideaゾンビ観念をbeg the question質問公開であることで攻撃するとき、その見解がpresuppose事前想定する活動からくるものであるからである。 

 

第二の見解はWittgensteinの私的言語論議につながる。

これはcrudely verificationistic粗っぽい実証主義的ではないにかかかわらず、words to be meaningfulことばが意味を持っているためにはそれらの使用がpublic checking公開的チェックのために開かれていなければならないという仮定によっている。   

しかし、このチェック可能性の仮定で、いまわかるとして、それがクオリアについて

われわれができるゾンビ可能性の防御のみちすじでわれわれが語ることができないことを証明することになるがゆえに、それはあまりにも現在の文脈ではquestion-begging公開質問へのまる投げのようにみえてくるのである。

 

第三の観点はbehaviorism,行為主義である、しかるべき道すじにおいて行為するためにbeing disposed配備されている以上のmental statesこころの状態をもつことはないというものである。

ゾンビ観念への攻撃のための可能なべ―スとして、behaviorism行為主義はverificationism証明主義とprivate language私的言語の論議へのsimilar situation類似状況にあるというものである。 

 

ゾンビはfull consciousness十分なる意識のためのbehavioral conditions行為的条件すべてを満たしていることになるのは次の場合である、 それは、われわれがa priori先見的にbehaviorism行為主義がただしく、zombie worldsゾンビ世界がその理由のためにinconceivableであるというならということであるとすればのことである。

とはいえ、行為主義がただしいと証明されることはありそうにもないようにみえる。

(Dennett 1991 は行為主義へのつよい親和的位置をまもった、しかしそれは気の主義の変形のものとしてむしろクラス化されたともいえる)

機能主義はこころへのひろく圧倒的をうけたアプローチではある。

それによれば、こころの状態というのはまさにbehavior行為と dispositions配備のmatter事態というのではなく、sensory inputs感覚的入力、internal states内的状態、そしてbehavioral outputs行為的出力のなかでのcausal因果のもしくは他との functional relations機能的関係のmatter事態なのである。 

 

もしinternal processing内的プロセスのnature本質がなにも考慮されないのであれば、functionalism機能主義はbehaviorism,行為主義にむかう有益なる反対に降ることになることに注意せよ。

たとえば前節で記述した‘homunculus-head’「小人の頭」;それはしたがって、つぎのように見えるのである、いかなるもっともらしいfunctionalism機能主義もbehavioral dispositions行為的配備においてこれまで必然的としてでなく反映されてきたinternal functions内的機能に対して考慮しなければならないということなのである。 

 

いま、zombiesゾンビはfull consciousness十分なる意識に対してのfunctional conditions機能的条件すべてを満足したとしたとする故をもって、functionalism機能主義はゾンビが不可能であると紐づけするのである、一方で、そのzombie ideaゾンビ観念を攻撃するにfunctionalism機能主義を単純にpresuppose事前想定し、自明的なものとしてのquestion-begging公開質問としているのであるのであるがである。

しかしながら、機能主義の知的な進行が展開してきて、機能主義の議論がゾンビの可能性に対して強く支持する議論がでてきている。

(ゾンビにたいする機能主義の防御は以下をみよ、Dennett 1991; 1995; 1999; Kirk 2017; Shoemaker 1999; Tye 2006; 2008; ゾンビをあつかう機能主義の容量についての疑いについては以下をみよ for example Harnad 1995.)

こころについての広義の先端的機能主義者とは別にして、もっと狭くて焦点のある攻撃がゾンビのconceivabilityのうえになされている、そのいくつかを以下に記載する。

 

Can we really imagine zombies? ゾンビは現実に想像できるか?

 

 

Daniel Dennettは考えることはゾンビのconceivabilityを受け入れる者がそれらを十分に想像することに失敗してきたことである:「かれらは相も変わらず概念(もしくは想像)のしごとを低く評価している、そして彼ら自身ももつ定義に違反するなにかあるものを想像して済ませていたのである」(1995, p. 322. Marcus 2004 makes a related point; see also Woodling 2014).

もし彼が意識についての広義の機能主義モデルをあたえたとして、かれは論じる、「ゾンビとconscious beings意識的な存在との間での見かけ上のコントラストは幻想的なものである」ということがなぜかをわれわれは見ることができる(325. See also his 1991; 1999).

Consciousness意識は「単一のすばらしい分離したものではない、・・・しかし沢山の異なる情報の容量の巨大な複合体なのである」(1995, 324. Cottrell 1999 supports this approach) 

 

 

Zombies’ utterances.

いまコーヒーの炒りのかおりがして、「ムーン、私のすきなにおいだ」という。

だれもが私が自分の経験について話をしているとただしく仮定しよう。

しかしわたしの双子であるゾンビはおなじつぶやきを生み出したと考えてみよう。

かれもまたひとつの経験について話をしているようにみえるが、事実かれはゾンビである故にいない。かれは誤っているか?

かれは嘘をついているのか?

かれのつぶやきは幾分かが真として翻訳されることができるであろうかもしくは全くの真なる価値を伴わないのであろうか?

Nigel Thomas (1996)は、「ゾンビ好みたちがこのような質問をするどのような筋も深刻なトラブルをかれらにもたらす」と論じる。

 

ゾンビ世界が定義によってわれわれの世界にまさに似ていること、それは物理主義者が

そうであると思っていて、しかしそこには意識を伴わないとしていることを思い出そう。

これはconsciousness意識が非物理的ななにか依存していること含んでいる故に、ゾンビたち(それらは第一義的に可能であると仮定してであるが)は意識的であるようにつくることができるということにつながり、これをつくるのは非物理的に加わったなにかということになり、そのようなものはまさにクオリアのようなものかもしれない。 

 

そしてもしzombie worldゾンビ世界が因果的に閉じているなら、これらのqualiaクオリアは因果的にinert不活性でなければならないであろう。  

したがってもしゾンビ世界がconceivableであるなら、そこでは随伴現象主義もまたconceivableにならねばならないであろいう。

(このことが随伴現象主義がconceivableであるのと同様に actually true実際的な真であることを要求しないことに注意せよ)

もしそのことが正しいなら、随伴現象主義のconceivabilityへの反対することもまたゾンビのconceivabilityの反対することでもある。

 

もっとも自明なのはexperiences経験がbehavior行為にeffects影響をあたえているという親しみやすくかつ、強力な主張がある(Perry 2001)。

自明性は不足するが、随伴的現象主義への反対は、われわれが随伴的現象主義を参考にし、かつそれについての意識的な経験的事実からスタートするところにある―それはほとんど否定しがたい、なぜならここ以外には、第一義的にこの観念を討論することができないからである。 

この反対はひろい観点で支持しているようにみえるが、それはわれわれが知りもしくは参考にするのが、なにであれそれらは間接的にのみにて、われわれに影響をもつからである。

これをベースにして、われわれの対抗者たちは随伴的現象的世界においてクオリアを知ることもしくは参考にすることはできないのである。

もしそれが正しいなら、随伴現象論的世界はconceivableではなく、そこではゾンビも存在しない。

この攻撃に対してChalmersはcrucial consideration欠かすことのできない考慮とは、われわれ自身がexperiences経験を‘acquainted’「知悉していること」であると返答したのである。 

この‘intimate epistemic relation’ 「身近な認識関係」は、われわれが経験を参考にすることができること、およびそれらについて知るためのわれわれの要求が正統化することであること双方を確かになることなのである。

 

対照的に、われわれの双子のゾンビはなんら経験をもたないので、経験についてのそれらの判断が正統化されないようにみえるのである。

Chalmersはqualiaクオリアがわれわれのjudgments判断のうえになんらcausal influence因果的影響をもたないとしても、appropriate適正なる物理的文脈においてそれらが単に陪席していることで、われわれの思考がそれらのqualiaについてであるということを確かにするのである。

 

彼は、それが、経験が説明的に問われている質問の判断をするには説明的に十分ではなくてさえ、われわれの知識要求に対しての正統性をもまた成すと考えるのである。(Chalmers 1996, 172—209; 1999, 493f; see also his 2003, 2010).

 

 

 

The problem of epistemic contact. 認識論的接触の問題

ゾンビがconceivableであるなら、そこで、随伴現象論者と並行論者の世界もまたconceivableとなる。

その場合では、ゾンビの友人たちは随伴的現象論的クオリアが如何にして、そして実際にひとびとの生活へ親身な貢献をし得るかを説明しなければならない;そしてKirk (2005; 2008)はゾンビ観念がさらなる困難に直面することを示唆する。

このことは次の場合に発現する、われわれがそのようなものを立ち会うものとして、それについて考えることとして、記憶することとして、われわれの経験を比較することとして考える時にである。

そのような活動は認知的プロセスをふくむのであり、それは転じて他の変化の原因となる変化をも含むのである。

 

随伴的現象のクオリアは因果的に不活性であるから。それら事態がプロセスする行為を可能としないであろう;それらが事実上にわれわれの経験(随伴的現象論および平衡主義が含有する)を構成するなら、そこで必要なプロセスはthe body体によって為されなければならいない。

そのトラブルはゾンビ物語りが随伴的クオリアと認識的に接触へわれわれを持ち込むためのプロセスを不可能にすることにある。

これはその目的のためにそれがアッピールすることができる資源のみがクオリアの起因

となりこれは神経プロセスによるものであるが、そしてそれらとのisomorphismによるのである;(Kirkが論じるように)それはひつような認知作業を行うことができないファクターである。

もしこれがただしいなら、epiphenomenal qualia随伴的現象のクオリアとzombiesゾンビの概念は矛盾に導くのである。

それらはconsciousness意識のconception概念を含んでいるのであり、それが人をしてクオリアとepistemic contact認識的接触におくことを要求するのであるが、一方で同時にそのような接触のpossibility可能性をルール的にアウトとして排除とすることになる。 

 

‘Powerful qualities’.  「パワフル品質」

ゾンビ観念への興味ある最近の反対は、‘powerful qualities’「強力品質」の(論争中であるが)観念にもとづくものである;properties特性のすべてはdispositional配備的 と qualitative品質的の双方であり、そしてじつに、あるもののdispositions配備はそのqualities品質と同じであるという見解である。

 

 

 

Alexander Carruth (2016)は、たとえば、conceivability論議では、physical properties物理的特性がdispositional配備的である一方で、phenomenal ones現象的特性がqualitative.品質的であることをpresuppose先行想定としているものとしている。  

このベースにもとづけば、われわれの世界のzombie duplicateゾンビ複写は、われわれの世界のdispositional配備特性を事例化するであろうが、しかしそれはphenomenal ones現象的特性のものではない。

powerful qualities見解はそれがconceivableでさえない状態にしてしまうような先見性をルールアウトととる。

もしあるもののdispositions配備がその品質qualitiesと同じものとするなら、どのようなqualities品質もそのdisposition配備と想定として同じであるということを事例として取り上げることなく、然るべきdispositional配備特性を事例としえ取り上げることはできない。

この論議の筋に抗して、Henry Taylor (2017)は、 physical物理的なものが dispositional配備的なものの枠内におさことはえておくことは不可能であるとし、physical物理的なものとphenomenal現象的なものとの間の区別については納得のいかない判定であると主張する。

ゾンビのconceivabilityについての他の言い分については以下をみよ;Balog 1999; Cottrell 1999; Harnad 1995; Marcus 2004; Shoemaker 1999; Stoljar 2001; Tye 2006.

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朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:37:34 | 研究論説

朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. The idea of zombies ゾンビの観念

デカルトは、非人間動物はautomataであるという立場をとった;かれらの行為は全体として物理的メカニズムで説明できるというものである。

しかし人間の行為(かれは論じる)はその道すじでは説明できないというものである。

人間のように見えそして行動する機械の観念展開するに、かれはふたつのものが顕わなると考えたのである;それは言語を創造的につかうことができない、そして任意に変化する状況においてそれは適切なる非言語的行為を生むことができない。(Discourse V).

彼には、したがって人間のようにふるまう機会はないことになる。

17世紀の技術の知識において、かれはつぎのような結論をえた、人間行為は物理的なものをこえたなにかが明確に要求される;非物質的なこころ、その脳とその他の体の部分でのプロセスが作用している。

(かれは先見的に同じ結論のための論議をしたのである、そのひとつはこの報文の3節で論じる‘conceivability argument’を予想させるものである。)

もしかれがただしいなら、actual world実際世界と物理的に似ている世界がないことになり、こころを欠如した世界がのこるであろう:人間の体は適正に働かなくであろう。 

もしわれわれが突然われわれのこころを失ったらわれわれの体はしばらくの間走り続けるであろう:われわれの心臓は鼓動を続けるかもしれない、眠っているときのように呼吸するかもしれないそしてたべものを消化するもしれない:われわれは歩き、もしくは歌うかもしれないそれは気の入らない道すじであろう(so he implies in his Reply to Objections IV).

しかしこころによる貢献がないところでは、行為は特性的には人間のすがたをあらわさないであろう。

デカルトはゾンビの観念を生み出すには至らなかった、そしてゾンビの可能性の問いはかれのためにはおこらなかった。

最も近いものはautomataであったその行為は人間としては十分でないものとして容易に認知されうるものであった。

19世紀では科学者は物理学が物理事象をすべて説明することが可能であると考え始めたのである。

 

それはすべての物理的効果はその物理的原因をもつようにみえたのであった;物理的世界は因果性のもとで‘closed under causation’閉じられている。

しかし人間行為が物理的に説明可能であるなら、意識はいかにしてこの物語に適応してくるなだろうか?

ひとつの答え―物理主義(または物質主義)―は意識もまた物理的プロセスのみを含むというものである。

しかしながら、意識現象はこれらの用語において取り上げることは困難である、そしてある思想家は非物理的ななにかが含まれるにちがいないと結論した。

もし物理的なものとして因果が閉じられているなら、それらは、意識は物理的世界になんら影響を与えないという結論へ強制されたのである。

この見解のもとで人間は‘conscious automata’意識的オートマタである、T. H. Huxleyはそのように唱えた;すべての物理的事象で人間行為を含むものは物理的プロセスの用語で説明できる;そして意識の現象は因果的には不活性な副生物であるとした―epiphenomena随伴現象である(see James 1890, Chapter 5).

 

この見解は、意識は欠落しているのを除けば全くにわれわれに似ている純粋に物理的組織がありうることにつながるものとして事実上明確になったのである。

  1. F. Stout (1931)は、もし随伴現象主義(より親近感のある用語としては‘conscious automaton’ theory意識的オートマトン理論)が真であるなら、それはその構成およびその性質は当然として、いかなる個人的経験はなかく、かつ嘗てなかったゆえに、それがそれと同じものであるであろうということ、それはまったくに信に耐えるものという論に展開したのである。

人間の体は依然として行動をとおして、そして橋をつかい、電話と電報をつかい、本を書いたり読んだりするし、議会で弁じるし、物質主義について論陣を張る、その他を行うのである。

これがコモンセンスへの信じがたい prima facie である(138f.)ことになんら疑いをはさむものはない。

Stoutがここで記述しそして信じがたいprima facieを見出したがそれは全体がzombie world:ゾンビ世界である:それらの物理的プロセスはcausation因果性で閉じていて(かれは攻撃をし続けている随伴現象者のようにである)、そしてそれらはactual world,実際世界を全きに複写したものであるが、しかしそこにはなんらconscious experiences意識経験が存在しない。 

同様の観念は1970s年代での物理主義の論議でのながれともなっている。

psychophysical identity theory心理物理的同定理論でのひきあう相手としては‘imitation man’,模造人間がある、かれの「脳状態はまさしく物理‐科学的特性におけるわれわれと並行している」がかれは痛み感じないし、また色彩をみない(Campbell 1970)。   

ゾンビは一般的に物理主義でのひきあう相手であり、そして論議はそれがpossible可能であるというintuition洞察性を支持するよう練られたものになっている(Kirk 1974a, 1974b:

かれは物理主義がひとをして‘Entailment Thesis’「縁故命題」に関わらせることになる、これによってその世界についての純粋なphysical truths物理的真はlogical論理的もしくはconceptual概念的必要性によってmental truthsこころの真とつながせるのである)

他のシステムでは通常の人間のように振る舞いまたは機能的に人間に似せて目の前に表すのであるが、しかしわれわれが所有している‘qualia’クオリアは欠落しているBlock 1980a, 1980b, 1981; Shoemaker 1975, 1981)。

(項目 qualiaをみよ。大雑把に言えばqualiaは特性であり、それによって、われわれの経験をそれが何に似ているかに基づいて分類分けする;たとえばそれは炒ったコーヒー豆の香りと似ているといったものである。

物理主義者でさえこの表現を一貫して使う、二元論者とは異なり、彼らはqualiaを物理的なものと受け止めている)

 

物理主義者に抗したゾンビ観念のもっとも系統的使用はDavid Chalmers (1996)によってなされている、彼のこの論争への貢献はおよそ以下である。

ゾンビは物理主義での対抗馬であるというなら、それはかれらゾンビが通常人間とおなじように振る舞い、そして機能的であるというには不十分である;多くの物理主義者はわれわれ自身の単なるふるまいや機能的なduplicates複写にはqualiaが欠落していることを受け入れているからである。

ゾンビは物理的意味すべてにおいて通常の人間のようでなくてはならない、そしてかれらは物理主義者が想定する我々所有する物理的特性を持たなくてはならない。(認識論上の異なるゾンビ種をつかうためにはLyons2009を見よ;興味ある他の種としては物理主義者を危機に貶めないようにすべきであり、それにはOlson 2018をみよ)

このことはゾンビが物理的なものの因果性で閉じているという課題意識を彼らに要求しているのである、これは物理主義へのひとつの挑戦でもある、なぜなら彼らはその因果性に意識の欠如を想定しているからである。

そのかわり、彼らはその行動が物理的に説明されえない被創造物として認知されるべきであるとするなら、物理主義者はその観念をもってそれを妨げる理由をなんら持たないのである;われわれの動機は、これをepiphenomenalists随伴現象主義者が保持するのであるが、物理的術語においても実際上、説明的できるたくさんの証拠がある。(see e.g. Papineau 2002).

通常の仮定として、われわれはだれもが実際上、ゾンビではないこと、そしてゾンビはわれわれの世界には存在できないとする。

中心的設問ではしかしながら、ゾンビがこの世界において存在できるかではない、しかしゾンビすべての世界がしかるべき広域的意味で可能であるかである(それはときどき、仕事をするのにより適正なる観念となるのである)。

 

  1. Zombies and physicalism ゾンビと物理主義

Saul Kripke’sのmetaphor類推が、ゾンビ観念が物理主義を如何にして脅かすかを証明する助けになった(Kripke 1972/80, 153f.)。

God神がこの世界を創造しそして物理的宇宙全体を存在にもちこんだことを想像してみよう。

この純粋に物理的宇宙を創造したあとに、彼はconsciousness意識のためにさらになにかの仕事をしなければならなかったであろうか。

この答えがYesであることは純粋に物理的事実だけが提供するよりも多くをものが意識に提供されたことを意味している。

もしなにもないというなら、それは、意識は最小限非物理的特性に依存していることを意味し、それは純粋に物理的世界では存在しえないものであり;それがゾンビ世界ということになろう。

物理主義者は一方、この質問の答えとしてNoに与する。

かれらはつぎのように言うことになろう;純粋に物理的事実を確定することによって、God神はその有機体についてのこころの事実を確定する必要があるすべてを行う。それはその有機体によって生まれるもの、それからのthoughts, feelings, emotions, and experiences.

思考、感覚、感情、そして経験を含むのである。

そして物理的事実を確定することがそれだけでこころの事実を確定するに十分ということであり、したがってそれはゾンビ世界が不可能であるように見えてくる。

しかしながら、物理主義がゾンビの不可能性とつながっていることに合意していないひとたちがある。

そのひとつとして、物理主義者は純粋にすべての物理的展望においてわれわれの世界のまったくの複製であるような世界が可能であるということを認めていること、しかしここでの物理的特性はわれわれの世界での意識を起こすが、その特性がまた意識をブロックする非物理的な項目によってそれを為さしめないということを認めている。

それが物理主義者をしてゾンビ世界の可能性をゆるす結果となっている。

 

そのような‘blockers’阻止者についてはHawthorne 2002b; Chalmers 2010, 163–165をみよ)

このアプローチは、しかしながら、あきらかに意識状態が物理的もしくは機能的状態によって同定もしくは構成されたものであるというにはつじつまがあわなくっている。

そこで物理主義者は矛盾なく意識ブロック者の可能性をゆるすことは自明ではなくなる。

如何様であれ、どのような非可能性がここでは適正であるだろうか。

物理主義者がまさに言うことのできないのはゾンビが自然則によって違反しているということである、なぜなら二元論者でさえ、その意味でゾンビは不可能でることを認めているからである;それらは我々についての物理的事実はそれらと一緒に意識を持ち来たらすことをnomological necessity論理上の必要性によっている。

さて、沢山の哲学者(おおくはゾンビ観念に影響をうけている)がphysical facts物理的事実からのconsciousness意識への結合性は広い意味でさえlogical論理的ではないと信じている。

そしてたしかにphysics物理学のconceptual scheme認知的(概念的)仕組みはthe physical物理的なものからthe experiential or経験的ものもしくはphenomenal現象的なものへとlogical links論理リンクを可能にするようにはみえない。

しかしながら、ゾンビが実際にconceivable認知可能でないにもかかわらず、ある者は論議する(Kirk 2005, 2008, 2013; Tye 2006)またKirk (2013)もまたつぎの態度をたもつ;

あるゾンビはphysical facts物理的事実が先見的なconscious experience意識的経験について真となるように尾を引いていないにもかかわらず、それがlogical necessity論理的必要性によって尾をひいている場合がある。

依然として、沢山の物理主義者は何がzombiesゾンビのimpossibility不可能性かを保証するのは‘metaphysical’形而上学的必要性からのものであると主張する。 

典型的にかれらはphenomenal consciousness現象的意識状態はphysical states,物理的状態であると同定すること、そしてこれらの同定性はKripke(see e.g. McLaughlin 2005, and for criticism, Stoljar 2000)がいうように事後的に必要となるとしている。 

 

 

しかし、possibility可能性と necessity必要性の語彙の定義はslippery定まっていない。 

たとえばlogical論理的とmetaphysical形而上学的なpossibility可能性が異なるかどうかについてのdisagreement不一致の例はある(see supervenience, Section 3.1);  Kripke (1972/80)がlogical論理的とmetaphysical possibility形而上学的可能性について書くとき、彼はこれらの語が相互交換であるように使用するようである(Yablo 1999: 457n.)そして‘logical’「論理的な」の使用では、他のひとは‘conceptual’「認知的」を好む(Chalmers 1999: 477); つぎの場合とも比較せよ( Latham 2000, 72f.)  

 

おおくのひとが考えることは、もしphysical facts物理的事実がmetaphysical necessity形而上学的必要性によりconsciousness意識性につながるなら、そこには物理主義者はつぎの態度を保持する、すなわちゾンビがmetaphysically impossible形而上学的不可能としても、それらはconceivable認知可能であるものとして依然につながりがあるとするのである。(Balog 2012; Loar 1990/97; McLaughlin 2005; Sections 5.1, 5.2 below) 

一方、Chalmersはconceivability認知性の実際でmetaphysical possibility形而上学的可能性へのつながりが、もしかれが正しければ、人気ある物理主義ブランドは輝きを失うということになる。  

‘conceivability argument’認知(概念性)性論争とよばれるものはゾンビの可能性に向かうものであるが、ゾンビ観念によって起こされる主なる設問は論議するためのひとつの焦点を提供することになる。 

 

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 朝日記240219 その1 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:25:08 | 自分史

朝日記240219 その1 Zombies ゾンビについて

 

本文

 

翻訳 Zombies ゾンビについて

 

First published Mon Sep 8, 2003; substantive revision Tue Mar 19, 2019

Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

 

Preface:

Zombies in philosophy are imaginary creatures designed to illuminate problems about consciousness and its relation to the physical world.

Unlike the ones in films or witchcraft, they are exactly like us in all physical respects but without conscious experiences: by definition there is ‘nothing it is like’ to be a zombie.

 Yet zombies behave just like us, and some even spend a lot of time discussing consciousness.

Few people, if any, think zombies actually exist. But many hold that they are at least conceivable, and some that they are possible.

 It seems that if zombies really are possible, then physicalism is false and some kind of dualism is true.

For many philosophers that is the chief importance of the zombie idea.

 But it is also valuable for the sharp focus it gives to philosophical theorizing about consciousness and other aspects of the mind (see for example Howell 2013; Kriegel 2011; Stoljar 2006; Tye 2008).

Use of the zombie idea against physicalism also raises more general questions about the relations between imaginability, conceivability, and possibility.

Finally, zombies raise epistemological difficulties: they reinstate the ‘other minds’ problem.

 

はじめに

ゾンビは、哲学的には‘other minds’ problem想像上の被創造物でありconsciousness意識とphysical world物理的世界との関係についての問題を際立たせるために企画されたものである。  映画や魔術のなかとは違って、それらはphysical respects物理的省察における我々と全く似ている者であるが、しかし、conscious experiences意識的経験を伴わない者である。

とはいえ、ゾンビはまさしくわれわれとおなじくふるまい、そしてある者は意識性を論じるのに長い時間を費やすものである。

ほとんどのひとは、例外はあったとしても、ゾンビは存在していると考えてない。

しかしおおくの場合かれらは少なくともconceivable認知的であり、そしてあるものはpossible.可能的であるという見解をもつ。

それはつぎのようにもみえりょう、もしゾンビが実際に可能ならば、物理主義は誤りとなりそして二元論のある派は真となろう。おおくの哲学者にとって、それはゾンビ観念の中心的な重要性である。しかし、ゾンビは意識とこころの他の視点について哲学的理論化への鋭い焦点をあたえる価値あるものである。(see for example Howell 2013; Kriegel 2011; Stoljar 2006; Tye 2008).

ゾンビの観念を物理主義に対抗してつかうことは想像性、認知性および可能性との間の関係についてのより一般的設問をおこすことにもなる。

最終的に、ゾンビは認識論的困難性をおこす;それらは‘other minds’ problem他のこころ問題を再度考えるとになろう。

本文目次 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

本文目次

1. ゾンビの観念 The idea of zombies

2. ゾンビと物理主義 Zombies and physicalism

 朝日記240219 その1 Zombies ゾンビについて

 

3.ゾンビの可能性についての概念可能性の議論 The conceivability argument for the possibility of zombies

4.ゾンビは概念可能か Are zombies conceivable?

 朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

 

 

4.1 ゾンビの概念可能性のための論議 Arguments for the conceivability of zombies

4.2 ゾンビの概念可能性に対する論議 Arguments against the conceivability of zombies 

朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

 

5.概念可能性は可能性を紐づけするか Does conceivability entail possibility?

5.1 後天的必要性にもとづく反対 Objections based on a posteriori necessity

5.2 現象的概念戦略 The phenomenal concept strategy

5.3 ラッセルモニズム Russellian monism

5.4 他の反対 Other objections

朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

 

6. 他の項目  Other issues

6.1 メンタルな起因性 Mental causation

6.2 意識の機能 The function of consciousness

6.3 他者のこころ Other minds

7.結論  Conclusion

朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

 

訳者所見

現代意識問題と総合知科学の挑戦について

総合知科学の挑戦
1.ゾンビについて
2.クオリアについて
3.こころと他者のこころ
4.クオリアとゾンビの階層への位置づけ 

付録1 Russell主義の一元論 Russellian monism

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

 

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2024-02-19 10:13:43 | 研究論説

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

翻訳 Zombies ゾンビについて

Zombi, its philosophical background

 

 

Yasumasa Arai

194-0002  Minami Tsukushino,

Machida,Tokyo

E-mail: araraiypol1a@ozzio.jp

 

荒井康全

194-0002  東京都町田市

町田市南つくし野

携帯電話:080-8834-8411

       

 

概要:ゾンビは、哲学的には‘other minds’ problem他者のこころの問題であり、想像上の被創造物でありconsciousness意識とphysical world物理的世界との関係についての問題を際立たせるために企画されたものである。  映画や魔術のなかとは違って、それらは物理的省察における我々と全く似ている者であるが、しかし、意識的経験を伴わない者である。ゾンビの哲学的な意味と位置付けについての解説である。本稿はスタンフォード哲学百科の主として翻訳せある。 

キーワード:ゾンビ、意識、クオリア、哲学

 

Abstract: Zombies in philosophy are imaginary creatures designed to illuminate problems about consciousness and its relation to the physical world. Unlike the ones in films or witchcraft, they are exactly like us in all physical respects but without conscious experiences: by definition there is ‘nothing it is like’ to be a zombie.

 Yet zombies behave just like us, and some even spend a lot of time discussing consciousness.

This article mainly constitutes of Japanese language translation from issue’ Zambi ‘of Stanford Encyclopedia of Philosophy.

Keywords: zombie, consciousness, qualia, philosophy

 

 

(目次);

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

本文題名   翻訳 Zombies ゾンビについて

preface

はじめに

原典へのアクセス

 

本文目次

1. ゾンビの観念 The idea of zombies

2. ゾンビと物理主義 Zombies and physicalism

 朝日記240219 その1 Zombies ゾンビについて

 

3.ゾンビの可能性についての概念可能性の議論 The conceivability argument for the possibility of zombies

4.ゾンビは概念可能か Are zombies conceivable?

 朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

 

 

4.1 ゾンビの概念可能性のための論議 Arguments for the conceivability of zombies

4.2 ゾンビの概念可能性に対する論議 Arguments against the conceivability of zombies 

朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

 

5.概念可能性は可能性を紐づけするか Does conceivability entail possibility?

5.1 後天的必要性にもとづく反対 Objections based on a posteriori necessity

5.2 現象的概念戦略 The phenomenal concept strategy

5.3 ラッセルモニズム Russellian monism

5.4 他の反対 Other objections

朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

 

6. 他の項目  Other issues

6.1 メンタルな起因性 Mental causation

6.2 意識の機能 The function of consciousness

6.3 他者のこころ Other minds

7.結論  Conclusion

朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

 

訳者所見

現代意識問題と総合知科学の挑戦について

総合知科学の挑戦
1.ゾンビについて
2.クオリアについて
3.こころと他者のこころ
4.クオリアとゾンビの階層への位置づけ 

付録1 Russell主義の一元論 Russellian monism

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

 

 

(原典 参考文献等)

参考文献 Bibliography

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朝日記240201 [ブギウギ] 『東京ブギウギ』元気頂戴する

2024-02-01 20:34:33 | 自分史

朝日記240201 [ブギウギ] 『東京ブギウギ』元気頂戴する

 

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