Yassie Araiのメッセージ

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朝日記240221 我々の社会進化形態と「技術圏」思想についてと今日の絵

2024-02-21 12:30:47 | 自分史

朝日記240221 我々の社会進化形態と「技術圏」思想についてと今日の絵

加筆復刻版です;

 

我々の社会進化形態と「技術圏」思想についてと今日の絵

 ~「技術圏」は 敵対的’怪獣’か~

初稿朝日記190619 A10080

加筆版2024/02/21

荒井康全

 

 ふたつのエッセイです。

徒然こと1 我々の社会の進化形態についておもうこと

畏友安部忠彦さんから切り口として;

「 最近、人類の究極的進化形態が日本社会というコミュニティの構築ではなか というかんがえにとりつかれています」という投げかけがあり、そのことに刺激をうけ、われわれの社会についておもいつくままに、以下書いてみました。2019年のことであた。

Yasumasa Araiの応答

 妙に、同感ですね。思い切りよく、和魂洋才としてうってでて、多分、

中国や近隣から、節操のない’さる’となじられた。列強側は、優等生としてしばらく、同じ道をとるよう受けいれたが、「洋魂」のないところに「洋才」が芽をだすはずがないと半分確信していたのではないかと思います。

日露戦争のころを境としてあるいは、キリスト教的近代啓蒙思想や理性支配以外あるいはこれから止揚した近代人間像があるのではないかと当時の日本の識者はひそかに感じていたかもしれません。

T.ホッブスノのレヴィアサン辺りも、理性の所有は、キリスト再臨までの援けとして、キリスト教徒に付与されたということを堂々と記述していますし、グロティウス辺りも、その理性所有するキリスト教国のみが、国際法上の資格として見ていますね。

イスラムにしても、インドにしても、中国、インディオにしても、全く理性的な存在ではないとみていたとおもいます。 日本人自身も、生存のために必死に西洋近代を取り入れ、相変わらず自信はないが、何か手ごたえは獲得していたやに思いを馳せます。

それはWWII後の日本の興隆と言えるものが今も確実にあり、地位を今後も保つと思えるからです。

しかし、この「理性」にからむ近代超克問題は、あいかわらず日本人に、課せられた宿命的課題であり、その意味では、世界史的課題に先鋭的に晒されている民であろうと思います。科学はもとより、文学芸術の世界でも、一級のものが出てくると思います。音楽なども、しばしば、技巧的のみで、表現的でないと揶揄されましたが、最近はさすがに言われなくなったようです。そして、令和ですね。年号が変わったからどうということはないですが、自覚への誘いとしては、千載一遇かもしれません。

それにしても、失礼ですが日本の人たち、特にしっかりしてもらわないといけない層の人たちの知的重みが軽すぎる感がします。お前はどうかと問われれば、残念ながら、余命がわずかになって、残された年月での思考活動の重みは、大きいものがあります。現役のころのプラグマティズム(分析哲学)に、偶然に目がむかい、それがカントを代表する超越主義の哲学とは、明らかに位相が違うことに気が付きました。

 哲学的な知の蓄積や発信は、実務卒業者であったゆえをもって、なお為しえる意味があるとおもっています。

 

徒然こと 2 「技術圏」という思想について

 友人のドイツのエアハルト大学の経済学者Carsten Herrmann-Pillath氏へ、飛び込みのメールを出して、3年ほど前(2016)から、交流がはじまりました。彼は、情報科学と熱力学との相互のアナロジーから、社会科学へのエントロピー概念の導入に意味と期待を持った人です。 生物圏の持つ自律再生系システムと、人間系が持つ情報社会とエネルギー社会の集合体系discipline of something aggregationを熱力学的とくに非-平衡(非-均衡)エントロピ流系熱力学系を生物系と同水準カテゴリーの自律再生系としておくことを提案しました。この系をTechnosphere「技術圏」として論考しています。

彼の発想のベースは、生命体の自律再生が自己触媒autocatalystにあるとみて、そのからくりが、エントロピー流と自己触媒のある化学反応論と見ています。実は、Pillathは、非平衡熱力学でのエントロピー流までは来ていたのですが、化学速度論に着目することの意味についての、こちらのアドヴァイスを積極的に取り入れてくれたようです。

   Technosphereは「技術圏」と訳しました。これまでの西側の哲学や自然科学では、数学や物理学,化学や生物学など学としての領域[discipline]を大切にして、技術について、精々 あの秘密結社のfree masonaryでのmason,つまり石工レベルとして、人間精神活動としては、地位の低いものとしてきた歴史があります。貴族と奴隷に関係ですね。これが今は、逆転してしまっている。貴族(知的専門家)が、結局技術に手を焼いて、旧約に出てくるあの怪獣Golemとして恐ろしい存在として見るならいとなり、頼りにはなり、援けになり、まことに不可欠であるが、機嫌を損ねると何をするかわからない、そもそもわからないなにか見目うるわしくない怪獣的、厄介者あるいは下男として見ている状況ではないかと思います。ローマ時代のゲルマン人などをそういうものであったのかもしれません。しかし、みえないところでエジプトのピラミッドや、エルサレム神殿の構築技術はゴッシック建築へと伝承さえたであろうと想像します。

「技術圏」は 敵対的’怪獣’か

これに対して、Pillathは、そもそも「技術圏」として、怪獣次元 の得体のしれないものとして外から見るのではなく、内側からみることを提案するとみます。人間が気が付かずに抱えた卵をふ化したひとつの非生物的な生命体と見ようとした存在圏discplineの提案です。

人間意思や活動がこれと独立として技術圏に関与するのか、人間が技術圏の一部になるのかは、十分なる思考の到達点に至っているようにみえませんが、人間集合体である機関agentは、完全に技術圏の一部とみます。むしろ技術圏は人間であるか、どうかを問わず、agentをそのなかの生命体としてとりこんでいます。そこでagentは生命体としてつぎの4つの進化機能を所有する;代謝性(環境とのやりとりでの体の維持)、自律性(自らの組織の再生)、目的性(意思決定)および学習性(進化の取り入れ)です。

 

人間の理性と自由意志はどこにはいるか

個人の理性と自由意志は技術圏の外からか、内からかは残る問題です。生物圏と同じように情報階層連鎖ネットワークのなかで個人はagentに入らない可能性もでてきます。

このあとに来るものは、やはり、「技術圏」が負うであろうagentのモラリティと責任の位置づけです。彼の中では、経済系での、方法論的個人主義methodological individualityを前提としてます。

したがって、集合体に人間人格personificationがあるのか、集合体責任(collective responsibility)とはなにかに繋がっていきます。 意図の次元は、個人に帰すか、国に帰すかのあの次元の問題です。ドイツの哲学者ヤスパースJaspersは、刑法的、政治的、道徳的、形而上学的と個人と国(集合体)との責任を分けていますが、戦争裁判の結果がしめすように人類はこれにまだ最終決着をつけていません。モラルや責任に絡んだ重要な課題です。

 

agent意思のトレース問題

彼の発想のもう一つのベースは、あのアメリカのプラグマティズムの祖Peirceの情報記号論Tryad(観察-対象-記号、そして機能(関数))です。いまの論の段階では、個人の意思や、一agentの意思は多階層ネットワーク論理の中に、どれだけトレースできるかの重要な課題があり、学問的には初期の段階です。しかしこういうことを抽象次元の社会哲学として一生懸命に考え頑張っている人たちに敬意を持つものです。

 

WineとGlassの問題 エントロピー流でまだ残る課題として

彼の、この論文を結局は和訳することに手を染めています。 彼の論文を読みながら、一つだけ、特に気の付いたことを私流に手短に言えば、「Wine and Glass」です。Wineを飲むためにはGlassが必要です。だまっていれば、これが出てくるわけではありません。彼の発想では、化学反応論の意味でのwineの醸成(process)はありますが、反応釜つまり、Glassの位置づけが、まことに希薄であったことでした。 Glassも実体entitiesは物質ですから劣化という反応の半減期があります。これはWineの化学反応の半減期と比較すれば大きいので一定と扱うこととみれば、おおきく二つの時間単位での化学反応とみられないわけではありません。(大きいとうっかりいいましたあ、Glassを長持ちする「木樽」とみるか、すぐ朽ちる「紙コップ」とみるか、あるいはちょっとして衝撃で割れてしますガラスでみるかという半減期の次数の極端に異なる問題を喚起します)

彼はHayekの思想に忠実であり、世界は、設計よりも活動で決まるという考えを取ります。したがってWineのprocessを強調していますが、Glassの存在はfacility,accomodation,infra-structureのような目的的なものteleomic;設計的なものの存在であります。それへの思考が希薄であることであるのではないか、彼にアドヴァイスするつもりです。

 

まとめ

 かれのこの論文でこれからのことは以下です。

1.「技術圏」でのwineとglass問題。

2.個人と集合体責任の問題。

3.「技術圏」と経済(圏)について構成論および構造的力学系モデルとしての展開。

 

Pillathは、さすがにドイツ人の学者らしく、カントとの相性のよいPeirceを使って、「技術圏」論を構築してきましたが、最終章で、結論の途中ということで、カントの認識批判哲学での有名な提言命令に触れていきます。この超克で、集合体間での異なる意思が止揚され、「第二自然」The Second Natureをつくるヘーゲルの哲学への誘いを少し見せています。これからの思考展開には興味深々なるものがあります。

コメント
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