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朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

2024-02-19 11:41:07 | 研究論説

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

コメント 現代意識問題と総合知科学の挑戦について  荒井康全 

2024・2・17

現代意識問題と総合知科学の挑戦について

1.ゾンビについて

2.クオリアについて

3.こころと他者のこころ

4.クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦として

 

付録1 Russell主義の一元論 Russellian monism

 

ゾンビについて[1]

ゾンビは、哲学的には‘other minds’ problem想像上の被創造物でありconsciousness意識とphysical world物理的世界との関係についての問題を際立たせるために企画されたものである。  

映画や魔術のなかとは違って、それらはphysical respects物理的省察における我々と全く似ていとはいえ、しかし、conscious experiences意識的経験を伴わない者である。

ゾンビはまさしくわれわれとおなじくふるまい、そしてある者は意識性を論じるのに長い時間を費やすものである。ほとんどのひとは、例外はあったとしても、ゾンビは存在していると考えてない。

しかしおおくの場合かれらは少なくともconceivable認知的であり、そしてあるものはpossible.可能的であるという見解をもつ。

それはつぎのようにもみえりょう、もしゾンビが実際に可能ならば、物理主義は誤りとなり、そして二元論のある派には真となろう。

おおくの哲学者にとって、それはゾンビ観念の中心的な重要性である。

しかし、ゾンビは意識とこころの他の視点について哲学的理論化への鋭い焦点をあたえる価値あるものである。(see for example Howell 2013; Kriegel 2011; Stoljar 2006; Tye 2008).

ゾンビの観念を物理主義に対してつかうことのはimaginability想像性、, conceivability,認知性および possibility可能性との間の関係についてのより一般的な問いをおこすことにもなる。

最終的に、ゾンビはepistemological認識論上の困難性をおこす;それらは‘other minds’ problem他者のこころの問題を再度考えるとになろう。

 

クオリアについて[2]

ものを感じることや経験はひろく変わる。たとえば、サンドペーパーにわたしはゆびを走らすとなにかきな臭いにおいを感じ、わたしのゆびにするどい痛みを感じる、なにかあかるり紫いろをみるような気がして、わたしはひどく怒り出す。これらのどの場合も私はこころの状態の主観(主体)であり、非常にはっきり区別のある主観的性質をともなう。

そこには自分にとっていまある状態が似ているなにかがあり、それはなにかこれまでにもあった現象的なようなものである。

哲学者たちはしばしばそれを‘qualia’ (単数 ‘quale’)という術語をつかい内的視点でうけいれ、われわれのこころのいのちの現象的一面として紐づけする。この語のひろい感覚で、qualiaが存在することを否定することは困難である。典型的な非合意としては、こころの状態がqualiaを所有するところに集中する、それはqualiaがそれを抱えるひとの内的な質であるのか、そして如何様にqualiaが頭の内および外の双方での物理的なものに関係しているかということである。Qualiaの位置づけは現在の哲学でのホットな議論である、それは意識の本質についての適正なる理解の中心であるからである。

 

私のこころと他者のこころ

デカルト以来、近代の哲学で こころとからだの二元論において、このこころはあくまでも自分から出発している。「われ考える」はわたしの主観が出発となっている。わたしという個人individualであり、他人とは違う。他人についての主観は分からないのであるが、人間としての個人ということで共通であろうという仮定のうえに立っている。

「われ考える」の「考える」は自分が見て意識しているものつまり「からだ」である。その「からだ」は自分の体もそうであるが、意識してとらえてそれがなにであるかを考えようとしてとらえた対象つまり客観のことである。

 

ここで焦点にあてたいのは、デカルトの二元論としては「他人」の主観は「私」はわからないことになる。それを対象として客観を経て、それをあらためて「私」の主観へととり

かかることになる。この主観とはあくまでも「私」のであり、対象となった「他人」の主観とは同じかどうか、違いもじつはそのままではわからないことになってしまうのである。あくまでも「私」の思考経験を経た産物でそれを表現することになる。

 

対象からの経験の中身は共通のものがあるという信念の伝統があり、人類は対象についての観察、対象への入出力から共通の知(認知)をしようという行動への意思が近代科学を

生んだといえよう。哲学者カントによれば経験から共通知の獲得つまり概念である。

確か、社会学ではMethodological based Individualism 方法論的個人主義とよばれて思考的枠組みを設けてけっきょく「ひと」の概念へ落とし込むようである。これはMax Weberの社会科学の基盤となっている。もちろん、Methodological based Collectivism方法論的集合主義というたちばもあり、これは最初から集合的自我を想定してる立場でありフランスの社会学の祖であるDulchemに代表されているといまは言っておく。

 

さて、いまここで我慢して踏みとどまって、うえで「私」の思考経験を経た産物といったが、「私」は経験から主観がなぜ、どのように生まれるかについて考えるひとたちがいる。しかし科学の歴史のなかで未だその道すじに信頼できる存在はないのである。

 

 

クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦として

 

二元論では主観と客観、こころとからだ、あるいは思考と対象というカップルでの問題の捉え方であるが、それはそう単純なカップルではないことは容易に想像できる。

いま、意識について考えてみたい。ここでは一旦、二元論から、その名辞だけをのこして、「私」と「他(対象)」の次元と、「こころ」と「からだ」の次元とで考えを展開してみたい。

「私」はそのときどうあるか?という状況設問である。

最小限、「私」のこころにたいして「対象」のこころと「私」のからだと「対象」のからだ(外延)の2x2のマトリクス問題があらわれるのである。

 

 

「わたし」はそのときどうある?

 

 

 

 

 

「わたし」のからだ

「他(対象)」のからだ

「わたし」のこころ ;qualia

What is it like?

の存在(意識)

 

対象への直観からの理念ideaの発生

II

「他(対象)」のこころ ; qualia(zombi)?

awareからの(反応)

対象としての経験からの概念conceptの獲得

 

 

行 Iが 意識と理念の存在を意味していて、これをqualiaクオリア空間とし、

行 IIへの反応と概念の存在獲得を意味していて、これを敢えてzombiaゾンビ空間と定義しておく。

一般にはここもqualiaとしてひろく定義にいれるひともいる、これがzombiaの存在論議を曖昧にしている所以ともなっていると指摘しておく。

 

列1と列2は二元論的視点からは主観と客観(対象)を区別して焦点を当てようとする定義ある。特に列1は主観には階層あり、上部I―1の高位の主観意識と下部II―1のからだの機械的反応の層を区別している、対象そのものにこころがあるかどうか意識問題の焦眉であるが、最近の脳神経情報科学の領域を上部主観意識階層の形而上学的論理展開を層別して統合展開する学問的総合知しての戦略性がここにある。

物理主義的にのみとどまると意味乾燥したゾンビが不気味にのこる。とうぜんながらゾンビよる人間世界の支配の危惧が起ることは当然であろう。それらを回避しおおきな人類知の構築と人間性安全保証のための高度意識社会への挑戦がもとめられるのである。

クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦なのである。

 

付録1

Russell主義の一元論 Russellian monism[3] [4]

 

Russellian monismは、 neutral monism.[46][47] 中立的一元論である。この理論はBertrand Russellに帰するものであるが、 Russell's panpsychism, Russellの汎心論もしくはRussell's neutral monism.[9][46] Russellの中立的一元論ともよばれている。 Russellはすべての causal properties起因的特性は、identical intrinsic properties.内的特性の対するextrinsic manifestations外的操作であると信じたのである。Russellはこれらの同様なる内的特性をquidditiesクイディティと呼んだのである。物質の外的本質特性がより高次-秩序構造を形成することができるように、それらの内的本質特性も対応し、そして同一なquidditiesを形成することができる。Russellはconscious mind意識的こころはそのような構造であると信じたのである。[48][9] 

 

[1] Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

https://plato.stanford.edu/entries/zombies/

First published Mon Sep 8, 2003; substantive revision Tue Mar 19, 2019

 

[2] Qualia (Entry from the below)

Qualia (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

https://plato.stanford.edu/entries/qualia/

First published Wed Aug 20, 1997; substantive revision Thu Aug 12, 2021

 

[3] Wikisource has original text related to this article:

The Relation of Sense-Data to Physics

 

Wikisource has original text related to this article:

The Analysis of Mind

 

[4]  https://en.wikipedia.org/wiki/Panpsychism#Panprotopsychism

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朝日記240219 その6 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 11:09:11 | 研究論説

朝日記240219 その6 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

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Acknowledgments

Many thanks to David Chalmers and to Bill Fish for valuable detailed comments and suggestions on drafts of this entry.

Copyright © 2019 by
Robert Kirk <Robert.Kirk@nottingham.ac.uk>

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朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 11:02:58 | 研究論説

朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. Other issues 他の案件

もしゾンビが本質的に可能なものなら、物理主義は問題的であるばかりでなく、ひろくうけとめられていた他のトッピクスの観点もまた問題的である。 ここでは顕著な例を三つ紹介する。

 

6.1 Mental causation こころの因果性

 

デカルトDescartesはつぎのような共通の仮定を受け入れた、それは物理的事態にはこころへの効果をもつばかりでなく、こころの事態もまた物理的効果をもつ(たとえば、ある政治的状況が私をして手紙を書かせることになろう)。

彼の二元論の困難性は、言われてきたように、非物理的なものが物理的なものに影響を及ぼすのは如何にしてなのかを理解する点にある。

しかし、ゾンビが可能であるなら-その物理的世界は因果的に閉じていることが要求されるので-そこには非物理的なクオリアがはたらく余地はなにもないことになる。

ゾンビが可能であるといま仮定しよう、その結果はこころの因果性についての共通の仮定を大胆に変更してparallelism平行主義やepiphenomenalism随伴現象主義を代替のものとして持ち込むみることがむずかしくなり、これらのオプションのどれもが容易ではない。

経験的検証おいて因果性が閉じていることを放棄する;一方では現象論的もしくは擬現象論的特性が基本であるという観念は曖昧となる。

まさに、ゾンビの友人たちは随伴現象主義でありもしくは平衡主義者であるというactual world実際の世界についての義務はもたないとみてよいだろう。

かれらは、相互干渉者かもしれない、それはわれわれの世界が物理的に閉じているのではないことを、そしていずれにしても、非物理的特性が物理的に影響を及ぼすことを保持するのである。 

または彼らは‘panprotopsychism’パンプロトサイキズムを好むかもしれない、それによればそこでmetaphysically fundamental形而上学的基本であるものは、いずれもphysical properties物理的特性ではないということである、しかしそれはphenomenal現象的もしくは‘protophenomenal’原型現象的であるとするのである(Chalmers 1991, 297—299; 1999, 492) —これはthe causal closure of the physical物理的なものこそが因果的に閉じているということと共存する観点である。 

因果的に閉じていることを放棄することは経験的検証との争いを引き起こす;一方で現象的もしくは擬現象的特性が基本的であるという観念も曖昧になる。

その場合につぎの困難性を理解すべきであろう、それは見かけにもかかわらず、非物理的なものは物理的なモノに影響を及ぼすことに失敗する可能性があることである。

 

6.2 The function of consciousness 意識性の機能

 

ゾンビの見かけ上の可能性は進化論のための課題を構成するように見えよう。

なぜ、qualiaクオリアをもつcreatures被創造物が対向相手counterpartsである被造物のzombieゾンビよりも生き延びてきたのか?  

もしゾンビが生き残っていたのであれば、consciousness意識の利用とはなんであるか?

Owen Flanagan とThomas Polgerは、ゾンビの見かけ上の可能性の要求を支持してきた、それは「経験から主観がなぜemerged発生するかについての信頼できる筋道がいまだに存在しないことについてである、それら主観からの進化論へのたたかい-もしくは勝利することが期待されてきたというべきたたかいといえるかもしれないが、それは非常に ’intelligent zombie-like information-sensitive organisms’知的なゾンビ的情報-感覚的組織へのた進化的なたかい(1995, 321)であるが、なぜそれに勝利したようにみえているかについてである。」:possibility of zombiesゾンビの可能性を拒否するひとたちはひとつの問題にも立ち会っていないのである。 

それを受け入れる人たちを代表する答えのひとつはthe phenomenal現象的なものとthe physical物理的なものとが基本法則でつながっているということを示唆しているということである。

そのような法則はconscious creatures意識的被造物が進化的にあらわれたかどうかに依存しているのではなく、そのようなケースでは、異論のあるところではあるが、evolution進化にspecial problem特定問題を持ち込まさないとする点にあるである(Chalmers 1996, 171)。

 

6.3 Other minds 他のこころ

クオリアがもし物理的効果を持たないというなら、なにごともひとをして他のだれかが実際にクオリアをもつということの確かさを決めえないことになるであろう。

哲学者たちはother minds他者のこころについては懐疑主義的にきまりきった応答をしてきたと信じているが、それゆえに彼らは、このconsequence of the zombie ideaゾンビ観念の必然性については全面却下で十分であると結論しているようである。 

しかしながら、他の人たちはその懐疑的必然性が‘a confirmation’確認されたものとして見なしているが、それはothers’ minds他者のこころについてはわれわれが無知であるということとに基づいてのことなのである(Campbell 1970, 120)。

もちろん、すべてではないにしろ、他者のこころへの懐疑主義への応答からはzombiesゾンビというものがinconceivable認知できないことを意味している。 

 

  1. Conclusion 結論

zombie ideaゾンビ観念についての洞察的アッピールは勢いを増している。

しかし、それはいまに始まったものではないし、現在も懸題としてわれわれのまえに立ちはだかるのである、科学の側がこれまで非物理主義的なものごとに配慮することなくものごとの事態観念の真理を語ってきたことにも依っている。

ある反物理主義者はかれらの対立者の関与が人をして盲目にして困難性に陥らせると信じている。

ゾンビの可能性否定にひとたちは導かれているようにみえているという、かれらはなにかの理論をもちだしては、それがただしいとして掲げてはいるが、そのような理論の正当性はひとえにthe question of possibility(ひらかれた)可能性の問いに基づくべきものであると主張する(Chalmers 1996, 96)。 

一方で、物理主義者のある人たちはzombie ideaゾンビ-観念そのものが反物理主義思考へ向かわせる不合理性をふくむもとであると懸念する、それはその反物理主義的論点がすでに独立した力を得て合理性ある洞察として認めようとする陰謀が隠されているとみるのである。 (Loar 1990/1997, 598).

両サイドについての論争はますます知的に込み入ってきている、もしくは多分それ故か、論争は決着の様相が見えない状況である。各陣営はそれぞれの方向への説得はつよいものになっている。

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

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朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:56:58 | 研究論説

朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. Does conceivability entail possibility?  認知(概念)獲得性は可能性につながるか

conceivability論議での前提(2)は:conceivableであるものはどれもpossibleであるというものである。

これは防御的要求であるようにみえるが、いくつかの角度から攻撃されてきたのである。

 

5.1 Objections based on a posteriori necessity 後天的必要性にもとづく反対

たくさんの哲学者はKripke’s ideasが事後的に必要なものであり、それが物理主義の防御を提供すると論じた。

かれらはゾンビ世界がconceivableであってさえ、それがものごとの筋道でpossibleであるということを確立していないことを促している。

心理物理的同定があたえられるなら、それはan ‘a posteriori’ fact事後的事実であり、われわれの世界の物理的複写がなんであろうともそれは感覚状態の積極的事実の視点においてわれわれとまったく似ているということでなのである。」(Hill and McLaughlin 1999, 446. See also Hill 1997; Loar 1990/1997; 1999; McLaughlin 2005; Webster 2006).

 

ある哲学者たちはconceivabilityがpossibilityへのa guideひとつの案内という仮定でさえ拒否し、それは証明の負荷はゾンビの可能性を否定する者に掛るという観点に挑戦するものである。(Block and Stalnaker 1999; Hill and McLaughlin 1999; Yablo 1993)

Chalmersはいくつかの場所(1996, 131–134; 1999, 476–7; 2010, 141–205)で応答してきた。

かれのconceivability論争での最も詳細版(2010)は二次元的意味論の枠組みを使っている。

これは彼をしてふたつの種類のpossibilityとふたつの種類のpossibilityの違いをかれに可能にさせている。

‘primary’ sense第一次センスでは、conceivabilityはpossibilityに尾をひいていく;たとえば水はH2Oとは化学的に異なる物質であるべきであったということがconceivableである。

他は、‘secondary’ sense第二感覚であり、水は化学的に異なるべきであったということはconceivable でもなく、かつpossibleでもない。

Conceivabilityの論議のためのむずかしさはゾンビ世界が第一次的にconceivableでそして、したがって 第一次的に possibleであってさえ、それが二次的にも可能であることを引きずらないことを言うことによって表現されうるのである。

そして後天的(事後的)物理主義者がゾンビ世界の第二次的possibilityのみがphysicalism物理主義のfalsity欠陥をひいているという地盤のうえにいることを典型的否定をしているのである。

 

この点で、Chalmersは効果的に対立者が二律背反をしていることを顕わにしたのである、それは(かれの結論をまとめるには粗いが)ゾンビの第一次的conceivabilityが第二次的possibilityに尾をひいていること、そのpossibilityについてのケースでconceivabilityの論議がはたらき、そしてmaterialism物質主義はつじつまがなくなったということである。 

あるいは、かれが‘Russellian monism’とよぶものは真であるとしたのである、これについては以下のSection 5.3にて簡単に触れる(See also Jackson 1998; and for discussions, Brueckner 2002; Loar 1999; Hill and McLaughlin 1999; Perry 2001, 169–208; Piccinini 2017; Sebastián 2017; Shoemaker 1999; Soames 2005; Yablo 1999.)

 

 

5.2 The phenomenal concept strategy  現象的な概念戦略

沢山の物理主義者はゾンビ概念とFrank Jacksonの知識論議の双方をあつかうのにthe nature of phenomenal concepts現象的概念の自然性へのproper understanding固有理解をとおすことである(粗くいえば、この概念はわれわれの経験の性質を運ぶときにわれわれが使う概念である:たとえば、‘sweet’甘いとか, ‘the way I see blue’わたしが青をみる道すじ)

Conceivabilityの論議の成果はthe physical物理的なものとthe phenomenal現象的なものとの間での想定される‘explanatory gap’説明ギャップ―ゾンビがconceivableであるという観念で表現される―がontological gap存在論的ギャップをもたらすのである。 

 

 

これらによるとconceptual gap概念的ギャップのみが実際にあるのである;

phenomenal concepts現象的概念はわれわれをミスリードする様相をもっていてontological gap存在論的ギャップ、さらにくわえてepistemic one認識論的ギャップがあると思わせようとすることになる。

斯くして、ゾンビ世界は事実的にconceivableであってさえ、それがわれわれの世界でnonphysical properties非物理的特性が存在するとこにつながらないのである。 

もしそれが正しいのであれば、物理主義者はゾンビのconceivabilityを認めることができる一方で、phenomenal concepts現象的概念の意味でわれわれがそこからとりだす特性はphysical物理的であるということとに整合させるのである。

 

「もし特性がその世界によって構成されるものであり、そしてわれわれの概念によるものではないならい」Brian Loar はいう「それは物理主義者がその過程の正当性を要求するのはフェアであり、その仮定とはconceptually概念的に明確なconcepts 概念がmetaphysically形而上学的に明確なproperties特性を表現していなければならない」(Loar 1999, 467; see also his 1997).

かれはさらにphenomenal concepts現象的概念は‘recognitional’「認知的」であること、これは‘theoretical’「理論的」であるphysical concepts物理的概念とcontrast対照的であると論じた。

  

 

 

 

Phenomenal concepts現象的概念は、Loar はかたる、「Kripkeは‘pain’「いたみ」のケースで観察したように、それらがとりだすそのまさに特性を表現する」(1999, 468) 

かれは考えるのは、これらのポイントがゾンビ世界のconceivabilityを説明するものであり、一方でrelevant physical propertiesこれにrelevant physical propertiesむすびついた物理特性がconsciousness.意識からは区別できるような可能な世界は何ら存在しないといことを保持していることでる。  

ChalmersはLoarの勘定がphysical concepts物理的概念がphenomenal properties現象的特性を参照する見解を正当化していないことに反対した。

かれがさらに論議した(2007)のは、このアプローチからの出てくる二律背反の直面である。

いまCがなんであれ心理学的な‘key features’としよう、そしてゾンビはそのfeatureを持たないとする。

一方、もしそれがconceivableでないならば、かれのその観点でCはわれわれのepistemic situation認識的状況を、that of zombiesゾンビの状況とはcontrasted対照したような説明ができないことになる。

斯くして、これはつぎのいずれかになる、Cがphysicalistically explicable物理主義的説明できるものでなくなるか、もしくはそれはepistemic situation認識的状態説明できなくなるかである。(この考察には以下をみよ  Ball 2009; Balog 2012; Carruthers 2005; Chalmers 1999; 2007; 2010; Crane 2005; Loar 1990/97; Papineau 2002; Pereboom 2011; Stoljar 2000; Tye 2008.)

 

 

5.3 Russellian monism ラッセルの一元論

 

Russell (1927)に従って、ある哲学者たちは、物理学はわれわれに‘structural’ properties of thingsものの構造的特性についてのみ語る、―それはdispositions配置状態 とnomic 名辞関係のようなもの―であるが、そこではstructural properties.構造的特性がかかえていると想定される‘intrinsic’ properties内的特性は第二義的なものとなっている。

斯くして、Daniel Stoljar (2001)はthe physical物理学的なものおよびそれに対応するphysicalism物理主義のふたつを区別するnotions名辞観念を論じたのである、それらはひとが物理学によって提供されたものにおいてのみか、もしくは物理的対象のintrinsic properties内的特性にも対応するものか、そのアッピール依存しているとしたのである。 

かれが示唆するのは、conceivability認知(概念)性の論争で対応する2つの版で、そのひとつがsound(なるほどとうける)である場合と、他はsoundでもないとする場合であるが、われわれはゾンビの可能性については‘strongly’ conceive 強度に認知(概念)しえないとするものである、それは粗くいえば物理主義者たちはつねにゾンビに反対するのは、われわれが物理的世界について十分に知悉しえていないとする言い訳があるからである。 

 

このような観念はChalmersが‘Russellian monism’「ラッセル的一元論」 (a variety of neutral monism中立的一元論からの出自のもの)として呼称され、現今その位置を得ている。

われわれの世界では、かれの示唆するところで、「intrinsic properties内的特性はphenomenal properties現象的特性であり、またはprotophenomenal properties原現象的特性といってよいであろう;これは、しかるべきappropriate way適宜な道すじで組織化されたときの集合的phenomenal properties現象特性が構成される」(2010: p. 151);一方、他の世界ではその対応するintrinsic physical properties内的物理特性はconsciousness意識のためには供しない。

もし、そのintrinsic properties がわれわれのconsciousness意識に与えられたとするとその特性はそれでもなおphysical物理的なものとして分類されるなら、支持者たちはこれらがわれわれの‘full’ physical duplicates十分な物理的複写であると理解して、ゾンビのpossibility可能性を否定することができるのである。  

 

同時に彼らはpossibility of zombiesゾンビの可能性をみとめることができる、それはstructural properties構造特性においてのみ、われわれを複写したものということになる。 

かれは指摘するように、この観方は「物理主義のhighly distinctive form高度識別形式のものであるとし、それはproperty dualism特性的二元論におおくを共有する、そして物理主義者のおおくが実は拒否したくねがっているものでもある。」(Chalmers 2010, p. 152; see also Pereboom 2011).  

 

physicalism物理主義としてそれを吟味することへの障害は、なぜ、われわれの世界での特別なintrinsic properties内的特性がconsciousness意識のために寄与することへ説明することが出来ないようにみえることにある、一方でその同じ機能が他の世界においては寄与しない:これは野蛮な事実として受け入れなければならないことである。 

Philip Goff (2010)は物理主義のラッセル版のためのこの曖昧性はゾンビ論議を弱めることを示唆している。

かれはそのかわり、幽霊からの論議を推奨するのである;物理的自然のいかなるものをともなわないpure subjects of experience純粋経験主観である。 

かれはそのような幽霊はconceivable であり possibleであるそして、幽霊たちは物理主義に対して論議を挑む、それは物理主義がラッセル一元論はなんら曖昧さloopholeをのこさないことに対してである。(物理主義者がたぶん反対するのは、この論議がゾンビのconceivabilityに抗するからであり、それが幽霊に抗する動機ともなりうるからである)

 

 

 

5.4 Other objections 他の反対

 

Special factors.  特別ファクター

これまで示唆されてきたものとして心理物理的ケースでの研究での特別ファクターがわれわれをミスリードする強い性向があるというのである。

たとえば、consciousness意識の状態についてわれわれをしてimagineしもしくはconceiveすることができるものは、われわれをして物理的事実をconceiveすることができるものとは異なるcognitive facultyであるという主張である; 

 

「Cartesian intuitionsデカルト的洞察に対応するcognitive factors[ゾンビについてのそのようなものの]と、ひろくてさまざまな種類のmodal intuitionsに対応するそれらのcognitive factorsとの間にある顕著な差がある」(Hill and McLaughlin 1999, p. 449. See also Hill 1997) 

この示唆はこれらの差が説明の易しさをたすけ、われわれはゾンビをconceiveすることができるようになるが、そしてにもかかわらず、それらが、impossibleであるという要求を理解する困難性の説明するたすけともなるのである。

Conditional analysis. 条件的分析

反対の他の筋としてはクオリアの概念についての条件的分析がある。

その観念とは、粗くいえば、if もしそこに実際にたしかな非物理的特性があって、それがわれわれのクオリア概念にフィットしているなら、それがクオリアであり、その場合ではゾンビはConceivableである;

しかし、if もし そこにそのような非物理的特性がないなら、クオリアは物理的特性がなんであれ、それにみあう機能を遂行するかぎりはそこにあり、ゾンビはconceivableではないという観念である。

このアプローチは物理主義者をして一方でゾンビがconceivableであることを否定しておいて、ゾンビの可能性がconceivableであることを受け入れることになり論議を起こしている。

これに関連する点Stalnaker 2002と、批判についてはAlter 2007; Chalmers 2010, pp. 159–59; Crane 2006をみよ).

 

 

Causal essentialism. 因果性基本主義

 

因果基本主義の理論によれば、physical properties物理的特性についてのcausal properties因果特性がそれらに基本的なものとする。

Brian Garrett (2009)はこの理論を展開したのは物理主義に抗するゾンビ論議はひろくHumean assumptionsヒューム哲学の仮定に依っている、それは因果基本主義の欠陥を予め考慮した自然法則とその特性についてのものである。

もしわれわれがこれらの仮定を拒否し、そしてあるなにかの物理特性が意識を産む能力が基本的にもつと受け入れるなら、「われわれはゾンビ世界の本来的な可能性を受け入れることはできない」、そこではそのような世界がconceivableであったとしてもである(see also Aranyosi 2010)。 

 

More on zombies’ utterances.  ゾンビについてのつぶやき

あるゾンビ世界を考える、それはわれわれの世界の全き物理的複写であり、すべての哲学者の双子ゾンビとなっていて、そこにconceivability論議をアッピールするなにかを含んでいるそのようなゾンビ世界である。

Katalin Balog (1999)がは、かれらのつぶやきが、意味があるような一方で、かれらの文章はそれらが我々の口のなかにあるそれとかならずしも意味しないようなことを論じたのである。

彼女はさらに論じる―それは過度に単純化される言であるが―もしconceivability論議が実際の哲学者の口のなかで説得的であるなら、そのときそれはゾンビ哲学者の口においても説得性あるものであろう。

しかし仮説によって物理主義がかれらの世界において真であるなら、その論議は説得性のないものである。

したがって、実際の哲学者が用いるconceivability論議もまたどれも説得性のないものである。

もしこの論議がはたらくとなれば、それは香辛料的な様相をもつのであり、それは「反物理主義者が結果的に可能と考えるゾンビの可能性を確立することを目論む論議がそこに内蔵している」(502. Chalmers offers brief replies in his 2003; 2010, pp. 159–60).

 

Conceivability論議は―それは物理主義者がゾンビはimpossibleであるということをひきずっていると仮定していて―ゾンビたちがpossibleであることをみせることによってそれ(その論議)を拒絶しようとする魂胆のものである。

 

われわれが見るように、この論議のもっとも簡潔版は以下となる;

(1)ゾンビは  conceivableである;

(2)  conceivableなものはなんであれ  possibleである;

 (3) したがってゾンビは possibleである。

 

 

 

しかしながら‘anti-zombies’反ゾンビは―われわれ自身の複写は純粋に物理的事実によって意識をつくる―conceivableであるようにもみえる;

斯くして、われわれは平行的論議をもつ;

(1*) 反ゾンビは conceivableである;

 (2) conceivableなものはなんであれ  possibleである;

(3*)したがって反ゾンビは  possibleである

 

 

(3) と(3*)は双方とも真とはなりえない、なぜなら反ゾンビについての純粋に物理的事実がゾンビたちに意識をつくるなら、そこでゾンビたちについて全き単純な物理的事実もそのゾンビたちに意識をもまたつくることになる、そしてとどのつまりそれらはゾンビではないことになる。(Frankish 2007; Marton 1998; Piccinini 2017; Sturgeon 2000, pp. 114–116).

 

 

ひとつのモラルとしては,われわれはconceivabilityからpossibilityへの推論を拒絶すべきであるというものである。(Brown 2010 は反ゾンビがconceivableならゾンビたちはinconceivableであるかを論議した)

このconceivability論議からの成果としては反ゾンビがconceivableであるということを否定すべきであるということであろう。(Chalmers 2010, 180)

 

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朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:46:04 | 研究論説

朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

本文

 

  1. The conceivability argument for the possibility of zombies ゾンビの可能性のための認知能力(概念能力)論議

この論議の最も単純な版は以下である;

  1.ゾンビはconceivableである。 

  2.conceivableであるものはすべてpossibleである。 

  3.したがってゾンビはpossibleである。

(Kripke used a similar argument in his 1972/80. For versions of it see Chalmers 1996, 93–171; 2010, 141–205; Levine 2001; Nagel 1974; Stoljar 2001.)

あきらかにconceivability認知(概念)性の論議は有効である。

しかしながらその前提のふたつとも問題的である。 

それらは言明として不鮮明でありそして論争含みである。

肝心な問いは、この文脈においてわれわれは‘conceivable’をどのように理解すべきかである。

多くの哲学者はゾンビが、ある意味においてconceivableであることをすすんでconcede認めたがっている。(e.g. Hill 1997; Hill and McLaughlin 1999; Loar 1999; Yablo 1999).

しかしながら、この意味はときに全くひろがりをもっている。

たとえば、「pain痛みの概念とC-fiber 刺激の概念との間で実質的な先見的つながりがなにもない」という主張は、「原理的に(そのつながり)は他の概念を十分にマスターしないで、それら概念のどれかをマスターすることが可能である」という点によって支持されてきた。

この standard基準に依ると、以下のことになろう;円周とその直径との比が実数でない場合があっても、その比が原理的に実数であるということがconceivableであるということになる。

もしconceivabilityがそのような意味でpossibility可能性とつながっているならthe ratio to be rationalその比が実数である可能性とその不可能性両方おきてしまう:そのことはconceivabilityに関するその論議が目的でありながら、無用のconceivabilityをつくりだすことになる。 

そのように理解するなら前提(1)の論議はやさしくのみこめる;しかし(2)は拒絶されるべきである。

注意深くみても、conceivabilityに対する閾値を低くすればするほどに、(1)は受け入れやすくなる―しかし(2)を受け入れるのは、より難しくなる。

前提の(1) と(2)にて呼び込まれたこの種のconceivabilityはつよく制限される必要がある。

共通にして有用なる定義は先見的に誤りであることを知りえないこと;cannot be known a priori to be falseつまりAがconceivableであるのは、非Aが先見的にルールにはずれている場合、そしてその場合のみとしている。

(For sophistication of these and related ideas see Chalmers 1999, 477; 2002; 2007; 2010; 5.1 below.)

 

Joseph Levineはかれの2001年論文でconceivability論議を展開した。

かれはゾンビのconceivabilityはexplanatory gap’説明ギャップがもたらした結果とした。

かれの見解によれば、そのギャップとはthe phenomenal現象的なものがthe physical.物理的なものにどのように関係するかを説明するepistemological problem認識論上の問題である。 

かれはこの問題を解く道すじが見えず、そしてそれはゾンビが不可能であるとしてもさえ残ると考えた。

Campbell, Copeland and Deng 2017は、いかなるcoceivability論議には対応する‘mirror argument’「鏡像論議」が存在するというまったく一般的な論議を展開したのであった。この‘mirror argument’は主なる論議に内蔵しているコストの膨大性から拒絶されそしてすべてのconceivability論議は‘logically bankrupt’「論理的破産」と結論づけされた。

われわれは目下、二つの鍵となる質問に遭遇している:ゾンビは上で説明した意味においてconceivableであるか?

もしそうであるならば、それはpossibleということに続くのか?

ふたつの質問への答えがYesであるときにのみ、conceivability論議は成功することになろう。以下でこの順にしたがってとりあげる。

 

 

  1. Are zombies conceivable? ゾンビはconceivableであるか?

1970年代にゾンビの観念が使ったひとたちに共通していたことは、ゾンビはまさにconceivable なものではなく、possibleなものとして仮定したのであった。(e. g. Campbell 1970, Nagel 1970)

Chalmersはその観念を再活性化したとき、彼はゾンビのconceivabilityが‘obvious’自明であることを見出し、つぎのように付言した「一貫的な状況については確かに記述されるように思える:私はこの記述性について何ら矛盾性を感知していないのである」(1996, p. 96)

しかしながら、彼もまたこのintuition洞察性が信頼しえないものであることを認知している。

conscious experience意識的経験のnature本質性を目下のところ、理解することは困難である;人たちにあきらかに可能としてせまることの底に隠れた矛盾に光を当てるべきであろう(Nagel 1998; Stoljar 2001).。 

あきらかに、ゾンビがconceivableであると支持する人たちはその正当性を示さなければならない、それはepistemic claim認識論的要求は、われわれのcognitive abilities認知的能力に依存しているのであり、その意味でさらなるひらかれた論議展開が望まれるのである。

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

4.1 Arguments for the conceivability of zombies ゾンビのconceivability想定能力の論議

 

Kirk (1974a, 1974b)はその正当性を与えるべく試みた、そしてその論議のなかで、ゾンビがpossible可能なものであり(よってconceivable想定可能である)ことを証明することを意図したのであった。

しかしながら、それらは目標に到達しなかったのであった、それは出発になる観念としての似たような洞察のかたまりの多さにあった。

Chalmers (1996)は物理的な事実からこころの事実へのa priori entailment先見的なひも付きがあるという観点に対してのシリーズで5つの論議を著した。

その各論はzombie ideaゾンビ観念の直観的アッピールに直接的および間接的に力をあたえたようである。 

最初のものについて要約すると;

他の4つそれぞれが、物理的な違いをともなわないもとでの‘inverted spectrum’「逆スペクトル」の可能性へのアッピールである(see inverted qualia);

purely physical information純粋に物理的な情報を基にしたconscious experience意識経験のlearning学習についていわゆる impossibility非可能性の主張である; 

 

Jackson’s (1982)の ‘knowledge argument’ 「知識論議」(彼の最近のものに関連して);およびChalmersは‘the absence of analysis’「分析の不在」とよぶもの;そのポイントは以下である、彼の対立者は「existence of consciousness意識存在がphysical facts物理的事実によってentailed紐づけされるさまがhow 如何様であるかについてを観念としてわれわれに示すべきであるというものである」、もし「そのようなひも付きを明示するどのようなこころみはもともと破綻している」と宣告するならばである(1996, p. 104)。

彼の最初の論議を粗くいえば以下である。

いま、一群の小人たちがあなたの脳活動を止めて、彼ら自身の機能をそこに複写するとしよう、この場合きみの体の他の部分はこれまでどおり働いているとする(see Block 1980a);

小人たちはそれぞれ携帯電話をもっていて相互にsignal-receiving信号受信しそしてindividual neuronその個人のニューロンのsignal-transmitting functions機能伝達機能をも遂行する。

 

そのようなシステムは意識的といえるか?

直観的にひとは否定側に傾くかもしれない。

あるものは、多分機能主義者であろう、弾丸に食らいつきそしてyesと答える。

しかしながら、この論は、そこの小人の頭は意識的がないだろうというの仮定には依存しないのである。

この論は、そこに意識ある者がいないということがconceivable想定可能であるという仮定にのみ依っている―おおくのひとたちはそれがreasonableであることを見出す。

Chalmersのこの言ではいっていることは、以下である、われわれがそのシステムにconsciousness,意識が欠落しているようだというときに、実体として「a meaningful possibility意味ある可能性が表現されていて、そしてconsciousness意識が起きているかいないかの問いに対してひろく開かれているか」ということを意味している。(1996, p. 97). 

もし彼のいう事がただしいなら、そのシステムはconscious意識がないということになる。

そのケースでは、それはすでに非常にゾンビ・ライクにある、唯一の違いはそのシステムではゾンビがニューロンを占拠していて、そこに小人たちが働いているということである。

そして何故そのことが、situation状態状況が意識的であるかどうかの違いをつくることになるのか? 

小人たちからニューロンへのスウィッチが何故、意識の光へスウィッチとなる必然性があるのか?

(小人たちの頭に意識が欠落しているということがconceivable想定可能性であるという仮定に対して懐疑的であるひとはつぎをみよ;e.g. Loar 1990/1997, pp. 613f.)

ゾンビのconceivability想定可能性に好意的な他の考察についてはBlockにみることができる (1995, 2002); Levine (2001); Searle (1992).

Chalmers (2010)はかれのさらなる防御を展開している:本稿5.1 をみよ。

 

 

4.2  Arguments against the conceivability of zombies  ゾンビのconceivability認知能力(概念能力)に対する論議

過去においてゾンビがconceivableであることは,全くひろく受け入れられていたのであるにもかかわらず、懐疑主義が伸長してきている。

その観念について なにか直接的な攻撃を考えるまえに、われわれは三つの観点を簡単に思い起こそう、それはかつてわれわれが二元論では間違いとするa priori 先見的なものを知ることの要求を支持するようにみえたものある―而して、ゾンビはinconceivable想定概念化できないであるというreasonable assumptions,納得性のある仮定であった。

 

第一は証明主義である、これによって(宣言的)文章は、それがそのケースにおいて真か僞かを証明しうることにおいて意味あることになる。

これは証明されえない文章は文字通り意味がないということに紐づけされる、それは観測できない非物理的項目が存在することを要求する形而上学的なものに対して何ら真であることはできないというものである。

しかしながら、われわれがexperiences経験についてthink 考えそしてtalk語るability能力はそれ自体verificationism証明性に関わる課題である、それはzombie ideaゾンビ観念をbeg the question質問公開であることで攻撃するとき、その見解がpresuppose事前想定する活動からくるものであるからである。 

 

第二の見解はWittgensteinの私的言語論議につながる。

これはcrudely verificationistic粗っぽい実証主義的ではないにかかかわらず、words to be meaningfulことばが意味を持っているためにはそれらの使用がpublic checking公開的チェックのために開かれていなければならないという仮定によっている。   

しかし、このチェック可能性の仮定で、いまわかるとして、それがクオリアについて

われわれができるゾンビ可能性の防御のみちすじでわれわれが語ることができないことを証明することになるがゆえに、それはあまりにも現在の文脈ではquestion-begging公開質問へのまる投げのようにみえてくるのである。

 

第三の観点はbehaviorism,行為主義である、しかるべき道すじにおいて行為するためにbeing disposed配備されている以上のmental statesこころの状態をもつことはないというものである。

ゾンビ観念への攻撃のための可能なべ―スとして、behaviorism行為主義はverificationism証明主義とprivate language私的言語の論議へのsimilar situation類似状況にあるというものである。 

 

ゾンビはfull consciousness十分なる意識のためのbehavioral conditions行為的条件すべてを満たしていることになるのは次の場合である、 それは、われわれがa priori先見的にbehaviorism行為主義がただしく、zombie worldsゾンビ世界がその理由のためにinconceivableであるというならということであるとすればのことである。

とはいえ、行為主義がただしいと証明されることはありそうにもないようにみえる。

(Dennett 1991 は行為主義へのつよい親和的位置をまもった、しかしそれは気の主義の変形のものとしてむしろクラス化されたともいえる)

機能主義はこころへのひろく圧倒的をうけたアプローチではある。

それによれば、こころの状態というのはまさにbehavior行為と dispositions配備のmatter事態というのではなく、sensory inputs感覚的入力、internal states内的状態、そしてbehavioral outputs行為的出力のなかでのcausal因果のもしくは他との functional relations機能的関係のmatter事態なのである。 

 

もしinternal processing内的プロセスのnature本質がなにも考慮されないのであれば、functionalism機能主義はbehaviorism,行為主義にむかう有益なる反対に降ることになることに注意せよ。

たとえば前節で記述した‘homunculus-head’「小人の頭」;それはしたがって、つぎのように見えるのである、いかなるもっともらしいfunctionalism機能主義もbehavioral dispositions行為的配備においてこれまで必然的としてでなく反映されてきたinternal functions内的機能に対して考慮しなければならないということなのである。 

 

いま、zombiesゾンビはfull consciousness十分なる意識に対してのfunctional conditions機能的条件すべてを満足したとしたとする故をもって、functionalism機能主義はゾンビが不可能であると紐づけするのである、一方で、そのzombie ideaゾンビ観念を攻撃するにfunctionalism機能主義を単純にpresuppose事前想定し、自明的なものとしてのquestion-begging公開質問としているのであるのであるがである。

しかしながら、機能主義の知的な進行が展開してきて、機能主義の議論がゾンビの可能性に対して強く支持する議論がでてきている。

(ゾンビにたいする機能主義の防御は以下をみよ、Dennett 1991; 1995; 1999; Kirk 2017; Shoemaker 1999; Tye 2006; 2008; ゾンビをあつかう機能主義の容量についての疑いについては以下をみよ for example Harnad 1995.)

こころについての広義の先端的機能主義者とは別にして、もっと狭くて焦点のある攻撃がゾンビのconceivabilityのうえになされている、そのいくつかを以下に記載する。

 

Can we really imagine zombies? ゾンビは現実に想像できるか?

 

 

Daniel Dennettは考えることはゾンビのconceivabilityを受け入れる者がそれらを十分に想像することに失敗してきたことである:「かれらは相も変わらず概念(もしくは想像)のしごとを低く評価している、そして彼ら自身ももつ定義に違反するなにかあるものを想像して済ませていたのである」(1995, p. 322. Marcus 2004 makes a related point; see also Woodling 2014).

もし彼が意識についての広義の機能主義モデルをあたえたとして、かれは論じる、「ゾンビとconscious beings意識的な存在との間での見かけ上のコントラストは幻想的なものである」ということがなぜかをわれわれは見ることができる(325. See also his 1991; 1999).

Consciousness意識は「単一のすばらしい分離したものではない、・・・しかし沢山の異なる情報の容量の巨大な複合体なのである」(1995, 324. Cottrell 1999 supports this approach) 

 

 

Zombies’ utterances.

いまコーヒーの炒りのかおりがして、「ムーン、私のすきなにおいだ」という。

だれもが私が自分の経験について話をしているとただしく仮定しよう。

しかしわたしの双子であるゾンビはおなじつぶやきを生み出したと考えてみよう。

かれもまたひとつの経験について話をしているようにみえるが、事実かれはゾンビである故にいない。かれは誤っているか?

かれは嘘をついているのか?

かれのつぶやきは幾分かが真として翻訳されることができるであろうかもしくは全くの真なる価値を伴わないのであろうか?

Nigel Thomas (1996)は、「ゾンビ好みたちがこのような質問をするどのような筋も深刻なトラブルをかれらにもたらす」と論じる。

 

ゾンビ世界が定義によってわれわれの世界にまさに似ていること、それは物理主義者が

そうであると思っていて、しかしそこには意識を伴わないとしていることを思い出そう。

これはconsciousness意識が非物理的ななにか依存していること含んでいる故に、ゾンビたち(それらは第一義的に可能であると仮定してであるが)は意識的であるようにつくることができるということにつながり、これをつくるのは非物理的に加わったなにかということになり、そのようなものはまさにクオリアのようなものかもしれない。 

 

そしてもしzombie worldゾンビ世界が因果的に閉じているなら、これらのqualiaクオリアは因果的にinert不活性でなければならないであろう。  

したがってもしゾンビ世界がconceivableであるなら、そこでは随伴現象主義もまたconceivableにならねばならないであろいう。

(このことが随伴現象主義がconceivableであるのと同様に actually true実際的な真であることを要求しないことに注意せよ)

もしそのことが正しいなら、随伴現象主義のconceivabilityへの反対することもまたゾンビのconceivabilityの反対することでもある。

 

もっとも自明なのはexperiences経験がbehavior行為にeffects影響をあたえているという親しみやすくかつ、強力な主張がある(Perry 2001)。

自明性は不足するが、随伴的現象主義への反対は、われわれが随伴的現象主義を参考にし、かつそれについての意識的な経験的事実からスタートするところにある―それはほとんど否定しがたい、なぜならここ以外には、第一義的にこの観念を討論することができないからである。 

この反対はひろい観点で支持しているようにみえるが、それはわれわれが知りもしくは参考にするのが、なにであれそれらは間接的にのみにて、われわれに影響をもつからである。

これをベースにして、われわれの対抗者たちは随伴的現象的世界においてクオリアを知ることもしくは参考にすることはできないのである。

もしそれが正しいなら、随伴現象論的世界はconceivableではなく、そこではゾンビも存在しない。

この攻撃に対してChalmersはcrucial consideration欠かすことのできない考慮とは、われわれ自身がexperiences経験を‘acquainted’「知悉していること」であると返答したのである。 

この‘intimate epistemic relation’ 「身近な認識関係」は、われわれが経験を参考にすることができること、およびそれらについて知るためのわれわれの要求が正統化することであること双方を確かになることなのである。

 

対照的に、われわれの双子のゾンビはなんら経験をもたないので、経験についてのそれらの判断が正統化されないようにみえるのである。

Chalmersはqualiaクオリアがわれわれのjudgments判断のうえになんらcausal influence因果的影響をもたないとしても、appropriate適正なる物理的文脈においてそれらが単に陪席していることで、われわれの思考がそれらのqualiaについてであるということを確かにするのである。

 

彼は、それが、経験が説明的に問われている質問の判断をするには説明的に十分ではなくてさえ、われわれの知識要求に対しての正統性をもまた成すと考えるのである。(Chalmers 1996, 172—209; 1999, 493f; see also his 2003, 2010).

 

 

 

The problem of epistemic contact. 認識論的接触の問題

ゾンビがconceivableであるなら、そこで、随伴現象論者と並行論者の世界もまたconceivableとなる。

その場合では、ゾンビの友人たちは随伴的現象論的クオリアが如何にして、そして実際にひとびとの生活へ親身な貢献をし得るかを説明しなければならない;そしてKirk (2005; 2008)はゾンビ観念がさらなる困難に直面することを示唆する。

このことは次の場合に発現する、われわれがそのようなものを立ち会うものとして、それについて考えることとして、記憶することとして、われわれの経験を比較することとして考える時にである。

そのような活動は認知的プロセスをふくむのであり、それは転じて他の変化の原因となる変化をも含むのである。

 

随伴的現象のクオリアは因果的に不活性であるから。それら事態がプロセスする行為を可能としないであろう;それらが事実上にわれわれの経験(随伴的現象論および平衡主義が含有する)を構成するなら、そこで必要なプロセスはthe body体によって為されなければならいない。

そのトラブルはゾンビ物語りが随伴的クオリアと認識的に接触へわれわれを持ち込むためのプロセスを不可能にすることにある。

これはその目的のためにそれがアッピールすることができる資源のみがクオリアの起因

となりこれは神経プロセスによるものであるが、そしてそれらとのisomorphismによるのである;(Kirkが論じるように)それはひつような認知作業を行うことができないファクターである。

もしこれがただしいなら、epiphenomenal qualia随伴的現象のクオリアとzombiesゾンビの概念は矛盾に導くのである。

それらはconsciousness意識のconception概念を含んでいるのであり、それが人をしてクオリアとepistemic contact認識的接触におくことを要求するのであるが、一方で同時にそのような接触のpossibility可能性をルール的にアウトとして排除とすることになる。 

 

‘Powerful qualities’.  「パワフル品質」

ゾンビ観念への興味ある最近の反対は、‘powerful qualities’「強力品質」の(論争中であるが)観念にもとづくものである;properties特性のすべてはdispositional配備的 と qualitative品質的の双方であり、そしてじつに、あるもののdispositions配備はそのqualities品質と同じであるという見解である。

 

 

 

Alexander Carruth (2016)は、たとえば、conceivability論議では、physical properties物理的特性がdispositional配備的である一方で、phenomenal ones現象的特性がqualitative.品質的であることをpresuppose先行想定としているものとしている。  

このベースにもとづけば、われわれの世界のzombie duplicateゾンビ複写は、われわれの世界のdispositional配備特性を事例化するであろうが、しかしそれはphenomenal ones現象的特性のものではない。

powerful qualities見解はそれがconceivableでさえない状態にしてしまうような先見性をルールアウトととる。

もしあるもののdispositions配備がその品質qualitiesと同じものとするなら、どのようなqualities品質もそのdisposition配備と想定として同じであるということを事例として取り上げることなく、然るべきdispositional配備特性を事例としえ取り上げることはできない。

この論議の筋に抗して、Henry Taylor (2017)は、 physical物理的なものが dispositional配備的なものの枠内におさことはえておくことは不可能であるとし、physical物理的なものとphenomenal現象的なものとの間の区別については納得のいかない判定であると主張する。

ゾンビのconceivabilityについての他の言い分については以下をみよ;Balog 1999; Cottrell 1999; Harnad 1995; Marcus 2004; Shoemaker 1999; Stoljar 2001; Tye 2006.

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朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:37:34 | 研究論説

朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. The idea of zombies ゾンビの観念

デカルトは、非人間動物はautomataであるという立場をとった;かれらの行為は全体として物理的メカニズムで説明できるというものである。

しかし人間の行為(かれは論じる)はその道すじでは説明できないというものである。

人間のように見えそして行動する機械の観念展開するに、かれはふたつのものが顕わなると考えたのである;それは言語を創造的につかうことができない、そして任意に変化する状況においてそれは適切なる非言語的行為を生むことができない。(Discourse V).

彼には、したがって人間のようにふるまう機会はないことになる。

17世紀の技術の知識において、かれはつぎのような結論をえた、人間行為は物理的なものをこえたなにかが明確に要求される;非物質的なこころ、その脳とその他の体の部分でのプロセスが作用している。

(かれは先見的に同じ結論のための論議をしたのである、そのひとつはこの報文の3節で論じる‘conceivability argument’を予想させるものである。)

もしかれがただしいなら、actual world実際世界と物理的に似ている世界がないことになり、こころを欠如した世界がのこるであろう:人間の体は適正に働かなくであろう。 

もしわれわれが突然われわれのこころを失ったらわれわれの体はしばらくの間走り続けるであろう:われわれの心臓は鼓動を続けるかもしれない、眠っているときのように呼吸するかもしれないそしてたべものを消化するもしれない:われわれは歩き、もしくは歌うかもしれないそれは気の入らない道すじであろう(so he implies in his Reply to Objections IV).

しかしこころによる貢献がないところでは、行為は特性的には人間のすがたをあらわさないであろう。

デカルトはゾンビの観念を生み出すには至らなかった、そしてゾンビの可能性の問いはかれのためにはおこらなかった。

最も近いものはautomataであったその行為は人間としては十分でないものとして容易に認知されうるものであった。

19世紀では科学者は物理学が物理事象をすべて説明することが可能であると考え始めたのである。

 

それはすべての物理的効果はその物理的原因をもつようにみえたのであった;物理的世界は因果性のもとで‘closed under causation’閉じられている。

しかし人間行為が物理的に説明可能であるなら、意識はいかにしてこの物語に適応してくるなだろうか?

ひとつの答え―物理主義(または物質主義)―は意識もまた物理的プロセスのみを含むというものである。

しかしながら、意識現象はこれらの用語において取り上げることは困難である、そしてある思想家は非物理的ななにかが含まれるにちがいないと結論した。

もし物理的なものとして因果が閉じられているなら、それらは、意識は物理的世界になんら影響を与えないという結論へ強制されたのである。

この見解のもとで人間は‘conscious automata’意識的オートマタである、T. H. Huxleyはそのように唱えた;すべての物理的事象で人間行為を含むものは物理的プロセスの用語で説明できる;そして意識の現象は因果的には不活性な副生物であるとした―epiphenomena随伴現象である(see James 1890, Chapter 5).

 

この見解は、意識は欠落しているのを除けば全くにわれわれに似ている純粋に物理的組織がありうることにつながるものとして事実上明確になったのである。

  1. F. Stout (1931)は、もし随伴現象主義(より親近感のある用語としては‘conscious automaton’ theory意識的オートマトン理論)が真であるなら、それはその構成およびその性質は当然として、いかなる個人的経験はなかく、かつ嘗てなかったゆえに、それがそれと同じものであるであろうということ、それはまったくに信に耐えるものという論に展開したのである。

人間の体は依然として行動をとおして、そして橋をつかい、電話と電報をつかい、本を書いたり読んだりするし、議会で弁じるし、物質主義について論陣を張る、その他を行うのである。

これがコモンセンスへの信じがたい prima facie である(138f.)ことになんら疑いをはさむものはない。

Stoutがここで記述しそして信じがたいprima facieを見出したがそれは全体がzombie world:ゾンビ世界である:それらの物理的プロセスはcausation因果性で閉じていて(かれは攻撃をし続けている随伴現象者のようにである)、そしてそれらはactual world,実際世界を全きに複写したものであるが、しかしそこにはなんらconscious experiences意識経験が存在しない。 

同様の観念は1970s年代での物理主義の論議でのながれともなっている。

psychophysical identity theory心理物理的同定理論でのひきあう相手としては‘imitation man’,模造人間がある、かれの「脳状態はまさしく物理‐科学的特性におけるわれわれと並行している」がかれは痛み感じないし、また色彩をみない(Campbell 1970)。   

ゾンビは一般的に物理主義でのひきあう相手であり、そして論議はそれがpossible可能であるというintuition洞察性を支持するよう練られたものになっている(Kirk 1974a, 1974b:

かれは物理主義がひとをして‘Entailment Thesis’「縁故命題」に関わらせることになる、これによってその世界についての純粋なphysical truths物理的真はlogical論理的もしくはconceptual概念的必要性によってmental truthsこころの真とつながせるのである)

他のシステムでは通常の人間のように振る舞いまたは機能的に人間に似せて目の前に表すのであるが、しかしわれわれが所有している‘qualia’クオリアは欠落しているBlock 1980a, 1980b, 1981; Shoemaker 1975, 1981)。

(項目 qualiaをみよ。大雑把に言えばqualiaは特性であり、それによって、われわれの経験をそれが何に似ているかに基づいて分類分けする;たとえばそれは炒ったコーヒー豆の香りと似ているといったものである。

物理主義者でさえこの表現を一貫して使う、二元論者とは異なり、彼らはqualiaを物理的なものと受け止めている)

 

物理主義者に抗したゾンビ観念のもっとも系統的使用はDavid Chalmers (1996)によってなされている、彼のこの論争への貢献はおよそ以下である。

ゾンビは物理主義での対抗馬であるというなら、それはかれらゾンビが通常人間とおなじように振る舞い、そして機能的であるというには不十分である;多くの物理主義者はわれわれ自身の単なるふるまいや機能的なduplicates複写にはqualiaが欠落していることを受け入れているからである。

ゾンビは物理的意味すべてにおいて通常の人間のようでなくてはならない、そしてかれらは物理主義者が想定する我々所有する物理的特性を持たなくてはならない。(認識論上の異なるゾンビ種をつかうためにはLyons2009を見よ;興味ある他の種としては物理主義者を危機に貶めないようにすべきであり、それにはOlson 2018をみよ)

このことはゾンビが物理的なものの因果性で閉じているという課題意識を彼らに要求しているのである、これは物理主義へのひとつの挑戦でもある、なぜなら彼らはその因果性に意識の欠如を想定しているからである。

そのかわり、彼らはその行動が物理的に説明されえない被創造物として認知されるべきであるとするなら、物理主義者はその観念をもってそれを妨げる理由をなんら持たないのである;われわれの動機は、これをepiphenomenalists随伴現象主義者が保持するのであるが、物理的術語においても実際上、説明的できるたくさんの証拠がある。(see e.g. Papineau 2002).

通常の仮定として、われわれはだれもが実際上、ゾンビではないこと、そしてゾンビはわれわれの世界には存在できないとする。

中心的設問ではしかしながら、ゾンビがこの世界において存在できるかではない、しかしゾンビすべての世界がしかるべき広域的意味で可能であるかである(それはときどき、仕事をするのにより適正なる観念となるのである)。

 

  1. Zombies and physicalism ゾンビと物理主義

Saul Kripke’sのmetaphor類推が、ゾンビ観念が物理主義を如何にして脅かすかを証明する助けになった(Kripke 1972/80, 153f.)。

God神がこの世界を創造しそして物理的宇宙全体を存在にもちこんだことを想像してみよう。

この純粋に物理的宇宙を創造したあとに、彼はconsciousness意識のためにさらになにかの仕事をしなければならなかったであろうか。

この答えがYesであることは純粋に物理的事実だけが提供するよりも多くをものが意識に提供されたことを意味している。

もしなにもないというなら、それは、意識は最小限非物理的特性に依存していることを意味し、それは純粋に物理的世界では存在しえないものであり;それがゾンビ世界ということになろう。

物理主義者は一方、この質問の答えとしてNoに与する。

かれらはつぎのように言うことになろう;純粋に物理的事実を確定することによって、God神はその有機体についてのこころの事実を確定する必要があるすべてを行う。それはその有機体によって生まれるもの、それからのthoughts, feelings, emotions, and experiences.

思考、感覚、感情、そして経験を含むのである。

そして物理的事実を確定することがそれだけでこころの事実を確定するに十分ということであり、したがってそれはゾンビ世界が不可能であるように見えてくる。

しかしながら、物理主義がゾンビの不可能性とつながっていることに合意していないひとたちがある。

そのひとつとして、物理主義者は純粋にすべての物理的展望においてわれわれの世界のまったくの複製であるような世界が可能であるということを認めていること、しかしここでの物理的特性はわれわれの世界での意識を起こすが、その特性がまた意識をブロックする非物理的な項目によってそれを為さしめないということを認めている。

それが物理主義者をしてゾンビ世界の可能性をゆるす結果となっている。

 

そのような‘blockers’阻止者についてはHawthorne 2002b; Chalmers 2010, 163–165をみよ)

このアプローチは、しかしながら、あきらかに意識状態が物理的もしくは機能的状態によって同定もしくは構成されたものであるというにはつじつまがあわなくっている。

そこで物理主義者は矛盾なく意識ブロック者の可能性をゆるすことは自明ではなくなる。

如何様であれ、どのような非可能性がここでは適正であるだろうか。

物理主義者がまさに言うことのできないのはゾンビが自然則によって違反しているということである、なぜなら二元論者でさえ、その意味でゾンビは不可能でることを認めているからである;それらは我々についての物理的事実はそれらと一緒に意識を持ち来たらすことをnomological necessity論理上の必要性によっている。

さて、沢山の哲学者(おおくはゾンビ観念に影響をうけている)がphysical facts物理的事実からのconsciousness意識への結合性は広い意味でさえlogical論理的ではないと信じている。

そしてたしかにphysics物理学のconceptual scheme認知的(概念的)仕組みはthe physical物理的なものからthe experiential or経験的ものもしくはphenomenal現象的なものへとlogical links論理リンクを可能にするようにはみえない。

しかしながら、ゾンビが実際にconceivable認知可能でないにもかかわらず、ある者は論議する(Kirk 2005, 2008, 2013; Tye 2006)またKirk (2013)もまたつぎの態度をたもつ;

あるゾンビはphysical facts物理的事実が先見的なconscious experience意識的経験について真となるように尾を引いていないにもかかわらず、それがlogical necessity論理的必要性によって尾をひいている場合がある。

依然として、沢山の物理主義者は何がzombiesゾンビのimpossibility不可能性かを保証するのは‘metaphysical’形而上学的必要性からのものであると主張する。 

典型的にかれらはphenomenal consciousness現象的意識状態はphysical states,物理的状態であると同定すること、そしてこれらの同定性はKripke(see e.g. McLaughlin 2005, and for criticism, Stoljar 2000)がいうように事後的に必要となるとしている。 

 

 

しかし、possibility可能性と necessity必要性の語彙の定義はslippery定まっていない。 

たとえばlogical論理的とmetaphysical形而上学的なpossibility可能性が異なるかどうかについてのdisagreement不一致の例はある(see supervenience, Section 3.1);  Kripke (1972/80)がlogical論理的とmetaphysical possibility形而上学的可能性について書くとき、彼はこれらの語が相互交換であるように使用するようである(Yablo 1999: 457n.)そして‘logical’「論理的な」の使用では、他のひとは‘conceptual’「認知的」を好む(Chalmers 1999: 477); つぎの場合とも比較せよ( Latham 2000, 72f.)  

 

おおくのひとが考えることは、もしphysical facts物理的事実がmetaphysical necessity形而上学的必要性によりconsciousness意識性につながるなら、そこには物理主義者はつぎの態度を保持する、すなわちゾンビがmetaphysically impossible形而上学的不可能としても、それらはconceivable認知可能であるものとして依然につながりがあるとするのである。(Balog 2012; Loar 1990/97; McLaughlin 2005; Sections 5.1, 5.2 below) 

一方、Chalmersはconceivability認知性の実際でmetaphysical possibility形而上学的可能性へのつながりが、もしかれが正しければ、人気ある物理主義ブランドは輝きを失うということになる。  

‘conceivability argument’認知(概念性)性論争とよばれるものはゾンビの可能性に向かうものであるが、ゾンビ観念によって起こされる主なる設問は論議するためのひとつの焦点を提供することになる。 

 

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朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

2024-02-19 10:13:43 | 研究論説

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

翻訳 Zombies ゾンビについて

Zombi, its philosophical background

 

 

Yasumasa Arai

194-0002  Minami Tsukushino,

Machida,Tokyo

E-mail: araraiypol1a@ozzio.jp

 

荒井康全

194-0002  東京都町田市

町田市南つくし野

携帯電話:080-8834-8411

       

 

概要:ゾンビは、哲学的には‘other minds’ problem他者のこころの問題であり、想像上の被創造物でありconsciousness意識とphysical world物理的世界との関係についての問題を際立たせるために企画されたものである。  映画や魔術のなかとは違って、それらは物理的省察における我々と全く似ている者であるが、しかし、意識的経験を伴わない者である。ゾンビの哲学的な意味と位置付けについての解説である。本稿はスタンフォード哲学百科の主として翻訳せある。 

キーワード:ゾンビ、意識、クオリア、哲学

 

Abstract: Zombies in philosophy are imaginary creatures designed to illuminate problems about consciousness and its relation to the physical world. Unlike the ones in films or witchcraft, they are exactly like us in all physical respects but without conscious experiences: by definition there is ‘nothing it is like’ to be a zombie.

 Yet zombies behave just like us, and some even spend a lot of time discussing consciousness.

This article mainly constitutes of Japanese language translation from issue’ Zambi ‘of Stanford Encyclopedia of Philosophy.

Keywords: zombie, consciousness, qualia, philosophy

 

 

(目次);

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

本文題名   翻訳 Zombies ゾンビについて

preface

はじめに

原典へのアクセス

 

本文目次

1. ゾンビの観念 The idea of zombies

2. ゾンビと物理主義 Zombies and physicalism

 朝日記240219 その1 Zombies ゾンビについて

 

3.ゾンビの可能性についての概念可能性の議論 The conceivability argument for the possibility of zombies

4.ゾンビは概念可能か Are zombies conceivable?

 朝日記240219 その2 Zombies ゾンビについて

 

 

4.1 ゾンビの概念可能性のための論議 Arguments for the conceivability of zombies

4.2 ゾンビの概念可能性に対する論議 Arguments against the conceivability of zombies 

朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

 

5.概念可能性は可能性を紐づけするか Does conceivability entail possibility?

5.1 後天的必要性にもとづく反対 Objections based on a posteriori necessity

5.2 現象的概念戦略 The phenomenal concept strategy

5.3 ラッセルモニズム Russellian monism

5.4 他の反対 Other objections

朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

 

6. 他の項目  Other issues

6.1 メンタルな起因性 Mental causation

6.2 意識の機能 The function of consciousness

6.3 他者のこころ Other minds

7.結論  Conclusion

朝日記240219 その5 Zombies ゾンビについて

 

訳者所見

現代意識問題と総合知科学の挑戦について

総合知科学の挑戦
1.ゾンビについて
2.クオリアについて
3.こころと他者のこころ
4.クオリアとゾンビの階層への位置づけ 

付録1 Russell主義の一元論 Russellian monism

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

 

 

(原典 参考文献等)

参考文献 Bibliography

学術的道具 Academic Tools

他のインターネット資源 Other Internet Resources

関連した窓口 Related Entries

朝日記240219 その6 Zombies ゾンビについて

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

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朝日記231023 課題研究論文等目次と概容 とインデックス (続き 2)

2023-10-23 18:10:56 | 研究論説

 朝日記231023 課題研究論文等目次と概容 とインデックス (続き 2)

朝日記231023 課題研究「システム思考での目的論理の構造と社会倫理について」インデックス (リスト 1 )

インデックス (リスト 1 )

「システム思考での目的論理の構造と社会倫理について」

荒井康全課題研究論文等 目次と概容 とインデックス(October, 2023版)

“ System Thinking, Teleological Structure and Social Morality”;

Contents and Abstracts

 

荒井 康全

11

SJ2018-02

【提言】
2050 年までのエネルギー政策と新核兵器廃絶運動
Energy policy by 2050 And New nuclear weapons abolition movement

概容 abstract    [i]

神出 瑞穂
荒井 康全

12

SJ2018-05

【論文】
システム思考における目的論理と社会倫理について -IX ヘルマン‐ピラース「技術圏」概念について-
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IX Herrmann-Pillath’s “Technosphere” As a New Discipline

概容 abstract  [ii]

荒井 康全

13

SJ2019-04

【論文】
システム思考における目的論理構造と社会倫理について X ~コロナ疫学モデルの化学反応動力学的解釈と解析法展開~
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality X ―Pandemic Social Modeling, its Perspectives to Chemical Engineering Kinetics ―

概容 abstract  [iii]

荒井康全

14

SJ2020-01


【巻頭言】

「Disposition(晒し)」ということについて

概容 abstract   [iv]

荒井 康全

15

SJ2020-05

【論文】
システム思考における目的論理構造と社会倫理について XI ~ アレキシウス・マイノングと「非存在性対象」を 考える意味と効用について~
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XI ―Alexius Meinong and his Concept on Non-existent Object―

 

概容 abstract    [v]

荒井 康全
Yasumasa Arai

16

SJ2020-08

【研究ノート】
国語の試験問題を読む「共通 1 次」を読書すること(国語はおもしろい)
Why Not Enjoy the Literature Exams?

 

概容 abstract    [vi]

荒井 康全
Yasumasa Arai

17

Under Preparing to upload

【論文】

システム思考における目的論理構造と社会倫理 XIII 「意識」について考えること Chapter-wise Summaries and Comments to Article ‘Consciousness’(Stanford Encyclopedia of Philosophy

朝日記120910(その1表紙ページ) システム思考における目的論理構造と社会倫理 XIII「意識」について考えること (その1)

 

概容 abstract    [vii]

荒井 康全

Yasumasa Arai

18

Under Preparing to upload

【Communication】

システム思考におけるに目的論構造と社会倫理について XIV ~L. Ciompi 「システム理論における感情の意義について」~ On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XIV Ciompis’ Note “On the Significance of Emotions in System Theory”

朝日記230910L. Ciompi 「システム理論における感情の意義について」システム思考におけるに目的論構造と社会倫理について XIV

 

概容 abstract   [viii]

荒井 康全

Yasumasa Arai

19

Under Preparing to upload

【Shorter Communication】

徒然こと「丸い四角は、まるいか」

朝日記23091 1徒然こと「丸い四角は、まるいか」

 

概容 abstract     [ix]

荒井 康全

Yasumasa Arai

 

ニュース!学会誌2022年度版に掲載予定の報文、”焼き立てほやほや”が以下から

御覧になれます;

朝日記240325  私が2023年に書いた報文コレクト

 

~~~以下は、各報のの概容と本文アクセスができます~~~

インデックス (リスト 1 )

 以下は、各報のの概容と本文アクセス アイコンです;

 

[i] ’(本文)⇒ SJ2018-02

 

(アブストラクト)↓

No.11 提言:2050 年までのエネルギー政策と新核兵器廃絶運動  総合知学会誌 Vol.17, 2018

 Recommendation: Energy policy by 2050 And New nuclear weapons abolition movement Mizuho Kamide 神出 瑞穂 Research Institute for Science 科学技術・生存システム研究所 ・Technology& Living System 〒221-0852 10-8 Mituzawasimotyou, Kanagawa 横浜市神奈川区三ツ沢下町 10-8 Yokohama, Japan 221-0852 電話/FAX:045・321・9032 E mail: kamide-mizuho@max.hi-ho.ne.jp

 

 [Abstract]The main force to rethink Japan's energy policy from 2020 to 2050 is the people. Under this premise, I make seven recommendations. “Suspension of nuclear power plant to fulfill collective responsibility” “Concentration on decommissioning and radioactive waste treatment” “Release nuclear power from national security issues” “Equal public burden on radioactive waste treatment” “New “National Choice, Decisions and Challenges for Energy Innovation” “The Significance of Japan as an Energy-Independent Country” "New movement to abolish nuclear weapons by Japanese who experienced exposure and nuclear accident".

[Keyword] collective responsibility、Suspension of nuclear power plant、 decommissioning 、radioactive waste treatment、Equal public burden、Energy Innovation、 Energy-Independent Country、Abolition of nuclear weapons

[要旨]2020 年から 2050 年までの我が国のエネルギー政策として、考え直す主体者は国民であるという基本認識のもと「集団の責任としての原発の休止」「廃炉と放射性廃棄物処理への専念」「原発の安全保障問題からの解放」「放射性廃棄物処理についての国民の平等な負担」「新エネルギー革新への国民の選択、決断 と挑戦」「エネルギー自立国日本の意義」そして「被爆と原発事故を経験した日本人の新しい核兵器廃絶運動」の 7 つの提言を行う。

 [キーワード]集団の責任、原発稼動休止、廃炉、放射性廃棄物処理、国民の平 等な負担、新エネルギー革新、エネルギー自立、新核兵器廃絶運動

 

 

 

[ii] (本文)⇒ SJ2018-05

(アブストラクト)↓

No.12   システム思考における目的論理と社会倫理について IX  

総合知学会 Vol.17, 2018 117

ヘルマン‐ピラース「技術圏」概念について

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IX Herrmann-Pillath’s “Technosphere” As a New Discipline

 

 Abstract: General System Thinking is a discipline of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. I especially look into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said. I enquire into the concept of purpose in its human and social dimensions. In this context, I take here, again a Carsten Herrmann-Pillath’s paper, and present its translation work into Japanese language. His paper is the philosophical case for ‘technosphere science’ that draws on results of many other disciplines reaching from physics to the social sciences and humanities. In this paper, I also add my comment essays for it.  

Keywords: Anthropocene, Technosphere, Anthropocentrism, Artefacts, General theory of evolution, Functions, Networks Agency, Energy, Information, Thermodynamics, Maximum power, Categorical imperative

 

概容:一般システム思考は、目的と制約条件をもつ対象に関する理論である。著者は、こ れを人間自由意志と自然因果関係とに還元して意思決定の意味を展開し考察してきた。こ れらは、システム思考と一般目的論の論理構造と社会倫理への「構成的説明」であり、と くに異なる価値体系との共約不可能性への解明に焦点が当てられてきた。

 本報は、その思考枠組み一環としてカルステン・ヘルマン‐ピラースの論文である“「技術圏」科学、新しい学領域のための考察”の翻訳と考察をおこなうものである。

 キーワード:アントロポセン, 技術圏, 人間中心主義, 人工体, 一般進化論, 機能, 関数, ネ ットワーク, 機関, エネルギー, 情報, 熱力学, 最大出力, 定言命題

 

 

 

[iii] (本文)⇒SJ2019-04

(アブストラクト)↓

 No.13  システム思考における目的論理構造と社会倫理について X  総合知学会 Vol.18 2019 63

~コロナ疫学モデルの化学反応動力学的解釈と解析法展開~

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality X ―Pandemic Social Modeling, its Perspectives to Chemical Engineering Kinetics ―

Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author looks into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said. He enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions. The author has noticed COVID-19, as far as presently vandalic virus storms, and he has payed his focus on mathematical modeling method to enzyme catalytic reaction mechanism as a frame idea of epidemic kinetics. 1. He looked at public data of John-Hopkins. 2 . He selected 8 countries, like as UK, USA, and Japan, under a discipline of chemical kinetic parameters at both data for infection cases and deaths,respectively. 3. He had successfully determined the values of parameters. 4. He has examined parameter fitting availability to the modeling equations. 5. He has reached the features for further investigation works.

Keywords: COVID-19, reaction kenetics, enzyme catalytic reaction, 2nd order reaction model,  countries data analysis

 

要約:一般システム思考は、目的と制約条件をもつ対象に関する理論である。著者は、これを人間自由 意志と自然因果関係とに還元して意思決定の意味構造を考察してきた。 本報は、2020 年全世界を席捲し、なお終息をみせないコロナ・パンデミックに着目し、これを一旦、人間―ウィルス系異種間の生命系の競合・共存として相互自律(再生・進化・固定)関係をもつシステム としてとらえるものである。この関係の構造と機能を成り立たせる基本力学構造として化学反応工学上 の酵素触媒機構に着目し、候補モデルとして取り上げ、自然生態系や社会生態系をつなぐ現象アナロジーとしてみるものであり、今後の現象解明と方策に有効な内容を提起する方法論として見る。今回は、 いくつかの国についてその感染者と死亡者の公表データからモデル定量化を調べ、今後の研究の意味付けと有用性を考察するものである。

 キーワード:コロナウィルス、反応動力学、酵素触媒反応、2次反応モデル、 各国間比較

 

 

 

[iv] (本文)⇒SJ2020-01

(アブストラクト)↓

 No.14  巻頭言 「Disposition(晒し)」ということについて 会員 荒井 康全

総合知学会誌 Vol 19,2020

 

Keywords:   Alexius Meinong、 value experience、actual value、Objectivized Dispositional

キーワード;マイノング 価値経験 実際的価値 価値の客体・客観化 客観化された集合意識「晒し」

 (2021-10-15)

 

 

 

[v] (本文)⇒SJ2020-05

(アブストラクト)↓

No.15  システム思考における目的論理構造と社会倫理について XI

総合知学会誌 Vol 19,2020 53

 

~ アレキシウス・マイノングと「非存在性対象」を 考える意味と効用について~

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XI

―Alexius Meinong and his Concept on Non-existent Object―

 

Abstract : General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author looks into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said. He enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions. The author has paid his concern to Alexius Meinong(b.1853, d.1920,),who was Austrian Philosopher and Psychologist at the University of Graz. He became primarily renowned for so called theory of objects, a kind of a priori ontological account that introduces and considers systematically not only existent but also non-existent objects. This paper gives readers Meinong’s academic profile in Japanese language translation from using articles of Stanford Encyclopedia of Philosophy and some analytic interpretation over key concepts wherein. Keywords; Alexius Meinong, State of the Affairs, Non-existent object, Theory of Object, Value of Objectivism, Stanford Encyclopedia of Philosophy

概容:一般システム思考は、目的と制約条件をもつ対象に関する理論である。著者は、これ を人間自由意志と自然因果関係とに還元して意思決定の意味構造を考察してきた。 本報は、オーストリーの哲学者であり心理学者であったアレクス・マイノング(b.1853, d.1920,)の哲学、就中、目的論の構造に焦点をあて、以下の視点からの解説と考察するものである;1.かれが人間のこころの意識の中身の意味の表現先を「対象」化したこと。 2.その「対象」がときに遭遇するであろう「非存在性」領域を認め、それがもたらす意味 と意義を位置付けたこと。また、3.それがもたらす社会的価値の共有形成、責任帰着について。本稿の内容記述は、スタンフォード哲学百科の項”Meinong“の和訳を骨格とている。

 キーワード: アレキシウス・マイノング、物ごとの事態、非存在性対象、対象の理論、オ ブジェクティブ社会学、スタンフォード哲学百科

 

 

 

[vi] No.16(本文)⇒ SJ2020-08

[Communication]

(アブストラクト)↓

 国語の試験問題を読む 「共通 1 次」を読書すること(国語はおもしろい)

総合知学会誌 Vol 19,2020     

 Why Not Enjoy the Literature Exams?

 

 Abstract: He has constantly payed his focus on yearly unified nation-wide exams for university entrance qualification. This is a collect of this author’s short essays to commentaries on the problem issues, particularly with respect to the examination session of Japanese contemporal literature writings as materials.

keywords: commentary. con-temporal literature, Japanese, university exam, problem material

概要;筆者はほぼ各年に大学共通一次試験の国語科の課題文に焦点をあて、感想を記してき た。これをあらためて、集合としてみると現代社会がかかえる本質問題としての視点の スペクトルがあきらかに浮上しているようでもあり、時代のエヴィデンスをみることにな るようにも思える。一方、筆者は国語科目が各人の本質思考への素養への啓蒙・啓発性に基本であるとするも、何故か、その逆になってしまっていることに危惧しているひとりである。

キーワード:現代文、本質問題、時代エヴィデンス、啓蒙素養

2021/10/27

 

[vii]  (本文)⇒朝日記120910(その1表紙ページ) システム思考における目的論理構造と社会倫理 XIII「意識」について考えること (その1)

(アブストラクト)↓

No.17 システム思考における目的論理構造と社会倫理 XIII

総合知学会誌 Vol 20, 2021

「意識」について考えること

Chapter-wise Summaries and Comments to Article

‘Consciousness’(Stanford Encyclopedia of Philosophy)

 Abstract:

 General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author has looked into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said.  He enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions.

The problem of consciousness is arguably the central issue in current theorizing about the mind. This article gives translator’s chapter-wise summaries and comments of the Stanford’s original article of the title above, which treats to understand both what consciousness is and how it relates to other, nonconscious, aspects of reality.

(keywords) mind, consciousness, nonconscious

概要: 一般システム思考は、目的と制約条件をもつ対象に関する理論である。著者は、これを人間自由意志と自然因果関係とに還元して意思決定の意味構造を考察してきた。

本発表は、意識とは生命体があることに「目覚めている」の状態であって、これをDisposition(晒し)として意味表象する。これは集合体の意識とそれが向かう対象とによって構成する現象上の事態(state of affairs)である。 複雑な対象挙動に対して、ときに柔軟にして高次の目的行為に指向せしめることをもって尊ばれてきた。一方、現代の脳神経信号系に代表される物理主義的方法によるボディ-マインド水準での意識解明は圧倒的な成功があった。しかしながら、後者の高次意識解明への可能限界がようやく明らかになり、前者形而上学系が急速なる地位回復の過程にあるといわれる。今回は、スタンフォード哲学百科からの現代的なレビューを紹介し、価値客観主義と価値主観主義の超克への思考へつなぐものである。

(キーワード ) こころ、 意識、 非意識

(2022-10-17版)

 

 

[viii] (本文)⇒ 朝日記230910L. Ciompi 「システム理論における感情の意義について」システム思考におけるに目的論構造と社会倫理について XIV

(アブストラクト)↓

No.18  [Communication]システム思考におけるに目的論構造と社会倫理について XIV

総合知学会誌 Vol 20, 2021年度

~L. Ciompi 「システム理論における感情の意義について」~

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XIV

Ciompis’ Note “On the Significance of Emotions in System Theory”

 

(Abstract) This is an article which pays regard to Luc Ciompi (born 1929), Swiss psychiatrist, Schizophrenia researcher, pioneer of integrative psychiatry and founder of Affect-Logic celebrates his 90th birthday. He particularly claims  a frame of paradigm with regard to the significance of emotions and their interactions with thinking and acting, current concepts He widely to proposes  ten of central theses on the interaction of emotion and cognition. especially with stress to pay his focus on methodological scope to so called Fractal phenomena, such as bifurcation, or non equilibrium phenomena, as cybernetically dynamical system with respect to social and mental process, which hopefully plays both in the psychological and in the social sphere, as indispendable  regulators of behaviour and reducers of complexity.

(Key words): emotion, cognition, Fractal, social and mental process

 

(概容)Ciompi L. はスイスの精神治療医師である。ドイツ語圏でのシステム理論はNiklas Luhmannの現象構造理解を核とする理論がひろく理解されている。Ciompiは社会的空気が個々の感情と思考の結合単位との単位間の相互作用状態をシステム上の高次構造としてとらえた。これが動力学的(時間)に変化するものとしその‘複雑構造’をフラクタル構造としてとらえ、これを使っての感覚と思考からの行為(なんらかの出力)を階層的システムモデル化し、それによって多様に変化する社会的感情出現の現象論的理解と予測の方法論の分野発展の提案をよびかけている。本稿はかれの提案10項目の概容の紹介である。Ciompiは現在91歳でなお健在であることをつたえてぉきている。

(キーワード);感情、認知、フラクタル理論、社会、こころ

 

 

[ix] No.19(本文)⇒朝日記23091 1徒然こと「丸い四角は、まるいか

(アブストラクト)↓

( 総合知学会誌 vol.20,2021年度)

【コミュニケーション】徒然こと「丸い四角は、まるいか」

  Communication to Mr. KAMIDE,Mizuho; “Is round square round?” Some collections from my notes;          

 

敬愛する友人との神出瑞穂氏との交信 
ご講演レジュメ「原発―廃炉と集団の責任」へのコメントのご依頼の件として 
 小生、この十年来、総合知学会誌に継続課題として投稿し、今回はつぎの副題のものと
して投稿課題に至りました(総合知学会誌 2020); 研究課題「システム思考における目的論構造と社会倫理」XI ~アレキシウス・マイノングと「非存在性対象」を考える意味と効用について~ 
 なぜ、ここに取りついたかという自問をおもうに瞬間、 ‘自分はいまどこに?’ の戸
惑いを感じますが、もともと、思考道筋自体をしっかりしたレジメを設けてスタートする
ことは、私の場合まずありませんでした。その都度の書きものについては、その思考の一
部をまとめることになりますから、その構造や思考のながれは、一応は明示することにな
ります。 
 目下そのまとめの最中で、苦闘している最中です。もともと貴レジュメに感想を書くな
どの精神的な余裕もあらばこそ,と申したいところですが、拝読しているうちに、実によき
タイミングで当方の思考へのまとめのための切り口をいただいていることを感じ取り、う
まくいくかどうか、貴兄から合格点をいただけるかどうか、おぼつきませんが、コメント
になんらかにつながる項目だしをすることにしました。小生の投稿課題の作業の一環とし
てのものでもありますので、章節の記述の比重が当方の都合に傾いて’disposing’している
ことをおゆるしください。 
貴兄から投げかけられた以下の keywords を意識して、思いのままを綴ってみます; 
*NIMBY 問題 
*集団の責任 
*国民の自覚 国民的の良識と道徳観 倫理的価値判断>技術的、経済的価値判断 
*復興 resilient な責任感 
*確立と実行 官産学 強固な連帯責任体制 

インデックス (リスト 1 )

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朝日記231023 課題研究「システム思考での目的論理の構造と社会倫理について」インデックス (リスト 1 )

2023-10-23 18:02:09 | 研究論説

朝日記231023 課題研究論文等目次と概容 とインデックス(リスト 1 )

朝日記231023 課題研究論文等目次と概容 とインデックス (続き 2)

 

 

~~~~~~~本文~~~~~~

「システム思考での目的論理の構造と社会倫理について」

荒井康全課題研究論文等 目次と概容 とインデックス(October, 2023版)

“ System Thinking, Teleological Structure and Social Morality”;

Contents and Abstracts

 

荒井 康全

上席化学工学技士

TEL;042 795 3348

Yasumasa Araia

Senior  Professional Chemical Engineer

Email: araraiypol1a@ozzio.jp

 

荒井康全の総合知学会課題研究「システム思考で目的論理の構造と社会倫理について」論文等投稿リスト(October, 2023版)

Article Issues List of On “ System Thinking, Teleological Structure and Social Morality”

  Content is shown at clinking a mark in cell, and Abstract is read at clicking mark of red letter in cell.

No.

contents

 title

author

year

1
 

SJ2013-05

【論文】 序論 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について I
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality I

Introduction

 

概容abstract  [i]

荒井康全

2013

2

SJ2013-08

( システム思考での目的論理の構造と社会倫理について III)

【研究ノート】 目的論理の構造としての「自由意志」と「因果性」を考える
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality III

Essays and Briefings on “Human Free Will” and “Natural Causality”
-Reflection on Kant’s Critique of Pure Reason-

概容 abstract  [ii]

荒井康全

2013

3―1

SJ2014-01

【巻頭言】 「形而上学への意識」
Prefatory Note [iii]

荒井康全

2014

3-2

SJ2014-08

【論文 】 システム思考での目的論理の構造と社会倫理についてII
(目的性論理の価値認識の「上限境界線」を考えること)

System Thinking, Teleological Structure and Social Morality II

( On Frame-work Seeking onto Upper-Bounds of Objectives )   [iv]

 

荒井康全

2014

4

SJ2015-01

【巻頭言】 アダム・スミス問題と道徳性について
Prefatory Note   [v]

荒井康全

2015

5

SJ2015-07

【論文 】 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について IV

 価値の共約不可能性と多元主義について

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IV

Essay on Frame work on Value Incommensurability and Value Pluralism

概容 abstract   [vi]

荒井康全

2015

6

SJ2015-08

【論文 】 システム思考における目的論理と社会倫理についてV
制度(論)からみたシステムの多元的目的論理
System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IV
Social Institution, and System Pluralism

概容 abstract  [vii]

荒井康全

2015

7

SJ2016-09

【論文 】Paper
システム思考における目的論理の構造と社会倫理について VI
カルステン・ヘルマン‐ピラース
「エントロピー、機能(関数)および進化:パース記号論の自然化」
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality VI
Carsten Herrmann-Pillath “Entropy, Function and Evolution”

概容abstract    [viii]

 

荒井康全

2016

8

SJ2016-10

【論文 】Paper
システム思考における目的論理 の構造と社会倫理について VII
カルステン・ヘルマン-ピラース
「熱力学と経済学を統合化する方法論的枠組みとしての構成的説明」
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality VII
Carsten Herrmann-Pillath “Constitutive Explanations as a Methodological Framework for Integrating Thermodynamics and Economics”

 

概容abstract  [ix]

荒井康全

2016

9

SJ2016-12

【パブリックコメント 】Public Comments
「原子力利用に関する基本的な考え方」策定の向けたご意見の募集
About recruiting opinions for the formulation of “basic way of thinking about nuclear energy use”

 

概容abstract  [x]

荒井 康全

2016

10

SJ2017-05

システム思考による目的論構造と社会倫理について VIII
~‘こころとOS’とアルゴリズム・パラダイムについて~

System Thinking, Teleological Structure and Social Morality(On ‘Mind and OS’とアルゴリズム・パラダイム)

概容 abstract    [xi]

荒井 康全

2017

11

SJ2018-02

【提言】
2050 年までのエネルギー政策と新核兵器廃絶運動
Energy policy by 2050 And New nuclear weapons abolition movement

概容 abstract  インデックス (続き 2)

神出 瑞穂
荒井 康全

2018

 

12

SJ2018-05

【論文】
システム思考における目的論理と社会倫理について -IX ヘルマン‐ピラース「技術圏」概念について-
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IX Herrmann-Pillath’s “Technosphere” As a New Discipline

概容 abstract インデックス (続き 2)

荒井 康全

2018

13

SJ2019-04

【論文】
システム思考における目的論理構造と社会倫理について X ~コロナ疫学モデルの化学反応動力学的解釈と解析法展開~
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality X ―Pandemic Social Modeling, its Perspectives to Chemical Engineering Kinetics ―

概容 abstract  インデックス (続き 2)

荒井康全

2019

14

SJ2020-01


【巻頭言】

「Disposition(晒し)」ということについて

概容 abstract  インデックス (続き 2)

荒井 康全

2020

15

SJ2020-05

【論文】
システム思考における目的論理構造と社会倫理について XI ~ アレキシウス・マイノングと「非存在性対象」を 考える意味と効用について~
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XI ―Alexius Meinong and his Concept on Non-existent Object―

 

概容 abstract  インデックス (続き 2)

荒井 康全
Yasumasa Arai

2020

16

SJ2020-08

【研究ノート】
国語の試験問題を読む「共通 1 次」を読書すること(国語はおもしろい)
Why Not Enjoy the Literature Exams?

 

概容 abstract   インデックス (続き 2)

荒井 康全
Yasumasa Arai

2020

17

Under Preparing to upload

【論文】

システム思考における目的論理構造と社会倫理 XIII 「意識」について考えること Chapter-wise Summaries and Comments to Article ‘Consciousness’(Stanford Encyclopedia of Philosophy

朝日記120910(その1表紙ページ) システム思考における目的論理構造と社会倫理 XIII「意識」について考えること (その1)

 

概容 abstract  インデックス (続き 2)

荒井 康全

Yasumasa Arai

2021

 

18

Under Preparing to upload

【Communication】

システム思考におけるに目的論構造と社会倫理について XIV ~L. Ciompi 「システム理論における感情の意義について」~ On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XIV Ciompis’ Note “On the Significance of Emotions in System Theory”

朝日記230910L. Ciompi 「システム理論における感情の意義について」システム思考におけるに目的論構造と社会倫理について XIV

 

概容 abstractインデックス (続き 2)  

荒井 康全

Yasumasa Arai

2021

19

Under Preparing to upload

【Shorter Communication】

徒然こと「丸い四角は、まるいか」

朝日記23091 1徒然こと「丸い四角は、まるいか」

 

概容abstract  インデックス(続き 2)   

荒井 康全

Yasumasa Arai

2021

 

~~~~ニュース!~~~

学会誌2022年度版に掲載予定の報文、”焼き立てほやほや”が以下から

御覧になれます;

朝日記240325  私が2023年に書いた報文コレクト

 

以下は、上記リストの報文の概要とアクセスアイコンです;

 

[i] SJ2013-05

 

No.1 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について

-序論 カント「判断力批判」を読んで-

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality  I

- Reflections on Kant's Critique of Judgement –

Abstract: General system thinking is organised fundamentally by objectives and constraints and we look into the meaning of decision making taking into account "human free will" and "natural causality", so-called. That is to say, we enquire into the concept of purpose in its human and social dimensions. We do this with reference to Kant's Critique of Judgement and consider, in particular, the teleological problem structure.

Keywords: General system thinking , Kant's Critique of Judgement ,"human free will" ,"natural causality", teleological problem structure

キーワード:一般システム思考、カント「判断力批判」、「人間自由意志」、「自然因果律」、目的倫理、問題構造

 

 

[ii] SJ2013-08

No.2 ( システム思考での目的論理の構造と社会倫理について III)

【研究ノート】目的論理の構造としての「自由意志」と「因果性」を考える

 -カント「純粋理性批判」の文脈を通して-

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality III

Essays and Briefings on “Human Free Will” and “Natural Causality”
-Reflection on Kant’s Critique of Pure Reason-

 

Abstract: “Human Free Will” and “Natural Causality” have historically bothered our philosophical thinkings as an antinomy of ideas, which were considered as logically inable to stand together. Immanuel Kant, however, had finally solved it by introducing a concept of ‘human under phenomenum’ , discovered in his days of 18th century. This paper is a set of this auther’s essays with discussion briefs, through which is presented readers what and how the solution has fundamentally meant and potentially influenced still now to our social and academic activity of thinkings.

keywords: human will, natural causality, Immanuel Kant, Critique of Pure Reason, phenomenon, noumenon, initiation, epistemology

 

[iii] SJ2014-01

No.3-1 巻頭言「形而上学への意識」

 Consciousness onto Metaphysics

Keywords: システム(System) 「体系」Noumenon(可想体) Phenomenon(可視体(現象体))

「動的世界システム概念」「動的世界システム 概念」

 

[iv] SJ2014-08

 

No 3-2 【論文 】 システム思考での目的論理の構造と社会倫理についてII
(目的性論理の価値認識の「上限境界線」を考えること)

System Thinking, Teleological Structure and Social Morality II

( On Frame-work Seeking onto Upper-Bounds of Objectives ) 

 

Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern taken as organized fundamentally frame with objectives and constraints and this author looks into the meaning of decision making taking into account "human free will" and "natural causality", so-called. That is to be said, he enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions. He does this with reference to Kant's Critique of Judgement and consider, in particular, an ’ upper bound’teleological problem structure. This is a collection of essays, where he places the focus to terms of “transcendental” and “experience” where he reviews the epistemological background through Immanuel Kant, how this philosopher provides ideas to modern science with respect to the status of a prestigious position into human world, and after then , what kind of problem we have unavoidably faces the fundamental problems to be overcome in a view point of philosophy under diversified and fundamental background to morality in order to sustainably and peacefully share globally the

human society and the nature, now and future.

keywords: System Subject, Object, Upper-bound-objectives, Transcendental, Experience,

Model, Ultimate Being, Kant, arbitrate free, Voluntarism, Intellectualism, Parmquist, Model of God

 

キーワーズ: システム、 主観、 客観、 上限目的性、超越論的、 経験、 モデル、 究極存在(者)、カント、見届ける自由、意味論、知性主義、パームキスト、神のモデル

 

 

[v] SJ2015-01

No.4 巻頭言 アダム・スミス問題と道徳性について

 “Adam Smith Problem”

Keywords:「アダム・スミス問題 」「道徳感情論 」道徳性 (morality) 功利主義 超越主義的道徳性 ドイツ政府「安全なエネルギー供給のための 倫理委員会 」

 

 

 

[vi] SJ2015-07

No.5 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について IV

 価値の共約不可能性と多元主義について

 On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IV Essay on Frame work on Value Incommensurability and Value Pluralism (2016/12/16)

 Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author looks into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called. That is to be said, he enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions. He does this at this paper, with reference to the concept “Value Incommensurability” and “Value Pluralism”, where are clues to resolving the problem. A problem between different bearers of value are presented with both keywords of values under corresponding items in conflict. Through this discussion, he will give four items of proposition on the way of guidance to resolve an incommensurability.

keywords: Bearers of value, Incommensurability, Incomparability, Pluralism,

 

 キーワード: 価値所有(者)、共約不可能性、比較不可能性、多元主義

 

[vii] SJ2015-08

No.6 システム思考における目的論理と社会倫理について V

制度(論)からみたシステムの多元的目的論理  総合知学会誌 Vol.2015/1 148

 System Thinking, Teleological Structure and Social Morality IV Social Institution, and System Pluralism 

Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern taken as organized fundamentally frame with objectives and constraints, and this author, so far, has looked into the meaning of decision making taken into account “human free will” and “natural causality”, so called. That is to be said, he extends into the concept of purpose in its individual and social dimension. After his reviewing, through previous papers of this transaction of society, on human objectivity through the reference to Immanuel Kant’s Critique of Judgement, this author has further enquired human-seeking to the logical boundary of his or her upper bound of objectives. This means to consequently appeared to the author, a problem with objective plurality and cultural incommensurability, as an example such as a disputable whale and dolphin conservation and fishery business matter. This article is here, paying his focus taken on John Searle’s theory of Institution and trying enquiring more clear envisage on system objectivities.

 keywords: Institution Agency Plurality Incommensurability epistemical, ontological function, object sign, distributive justice, John Searle, Masahiko Aoki ,Yasumasa Arai

 キーワード:制度 制度論 機関 多元性 共約不可能性 認識論的 存在論的 機能 対象 記号 分配的公正 サール 青木昌彦 荒井康全 

 

[viii] SJ2016-09

No.7 システム思考における目的論理の構造と社会倫理について VI  総合知学会誌 Vol.2016/1

カルステン・ヘルマン‐ピラース「エントロピー、機能(関数)および進化: パース記号論の自然化」  

On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality VI

 Carsten Herrmann-Pillath“ Entropy, Function and Evolution: Naturalizing Peircian Semiosis”

Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author looks into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said. He enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions. He works this at this paper, by Japanese language translating and analytic review on Carsten Herrmann-Pillath’s paper which is the conceptual frame-work in terms of Entropy, Function and Evolution by use of so-called “Naturalizing Peircian Semiosis”. Major concerns here are put as focused on Semiosis shortly as information meaning and function structure. Entropy is introduced here as a clue of quantitative index for potentially measuring human quality scales.

 Keywords: information; functions; Jaynes’ approach to entropy; observer relativity; maximum entropy production; evolution of functions; Peirce’s concept of semiosis; semiosphere

 

キーワード: 情報(information);Jaynes エントロピー・アプローチ;観察者相対性;最大エントロピ ー・プロダクション;機能(関数)の進化(evolution of functions);パース(Peirce)記号概念

 

 

 

[ix]  SJ2016-10

 

No.8 システム思考における目的論理 の構造と社会倫理について VII 総合知学会誌 Vol.2016/1

 カルステン・ヘルマン-ピラース「熱力学と経済学を統合化する方法論的枠組み としての構成的説明」 

 On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality VII

Carsten Herrmann-Pillath “ Constitutive Explanations as a Methodological Framework for Integrating Thermodynamics and Economics”

Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author looks into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said. He enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions. In this context he takes here, Carsten Herrmann-Pillath’s paper which is the conceptual frame-work in terms of “ Constitutive Explanations as a Methodological Framework for Integrating Thermodynamics and Economics””. Major concerns here are put as focused on a common approach to integrating thermodynamics and economics is subsuming thermodynamic aspects among the set of constraints under which economic activity takes place. The causal link between energy and growth is investigated via aggregate econometric analysis.   

Keywords: constitutive explanations; causal mechanisms; energy and growth; rebound effect; urbanization

 キーワード:構成的説明;起因的機構;エネルギーと成長;リバウンド効果

 

[x] SJ2016-12

 

No.9  パブリックコメント「原子力利用に関する基本的な考え方」策定の向けたご意見の募集について   総合知学会誌 Vol.2016/1

Abstract: “About recruiting opinions for the formulation of “basic way of thinking about nuclear energy use” Abstract: The Cabinet Office Nuclear Policy Department offered to call the public comment on the formulation of “basic way of thinking about nuclear energy use.” This author submitted his comment especially from the point of view to the new conceptual definition to ‘risk’ and on ISO31000 as risk management of ISO.

 Keywords: Cabinet Office Nuclear Policy Department, basic way, nuclear energy use, risk concept, ISO31000

 

 キーワード:原子力委員会、リスクの定義、ISO31000、パブリックコメント

 

 

 

[xi]  SJ2017-05

 

No.10 システム思考による目的論構造と社会倫理について VIII   総合知学会 Vol. 16, 2017

~‘こころとOS’とアルゴリズム・パラダイムについて~

System Thinking, Teleological Structure and Social Morality VIII (On ‘Mind and OS’ and Algorithmic Paradigm)

 

Abstract: Goedel’s Incomplete Theorem is known on non guaranty for reaching the truth of the mathematical axiomatic system at early days of the last century, and after then, so called Algorithmic idea is come out in emergence both thorough Turing Machine,and Wiener’s Cybernetic. It is now thoroughly acknowledged as what leads us to the resolutely reality at every field for social and technology domains, i.e. Intelligent Technology(IT). This is collective essays which are of touching with a percept to be shared between Philosophy and Algorithm.

Keywords: Goedel, Incomplete Theorem, Algorithmic methodology, Epistemology Mind and OS

 キーワード:ゲーデル不完全性定理、アルゴリズム、認識論、こころとOS

 

 

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朝日記23091 1徒然こと「丸い四角は、まるいか」

2023-09-11 05:51:51 | 研究論説

朝日記230911 徒然こと「丸い四角は、まるいか」

(総合知学会誌 2021年度)

===研究課題元にかえる;

朝日記230910 寄りそう倫理や社会道徳観などと今日の絵

====

【コミュニケーション】

徒然こと「丸い四角は、まるいか」 

                 ( 総合知学会誌 2021年度発表稿)


総合知学会会員 荒井康全 
2023/2/12 
 
敬愛する友人との交信 
ご講演レジュメ「原発―廃炉と集団の責任」iへのコメントのご依頼の件として 
 
 小生、この十年来、総合知学会誌に継続課題として投稿し、今回はつぎの副題のものと
して投稿課題に至りました(総合知学会誌 2020); 
研究課題「システム思考における目的論構造と社会倫理」XI 
~アレキシウス・マイノングと「非存在性対象」を考える意味と効用について~ 
 なぜ、ここに取りついたかという自問をおもうに瞬間、 ‘自分はいまどこに?’ の戸
惑いを感じますが、もともと、思考道筋自体をしっかりしたレジメを設けてスタートする
ことは、私の場合まずありませんでした。その都度の書きものについては、その思考の一
部をまとめることになりますから、その構造や思考のながれは、一応は明示することにな
ります。 
 目下そのまとめの最中で、苦闘している最中です。もともと貴レジュメに感想を書くな
どの精神的な余裕もあらばこそ,と申したいところですが、拝読しているうちに、実によき
タイミングで当方の思考へのまとめのための切り口をいただいていることを感じ取り、う
まくいくかどうか、貴兄から合格点をいただけるかどうか、おぼつきませんが、コメント
になんらかにつながる項目だしをすることにしました。小生の投稿課題の作業の一環とし
てのものでもありますので、章節の記述の比重が当方の都合に傾いて’disposing’している
ことをおゆるしください。 
貴兄から投げかけられた以下の keywords を意識して、思いのままを綴ってみます; 
*NIMBY 問題 
*集団の責任 
*国民の自覚 国民的の良識と道徳観 倫理的価値判断>技術的、経済的価値判断 
*復興 resilient な責任感 
*確立と実行 官産学 強固な連帯責任体制 
 
 
題して、徒然こと 「丸い四角は、まるいか」です。 
目次 
communications 
204 
徒然こと 「丸い四角は、まるいか」 
 
徒然こと1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について 
徒然こと2 Disposition について 
 「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ 
徒然こと3 「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」から、 
 朝日記 210505 Amazon 書評投稿 
徒然こと4 レジリエンスについて、 
2020 年の大学入試センター試験国語問題 河野哲也『境界の現象学』による 
(読売新聞朝刊 2020 年 1 月 19 日) 
徒然こと5 責任の取り方について 
ヤスパースの「責罪論」を読み終えて 
~ひとまずの結び~ 
 
=======本文 === 
 
徒然こと 「丸い四角は、まるいか」 
徒然こと1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について 
心理学からはじまった「対象の理論」 
墺太利の哲学者アレキシウス・マイノング(Alexius Meinong、b.1853, 1920d.)は 記述
心理学の研究から認識論哲学に至り、ごく一般人レベルのメンタル(こころ)の状態とそ
の意識のもつ意味からの志向活動を「対象」として、とりあげ、今日のシステム論よりも
早い時期に「対象の理論」を著わし、実験的な記述心理学や科学的な実践システム論への
応用をよびかけたひとです。 
近代西洋哲学の歴史として、デカルトにはじまる自分(主体)が考える行動とその結果
としての自分(主体)の存在の証拠(evidence for certainty)とすることの合意がありま
す。 
それはそれとして、認めたうえで、自分が考えたなにか(something)は、存在するのかとい
う問いに対しては、存在のたしかなもの(certainty)に意識と思考は向かうという暗黙の了
解がありました。彼は、彼の師ブレンターノ教授(Franz Brentano. Graz 大学)のもと、
英国経験主義の哲学ヒューム(David Hume, b.1771,1776d.)のながれを取り、経験したもの
はたしかに存在することを実験的に研究します。その意味では、心理学を自然科学と位置
付けます。 
 
こころの志向の意味を対象とすること 
205 
その後まもなく、マイノングは、上述のこころ mental な内容とその意味するものとして
「対象」object の概念を導入します。かれは、考える「こころ」の中身を意味し記述する
ものとしそれを(Evidence for Presumption)「対象」として位置付けます。これにより結果
的に、実際に存在するかどうかわからないが、こころ mental があるとおもっているもの
(so-being object)として「対象」の存在をみとめることにしました。 
 
「シャーロックホームズは、イングランドにうまれ、・・・」 
その典型例としては、「シャーロックホームズは、イングランドにうまれ、ロンドンのベ
ーカー街に住んでいた」、「ペガサスはいた」、「第二種の永久機関は存在する」などです。
(前 2 者と後の 3 番目とは意味が違いますが) 
「シャーロックホームズ」を例にとれば、ひとは、リアルな存在はみとめなくてもその物
語にでてくる存在に意味のリアリティーを共感します; 「語られるものは意味をもつ」
つまり非実在の対象の存在を認めることになります。 これは集合論的な数学の対象にな
り、バートランド・ラッセル(Bertrand Arther WilliamRussel, b.1872,1970d)は、彼の
「記述理論」の適用において、論理演算の過程で非実在の対象があらわれ、結論で消失す
る対象の存在としてみとめ、マイノングのそれは、単なる中間媒介の対象として、世界に
紹介します。 
 
ある固有の者(モノ)が存在しないという文章からくる問題 
Negative Singular Existence Statement 
これには、集合論の数学者フレーゲ(Fiedrich Ludrig Frege, b.1848,1922d.)も数学論理と
して展開します。 
「ペガサスは存在しない」という問題、Negative Singular Existence Statement 固有名辞の
否定的存在性の表明として記述論理数学展開をします。簡単に説明すると以下です; 
1.書かれた文章には真であることができる。 
2.その文章を構成する部分には意味がある。 
3.その部分のなかの固有名辞(名詞)に意味があるなら、それはなにか something を意
味している。 
4.もし、ペガサスがそれなら、「ペガサスは存在しない」というのは誤りである。 
 
しかし、だからといって、「ペガサスが ”存在する“」と確定することはできない。なぜな
ら、「ペガサス」と「存在」とは関係ないという領域も含むからである。 
 
So being と Being 
結局、”存在する“と言っている;So being である「ペガサス」が存在するか;Being かと
はかかわりなく文章「ペガサスは存在しない」が、意味すること、つまり文章としての
206 
「対象」が存在するということになる。 
 
「非存在性対象」Non Existent Object 
マイノングは、非存在的な固有名辞(objecta)を使って、つまり今様にいえば「キャラク
ター化」して、文章(言語的表現)の意味の「対象化」をしたのであった。 
「丸い四角は、存在する」 
 “たまごの四角に、女郎のまこと あれば晦日に月が出る” わが母がその昔、舞った⾧
唄舞「吉原雀」の名文句である。 
ひとのこころ(mental)の志向(intension)活動として、「丸い四角」は、その名辞自体に、
論理矛盾原理や存在/非存在の中間を排する排中律原理にまともに障る対象がでてくる。
しかし、マイノングは、このこころの志向表現をうけた「対象」をあえてみとめた。これ
を「非存在性対象」Non Existent Object の存在としたのであった。 
 
対象の二つの解釈の併存 
マイノングは、実在の否定について、通常ひとが目にする二つの解釈の併存をみとめた;
ひとつは、narrower, internal, or ontological(; 狭義、内的、述語的、存在論的な否定)で、
もうひとつは、対して、 wider. external, logical negation(広義、外的、文章、論理的な
否定)。 これに対して、二つの排中律の版をみとめることになるが、彼は、後者の文章
否定のみ、それを受け入れ、述語的 So being については、排中律の適用をみとめず、
Suspension(宙づり)にしたのであった。 
 
マイノング vs. ラッセル 論争 
二重存在性についてのラッセルによる指摘は以下である;(1) ないものがあるとすること
は、ひとの自然な理解に違和感がある。(2) ないものをあるかのように扱うことによって、
ひとにひとの判断を過たせることになる。 ラッセルは、「語られるものは意味あり、か
つ実在する」とし、マイノングの非存在性対象とおぼしき対象記号はラッセルの記述理論
のなかで見かけ上あらわれるが、最終的に消去されるとして、あえて対象としての存在の
意味に疑問をなげかけたのであった。 
一方、マイノングは、内的な領域の存在領域のもつ積極的な意味 meaning と参照先
reference を主張し、ひとのこころ mental のフィルターを経過して、結果的に外的な領域
の存在性にも帰着的(consequent)の存在化(existent)に影響してくるとした。 
ラッセルは、ひとの意識を経由してくる「対象」については、承認せず、この論争の終結
を宣言した。 
 
その論争後の大陸哲学界 
 マイノングの理論が幼稚なのか、ラッセルの指摘が幼稚なのか、その後、大陸側の哲学
207 
者では、論争が続いたが、残ったのは、マイノングの哲学には、人間や社会を考えるうえ
での果実の大きさが期待され、捨て去るには惜しい哲学として現在に至っている。 
 
Value Objectivism マイノングの理論―価値の共有化に関する、 
1.初期;Value Subjectivsm 価値の主観・主体主義 
 
 マイノングは、価値がモノ固有の属性であるとは考えなかった。 
価値は、Value experience 個人の経験から決まるあくまでもその個人の主観に属し、これ
が Value attitude 個人の態度として現れるして、かれの初期の理論は Value Subjective なも
のであると考えた。価値形成に心理的な主観・主観の役割りに中心をおいた。 
 
 また、彼は、価値を経済的な価値に限定せず、「価値一般、そしてその価値以上に他の
場へ、たとえば、倫理学および芸術的美学へと価値一般理論の適用を試みたのであった」
(原文 7節)20
 
 この価値態度は State of Affairs と先見感への感情的応答であり、したがって intended 
objects についての Judgement 判断であり representation (idea)表象(理念)であり、これ
は”psychological presupposition”心理学的先入観とよばれているものである。感情の対象は
それらの判断性と理念によって。the mind こころ以前に設定されているとするのである。 
この段階での彼の価値感覚はその感覚を所有する主体のもので、absolute 絶対的な、
impersonal 非人称的な価値は存在しえないとしたのであった。 
それにもかかわらず、彼はすでにある種の non-subjective 非主観的、称して intersubjective 
間主観的および dispositional(晒し、配備的な)条件を価値の定義に含ませていたので
あった。 
2.後期;Value Objectivism 価値の目的対象(客観・客体)主義と Disposition 概念によ
る 
価値判断は、単に assemblage of value-feeling 価値感覚の集合体として特性化されないと考
えたのであった。価値判断は、なにかあるものが価値を持つ、持たないという判断であり、
これは実際の value feeling 価値感覚をはるかに超えるものであり、したがってその真の価
値について決定は第一義的に cognition 判断認知の案件でなければならないのである。 
適正な circumstance のもとで、正常な disposition をともなった適正な oriented された
subject によっておこされる subject 主観によっておこされる judgement の表現としたので
ある。 
価値はつねに personal 属人的価値もしくは interpersonal 間属人的価値であり、個人に対し
20 価値に関する経済に限定しない基本的な姿勢は、大陸特有でもあるとみている。筆者の
記憶であるが、Karl Polani の論説にもそれをみることができる。 
208 
てもしくは個人の集合体に対してである。 
道徳的価値を論ずる場合に、マイノングは、それらを個人の主体・主観にはおかず、集合
的な主体・主観 Value Objectivism に付している。 
彼の理論では、価値は disposition の上に蓄積され、変化をし、評価されそのときどきでの
判断の基盤と説明性を確保するとし、あらためて disposition の意味が焦点化されることに
なった。 
 
 
徒然こと2 Disposition について 
 「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ 
 米国の哲学者 J.ガウアンロックの公開討議と社会的知性についてのこの言説をご紹
介した21: 
 国論を二分するような主張があって、感情的な対立がそのまま、膠着状態にあるときに、
それから、やがては抜け出すための、なお理性的であり、かつ建設的な合意形成に至るた
めの知恵を見出すことが、世界で模索されています。 
私は、社会学者ではないので、仔細には誤りがあるかもしれませんが以下、それを含み置
きとしてお読みください。 
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,b.1806,1873d.)が、「社会的知性」というか
れの概念のなかで、人間の思考には誤謬を含むということと人間は弱い存在であるという
ことを前提に、社会として論議を尽くし、合意結論に至る方法を論じています。社会での
その主体は世論であること。しかし、世論は往々にて暴言、暴走をし、思わぬ方向に社会
を向かわしめてしまうこと。ときに、その社会の知性が本来的に意味ある知恵として取り
込まれた結果になっているのか怪しくなっているような状態に陥ちてしまう。 岡目から
からみれば、その過ちが顕わなのに、何の有効的手段も見いだせず、ひたすら力学的な進
行過程に陥落してしまう。彼はその著「自由論」のなかで危惧を憂慮します。 
彼の時代(19世紀末)に政治権力の中心は、すでに議会や政府などにあるのではなく、
新聞などメディアを核とした世論側にあることを彼は認識しておりました。その前提のも
とで、彼はあえて「公開討論」による課題合意形成の自由論を論じたのでした。 
ミルの社会論は、その後、デューイなど米国のプラグマティズムのながれのなかで、ノー
ジックや A. セン そしてここで取り上げる J.ガウアンロックに引き引き継がれます。22
ここでは、大陸の伝統である歴史主義とは異なり、該問題対象に向かっての科学的専門分
21 2017 年 12 月 19 日の朝日記 
朝日記 171218 Amazon 書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/71d2d36aee8548d6f003a7b8f1f2250d
22 Instrumental and Value Rationality, Wikipedia, 2922/10/06 a 
209 
野から、動的な課題取り組み(Consequentialism)が主流であるとおもいます。 
彼 J.ガウアンロックの考え方は、異なる主張の選択結論の社会的決着のためには、急がず
に、それを開示して、時間を取ること、これを「晒し」(Disposition)として提言します。 
熱しやすく冷めやすくて、忘れやすい我らの民族性からいうと問題放棄、思考放棄になる
危険性がありますが、原語の Disposition の意には、軍隊教練や配備のような、いついかな
る時も対応しうる現実感覚のもとにおくことに、社会の意識共有の求心を求められるもの
としての概念です。 
たとえば、「不正選挙」が、一方では あり得ないとし、他でではあったと主張する問題
で、いまもアメリカ国論は二分しています。 裁判制度は法的な有効性の観点からの判断
であり、形式的にはこれで 決着がついたことになります。しかし、双方の心情は、根底
で納得していない状態であるとおもいます。未来に向かって相互亀裂は深まります。 
 これを(「不正選挙」はなかった)ではなく、((「不正選挙」はあった)「非存在性オブ
ジェクト」としてとりあげるとしたらどうなるであろうか。つまり科学的検証対象とする。
対 象 化 し て 社 会 全 体 が そ れ に 対 し て 臨 床 知 的 な 取 り 組 む こ と 、 つ ま り 「 晒 し 」
(disposition)の共有化としたらどうかという提案です。これが彼 J.ガウアンロック John 
Gouinlock の提案となると思います。 ミルのいう、デューイのいう建設的な社会知性へ
の道筋の延⾧として見ようとするものです。 
話は変わりますが、希代の経営学者 P.F. ドラッガーが死してひさしく、すでに世人の
脳裏からは遠くなっています。私議で恐縮ですが、この連休を身の回りの資料の整理をこ
ころして、時間をとり、健気に“終活”の整理をしていています。その最中にドラッガーの
著「ネクスト・リーダー」が目に入り、本屋の立ち読みなんだとこの場をきめこみ、手に
取りました。彼はその著の終わりで日本のネクストを論じていました。おもしろいのは、
日本は戦後の経済危機を問題の解決を「末置きして」、幸運にも、みずからへの好結果へ
と維持し、発展してきたが、そういう遣り方もあるのだと好意的評価をします。かれのこ
の筆は二十世紀末の例の世界金融危機のころで、日本がこれをうまく乗り切れるかどうか
を、危惧をしています。 
さて、これまでの歴史的経過のなかで、これを日本での「晒し」であったと簡単に、楽観
的に決め込んででしまう、問題の本質を過去のものとして見過ごすか、忘れてしまうか、
そういう意識の逃げを自分はもとよりわれら日本のなかに、ふと見る想いをしたのでした。
それであえてここにメモしました。 
そういえば、憲法審議は、これまで共有の場での思考放棄で、与党・野党とも然ることな
がら、メディアが気取る社会世論でも完全空白状態であったことを認めざるを得ないので
はないかとおもいます。上の「非存在オブジェクト」つまり、存在しないものを存在する
と仮定してテーブルにのせてみる。そういう「晒し」(disposition)としての共有を、わが
国民喫緊の課題として、その巨大な「晒し」体浮上に現実感覚をもって、受け入れること
を願うものであります。 「賢い日本よ、ふたたび」としておきます。 
210 
 
 
 
 
~~~~~ 
徒 然 こ と 3 「 J. ガ ウ ア ン ロ ッ ク 著 公 開 討 議 と 社 会 的 知 性 」 か ら 、 朝 日 記
210505 Amazon 書評投稿 
 ガウアンロックというアメリカの社会哲学者の書評です。 Amazon Bookreview に投
稿掲載されたものです。 
~~~~~ 
掲載された書評 
きょうは社会的知性ということに触れます。 ガウアンロック著 公開討議と社会的知性 
の ブ ッ ク レ ビ ュ ー と し て 23
 
24
 
このひとの名前は、たまたまネットで morality と rationality についてしらべていたとき
に 知 っ た 。( 記 事 名 は ’ Instrumental ratinality and Value rationality ’ で あ っ た ) 
 J.ガウアンロックは、手段的(もしくは道具的)合理性(Instrumental ratinality )の理
論の指導的哲学者であるという。かれの理論は社会道徳性の考えにつよいつながりを持っ
ている。 かれは、人びとは各自の徳の意識に沿って行動する合理性を発現すべきである
という。特に、かれは、人びとが問題案件への最終的にして非争論的な決着のレベル以前
に議論をとどめ置く状態で、己の行動を律するの道義的な弁術を開始することを提唱する。 
考えてみれば、これまで、科学や技術からの問いかけからの受け入れについては、しばし
ば「概念の’晒し’(concept disposition)」が行われてきた。これと同様に、社会的案件につ
いてもある期間、その合理的な結論を醸成させるために’晒されるべきであると説く。しか
し、これを成立させるためには、最終的にして決裂のレベルまでに至らぬ抑制が条件であ
る と す る 。 こ の 考 え の な が れ は 、 現 在 ア ン グ ロ ・ ア メ リ カ ン 系 の 主 流 で あ る
Instrumental Rationality(手段的もしくは道具的合理性哲学 ) と呼ばれている哲学のもの
23 J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶
ノ水書房) 
John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jaon Dewey,and Scial 
Intelligence. 1986 
24 朝日記 171218 Amazon 書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の
絵 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/e257c6a3ebf77219f0b694caf0be14a0 
211 
である。 J.ロールズ、R. ノジック、J.ガウアンロック、A.セン等25によって代表されて
いる。 
この本の構成概要は以下である; 
第一章 序論 
第二章 ミルー社会的所産としての知識と道徳的評価 
第三章 古典的自由主義の欠陥 
第四章 ミルの教育哲学 
第五章 社会的知性 
第六章 ミルとデューイの挑戦 
(本著の意味するもの); 
 社会道徳(morality)が、時代的な中心命題となって久しい。とくに、19世紀の英国で、
成熟した民主主義にあって、権力の中心が政府や権威機関にあるのではなく、それが実は
与 論 で あ り 、 メ デ ィ ア で 代 表 さ れ る と い う こ と を 彼 ら は 気 づ い て い る 。 
 Joh Sturt Mill(ミル)は、その「自由論」で、社会的な合意形成とその道徳について、
その社会のコミュニケーションによって柔軟に形成されることを洞察して、そこから形成
さ れ る 知 性 の あ る べ き こ と と 、 そ の 基 礎 的 仕 組 み と を 提 唱 し て い る 。 
 この流れは、米国のプラグマティズムのデューイの哲学に継がれ発展していくが、そ
れをこの著ではわかりやすく解説している。この著の中心は、なんといっても第五章の社
会的知性であろう。 
 「社会的知性」は、成熟した民主主義社会と、価値多様化への社会的合意についての知
性(功利、権利と義務、徳と悪徳)を意味している。 
著者は述べる;社会的合意について、 事態の解決に先が見えないときは、無理せずに
disposition(寝かすとか晒す)という概念を提唱する。 ある状況に遭遇したとき、人びと
はコミュニケーションによって意見の相違について学習し、理解し、変化し、成⾧すると
いうことを説く。 
 公開討論などはその一つの例であるが、ここでの野蛮さ、低劣さについても承知の上で、
ここでのレベルを如何に引きあげうるか、リーゾナブルな方向へ収束しうることは可能で
あるのかを論じる。著者は、ミルやデューイのこれまでの思想的な流れを評価し、成熟し
た 民 主 主 義 の 社 会 で 、 そ の よ う な 知 性 ( 社 会 的 知 性 ) が 育 ち う る か を 述 べ る 。 
(レヴューアとしての所感として) 
 個人的な経験であるが、英国人の知人たちが、彼らがひとが集まったときに議論の方
向について、しばしば優れたリーダーシップの発揮していた状況にふと思い起こす。 こ
れは 英語 の世 界だ からだと 単純 に着せ られない 高い 素養を 感じ たもので あっ た。 
そういう社会的素養の教育(学校教育も)についてもこの著を通じて、あらためて思いを
25 Instrumental and value rationality;Wikipedia A (2022 検索 
212 
致す。直接的に表現として使ったかどうかは別に、’If I were you ...' つまり、もしも私が
あ な た の 状 況 に あ っ た ら 、 と い う 道 徳 観 morality で あ ろ う 。 
 人間は、基本的に誤るものであり、弱い存在であるというミルの哲学であり、自分が考
えたからということを以ってそれに固執するのではなく、意見が異なる状況でも、それを
相手の立場に自分を置いて考え、ますは肯定的に議論する。その過程で、相手を蔑んだり、
罵倒するような感情暴発に至らないそういう社会的文化のありかたとして理解した。 筆
者の畏友のひとりが以前に、個人の社会生活が孤立した「無縁社会」と表現した現今の都
市生活社会で、これをどう考えていくか、ネットでの交流がこのような「社会的知性」を
育て得るか、等々そういう思いをこの著により、考えることに強く啓発を受けたといえる。 
この本は、原著は 1986 年の出版であるが、和訳への監訳者の小泉 仰氏は、1988 年ケン
ブリッジ大学にて、原著をみつけ、強い共感を覚え、同門の有志たちと翻訳に取り組んだ
たことを記している。翻訳出版が 1994 年である。 ネット社会が急速に展開を開始した
ころの出版ではあった。 
社会的情報交流(コミュニケーション)は、それまでの新聞紙面、やTVなどを中心にし
たメディアから、SNN等のネットへの急激な展開の時機に入った年代の出版ではあるが
問題の本質の方向をただしくとらえているといえよう。 「公開討論」という語のもつ
時間的な意味論的な変化もあり、あゝ あれかと見がちであるが、かれが提唱する「社会
的知性」は、公開討論の卓越性のための基礎になるという意味で、時代的な本質的視点を
もち、なお新鮮である。 
~~~ 
 
徒然こと4 レジリエンスについて、 
2020 年の大学入試センター試験国語問題から 
河野哲也『境界の現象学』による(読売新聞朝刊 2020 年 1 月 19 日) 
問題は、近年さまざまな分野で応用されるようになったレジリエンスという概念をとりあ
げ、その現代的意義を考えさせるものであった。 
まず、冒頭に環境システムの専門家であるウォーカーの比喩を紹介しているので、話をす
すめるために以下に置く; 
「あなたは 港に停泊しているヨットのなかでコップ一杯の水を運んでいるとしよう。そ
して、同じことを荒れた海を航海しているときに行ったとしよう。港に停泊しているとき
にコップの水を運ぶのは簡単である。この場合はできるだけ早く、しかし早すぎないよう
に運べばよいのであって、その最適解は求めやすい。しかし、波風が激しい大洋を航海し
ているときには、早く運べるかどうかなど二の次で、不意に大きく揺れる床の上で転ばな
いでいることの方が重要になる。あなたは、膝を緩め、突然やってくる船の揺れを吸収し、
バランスをとらねばならない。海の上では防災要因を吸収する能力を向上させることをあ
なたに求める。すなわち、波に対するあなたのレジリエンスを向上させることを求めるの
213 
である。 
そして、レジリエンス resilience の定義を、擾乱を吸収し、基本的な機能と構造を保持し続
けるシステムの能力として括る。 
まず、システムとしてその能力としてふたつがあげられる。ひとつは目的に対して最適解
への能力、もうひとつがそもそもシステムとしての基本的能力を保持制御するかであり、
レジリエンスは、後者の課題として論者の焦点を設定し、その概念をさらに詳しく論じて
いく。 
まず、この概念の出生は、物性科学にあって物質が元の状態戻る「弾性」のことを意味す
ると語る。 
(時間的に変化する外力つまり、擾乱からの熱力学平衡状態へ収れん性問題ともいえる。
考える現象の平衡点の探索は工学的な制御問題として意味があり、現代では、不可逆状態
熱力学において、動的エントロピー流の最大生成原理として取り扱われている。(荒井)) 
この発想が 60 年代に生態学や自然保護運動の文献に用いられるようになった。そこでは、
生態系が変動と変化に対して自己を維持する過程という意味に使われた。しかし、ここで
言う「自己の維持」とは単なる物理的な弾力のことではなく、環境の変化に対して動的に
応じていく適応能力のことであるとする。 
著者は、回復力(復元力)という意味で、これと類似な概念としての、サステナビリティ
にふれる。 ここで回復とはあるベースラインや基準に戻ることを意味するが、レジリエ
ンスでは、かならずしも固定的な原型が想定されていない。絶えず変化する環境に合わせ
て流動的に自らの姿を変更しつつ、それでも目的を達成する概念である。均衡状態に到達
するための性質ではなく、発展成⾧する動的過程を促進するための性質であると言い切る。 
(不可逆性熱力学としてのアナロジーから類推すると、外力が、いま考える系のある熱力
学的平衡の保持の擾乱量の限度(閾値)を越えてしまう状態が想定される。ここでは、前
述の動的エントロピー流の生成最大原理はもはや適用されず、あらたな擾乱過程にはいる
ことを意味している。ここでは外力を取り除いてももとの状態へは、系が自律にもどる
(つまり弾性)ことはできない状態となる。この状態を非線形熱力学状態もしくは、複雑
系熱力学状態として現代物理工学の主題の領域と呼んでいる。制御という観方からみれば、
時間的な変動に対してのシステム停留もしくは目標点への制御ということになり、その意
味でレジリエンス問題である。(荒井) ) 
著者の説明は、さらに、一貫して社会科学的な領域に深掘り展開していく。 
サステナビリティそのものがたとえば環境保護において、もとの自然状態という固定点に
回帰するのではない。冒頭の航海中での荒ぶる外力に対してコップ運びのような、アナロ
ジーとしては、適度の規模にとどまっている山火事が擾乱へのレジリエンス例として意味
があることを示唆している。 
このような「適度の擾乱」という概念におよぶと必然的にレジリエンスと対になる概念と
して、ひとつは「脆弱性(vulnerability)」を、ふたつめは「冗⾧性(redundancy)」をあげて
214 
いる。 前者はちょっとしたことを感じ取るセンサー感度で、後者は、その逆で、ピリピ
リせず、意識的に間合いを取って感じ取るセンサー感度といっておくが、ここでは深入り
しない。 
「レジリエンスは、複雑なシステムが、変化する環境のなかで自己を維持するために、環
境との相互作用を連続的に変化させながら、環境と柔軟に適応していく過程のことである」
として、結ぶ。 
このあと、著者は、「ニーズ」への対応で、社会的弱者を例に、方式のお仕着せでなく、
生命自身の自律性と能動性を尊重するという付言をする。 
 
本稿の(荒井)の感想としていかにのべたい; 
(ここまでの展開として、レジリエンスとしての確たる方式はないことを暗に披露するが、
それがレジリエンスということを主張するのであろうか) 
(受験生の若い人たちはこの文章からなにを受け止めたか、正直、気の毒な感がある。 
視点としてのレジリエンスは、人生の態度として参考にはなるが、具体的な方法論的な展
開については、なんら示唆的でなく、空虚であるといえよう。空虚と答えるのが正解であ
ろうが、各問を見る気をおこさせない。) 
ただし、上記で( )での筆者のコメントを如何にまとめておきたい。 
意味ある方向として読者の意識を期待するものである。 
1.(時間的に変化する外力つまり、擾乱からの熱力学平衡状態へ収れん性問題ともいえる。
考える現象の平衡点の探索は工学的な制御問題として意味があり、現代では、不可逆状態
熱力学において、動的エントロピー流の最大生成原理として取り扱われている。(荒井)) 
2.(不可逆性熱力学としてのアナロジーから類推すると、外力が、いま考える系のある熱
力学的平衡の保持の擾乱量の限度(閾値)を越えてしまう状態が想定される。ここでは、
前述の動的エントロピー流の生成最大原理はもはや適用されず、あらたな擾乱過程にはい
ることを意味している。ここでは外力を取り除いてももとの状態へは、系が自律的にもど
る(つまり弾性)ことはできない状態となる。この状態を非線形熱力学状態もしくは、複
雑系熱力学状態として現代物理工学の主題の領域となっている。制御という観方からみれ
ば、時間的な変動に対してのシステムの安定点の制御ということになり、その意味でレジ
リエンス問題である。(荒井) ) 
3. 熱力学的平衡から遠く離れた現象は、自然環境界では、むしろ当たり前の現象であろ
う。 
文明が科学技術をもってこれを 熱力学的動的平衡限界に収めているとみることもできる。 
しかし、「航海上の突然の揺れ」のように水の入ったコップをこぼさないようにする複雑
系(非線形系)へのレジリエンスは、予測技術としても、制御技術としても人類は未達で、
挑戦中である。その意味では、現代文明はつねに未知のカオスとの闘いであることの 
意識の共有化が要請される(コロナウィルスの克服はまさに、恰好の課題である。) 
215 
4. 方法論上の糸口は、注目現象とその相関性を把握する統計解析が先行するであろ
う。 
巨大データの解析がひとつの力を与えてくれることを期待する。 つまりAI技術の積極
的活用といっておきたい。 
5. そして上述の非平衡系(複雑系)の科学技術理論の進歩を期待するものである。26
 
 
 
 徒然こと5 責任の取り方について 
ドイツの哲学者であるカール・ヤスパースの「責罪論」を読み終えて、筆者はつぎのよう
な一文を出版社のブログに投稿したので引用したい; 
 彼は、1946 年にこれを上梓しています。ドイツは暴力集団によって合法的に乗っ取ら
れた。今次大戦の戦争は、ドイツの責任であり、恭順に服することを前提に、何を、何に
たいして、如何にその責を負うかということを、この論で述べています。ニュルンベルグ
裁判は、戦勝国の価値観で裁くということに対しては、抗弁できないほどにドイツ側の非
がおおきいとして、これを受けるということにしています。責罪の概念を区分して、刑事
的、政治的、道徳的、そして形而上的の四つにわけています。ニュルベルグ裁判は刑事裁
判と位置づけられ、国際軍事裁判所の規定が国内法に優先するとします。戦勝国側だけの
裁判で、ドイツ側は陪審にも立ち会えないということの成り行きになったようです。(1)
平和に対する犯罪。(2)戦争犯罪、(3)人道に対する犯罪、(4)責任の範囲として共同
計画または謀議の立案、遂行に関与した首謀者と組織と教唆者と参加者の特定。刑事は個
人対象としますが、ナチスの責任者全員という組織の範囲としました。ドイツ人全体を刑
事対象とすることは、避けました。 ただし、政治的責罪だけをその政府の公民であった
ドイツ国民が負う。そして道徳的、および形而的責罪を、ヤスパースが哲学者として視点
からの項目として上げます。裁判のほうはあくまでも、物理的な事実追及に重みをおかれ
ました。 道徳や倫理の問題の基本の論に入ると結審の見通しが立たないことによるもの
でした。この二つについて、彼はいいます、外部、つまり他国からは、糾弾されることで
はない、いやしくも理性、自由を前提とした国の民であるなら、自らの内省的な問題とし
ます。それが、人類世界に対する義務という論理に持ち込みます。周りからは劣等民族と
して白眼視され、食の困窮のなかで、それを負うことへの論述は、痛々しくも感じるもの
であり、同時期の日本国民の負った痛々しさを思い起こします。この二つの責罪を如何に
「清める」かを、ヤスパースは述べますが、かれの頭のなかではかならずしも整理されて
26 朝日記 200229 徒然こと レジリエンスについて(2020 年の大学入試センター試験国語
問題から) 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/cd684f3250718d4af768a0210a37f00a 
216 
いるとは思えませんでした。 投げやりにならず粛々ということを書きます。主人と奴隷
の関係を持ち出し、奴隷としてあゆむ、しかしただの奴隷ではなく、高貴なる精神をもっ
た奴隷として励むという、ヘーゲルの論を上げています。思い出しましたが、ドイツ基本
法の前文で、この法の根拠が、「平和勢力のちから」にもとづくと、明言していたことで
した。 基本法では、この法に忠誠を尽くさないことは違法としています。 つまり、敗
戦ということは、戦勝国(主人)に対する、敗戦国(奴隷)の位置であることを、意味し
ています。これがいつまでつづくかは、明言しない。背負い様がないがない。自由をもっ
ているのは(主人)のみであるからということとします。ドイツの現在は、この道徳と形
而上のきわめて精神性の高い次元での内省的態度つまり恭順の態度の継承をもって、みず
からの位置を主張していることになります。(主人)の批判はしないことになります。つ
まり、ドイツがあの戦争で戦勝したらどういう世界が展開したかは、道徳的な悪として付
されることになります。旧約聖書でみるバビロン捕囚を思い起こします。わが日本もバビ
ロン捕囚です。大戦後の体制を基礎として、生きていく以外になく、そのなかで貢献して、
生きていくこと。つまり歴史的必然という(主人)が呆ける、(奴隷)が支える結果、実
質的に地位が逆転するといヘーゲルの弁証法をおもいおこすものでありました。27
 
~ひとまずの結び~ 
 我が国の原子力発電のあり方を問う!の提言研究グループを神出瑞穂さんがリーダーとな
って、総合知学会で作業したのは 2015 年でした。神出さんはこれ以降、この提案の持つ
総合知的意味と意義について、特に技術システム論視点から国の原子力行政を見守ってこ
られていることに深い敬意を抱くものであり、またその献身を称揚するものであります。 
氏とは、近代技術が社会の底流に埋没している道徳感性の正当性とその基礎について、意
見の交換をしてきました。それは特にドイツのメルケル首相の理性的判断やアメリカのオ
バマ大統領の道徳意識革命のなげかけについての世界的事態 State of Affairs についての洞
察と実践性などであったとおもいます。歴史的風雪を経た現代の道徳観の視点など共通根
源と理解は方向性のひかりとして不可欠であり、それらは堅忍不抜性がつねに事態のなか
で試されます。 合理主義、誤謬自覚主義、そして弱者支持などが現実の事態展開のなか
27 ~このようなことをアマゾンのカスタマーレビューを投稿し掲載された。 
(Amazon カスタマーレビューに投稿しています 
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 戦争の責罪 (1950 年) 
https://www.amazon.co.jp/productreviews/B000JBGJDC/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1 
Amazon.com で、戦争の責罪 (1950 年) の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご
覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。) 
217 
で、その有効性が試される。 その有効性の保持と行動展開の方法論が求められています。
私のアイディアは貧しいですが、ひとつ注目し続けているのは Disposition(事態の晒し)
についてです。それについての私の発想と理解はいまだ幼稚 naïve ですが、少なくとも人
類が事の事態がよりクリアにみえて、事態を共有していくか、いかに飽きずに対象として
意識維持ができるかが、最大の知恵の出しどころとみます。先年、ポーランドに家族旅行
したときにひとりアウシュヴィッツを訪ねました。ヒロシマを世界のひとがたずねるのと
同じ意味になろうかとおもいました。ドイツの学童は、卒業の過程でかならずアウシュヴ
ィッツを訪ね学ぶことが必修とききました。いろいろな見方があってもいい、その事実つ
まり、Disposition をもつことの意味を実感したおもいでした。 
本稿への引用は、私のブログ「朝日記」で公開されたものから自薦で選んだものです。 
1の「非存在性対象」というのは、ひとのもつ素朴なことばのなかに本質的な「対象」と
しての世界、フランスの哲学者 Michel Faucault はこれを、episteme と呼んでいますが、
ひとが語るものには意味があるということで対象化する(キャラクター化)ということで、
縫いぐるみの「ゆるキャラ」など一様に持ち上げるには問題もありそうですが、思考の外
にあるものから思考すべきものへの遺跡発掘であると Faucault は論じていたことを知りま
す。われわれの周りには埋没してしまっている語るべきことに対する実在証拠‘evidence of 
certainty’は、身が埋まるほどにあるのではないだろうか。たとえば「愛」、「尊厳」、「願望」
などは、その対象としての掘り下げは古来からの課題でいまも生きている。文学、芸術な
どは、なるがゆえにその存在価値が世に受け容けられているともいえます。ここではこれ
以上深いりしませんが、「Disposition」を考えるとき、「非存在性対象」は相撲の土俵俵の
ような思考発掘へのひとつのカギを握っているとみます。 
上述のように以下五つの「徒然こと」をのべてきた: 
徒然こと1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について 
徒然こと2 Disposition について「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ 
徒 然 こ と 3 「 J. ガ ウ ア ン ロ ッ ク 著 公 開 討 議 と 社 会 的 知 性 」 か ら 、 朝 日 記
210505 Amazon 書評投稿 
徒然こと4 レジリエンスについて、 
徒然こと5 責任の取り方について、ヤスパースの責罪論を読み終えて 
このうち、最後のふたつは、特に、Meinong の価値のオブジェクティブ化と関連して集合
責任への思考項目でもあった。朝日記からは、項目として出番をまつ日記記事があるとい
っておきたい。 
ひとつコメントがあります。神出氏のご講演レジュメ「原発―廃炉と集団の責任」で、 
表現として、課題のなかにすでに答えが内蔵しているのではないかと気になりました。 
 「廃炉」は講演者の意思表示であり、設問の中に答えが入ってしまっていて、すぐれて
政治的発言の色彩がつよい。 
いっぽう、たとえば「課題としての原発―廃炉と集団の責任」と対象化するなら学術知的
218 
発言の色彩になるようにおもいました。 もちろん、どちらを選ぶのもご本人の意思の問
題ではあります。失礼しました。 
神出瑞穂 原発―廃炉と集団の責任 2021-10-6 
①3・11 の福島第一原子力発電所(フクシマ原発)の事故から 10 年、全国 60 基の原発は
一部再稼働はあるものの順番に寿命 40 年を迎える「廃炉時代」に入った。フクシマ原発
の廃棄物総量は日本原子力学会他の試算では約 770 万トン、同規模の原発 600 基分であ
る。廃炉に必要な期間は推定 100 年、低レベル放射性廃棄物でも 300 年、高レベル廃棄物
は 1 万年から 10 万年、日本列島のどこかで保管しなければならない。電力業界は原発の
建設時、地元に“原子力 4 枚手形”振り出した。a)安全審査により原子炉の事故は起きない
(既に不渡り)、b)使用済核燃料は運び出す、c)放射性廃棄物は敷地の外で永久処分、d)
原子炉は解体撤去して更地にするーである。しかしこの約束は事実上頓挫している。理由
は全国民の深刻な受け入れ拒否、NIMBY(Not In My Back Yard)問題である。 
②この問題は結局、半世紀にわたって原発の電気を享受してきた国民が受益者負担の原則
で“平等”に負わざるをえないのではないかと考える。具体的には、髙レベル放射性廃棄物
は乾式空冷容器に入れて全国の電力会社の敷地半地下に平等に分散貯蔵、また量が多い低
レベルの放射性廃棄物は現原発敷地内に一種の“原発古墳”として保存する。これを住民参
加の形での放射線計測を続けつつ保管、技術進歩も勘案し 100 年毎に見直す。「限界の科
学:Science of Limits」」から見てⅠ万年以上の安全を科学的に保障することは不可能、科
学者も責任が取れないからである。 
③問題は「集団の責任」を国民が納得し、受け入れるかである。 
ドイツのメルケル首相はフクシマ事故の三ヶ月後にドイツ連邦議会で“原発の安全運転に首
相として責任が持てない。”と断言し脱原発へ舵を切った。理由は“原発リスクの全体像を
つかむことは不可能、従って倫理的価値判断が技術的、経済的な観点より優先する”であ
る。議員達も同様に責任がとれないので賛成し、“集団の責任”を果たした。筆者が調べた
範囲では我が国では為政者の自己と集団の責任への公式の言及は見当たらない。一方、
2016 年 5 月 27 日、オバマ大統領は広島で “核分裂を可能にした科学革命と同時に道徳革
命(Moral Revo- lution)が求められている。“と演説した。筆者はこの MR を a)国民の良
識と道徳観>政治・経済・科学技術という不等式の自覚、b)国民のレジリエントな責任感
の復興、c)官産学民全体の強固な連帯責任体制の確立と実行と定義した。ハンナ・アー
レントは”「集団の責任」は重荷であるが、「集団の無責任」に払われる対価はさらに高
い!“と述べた。日本国民はこの「道徳革命」で NIMBY の無責任を克服し「集団の責任」
を果たすと確信している。同時に「道徳革命」は当学会が総知を結集し深耕し、廃炉問題
に貢献してもらいたいと考える。 
 
 

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