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朝日記240325  4.(その4)社会的知性としての総合知について報文XVIII (その4)

2024-03-25 10:10:07 | 自分史

朝日記240325  4.(その4)社会的知性としての総合知について報文XVIII (その4)

表紙へ返る 朝日記240325  私が2023年に書いた報文コレクト

朝日記240325  4.(その1)社会的知性としての総合知について報文XVIII (その1)

本文

3.課題を晒すこと[1] State of affairs under Disposition

 事態state of affairs、正しさ、晒し 

ここでは、ミルの考え方とくにmorality(道徳的な価値観)について、述べておきたい。[1]

 ミル(John Stuart Mill、1806-73 )[2] は、19世紀でもっとも影響力のある英語圏の哲学者である。

 物事の事態state of affairs (以降、SA)ということばがある。日々の生活のなかで、あるいは、ニュースなどで知るその時々の話題や案件を思い起こせば、それである。 この個別のSAから、なにが善いか、そう考えることが正しいのか、それをどう取り組み解決に導きうるのかが、人としての関心事であろう。 これを辞書でしらべると 価値もしくは価値の自然性(nature of value)に関する研究や理論と記されている。[3] しかし、一般的にみて、SAが前面にでて、世論が沸いているときに、Axiology(価値の自然性の学)根底をみることは、やや迂遠としてか、どちらかというと目立たないところで立って、静かにしているようである。

  さて、ミルに着目して、彼のAxiologyの選択は、moralityであった。その価値の自然性のひとつの選択として、moralityが登場するとみることになる。moralityは、ひとがもつ価値観とするとその価値の出発点を、如何に考えるか、その学問がAxiology(「公理論」と訳しておく)である。 彼の拠って立つ経験主義からの立場は、効用主義( Utilitarianism )にあった。 その論でのmoralityは「最大多数の最大幸福」であった。

ところで、最大幸福が価値ならば、もし、あるひとの行為が、幸福「最大」でなければ、それはだれが、どのように評価するのであろうか。また、責任は如何にあるかということに関心が集まる。 西洋の哲学で、人(a man)というときは、特別に断らない限り、それは個人(individual)という起点から始まると言ってよい。(日本人である私は、ここは非常に注意を要するところである)

ミルはいう、SAにおいて、それに関与する個人が、事前に合意した約束や規範に違反しないかぎり、結果として自分だけが最大「幸福」を占めても、責任を取ることに価せせず、社会的制裁を受けることに該当することはないとする。しかし、関連した意識である”an emotion of blame”(責めの感情)は、自分と相手(まわり)に残るであろう。

これをどうするか? ミルの結論は、本人は不愉快であろうが、じっと我慢することだしている。 彼の表現では “disposition” としてことを「晒す」ことであるという。この「責めの感情」は、その人がいる文化(習慣)感情からくるものであるが、いつも一定しているものはなく、時間経過とともに変わるからだという。しかし、だからといって、意識として放置しているべきではなく、冷静に解決にとりくむべき課題として位置づけるべきであると諭す。これはその個人への配慮でもあり、その認識が社会への貢献であるという発想であった。 いわくmoralityは、right(正しさ), prudence or policy(熟慮または政治),それに aethetics(品性、美徳)という価値をその人にもとめられており、それを社会も、自明のこと、つまり道徳の存在として受けいれる了解が前提にある。 そのようなAxiology(公理論)を成熟した民主主義社会では、受けいれている(べきである)と考えたのであった。

 筆者が、彼の考え方で、特に関心をもったのは、ものごとの価値を捉える出発動機(initiation)は、先ずは個人”individual”であり、背景の社会としての共有価値はその次の順位にあることであった。これは、上にも述べたが、西洋の近代の共通の思考基盤であるともいえる。

そして、もうひとつは、イギリスの思想のながれである経験主義の特徴であり、また彼の発想は、基本的にここに立つ。これは、カントの認識論哲学のように、ひとが自由意志のもとで知るという認識活動は、自分自身と境界を為す「超越」からくる直観a prioriであるという前提を取らない。経験主義では、あくまでも「その人」が、事態に直面して、場合によっては関与し、対象からの知覚(悟性)からの経験知を経て、そののちに判断する哲学的態度であった。その判断とつぎの行動については、 事態を 冷静にdisposition(晒す)する必要性があるという基本姿勢であった。[4]  このことばのイメージとしては、軍隊教練のように粛々と絶えることなく課題に服するという意味が合っているかもしれない。

これについては、ことが日本は往々にしてSAとして公衆にあらわれて、騒いで、あとは、そのまま課題対象としても忘れてしまう。あるいは手続き的落としどころを探してお終いということになるが、如何であろうか。筆者はそう実感している。 SAが報道されているときは、世の中は、賛否両論で、”an emotion of blame”は大いに沸きあがる、その意味ではdisposeといえるかもしれないが、それよりもexpose(曝す)であろうか。しかし、ミルがいうように、たしかに、その感情は、一過性の熱病の一時を経て、自然と冷える。それを、しずかに待っている人たちも、しずかにさせまい人たちもいるが、一般には、そのemotionは減衰しているという図式である。 このdispositionの発想のヒントは、19世紀の科学技術の革命において、発明の初期の関心のブーム去って、忘れかかったころに、社会が受容すべく颯爽と成熟孵化して登場するアナロジーが、国の政治経済制度への適用にも意味あることを予見したともいえようか。 ミルは、このdisposition(晒し)が、民主主義社会において、意味をもつ効用あるものとしてとらえ、これが解決への知恵を発揮するのは、あくまでも、世論の水準であると考えた。 彼のあった19世紀の英国は、帝国繁栄の頂点にあった。世界に誇る君主制民主主義が定着したなかで、国の権力の中枢は、すでに政府や議会にあるのではなく、報道メディアにあることを見抜いている。情報の公開原則を説くが、しかし大衆世論の水準は低く、また時に暴力的であることに、将来への危惧を抱いていたのであった。

そこでの大衆のmoralityの知的向上と判断の成熟が、必須の前提であるとして、教育をふくめて、知的社会連携のための思考を展開し、後世に多大の影響を与えたのであった。

彼のmoralityの思想は、現在では、アメリカにおいて、Consequentialism帰着主義へとつながり、たとえばJohn Rawlsなど morality(モラリティ) =rationalism(合理主義) ⇒ human fallible(人間は誤謬するもの) and correction open(修正を前提に進める) ⇒ support to innocent and handicaps (弱いひとを支える)= morality(モラリティ) = …)のサイクルとしてmoralityを捉えている。

 この稿の時点で、英国は、ヨーロッパ共同体(EU離脱)を国民投票で意志をきめ、その困難性を、時事として報ぜられているが、かれらのdispositionとしてのプロセスとして、かならずや、なるほどやるねという感嘆の軌道に乗せていかれることに思いを致し、それを見守るひとりであることを付言しておきたい

 

[1]  “John Stewart Mill”,  First published Thu.Aug.2016, Stanford Encyclopedia of Philosophy.  https://plato.stanford.edu/entries/mill/

 

[2] John Stewart Mill 19世紀でもっとも影響力のある英国の哲学者。自然学者、功利主義者、自由主義で、彼の業績は一貫した経験主義の相貌の帰着として展開。それは18世紀の啓蒙主義と19世紀に現れたロマン主義と歴史主義を見事に結合した。 著書にSystem of Logic(1843),

On Liberty(1859) など。

[3] Axiology  哲学用語 The theory of study of values or of the nature of value. 語源[Gk. Axios worth ] (Encyclopedia of Britanica Dictionaryより)

[4] disposition  語源[<F

1Disposingの行為;軍隊のように、整列していること。2. 分配;disposalの状態と仕方;最終配置。  3. 制御:力;通常はatをともなう;at his disposition. 4.  自然の傾向;曲がり;傾向。  5. 生物や非生物の自然傾向。 6.建築用語。用意配置;計画、透視図など、分配から分配されたこと。:(from Encyclopedia Dictionary)

 

 

4.「基本的なことを公論しないことの危険性について」[2]

たとえばLGBTと公論

 

(産経ニュース)で以下の報道がありました;

 性的少数者(LGBT)への表現で批判を受けている月刊誌「新潮45」を出版する新潮社(東京都新宿区)近くの看板に、「ヘイト本」などと同社を非難するような落書きが記されたことが分かった。[3]

「新潮45」が休刊ということに関連しての同社へのヘイト行為が、上のニュースです。

 私の意見は以下です;

 LGBTにしても、この国の社会では、基本的に何にも公論として、問題を取り上げることなく、何年かきました。NHKなども、ただそっと、たとえば先年の「直虎」などの大河ドラマのなかで家康と近衆との関係場面を仕掛けて、視聴者を感覚的になじませることをやってきています。何の説明もなく、新聞メディアも、腫物に触らぬよう、ときに、人権問題としてまるめて、有無を言わさぬよう、口を閉じさせていまっているとみてきました。大分古いですが、「冬のソナタ」など韓流仕掛けなども同じでしたね。

 飛びますが、わが国は、明治開国、近代化という掛け声で、西洋の価値観、判断方法を取り入れたのも 形として定着させてしっかり取り入れてきたようにおもいます。あまりに板についているので、中身もそうであると我々自身も思い込んでいます。しかし基本的なところで突き詰めて考え、自ら納得したステップを経ていない。 それでも日本人は近代化の優等生ですから、そとからみるとそれないりにみえるようになっているともいえます。

結果としては、猿まねとして嘲笑していた近隣も日本の躍進で慌てて、駆け出すという状況であったとおもいます。しかし、 さらに、先般の戦争に敗れて、こんどは全面的に、戦勝側の価値観、判断方法に伏して、導入します。(ヤスパースの「責罪論」を基本としているをドイツもおなじです。)特に、日本の場合は、アメリカという「じゃいあん」(ビッグブラザー)にまもられているから、基本はどうでも、見よう見まねで、形をきちっとまもっていて、それでよしとして、来たようにおもえます。(この辺の展開はドイツとは違いがあります。ドイツは西洋文明は普遍の人類文明でそれを堅持するのは戦勝国の責任と主張します)

いずれにしても、戦後体制にあらわれた基本的な問題については、二国は、世界があるべき理念モデルについて先導提示しないできました。フェミニズムもそうです、特にここにきて、LGDPTについても、目を背けたまま、無言でいるという状態です。水谷という議員の発言は正鵠を射ているかどうか、短絡的で疑問があるにしても、この件について政治家が初めて発言したという点で価私は評価する。これまで表向きに何ら議論もしないで、その時々にガス抜きしないできたので、内圧が上昇、感情的暴発際にまで来たのは当然ともいえます。 ネットの友人西山彰さんのご指摘の全体主義化の兆候ですね。形の上では痂疲のない推移状態のもとで、ある一定の方向に加速進行していく。仕掛け人と思しきものもいないわけではないが、ときにかれら自身も意外感のなかにあるようなトレンドの渦ながれとなっていく。全体主義ですね。

 ところで別件余談ですが、英語圏のネットでMail xxxというので 刺青Tattooが施されている実況、うめき声をあげている衝撃的な動画が掲載されました。さすが、かれらの世界で、賛否湧いていました。わたくしも10秒くらいで動画を留めました。そして、さすがにひとこというべきと判断して、「ひとの肌は、親からの贈り物」ということで、あえて「親からの」を使って、議論のなかに入ってしまいました。(一神教の世界としては意外な角度として視点あることを意識してですが) しかし、彼らは、冷静に人の意見を聞く耳と目を持っていることを実感しました。日本人ならTattooについてどのような意識があるのかということで、彼らもあらためて冷静に事態を見ようという意見が出て、賛同を得たのには、逆に驚きでありました。加えて、WikipediaにTattooについて如何にうけとめ、なにを考えておくべきか、しかっかりした解説があるよと逆に教えてあげることになり、大いに感謝されました。LGBDTの話題にとは、逆の状況ですが、早い段階から公論を起こす意味を感じました。で、ご参考までに書きました。

(2018年9月18日稿)

 

 

 

5.Prima facieの正しさについて[4] “prima facie unnjustice”

 

 「Prima facie (第一発言者)の正しさ」についての お話します。[1]

その前に、お断りしておきます。筆者は法律の知識に通じていないので、読者が困惑されるかもしれません。しかし、この話題の文脈で考えるとどうであるかということでご理解いただきたく願いします。 識者のご指導を乞うものであります。

 

まず、この用語の定義をWikipediaから以下引用しますが、(ここで、筆者はこれを(第一発言者)と訳しました)[1]

~~~~

Prima facie (/ˈpraɪmə ˈfeɪʃii, -ʃə, -ʃiː/; from Latin prīmā faciē)はラテン語からの表現で、 ‘最初の遭遇で’もしくは ‘一見して’という意味をもつ。この翻訳としては"at first face" or "at first appearance"を当てることになろう。 primus ("first"最初) and facies ("face"容貌)が語源の意味として対応する。 

~~~~

徒然ことその1.Prima facieについて

 友達と今度の日曜日に会う約束したが、先約があることに気付いた。

 そういう問題を考える哲学者がいます。[2]

一般的には、責務と関連して使われる。“自分は友達と約束して会うことを守るというa prima facie obligationを持っている”、しかし、これは事情のある義務つまり急用がきたら、友達に謝り、約束を流すことになる。現代流の使い方では いま現在での責務として位置づけ、この後、上位者の力で覆るかもしれないそういう状況にある責務;pro tempore臨時の[3]としてのみ存在する責務という意味になる。

 

徒然ことその2.Prima facieについて

 彼は、庭の世話のためにポンプを据え付け、そのポンプの管理を業者と契約したが、ある日、庭ばかりか家も水浸しになってしまった。これには、まず、責務が容易に特定できるということで、Prima facie case(申し立てのとおり,一応の証拠のある事件)として訴訟の根拠(証拠)としてなりたつ。もう一方で、現場の状況から事態が説明でき、管理過失として、それ以上の根拠(証拠)が必要ない場合である。 これを“res ipsa loquitur  case”(その物がその物自体を語る事件)と呼んでいる。この例は、カナダ不法行為法[4]での一般過失法を想定したものである。

 

徒然ことその3.Prima facieについて

Prima facie speed limitは Prima facieの考え方の例である。これは、アメリカやオーストラリアで、州などその司法管轄地域において、一律の速度制限を制定している(default speed limitと呼んでいる)が、それを破ることを 禁じてない規制である。しかしながら、そのドライバーがそのリミットを越えたために警察に見つかり、違反記録が取られる場合に、その状況での運転したことが十分安全であったことの根拠を示す義務が課せられる。

  (ミシガン州・ラピッドタウンでのPrima facie表示)

  つまりPrima facieとして課題である。人影のない大陸での走行では理に適っているようでもある。警察官の情状酌量?ということになるか。都市などの人口過密地帯では、根拠(証明)の確定において問題が多いようではある。いまは、ほとんどの司法では、このタイプの速度制限は、絶対速度制限に置き換わってきていると記述している。 写真は(Michigan,Rapid River)での例である。

 

徒然ことその4.Prima facieについて

会社の社長が、従業員の50倍の報酬を得ることを宣言した。

 英米のコモンローの法体系では、ルールとして’prima facie unjust’という原則が存在することになる。社長の報酬額について、契約の上限制限についての明記がないばあい、自分の権限でその額を、その根拠を添えて、案件として明示的に提示する。 反対するものがあれば、抗弁の根拠を出すが、無ければ、それが合法Justifiedされることになる。社会制度としての合理的な富の配分への方式のひとつに、分権的公正(Distributive Justice)という考え方が根底にあって、その件において、ルールが決まっていない場合、自ら提案して、了解をとっておくというものである。 社長が従業員の何倍であろうと、その社長本人による‘第一発言’prima facieとして合法とされる。自らの意志が、 ‘unjust’を ‘just’に転換することになる。

アメリカは、或る意味で“America, is often said  country of Prima facie unjustice”と彼ら自身が、臆することなく、認めるところとなっている。[5] コモンローでの訴訟では、民法も、刑法でもPrima facie caseが原則らしい。証明の負担Burden of proofは、基本的に双方に課せられるが、ともかく見かけからあきらかな程度の根拠でもよく、堅忍不抜の内容までのものを当初から用意することをしないようである。ことは明快迅速に進めるのをよしとする相互の意志が根底にあるようだ。したがて、事件の解決のために過剰な費用負担を避ける取引上の判断技巧でもあるといわれている。 悪しき意味で、取引の手段として乱用される懸念も当然考えられよう。

      

徒然ことその5.Prima facieについて

 さて、・・・・?。 現下、話題になっているN自動車会社の元会長の報酬に関わる不正処理の嫌疑の件が視野に入ってくる。刑法のもとでの裁判では訴追には上述のようにprima facie 根拠を提出する義務が課せられている。被告に対して向けられた刑事的な各要素である。刑事立件では、これは犯罪行為として成立するか、被告の行為がこの原因となったか、そして被告が故意[6]に基づいて行動した根拠を含んでいるか。もし被告側で、抗弁の根拠の提出がないなら、この立件はこのprima facie抗弁の根拠の欠落として、成立することになろう。

被告としては、会計上の単純な手続きの過失として、故意Malice aforethoughtではなく、この単純過失negligenceとして申し開きをするところであろう。  日本の企業文化からの感覚(いわゆる常識)からの報酬額とはかけ離れていて、それに負い目をもってしまったか。徹頭徹尾、Prima facieでのunjustからjustへと、一貫して押し通していなかったかどうかが気になるところである。

徒然ことその6.Prima facieについて

まとめとして

1).世界は、Prima facie の時代に入っているとみる。

その典型は、“偉大なアメリカをふたたび”を掲げて、日々途切れることなく、世界を席巻しているトランプ大統領にそれをみることができるのではないであろうか。自分自身が必要と思ったのであれば、交渉材料として相手側に提示し、正当化して具体的結果を迫る方式である。「第一発言者」つまり、Prima facie dealerとして目に映ってこないであろうか。

2).これに対して、受ける側は、つねにa.主張が明示的であること。b. 応答が迅速であることであろう。

3).そのための実のある信頼関係trustful relationの構築に徹すること必要であう。(私見では、できれば、‘盟主’には顔を立てさせるのがよい。)

4).現戦後世界秩序を基盤的に支える成熟した先進経済大国として、賢慮ある高度科学技術社会への建設を目指したいとなる。役人が書くと斯くなる表現となろうが、それでよいとおもう。

しかし、ここでの文脈であるのでやはり、言っておきたいのは以下である;

5).Prima facie justiceをわが国民の資質・素養の啓発として、どのように捉えるかが最大の問題である。 我が国の人たちは国際的に、知的で品性があり評判はかならずしも悪くないと筆者はみている。したがって、科学も人文もふくめて、世界が提示した既定の枠組みのなかでは、すばらしい知恵と活力によって課題を展開し、現在の経済大国としての実績を獲得した。これに誇りをもつ。しかしながら、現枠から頭をひとつくらい抜きでた革新的な発想のものが少ないということを、AIやIoTなどの例をみるまでもなく、世界のビジネスモデルの競争などを通じて、さりげなくわれわれは知っている。 信頼のおけるよき仲間にめぐまれた共同価値社会はこれからも大切である。しかし、自分自身の生きることから出発した「自由意志」に基づいて、みずからの発想について、それを突き詰め、傾注邁進する個人individualの存在の姿に思いを致す。また、その育成についても、心を留める者である。それがいかにあるべきであるか。そのための思考の文脈としての“Prima facie justice”はひとつの教材であり、これを取り上げることは意味あるとおもっている。 そのような‘倫理的人格’の人材出現をわが日本は求めているとおもうものである。

 

参考文献

Prima facie, From Wikipedia, the free encyclopedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Prima_facie

 

[1] Prima facie From Wikipedia, the free encyclopedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Prima_facie

[2] (倫理学の理論でW. D. Rossが最初に提案した注目すべき用法である。彼はEthic of Prima Facie Dutiesと称ししている。またRobert Audiのように認識論という同じ次元で扱っている。)

 

[3] 臨時のPro tempore (/ˌproʊ ˈtɛmpəri, -eɪ/), abbreviated pro tem or p.t.,[1][2] is a Latin phrase which best translates to "for the time being" in English.

[4] カナダ不法行為法Canadian tort law

[5] 荒井康全 「システム思考における目的論理と社会倫理についてV」 、p.156、2015年度 総合知学会誌Vol.2015/1

[6] 故意 Malice aforethought

 



[1] 朝日記181208 Prima facie (第一発言者)の正しさということについてと今日の絵

2018-12-08 17:15:03 | 絵画と哲学

 

 

[1] 朝日記181214 偶感 課題を晒すこと と今日の絵

 

[2] 朝日記180925「基本的なことを公論しないことの危険性について」ですと今日の絵

2018-09-25 23:04:52 | 政治

 

[3] https://www.sankei.com/affairs/news/180924/afr1809240012-n1.html

 

[4] 朝日記181211 雑誌投稿原稿 「Prima facie(第一発言者)の正しさということについて」

2018-12-11 22:21:10 | 絵画と哲学

 

朝日記240325  4.(その1)社会的知性としての総合知について報文XVIII (その1)

表紙へ返る 朝日記240325  私が2023年に書いた報文コレクト

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神はサイコロ遊びをする (グローバルサムライ)
2024-03-26 08:06:00
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学の理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。多神教的で多様性を秘めた、どこか日本的ななにかによって。
 
ダイス鋼SLD-MAGICは優れもの (CO2排出抑制チーム)
2024-04-01 20:32:06
「材料物理数学再武装」ってプロテリアル製の有名な特殊鋼SLD-MAGICの発明者の方の大学での講義資料ですよね。「工具鋼開発の最前線 金型用先端材料のマルチスケール合金設計」っていう論文を参考にさせていただきました。
あらいやすまさから
Multible BoundaryLayers世界 (あらいやすまさ)
2024-04-05 10:05:39
グローバルサムライさん、CO2排出抑制チームさん

みなさん、頭への刺激をいただきありがとうございます。
「ブラックボックス問題」、「非線形関数の造形方法」、「関数接合論」、「経営学でのKPI競合モデル」、「マルチスケール合金設計」、「材料物理数学武装」等。根っこがつながっていそうで新鮮です。
非線形関数の造形方法でピンときたのは、係数の「かたさstiffness」の問題です。モデル内での係数間のorder of magnitudeの極端な違い、係数の従属変数との依存度などでした。例として化学物質の反応時定数と触媒劣化の反応時定数が極端に次数の違いがある問題。「接合」、「競合」、「マルチスケール」などは同じカテゴリーのテーマにうかがえました。
1930年代の流体力学などでPrandtlやvon Karmanなどの境界層理論は翼の近傍での急速な運動量の変化に着目して対象ドメインを層として切り分けてモデルを単純化した、計算尺時代の科学研究の世界でのひとつの方法論を与えましたね。非線形項の漸近展開で時空間をマルチスケールにしていく発想に思い当たります。スケールごとの群をつくり、各サブドメイン間での全体影響を吟味し、問題の支配層を捉えるということでしょうか。MultibleBoundaryLayersというのが脳裏にはしります。むかし、アラブの数学者で漸近展開をつかった摂動法技術の本Introduction to Perturbation Techniques,1981,Wileyという本をアメリカの大学書籍店で手に入れた、これがずいぶん面白い本でいまも数年にいちどくらい読み返し、鉛筆をうごかしたりします。著者はAli Hasan Nafehです。人間の動特性にスケールにあった思考とおもっています。keywordsをいただき、感謝します。よろしく。

 

 


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神はサイコロ遊びをする (グローバルサムライ)
2024-03-26 08:06:00
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学の理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。多神教的で多様性を秘めた、どこか日本的ななにかによって。
ダイス鋼SLD-MAGICは優れもの (CO2排出抑制チーム)
2024-04-01 20:32:06
「材料物理数学再武装」ってプロテリアル製の有名な特殊鋼SLD-MAGICの発明者の方の大学での講義資料ですよね。「工具鋼開発の最前線 金型用先端材料のマルチスケール合金設計」っていう論文を参考にさせていただきました。
Multible BoundaryLayers世界 (あらいやすまさ)
2024-04-05 10:05:39
グローバルサムライさん、CO2排出抑制チームさん

みなさん、頭への刺激をいただきありがとうございます。
「ブラックボックス問題」、「非線形関数の造形方法」、「関数接合論」、「経営学でのKPI競合モデル」、「マルチスケール合金設計」、「材料物理数学武装」等。根っこがつながっていそうで新鮮です。
非線形関数の造形方法でピンときたのは、係数の「かたさstiffness」の問題です。モデル内での係数間のorder of magnitudeの極端な違い、係数の従属変数との依存度などでした。例として化学物質の反応時定数と触媒劣化の反応時定数が極端に次数の違いがある問題。「接合」、「競合」、「マルチスケール」などは同じカテゴリーのテーマにうかがえました。
1930年代の流体力学などでPrandtlやvon Karmanなどの境界層理論は翼の近傍での急速な運動量の変化に着目して対象ドメインを層として切り分けてモデルを単純化した、計算尺時代の科学研究の世界でのひとつの方法論を与えましたね。非線形項の漸近展開で時空間をマルチスケールにしていく発想に思い当たります。スケールごとの群をつくり、各サブドメイン間での全体影響を吟味し、問題の支配層を捉えるということでしょうか。MultibleBoundaryLayersというのが脳裏にはしります。むかし、アラブの数学者で漸近展開をつかった摂動法技術の本Introduction to Perturbation Techniques,1981,Wileyという本をアメリカの大学書籍店で手に入れた、これがずいぶん面白い本でいまも数年にいちどくらい読み返し、鉛筆をうごかしたりします。著者はAli Hasan Nafehです。人間の動特性にスケールにあった思考とおもっています。keywordsをいただき、感謝します。よろしく。

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