晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

柴田哲孝 『暗殺』 安倍晋三 山上徹也 疑惑の銃弾 JFK 統一教会 赤報隊

2024-09-24 13:15:03 | Weblog

『暗殺』(柴田哲孝著 幻冬舎 2024年刊) 安倍晋三 山上徹也 疑惑の銃弾 JFK 統一教会 赤報隊    

テンポの良い書きっぷりで面白い。一気に読んだ。僕の関心事項にピッタリ。マスコミから流される表面的な情報に満足できない方にはお薦め。政治好きの方にも楽しんでもらえると思う。ネタバレにならないように書く。本書の扉ページには、「この物語はフィクションである。」とことわりがある。ゆえに、事実ではなくその真相に迫ろうとする試みだ。

周知のように、2022.7.8、元総理が奈良県近鉄大和西大寺駅前で「暗殺」された。この事件については、以前にこのブログ、2022.7.25に「7.8元首相狙撃事件に想う 精神鑑定 動機 国葬」、2023.7.5に「安倍元首相のロシア寄り発言と『疑惑の銃弾』」を書いた。

1963.11.22ジョン・F・ケネディ米国大統領がテキサス州ダラスを遊説中にリー・ハーヴェイ・オズワルドに暗殺された。オズワルドは、警察署内で射殺され法廷に立つことはなかった。従って、JFK事件は、今に至るも陰謀説があり真相がわからないと考えている人も多い。

翻って、元総理暗殺事件は、山上徹也被告の単独犯行説が有力であり、氏は捉えられ裁判を待っている。本書は山上氏をオズワルドと名付けることで、他に実行犯がいるという説をとる。その人物はシャドーと称せられる。

この事件には、当初から多くの疑問が呈されてきた。僕は、『週刊文春』に連載された『疑惑の銃弾』を読んだが、多くの謎が深まるばかりだった。

この国には何か触れてはいけないゾーンがあり、得体の知れない闇に支配されているかのごとく、政治、宗教、官僚、マスコミの中に深く浸透している何かがあるのではないか。

本書でも出てくるが、1987.5.3朝日新聞社阪神支局襲撃事件で小尻知博記者が赤報隊と名乗る何者かによって射殺された。今に至るまで未解決の事件だ。僕は、立命館大学国際平和ミュージアムに展示されている小尻記者の血だらけのワイシャツを見たことがあるが、一目で凄惨な事件だったことがわかった。この事件も闇の世界に通じている。

最後に、キーワードは「令和」だ!

 

 

 

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書評 ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄 13,000年にわたる人類史の謎 上・下巻』 (草思社文庫 2012年刊)

2024-09-10 08:46:39 | Weblog

書評 ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄 13,000年にわたる人類史の謎 上・下巻』 (草思社文庫 2012年)

 「南北アメリカ大陸の先住民が、なぜ旧大陸の住民に征服されたのか。なぜ、その逆は起こらなかったのか?」また、「なぜ世界の富や権力は、現在あるような格差を生み出してしまったのか?」と、問いかけるところから本書の議論は始まる。「なぜ、○○は○○なのか?」という問いが何度も何度も出てくる。こうなった「直接の要因」は何だったのか。それをさらに突き詰めた「究極の要因」は何だったのかと掘り下げが進む。そして最後に読者を驚きの結論に導く。

 本書を読みながら、僕は子供の頃に友だちと一緒に家の近くの原っぱで枯草や木の枝を使って秘密基地づくりをして遊んだことを思い出した。そこら中に様々な植物が生えていたが、口にできたのは、グスベリ、アカツメクサ、バライチゴだけだった。ハマナスやナナカマドの実は色鮮やかだったが渋くて食べることはできなかった。海でアブラコやカジカを釣った。僕は、野山を駆け、崖の登り降りは速かったが、木登りは不得意で泳ぐこともできなかった。それは僕の生まれ育った地域の「環境」が理由だ。道東の釧路は、夏に海霧がかかり気候が冷涼のため、大きな樹木が育たず、海水温も低過ぎて水に入ることができなかった。毎日、僕らは炭鉱のズリ山の向こうに陽が沈むまで「狩猟採集生活」を楽しんだ。

自然の中で過ごすことが中心の生活だったが、年齢が進むにつれて学校生活の比重が増してきて、時間や規則を守ることなど、社会で生きていくために必要なルールを教え込まれた。やがて僕は受験競争という制度に飲みこまれた。

 原著は1997年に発刊され、翌年度のピュリッツァー賞を受賞している。日本語版は2000年に刊行され、朝日新聞が2010年に行った「ゼロ年代の50冊」という企画で、2000年から2009年までの10年間に出版された書籍の中でベスト1に選ばれている。

著者のジャレド・ダイヤモンドは、1937年生まれの生理学者、進化生物学者、生物地理学者だ。本書は人類の歴史の深層を描いている人文科学系の本だが、取り上げるエピソード、添付された詳細なデータ、その分析手法からは、理科系のテイストが漂う。理系出身者にとっても観念的な議論に陥る記述が少なく、とても読みやすい本だと感じた。

 本題に戻る。「なぜ、南北アメリカ大陸の先住民、アフリカ大陸の人びと、オーストラリア大陸のアボリジニなど世界各地の狩猟採集民族が、ヨーロッパ人に飲みこまれてしまったのか?」。それが最も劇的に明らかになった瞬間は、1532年11月16日にスペインの征服者ピサロとインカ皇帝アタワルパの出会いとピサロの圧倒的な勝利だ。1,500年の時点で、すでに各大陸間には大きな力の差が生じていた。著者は、ヨーロッパ人がアメリカ先住民を征服できた「直接の要因」は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬を駆使する軍事技術、ユーラシア大陸起源の風土病や伝染病に対する免疫の獲得、ヨーロッパで発達した航海技術、ヨーロッパ国家の政治機構、そして情報を正確に伝えることのできる文字を持っていたことにあるという。本書のタイトル『銃・病原菌・鉄』は、これらを凝縮して表現したものだ。

では、「直接の要因」である「『銃・病原菌・鉄』を、なぜヨーロッパ人が最初に手にすることができたのだろうか?」。著者はこの分析のスタートポイントを今から13,000年前に置く。人類がその誕生の地であるアフリカを出発して、シベリア、ベーリング海峡、アラスカを経由して、南アメリカ大陸の先端まで到達したのが13,000年前だ。この時点における人類はみな狩猟採集生活を送っていたため格差が生じていなかったからだ。

さらに、「なぜ13,000年前以降、それぞれの大陸において人類は異なる経験をたどったのだろうか?」、また「「直接の要因」を生じさせた「究極の要因」は何だろうか?」と、探究を深める。著者が最重要と指摘した要因は、野生植物の栽培化と大型動物の家畜化による「食料生産」の開始だ。それが一番早かったのは11,000年前のユーラシア大陸である。メソポタミアの肥沃三日月地帯で植物を栽培し、野生動物を家畜として飼いならす人びとが現れた。その結果、食料生産量が増し余剰食料の蓄積ができるようになった。人口が増え、生産に携わらなくてもいい書記や発明家、政治家、首長、王、官僚などを社会として養うゆとりが生み出された。稠密な人間集団が誕生し、定住的で集権的な社会が誕生した。さらに社会が階層化され、複雑な統治機構の形成と技術革新が進んだ。

 ここまでの分析で「食料生産」が社会を大きく変えた要因であるということがわかった。だが、著者は「食料生産を可能にした「究極の要因」は何か?」とさらに問う。そして辿りついた答えが「環境」と「偶然」なのである。

 ずばり結論を述べてしまうと「究極の要因」は、各大陸の形状の違いだ。この視点はユニークだ。頭の中に世界地図を思い浮かべてみてほしい。それぞれの大陸が南北方向または東西方向のどちらに伸びている陸塊であるかが決定的に重要なのだ。南北アメリカ大陸、アフリカ大陸は南北方向に長く、いずれも赤道が中心部を走っている。この場合、赤道付近の熱帯地域の気候がその周辺地域と大きく異なるため、動植物の生育環境にとっては超え難い障壁となっている。一方、ユーラシア大陸は東西に長い形状のため、緯度を同じくする地域では、日照時間の変化や季節の移り変わりのタイミングに大きな差がない。また、気温や降雨量の変化、分布する植物の種類などもよく似たパターンを示す。このことは食料生産や技術の伝播にとっても有利にはたらく。「食料生産」を可能にした要因はユーラシア大陸の「環境」だったのだ。

 僕は、地理の教科書を思い出した。現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸はもともとゴンドワナ大陸というひとかたまりの陸塊だったといわれている。それが長い地球の歴史の中で分割されて現在の各大陸の形と配置になった。このことも人類が関与できない「偶然」の結果だと思った。

 さらに「偶然」がある。「食料生産」の開始が現在につながる変化の始まりである。それをいち早く一歩前に進めることのできたユーラシア大陸には、栽培化可能な植物の野生種が他の大陸に比べて数多く植生していた。また、家畜化できる可能性のある大型の陸生哺乳類もいちばん多く生息していた。これも「偶然」だ。

 本書において著者は、ユーラシア大陸の人びとが各大陸の先住民を征服できたこと、さらに大陸間における格差が生じたことの要因が、「人種」の違いによるものだという、人間の能力に優劣があるとするような考え方を排し、人びとの置かれた「環境」の違いが原因であるという。これは、差別なき社会を理想とする考え方につながるものだと思う。そして、この「環境」の違いも「偶然」の産物であり、人類の歴史は発展段階説のような「必然」性に従って進むのではなく、「偶然」の積み重ねによるものだという。本書は、歴史に必然性はあるのか、否かという議論に対するひとつの答えだと考える。

 今、僕は家庭菜園を作っている。中南米原産のミニトマト、ズッキーニ、インゲンマメ、トウガラシ、パプリカと中国の西部に原産地のある九条ネギ、そして国内で品種改良された小松菜、万願寺トウガラシを育てている。我が家の食料自給率の数パーセントを担うことができる「農耕生活」をしている。だが、主食の大部分であるコメ、小麦、肉などの原産地はユーラシア大陸だ。最後に、本書が静かに問いかけてくる。このアジアの片隅で、あなたは、あなたに続く世代の人たちは、これからどうやって生きていくのだろうかと。 (3091字)

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその5 北方領土トルーマンはスターリンを咎めず

2024-09-02 15:57:08 | Weblog

アベとプーチンが27回も会談したのに領土問題は一歩も進まず、逆に2島返還の言質を与えてしまった。僕は、米ソとも曖昧にしてしまった北方領土の処理を考えると、まず日本は米国と交渉すべきと考える。米国の領土認識を確認して、ロシアが懸念する米国の軍事基地は作らない、非武装地帯にするなどの戦略を考えるべきだ。米国が北方領土問題に距離を置いているのが怪しいと感じる。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその5 北方領土トルーマンはスターリンを咎めず

5.北方領土への作戦計画

(ソ連)1945.8.19ノヴィコフ空軍総元帥は、ソコロフ第9航空軍司令官に、部隊の一部を北海道・択捉島・国後島へ進発できるよう準備を命じる。

(再掲)(ソ連)1945.8.22待機命令。それで、極東ソ連軍総司令官は太平洋艦隊司令長官らに、北海道占領を断念しても樺太から択捉島・国後島へ部隊を送れるか検討を命じる。(色丹島・歯舞群島はまだ目標に入っていない。)

(再掲)(ソ連)1945.8.27北海道に艦艇、航空機が近寄ることを禁じる。

○ソ連が北方領土を占領したのは北海道占領を断念したのと表裏一体のことだった。

(ソ連)1945.8.28メレツコフ第1極東方面軍司令官は、南樺太の第87狙撃軍団の一部を択捉島・国後島へ輸送するよう命じる。

(ソ連)1945.8.28択捉島の留別(るべつ)に上陸。日本軍第89師団は武装解除。3,608人の島民は脱出できず。

(ソ連)1945.8.29メレツコフは、第87狙撃軍団に国後島と色丹島の占領のため大泊からの出航を命じる。

(ソ連)1945.9.1国後島の古釜布(ふるかまっぷ)に上陸。島民7,364人の約半数が脱出。同日、色丹島の斜古丹(しゃこたん)に上陸。色丹島・歯舞群島を守る日本軍混成第4旅団は武装解除。

(ソ連)1945.9.3歯舞群島(5島と岩礁、根室半島先端部と合わせて花咲郡歯舞村を構成し、村役場は現在の根室市内にあった。人口5,281人)、ソ連は「小クリル諸島」(千島列島の一部という意味)と名付け占領。9.7武装解除。

・(日本)千島列島・北方領土での捕虜は、8.18~9.7の期間で47,605人。民間人の死者は10人。(満州、南樺太に比べれば民間人の流血は少なかった。)

○(米国)1945.8.28米軍、日本本土への進駐開始、8.30マッカーサーが厚木飛行場に降り立つ。

(米国)1945.8.29マッカーサー司令部はソ連代表に、ソ連の占領地域として満州・38度線以北の朝鮮・「サハリンとクリル諸島」を提示する。

 

○問題は、ソ連が占領する千島列島がどこまでを指すのか、米ソ間で合意がなかったこと。前述のとおり、この曖昧さを利用し、ソ連軍はこの日(1945.8.29)以降に国後島や色丹島・歯舞群島を占領する。

 

(ソ連)1945.9.2戦艦「ミズーリ」で、日本と連合国の代表が降伏文書に調印。極東ソ連軍が降伏を受け入れる地域は、「満州・北緯38度線以北の朝鮮・樺太及び千島諸島」と正式に布告される。

 

(ソ連)1945.9.2スターリンはトルーマンに対日戦勝利の祝電を送る。

 

(米国)1945.9.5トルーマンが返電、ソ連軍が8.16以降も戦闘を続けたこと、北方領土まで占領したことを咎めず。

 

(米国)1945.9.8青森県大湊に米軍第9艦隊が進駐する。(歯舞群島の武装解除を終えた直後)

 

(米国)1945.10.4米陸軍の北海道への進駐開始。米国は北海道を占領できたが、その代りに千島列島をソ連に差し出した形となる。

 

 

 

(参考)『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊)

 

 

 

 

 

 

 

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその4 釧路と留萌を結ぶ線 ソ連の北海道占領計画  

2024-08-27 13:14:34 | Weblog

もし、ソ連が釧路と留萌を結ぶ線の北半分を占領していたら?朝鮮半島は38度線で分断され東西対立によって朝鮮戦争が起こった。東西ドイツの分断も冷戦終結まで続いた。僕の父親は釧路育ち、母親は函館で育っているので二人の出会いはなかった。僕は僕として生まれていなかっただろう。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその4 釧路と留萌を結ぶ線 ソ連の北海道占領計画      

 4.北海道上陸作戦

 (米国)1945.8.16トルーマン大統領からスターリンへ日本軍の解体案が届けられる。案では、ソ連軍に降伏すべき地域は、「満州、北緯38度線以北の朝鮮、サハリン」のみで千島列島は記されず。

○(ソ連)1945.8.16スターリンからトルーマンへの返信。上記の地域に加え、「全クリル諸島(千島列島)、釧路と留萌を結ぶ北海道の北半分」を求める。

(ソ連)1945.8.17ソ連軍では北海道占領の準備が始まる。1945.8.18ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官がスターリンへ作戦計画を送る。8.19から9.1までに2個師団を北海道に、1個師団を千島列島に送る。留萌への上陸は8.24午前5時の予定。

○(米国)1945.8.17トルーマンからスターリンへの返信で、北海道の北半分を譲るのを拒絶。ただし、「全クリル諸島」をソ連軍に明け渡す領域に含めるのに同意。(千島列島がどこまでを指すのか、具体的に示さず。→その後の北方領土問題へ)

(ソ連)1945.8.20スターリンは北海道と千島列島南部での作戦準備を続けさせる。だが、8.22スターリンは北海道上陸の準備中断を命じる。同日、トルーマンに千島列島で米国に飛行場の提供するのを拒否と返信する。

(ソ連)1945.8.22午後2時55分、スターリンの命令を受けて、ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官は、北海道への上陸作戦は待機するよう命じる。(中止ではない。)

(ソ連)1945.8.26アントーノフ参謀総長はハリマン駐ソ米国大使へ、北海道への上陸作戦の計画はないと明言し。8.27北海道に艦艇、航空機が近寄ることを禁じる。(上陸を断念)

 

○なぜスターリンは北海道上陸作戦を断念したか。

・研究者の意見は分かれている。(立証できる資料が欠けているため)

①南樺太、千島列島での日本軍の奮戦が北海道の占領を防いだ。

②朝鮮北部と全千島列島をソ連が占領するのを、米国が認めたのでソ連も妥協した。

③ソ連が米国との関係悪化を恐れた。

 

 

 

 

 

 

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその3 フラ作戦 占守島 北方領土

2024-08-18 15:50:15 | Weblog

僕にとっては、道新2017.12.30付け記事は衝撃的だった。どういう歴史的な文脈の中で米国がソ連に対して、艦艇を貸与、兵士の訓練したのか。伝えられている北方領土問題には、違う側面があるのではないかという疑問を持った。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその3   

3.日本の最北端での激戦―占守島

【知りたいこと】米英との戦闘は終わった。だが、ソ連は停戦に応じなかった。なぜ日ソ戦争は1945.8.15に終結しなかったのか。

(歴史を遡る)

・1855.2.7(安政元年12.21)日魯通好条約(日露和親条約)により、択捉島と得撫島(うるっぷ)の間に国境。

・1875、樺太千島交換条約により、占守島から得撫島までの18島をロシアから譲り受ける。従って、択捉・国後・色丹・歯舞群島(北方領土)は、1855から1945まで常に日本領)→北方領土は日本の固有の領土という主張の原点。だが、第二次世界大戦によって・・・・以下。

 

(米国)1943.5アリューシャン列島のアッツ島を奪還(玉砕)。米軍にとって千島列島は、海上輸送路、飛行場使用として重要。ソ連の協力が不可欠だとして米ソ共同作戦を提案するもスターリンにはぐらかされる。

○(再掲)(ソ連)1944.10.15モスクワ会談、スターリン「対日作戦計画」を米英に提示、(見返り)対日戦のため艦艇を要求。(ソ連軍には上陸作戦のノウハウがない)

(米国)1944.12「マイルポスト計画」で16隻の艦艇をソ連に提供

(米国)「フラ作戦」、1945.4~8でソ連兵12,000人をアラスカ州コールドベイ基地で訓練、5~9月に145隻の艦艇をソ連に無償貸与。(道新2017.12.30付け記事)

(米国)1945.2.22ソ連軍が南樺太を占領したら、択捉島・松輪島に上陸する「キール・ブロックス(竜骨盤木)作戦」を立案するも、7月末には犠牲が大きいと米軍による千島占領を断念。

(再掲)1945.7.24ポツダムで米ソ参謀長は千島列島の作戦を協議。温禰古丹(おんねこたん)海峡を米ソの境界線とし、ソ連軍の作戦区域を最北部の占守島と幌莚(ぱらむしる)島ほか2つの小島と区分する。

 

○(ソ連)1945.8.15午前7時30分、ペトロパブロフスク海軍基地(カムチャツカ半島)司令官のポノマリョフ海軍大佐は、占守島上陸の準備を命じられる。→千島列島の占領は、日本がポツダム宣言受諾を各国に通告した後に始まった。

(ソ連)1945.8.17午前4時、上陸部隊(8,824名)がペトロパブロフスク・カムチャツキーを出港。(海霧で援護の航空機飛ばせず)

(日本)1944.5幌筵(ぱらむしる)島で、第91師団(25.000名、軽重火砲200門、航空機8機、戦車64輌)が防備。

○(日本)第91師団にも8.15の玉音放送は伝わっている。1945.8.17夜、樋口第5方面軍司令官から軽挙妄動しないようにと訓示があったのに、占守島にソ連軍が上陸すると、日本軍は激しく抵抗する。なぜだろうか。

(日本)1945.8.17大本営から第5方面軍に「一切の戦闘行動停止、但し止むを得ざる自衛行動を妨げず、その完全徹底の時期を1816とする」との命令。18日16時までは「自衛行動」が許されるとも解釈できる。この時間指定は、昭和天皇が裁可した「大陸令」にはない。大本営が加筆。

(ソ連)1945.8.18午前1時半、ロパトカ岬から砲撃(開戦)。8.18午前2時、占守島北端の武田浜にソ連軍が上陸。だが、上陸用舟艇荷物を積み過ぎ近づけず。濃霧で航空機飛べず。日本軍の十字砲火を浴びる。

(日本)1945.8.18午後、札幌の第5方面軍から「戦闘を中止し、自衛戦闘に移行すべし」との命令が入る。幌筵島の堤第91師団長も「8.18午後4時に攻撃を中止し、防御に移るよう」命じる。だが、ソ連軍は戦闘を止めない。

(日本)1945.8.19現地で停戦交渉、ソ連側からの停戦と武装解除の要求に対し、堤師団長が武器引き渡しを拒否し、まとまらず。同日、大本営はマッカーサーにソ連軍の戦闘停止を訴えるが、ソ連軍はマッカーサーの指揮権を認めておらず効果なし。

○(日本)第5方面軍から第91師団に1945.8.21に停戦と同時に武器引き渡しを認めると伝える。第91師団は攻撃再開を取りやめる。1945.8.21占守島で停戦成立、8.24武装解除。(占守島での死傷者は、ソ連軍1,567名、日本軍1,018名、ソ連軍奇襲失敗)

 

(ソ連)強攻は愚策と覚ったソ連軍は、千島列島の他の島は、第91師団の幕僚を案内人にして降伏させる。占領を急ぐソ連側と流血を回避したい日本側の思惑が一致。占守島より南の占領は、日本軍の協力で戦闘が回避される。

 

 

 

 

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその2 希望的観測 原爆投下 無条件降伏 ソ連参戦

2024-07-21 10:59:17 | Weblog

正確な情報を入手することが適確な判断につながる前提になるが、大本営は自らの希望的観測に沿わない情報に対して聞く耳を持たなかった。この主観と客観の転倒という事態は、なにも旧日本軍だけの病理ではなく、会社や党派などの組織が抱えがちな病理である。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその2 

2 打ち砕かれた日本の希望的観測 

・なぜ原爆投下やソ連参戦の前に日本は降伏できなかったのか。

・1939.9ソ連、不可侵条約を破棄してポーランド侵攻、独とともに領土を分割

・1939.11ソ連、不可侵条約を破棄してフィンランド侵攻、領土を拡大(ソ連には前科があった。)

(日本)1941.4.13日ソ中立条約調印(有効期間は5年で1946春まで)北の守りを固めたと安心し、1941夏にベトナム南部を占領。日米対立が決定的に。

(米国)1941.12.8日米開戦。ソ連は日ソ中立条約を遵守、米(中)は失望

1943日本軍の劣勢が明らかに。独もソ連相手に劣勢に。

 

○(再掲)1944.10モスクワ会談、スターリンが「対日作戦計画」を米英に提示した以降、公然と日本批判を開始。

1945.4.5ソ連が日本に、有効期限(1946春)満了後には日ソ中立条約を延長しないと通告。それでも日本は、ソ連に和平仲介を託して時間を浪費。

 

○(日本)米英との直接交渉を避け、ソ連に仲介を期待した理由。

①無条件降伏への拒否感。無条件降伏とは、敗者が条件を付けないで降伏すること。指導者たちや昭和天皇は、「万世一系」の天皇が永遠に日本の統治権を保持する「国体」の変更を恐れた。②大本営は、ソ連の仲介があれば条件付きの講和ができると期待した。

1945.5.8トルーマン、日本に無条件降伏を勧告。これに対して、日本政府は戦争継続声明。

1945.5.9独降伏。

 

○(日本)1945.5.11、12最高戦争指導会議構成員会議、ソ連に代償(樺太)を用意して終結の仲介を依頼すると決定。(戦争継続から方針転換

(日本)1945.6.22御前懇談会、昭和天皇「一撃講和論」に代り、戦争の終結についての具体的研究を求める。→ソ連との会談が重ねられる。

1945.6.23沖縄における日本軍の組織的抵抗が終わる。

(日本)1945.7.13佐藤尚武駐ソ大使は、ソロモン・ロゾフスキー外務人民委員代理に、近衛文麿特使の派遣希望と、昭和天皇の聖旨(メッセージ)「米英が無条件降伏にこだわるなら戦い続けるが、なるべく早い平和を願っている」を伝え、早く返答がほしいと希望した。

(ソ連)1945.7.14それを伝えられたスターリンは、返事をしないまま、ポツダム会談に向かう。7.18ロゾフスキーは、「聖旨」には具体的な内容がないと返答を拒否。

(米)1945.7.18スターリンが「聖旨」をトルーマンに渡すが、返答はスターリンが決めることと取り合わず。無条件降伏を求める米国は、日本の求める条件付き講和に興味を示さず。

 

(再掲)1945.7.26ポツダム宣言(米・英・中)、日本に無条件降伏を求める。

○(日本)スターリンの署名がないことから、ソ連が日本に好意があるとの「希望的観測」にすがる。7.27閣議、ソ連と交渉中なので、宣言には意思表示せず、事態の推移を注視すると決定。7.28だが、宣言拒絶を求める陸軍のクーデターを恐れた鈴木貫太郎首相(2.26事件で重傷の過去)は、「ただ黙殺するのみ」と発言してしまう。

○(日本)1945.8.2東郷成徳外相、特使派遣をソ連に申し入れるよう佐藤駐ソ大使に訓令。8.6広島原爆投下。だが、なおもソ連の回答を待つ。

○1945.8.8午後0時、佐藤大使から外務省に、午後11時からモロトフ外務人民委員との会談が設定されたとの一報。ソ連が仲介を了解か。(希望的観測)

 

○(再掲)1945.8.8だがソ連の回答は対日宣戦布告だった。ソ連は「日本がポツダム宣言を受諾しないので戦争終結の時間を短縮し、平和を確立するために参戦する」と表明。

○(日本)1945.8.9佐藤がソ連側に依頼した宣戦布告の旨の電報は日本に届かず、日本政府と軍部は、早朝の米英ソからのラジオ放送で開戦を知った。→ようやくソ連の仲介という選択肢は消えた。ポツダム宣言の再検討へ。

○(日本)1945.8.9午前10:30最高戦争指導者会議構成員会議、4条件案(国体護持、自主的撤兵、戦争責任者の日本による処罰、日本本土は保障占領しない)を決定。午後2:30閣議、長崎への原爆投下が報告されたが、無条件降伏は議論されず

(日本)1945.8.10午前0:30最高戦争指導者会議は混乱し結論が出ず、最後に昭和天皇による「国体護持」の一条件案でポツダム宣言受諾の「聖断」が下る。

(日本)1945.8.10午前9時、東郷外相から各国駐在(ソ連含む)の公司に「天皇の国家統治の大権」を変更しないことを条件に受諾を打電。

○(ソ連)だが、スターリンは日本の条件付き降伏を認めない。「妥協的和平」を求めれば「将来の危険」が残る。

1945.8.11スターリン、現地(満州)の部隊に攻撃の継続を命令。

 

○(米国)ソ連に比べると米国は柔軟。バーンズ国務長官の回答に「国体護持」が保証されていないと日本の軍部は反発。

(日本)1945.8.14午前11時御前会議、昭和天皇は2度目の「聖断」で再交渉を求める軍部の意見を斥ける。

(日本)1945.8.14午後11時、ポツダム宣言受諾の用意があるとスイス政府を通じて米国に、米国から英中ソに伝達。

(米国)1945.8.15正午以降、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令長官の命で米軍の攻撃は止む。

(日本)1945.8.15正午、「終戦の詔書」ラジオ放送で国民は敗戦を知る。

・米英との戦闘は終わった。だが、ソ連は停戦に応じなかった。なぜ日ソ戦争は1945.8.15に終結しなかったのか。

 

 

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその1 

2024-07-11 13:57:08 | Weblog

ヒューマニズム精神、宗教的な信条、反戦思想などを抱きながら、自国が戦争へ向かっていることに警鐘を鳴らし、戦争反対を叫んでいたとしても、いざ国と国の戦争が始まれば、その国の兵士となってその国のために戦場に駆り出され殺したり殺されたりしなくてはならなくなる。たまたまその国に生まれたために、その国のために戦争に加わらなければならない。僕は不条理だと思う。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその1  

【知りたいこと】1945.8.8ソ連は日本へ宣戦布告→「日ソ戦争」開始。

・なぜ、ソ連は第2次世界大戦の終わりになって対日戦に参戦したのか。

・日本はなぜこの直前まで、ソ連の仲介に期待したのか。

・玉音放送が流れた8.15以降も、なぜ日ソ両軍は戦い続けたのか。

・日ソ戦争は、その後の朝鮮半島の分断、満州における国共内戦、シベリア抑留・中国残留孤児・北方領土問題の起点である。

1 日ソ開戦(1945.8)に至るまでの米ソの思惑

○ソ連の対日参戦を長らく待ち望んでいたのは米国(ローズヴェルト大統領)である。だが、ソ連はそれどころではない。

(米国)1941.7.10(日米開戦5か月前)ローズヴェルトは、ウマンスキー駐米ソ連大使に「ソ連の航空機で、厚紙でできた日本の街に焼夷弾を降らせてほしい。」

(ソ連)1941.6.22独軍が独ソ不可侵条約(1939.8.23締結)を破棄してソ連に侵攻。防戦一方のソ連は米の支援を期待。日独との二正面作戦は避けたい。

(米国)1943.5.12ローズヴェルト大統領は、チャーチル英国首脳との会談で、「対日戦では、中国軍(蒋介石主席・重慶国民政府)は頼りない、ソ連の参戦は絶大な効果がある。」

(ソ連)1943.11.28米英ソによるイランのテヘランでの会談、スターリン人民委員会議議長は「対日戦に加わるのは、ドイツが崩壊した時だろう」と述べて、参戦をほのめかす。米英にアジアよりもヨーロッパでの対独戦に集中してほしいという意図。

○1944.夏、ソ連軍が独軍の主力を壊滅させる。→対日戦の協議が始まる。

(ソ連)1944.10モスクワ会談で方針転換。スターリン「対日作戦計画」を米英に提示、(見返り)戦闘部隊を支える兵站を要求。

(ソ連)1945.2.4~ソ連のヤルタで戦後処理について会談。秘密協定(米英ソの口約束)を締結しドイツ降伏後2,3カ月以内のソ連の対日参戦を決定。ソ連への見返りは、①旅順を租借地に、大連を自由港に。②モンゴル人民共和国《外モンゴル》の現状維持、満州鉄道や港湾の利権は蒋介石の同意が必要。③満州の鉄道は中ソ共同経営に。(日本関連条項)南樺太(1905までは露帝国領)は「返還」し、千島列島は「引き渡す」。

(米国)ソ連の参戦によって、米兵の犠牲を抑えて日本を無条件降伏させたい。1945.4沖縄戦で米軍死者続出。(中国に配慮しながらもソ連の要求を飲む)

1945.4.12ローズヴェルト病死、トルーマンが継承。

1945.5.9独降伏。→ヤルタ秘密協定によるソ連の対日参戦の期限は1945.8.9に。

(米国)原爆開発と並行して、1945.6.18、九州への上陸(オリンピック)作戦の開始を1945.11.1と決定。だが、引き続きソ連参戦を求める。

1945.7.17~8.2ドイツのポツダムで会談(米・英・ソ)。対日戦、最後の協議。

(ソ連)スターリンはトルーマンに参戦を1週間延期して8.15と伝える。

(米国)トルーマンあせらず。(1945.7.16原爆実験に成功している)

(ソ連)だが、既にスターリンは、ベリヤ内務人民委員から原爆成功情報を得ている。

○通説は、原爆開発によって米国に余裕が生まれ、ソ連の対日参戦を望まぬ方向に考え方が転換したというものだが、政治的には両国に溝ができてきたが、軍部の協力関係は進んだ。

(米国)引き続き米軍幕僚はソ連参戦により対日戦を早期に終結させることを希望。7.26米ソ参謀長会議で、ソ連軍の作戦区域を満州・朝鮮北東部・南樺太・千島列島最北部とする。

1945.7.26ポツダム宣言(米・英・中・三国宣言)発表、日本に無条件降伏を求める。宣言文は米国単独で作成、英国とは協議するもソ連とは協議なし

○(日本)スターリンの署名のない宣言を、ソ連が終戦を仲介する気をまだ捨てていないと解釈し、日本は同宣言を黙殺した。(次節でソ連への期待を説明)

(ソ連)日本の宣言黙殺は、日本の降伏前に参戦し利権(ヤルタ協定)を拡張したいソ連の思惑通りとなる。

1945.8.6広島へ原爆投下(ソ連への予告なし)→米ソ関係の悪化

○(米国)日本や東アジアの戦後処理にソ連の関与を望まず。(ソ連はずし!)

○(ソ連)1945.8.7スターリン、原爆投下によってソ連の参戦前に降伏が早まると予想し、参戦予定の繰り上げ(8.15→8.9)を命令した。

○これは、独降伏後3カ月という期限(8.9)を守るために参戦を繰り上げるのではなく、ヤルタ協定(3首脳による私的な口約束)で約束された利権を自力で手に入れるよりほかなくなったため。(ローズヴェルト死去、チャーチル失脚)

1945.8.8(日本時間午後11時、モスクワ時間17時)、ソ連モロトフ外務人民委員、佐藤尚武駐ソ大使に対日宣戦布告文を渡す。2時間後、米英大使に8.9に日本と戦争状態に入ると告げる。

(米国)1945.8.9長崎原爆投下。ソ連が参戦しても原爆投下を止めなかった。8.14トルーマン、元英国王ウィンザー公爵に3発目を「東京に投下するより他ない」

1945.8.10日本は条件付きでポツダム宣言受諾を米国に伝える。

 

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政権交代とは? 裏金疑惑 支持率 政策転換 

2024-06-30 15:59:49 | Weblog

政権交代とは? 裏金疑惑 支持率 政策転換    

2024年も半分が過ぎた。通常国会は自民党の政治資金問題に時間を費消してしまった。野党は、国民受けを狙ってか重要法案について十分な議論もしないでこの問題に付き合ってしまった。僕は、自民党の政治資金はこの政党の本質を体現しているだけのことであり、国民向けに自ら改革が必要と考えるならば勝手にやればいいと思っていた。あとは、国民が選挙で判断するだけのことだから。

さて、キシダ内閣及び自民党の支持率が低下して政権交代の可能性が出てきたといわれている。僕が気になったのは、最大野党の党首が、「私たちが政権を任されても、防衛、安保、外交など国の基本的な政策は変えないので、国民の皆さん安心してください。」という主旨の発言をしたことだ。(2024.6.21、BSフジ、プライムニュース)

そこで、政権を交代する、政権を奪うとはどういうことなのだろうかと考えた。現状を「変える」ために政権交代をする。現在の政権与党の政策の問題点を指摘して、それを改める考え方を国民に訴えて、支持を広げてはじめて政権を任されるのだと思う。急ハンドルは切らなくてもいい。しっかりと結論付けた政策まで打ち出せなくても、問題を内包する課題を考える必要性、その解決の方向性を国民に示し、闊達な議論を提起すべきだ。「変えない」から安心してくださいというのは全くナンセンスで、政権交代を行う意味などないと考える。

「変える」必要性のある課題は山積している。例えば、米国が世界の警察官の役目を止めて、アメリカ第一主義に転換した現在、この国の対米従属、いいなり外交を見直さなくてもいいのだろうか。43兆円の兵器を買ってほしいといわれて反論もできないで約束してしまう状態。キシダは枕詞のように「我が国を取り巻くかつてない厳しい安全保障環境」というが、それでは何か緊張を解く動きをしているのだろうか。現状では険悪な空気が漂う近隣諸国との関係を信頼を築く方向に転換するべきではないか。

まだある。辺野古をどうするのか。沖縄の人に耐え忍ぶことを続けさせるのか。本気を出して能登地震災害の復興を行っているのか。メタンガスとヒアリが出る夢洲万博、IRカジノは?大井川が涸れてしまうリニアは?・・少子・高齢・人口減少・労働力不足のこの国を世界の中でどうしていくのか。1,200兆円も累積した国の借金、国の財政をどうするのか。政権交代を訴えるのであれば、多くの課題に真摯に真正面から取り組むべきだ。

現状、与野党を問わず今の政治家は、「我が亡き後に洪水よ来たれ」状態としか思えない。政治資金などという些末な問題が国会のメインテーマという堕落した情況。そして、僕ら高齢者も心のどこかに大きな問題は先送りして、残った時間を何とか無事に過ごすことができればいいやと考えているフシがある。

マスコミに出てくる識者といわれている人たちも、国民(市民)が暮らしていくうえで困った問題に直面すると、「ここは、国や地方自治体が補助や支援をすべき」と簡単に言う。その典型的な結果が誰も反対する国民のいないバラマキ政策だ。今の国の財政状況を家計に例えると、返済不可能なほどローンを抱えてしまっているのに、家族のそれぞれが、あれもほしい、これも必要だと買い物を続けている状態だ。破産を避けたいなら、今は我慢の時だ、あれを止めてその分でこれにしよう、ということになるだろう。与党に対抗して政権を担いたいのであれば、無償化や給付の拡大をいう前に、不要な制度を止めてその分の財源をここに投下したい、と野党は苦い選択も国民に問うべきだ。

 

 

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吉田敏明 『鉄から見た我が国の古代史』 葦原中津国(あしはらのなかつくに)のワケ 葦(あし) 河童は実在した

2024-06-12 14:10:51 | Weblog

『鉄から見た我が国の古代史』(吉田敏明著 火力原子力発電技術協会 2015年刊) 葦原中津国(あしはらのなかつくに)のワケ 葦(あし) 河童は実在した  

友人から、高効率発電システム研究所吉田敏明氏が火力原子力発電技術協会誌(Voi.66 No.9)に寄稿した古代史論文のコピーをいただいた。実に面白く久しぶりにわくわくして読んだ。古代においてこの国は、「葦原中津国(あしはらのなかつくに)」と呼ばれていたが、なぜ葦(あし)なのか、その謎が解明された。葦が重要な植物だったのだ。パシカルが「人間は考える葦である」と言ったことと通じるのだろうか。

昔から「鉄は国家なり」といわれている。古代においては、鉄をつくる技術を持つと丈夫な鉄製農具を作ることができ、農業が発展し、そのため強い集団づくりにつながっていた。

以下、本論文の内容を記す。我が国への鉄の伝来ルートは3つある。

①弁辰鉄資本ルート、ニニギ族が朝鮮半島(後の任那)から九州北部にもたらした、鋳鉄・鍛治(間接製鉄法)。この一族から初代天皇の神武が生まれた。

②大陸産鉄族ルート、スサノオ族が同じく朝鮮半島から山陰地方の出雲に伝えた砂鉄製鉄(半溶融直接還元法)たたら製鉄技術。素戔男尊(スサノオ)は朝鮮経由で出雲に来た。

③海辺産鉄族ルート、アタ族が中国沿岸から九州熊本(球磨川)に伝えた湖沼製鉄法

重要なのは、③の湖沼製鉄法だ。

古代の人たちは焚火の灰の底に鉄が溜まる現象を知っていた。その理由は、鉄バクテリアによって湿地帯に生える葦の根元に湖沼鉄という水酸化鉄が溜まり、この葦を燃やすと、焚火程度の比較的低温(600~800℃)でも水酸化鉄から鉄をつくることができる。葦から鉄を採るのだ。皆さんは、沼のような湿地で、根元が赤くなっている植物をみたことがあるだろうか。また、水面に赤く油のようなものが浮いているのを見たことがあるのではないか。そこに、鉄を含んだ物質があるのだ。これが、「葦原中津国(あしはらのなかつくに)」とこの国が呼ばれていた理由だ。

僕は、河童(かっぱ)はカエルから連想した想像上の生き物だと思っていた。だが、河童は実在していたという。河童は、河の子、すなわち水辺に這いつくばって葦を刈る人のことだそうだ。製鉄につながる職業だったのだ。

以上、葦から鉄を採る技術を持っていたのが、中国の河南から熊本の野間岬に辿りついたアタ族である。アタ族は、万之瀬川下流の湿地帯に定住した。

①のニニギ族は鍛治技術のみで製鉄技術を持っていなかった。そこで、ニニギ族は湖沼鉄の技術を手に入れた。その方法は、アタ族首長大山衹神(オオヤマミツ)の娘である木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と婚姻関係を結んで入手したのだ。その3代あとに初代天皇になる神武が日向(宮崎県高原町)で生まれた。神武の東征といわれる行動は、九州東岸、瀬戸内海沿岸、紀伊半島と湖沼鉄を求めながらの湿地帯を辿る旅だったのだ。

そして、当時は湿地だった大和盆地に辿りつき、その皇后に③スサノオ族からヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)を迎えた。ヒメの名前には、砂鉄から鉄をつくる「たたら製鉄」を意味する「タタラ」という言葉が入っている。このことは、神武勢力が出雲のスサノオ族を服属させ、ヤマト政権を樹立したことを表している。

これで、葦から鉄をつくる技術から始まって古代政権の樹立までの歴史が説明されたことになる。

葦原中津国、なぜ葦なのか、ずっと引っかかるものがあった。この理論では、それをすっきりと説明している。僕は、なるほどそういうことだったのかと納得した。ただ、証拠があるかというとないのだ。残されている証拠は、「古事記」「日本書記」などの書物と考古学的に発掘されたものだけだ。

古代史ファンといわれる人は多い。僕も詳しくはないがこの国の成り立ちを知りたいと思い興味を抱いてきた。古代史の専門家、さらに在野の研究者を含めてそれぞれ説得力のある理論を展開している。その中で、何が真実なのだろうか、決定的な説はない。逆にいうと、そこが古代史研究の魅力なのだ。なぜなら歴史の解釈にロマンが漂うからだ。

 

 

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「消滅自治体」に異議あり! 人口戦略会議 産む性 砂上の楼閣  

2024-05-27 09:38:44 | Weblog

同時代にふたりの天皇が並び立つシン・南北朝を幻視した。二十歳の会見以来、愛子内親王の人気がうなぎ登りだ。僕の周囲の方たちも女性天皇としてふさわしいという意見だ。安定的な皇位継承のあり方をめぐる与野党協議も始まった。即位も現実になるのではないか。一方、男系男子を貫くべきとする保守派も悠仁親王への継承を死守するだろう。

 

「消滅自治体」に異議あり! 人口戦略会議 産む性 砂上の楼閣   

「人口戦略会議」が、全国744の自治体を「消滅自治体」として公表した。その推計に用いた方法は、2020から30年間で20~39歳の女性が半数以下に減少する自治体を消滅すると定義したものだ。

この発表に違和感を抱いた人は多いのではないかと思う。まず、若い女性の数を指標にしたことを批判しなければならない。この考え方の底流には、女性は子どもを産む、産める存在であるという点にだけ価値がある、逆にいうと産まない存在、産めない存在に対してマイナスの評価をしていることが問題だ。

自治体の存立は、現在に至る歴史的な背景、その地域にある資源、それを活用する産業構成、気候など自然的な情況などさまざまな複合的な要因によっている。若い女性数だけで推計しるのは乱暴な議論である。

また、このレポート、おそらく東京近辺で活動している有識者によるものだろうが、北海道、東北の6割以上が消滅するとのことだ。北海道に住んでいる僕にとっては、そこで生活している人びと、そこでこれからも生きていこうとしている人に対する侮辱として捉えてしまう。

僕からみると、わずか数センチの降雪で交通機関がマヒしてしまうと大騒ぎする首都圏の方が、食料、エネルギー、災害などに対して脆弱さを露わにしていると思う。臨界埋立地にタワマンの光景は、まさに砂上の楼閣であり、東京こそが消滅可能性ナンバーワン都市だ。

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タンスにホン!

2024-05-15 08:54:50 | Weblog

 

古い整理タンスが不要になりました。安っぽく軽いのですが、2階から降ろすのはちょっと無理。

バラバラに解体してしまおうと思ったのですが、ふと、本を収納できるのではと思いつきました。

引き出し2段を1段に。最初は、引き出しを一つおきに残そうとしたのですが、引き出しの底面がぺランぺランのベニヤ板で本の重量に耐えれないことがわかりました。

それで、引き出しの前面の比較的丈夫な板を接着剤で張ることにしました。

その結果、奥行きがあってかなり収納できる本棚ができました。

「タンスにホン!」です。

 

 

 

 

 

 

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酒井隆史 『賢人と奴隷とバカ』 魯迅 竹内好 2010年代 福島第一原発事故 天皇制 保守リベラル化

2024-04-26 14:28:41 | Weblog

道内選出の参議院議員長谷川岳氏(旧アベ派)が、その言動,振る舞いを批判されている。誰かが言い出すのを待ってそこらじゅう一斉にバッシングを始める構造は、ジャニーズ問題と同じ光景で、横並び意識が蔓延してしまっていることにある種の危機を感じる。政局的には、議員辞職した某宮澤衆議と同様、「溺れた犬(アベ派)は棒で叩いて殺せ」ということなのだろう。

 

『賢人と奴隷とバカ』(酒井隆史著 亜紀書房 2023年刊) 魯迅 竹内好 2010年代 福島第一原発事故 天皇制 保守リベラル化  

書名は、魯迅の『賢人と奴隷と馬鹿』からきている。その翻訳者の竹内好はいう。「日本の近代は、優秀な賢人たちによっておしすすめられた優等生の文化である。しかし、日本の近代はその優秀性ゆえに『負けた』のではないか。優等生(賢人)の文化では、あたらしいものがそれ自体で価値を帯びあたらしい原則に人は次から次と飛びつく」。賢人(優等生)はダメだと。

それに対して、魯迅のような作家を生み出す土壌においては、状況がどれほど変わろうが、にわかに方向を変えるころはできない。そこでは状況に流されない頑固さをもったバカが必要だ。バカであることにこだわる。

酒井氏は、2010年代に対する「おとしまえ」をつけるという。時代の意味、どういう時代にあって、何を課題にすべきかを模索する態度が希薄になったのではないかと問う。この間の言説の微妙な変化に対して感度を研ぎ澄ます。

2010年代、僕にとってはどういう時期だったのか。2010年から16年までは現役として働いていた。バリバリで全力疾走していたと胸を張りたいところだが、「ひとから後ろ指をさされない程度にはやるか」がモットーだった。2017年にリタイアしその後は無業者生活である。この間、僕なりに世の中の情況や言説にこだわってきたつもりだ。時々に感じたことはこのブログに書いた。だが、酒井氏が見たらどう思うだろうか。

僕がバカにこだわった例は、2011.3.11福島第一原発事故以降の世論動向に対する異議だ。それまでの自分の原発に対するスタンスを総括しないで、いとも簡単に「反原発」を唱え始めた多くの人びとに疑問を感じた。それから10年あまりが経過した現在、その人たちの今はどうなっているだろうか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」状態だ。だから世論の動向を見極めたキシダが原発再稼働、新設に舵を切ったのだ。再び、多くの人の「再転向」が起きたのだ。

僕は、この変わり身の速さに付いていけなかった。僕は「産んだ子(原発技術)は、育てなければならない」と考える。現実にメルトダウンしている原発を横に置いて、反原発を叫んでも事態は打開できないと考える。原子力に関する技術をもっともっと開発しなければならない。廃炉技術をもっと前に進めなければならない。僕は頑固なバカでありたい。

僕が時流に流される賢人だった例がある。それは酒井氏の指摘で、ハッと気づいたことだ。氏はいう。「2010年代に顕著になった批判的言説の『保守リベラル化』のなかで、現在の議会政治の『劣化』が、かつての自民党政治やあるいは天皇制すら担ぎ上げて対抗させるというかまえがあらわれた。」と。この意味するところは、右派ではなくリベラルと称される人びとの中に生じた、平成天皇を民主主義者として讃える言説を指しているのだろう。アベ右派政権と平成天皇は必ずしも折り合いが良かったようには見えない。リベラルの中に、天皇のコメントにはアベ政治に対する批判があらわれているという捉え方だ。だが、酒井氏は天皇制の本質はいささかも変わっていないという。僕も、平成天皇が何かリベラルの声を代弁しているような錯覚をもったことがある。この点では、天皇制に対してはもっと自覚的であるべきだったと反省する。

天皇制の本質を見出さなければならない例を思い浮かべると、皇族の被災地訪問のおり、皇族と面会した人びとは、マイクを向けられた時に口々に興奮と幸福感を表明する。もちろんこころから発していると思う。無意識レベルも含めて、この賞賛コメントに含まれる天皇制のソフトな権力性を感じなければならないと思う。僕は、ものわかりのいい優等生の賢人だった。

2010年代に、何が起こって、どのような言説が流布され、僕がそれらとどれだけ自分の中で向き合うことができたのだろうか。本書を読むと、後ろからゴツンと頭を叩かれたような衝撃を感じる。

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柳原滋雄 『実録 白鳥事件―「五一綱領」に殉じた男たち』 白鳥一雄 村上国治 日本共産党 男沢哲男

2024-04-03 12:46:16 | Weblog

このブログを始めたのが2006年4月。19年目に入った。51歳から69歳になった。当時はブログが盛んだったと思う。今は短くつぶやきささやくのが流行りらしい。読み返してみると体内の毒が減っていることに気付く。備忘録として始めたが、今は脳トレになっている。読んでいただいている方に感謝したい。

 

『実録 白鳥事件―「五一綱領」に殉じた男たち』(柳原滋雄著 論創社 2023年刊) 白鳥一雄 村上国治 日本共産党 男沢哲男  

白鳥事件は、戦後の混乱期を象徴する興味深い出来事なので、これまでこのブログに、2013.5.6にHBC開局60周年記念番組『インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実』(2011.3.27放送)、2013.5.19に『白鳥事件 偽りの冤罪』(渡部冨哉著 同時代社 2013年刊)、2014.12.25に『私記 白鳥事件』(大石進著 日本評論社 2014年刊)と書いてきた。 

また、先日2024.3.30に放映された、「NHKスペシャル未解決事件File.10『下村事件』」も同時期に起きた謎の多い事件だ。

本書で著者は迷いなく冒頭のプロローグからこの事件を「冤罪を装った殺人事件」(P3)と断定して記述をスタートする。すなわち白鳥警部を殺したのは日共の組織的犯行であり、村上国治被告が主張する冤罪説は虚偽だとみなしている。事件後70年以上経過しているため関係者が亡くなっていて聞き取りなどは制約があると思われるが、本書において事件に関する新たな事実などは書かれていない。また、著者独自の推論もない。ほとんどが類書からの引用で構成されている。従って、僕は本書を周りの人に薦める気持ちはない。

強いて言えば、白鳥の生い立ちを描いているところが特徴だ。その中で、帯広中学(旧制)で白鳥と「同じ剣道部に所属した男沢哲男の証言」(P52)という記述が出てくる。ここは、僕の個人的なことだが、この男沢先生から僕は釧路の高校で古典の授業を受けた。懐かしい記憶だ。

本書には表現に粗な箇所が散見される。例えば、

・「現在の比布駅は車掌も常駐しない小さな駅だ」(P6)。無人駅と言いたいのだろうが、駅に常駐するのは車掌ではなく駅員だ。

・「年末には農村工作隊を編成」(P38)は、山村工作隊の誤りだろう。日共関係の書籍を刊行するにしては基礎的な知識が不足しているのではないか。

・「1939(昭和14)年発行の・・・によると、・・新潟または敦賀から北朝鮮の羅津港までの・・・北朝鮮経由ルート。・・下関から釜山までの・・韓国ルート」(P65)。当時は、北朝鮮も韓国も建国されていない。朝鮮半島北部、南部と表現すべきだろう。

・「関東軍(旧日本陸軍)」(P66)に“かんとん”とふりがなされている。かんとん軍というのは聞いたことがない。かんとう軍の誤りだろう。

そして、最後のくだりにある「イデオロギーの対立を除いて虚心坦懐に向かい合い、腹を割って話し合ったら、二人は理解し合える関係になったと私はこれまでの取材で痛感してきた」(P280)。僕には著者が何を言いたいのか全く理解できない表現だ。そもそも白鳥と村上が、警察と党という関係抜きに会うという場面が想像できない。

本書には描かれていないが、僕が白鳥事件を考える上でのポイントは、①実行犯は誰なのか。日共関係者なのか、権力の謀略なのか。証拠とされる銃弾、関係者の証言などが分析尽されているのか。

②日共の歴史的正統性の問題。「五一綱領」およびその方針のもと運動したことが現在の日共の歴史から抹消されていること。出獄直後の村上を日共は支援していたが、その後距離をとったこと。村上はアルコールに溺れ、最後は火災で亡くなっているが、その心の中はどうだったのか。事故死なのか、自死なのか。

かつて(2014.12.25大石進著『私記 白鳥事件』)このブログに書いた「この事件が代表するように日共は、これまで、革命という大義のもと不幸を強いられた党員、シンパに対し真摯な総括をしていない。党が分裂していた時代の一部の分派がやったことと党史にも記載されず、歴史の証人になりえる関係者は中国に追っ払って口を封じ、彼らの帰国後も知らん顔を決め込んでいる。党員の人権すら大事にできない党が、国民の人権についてどのような顔をして議論できるのであろうか。戦後の日共史上の白鳥事件、また伊藤律事件などの総括無しに、日共は政権も獲れないし、政権に近づくことも許されないと思う。」という考え方は変わっていない。

 

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北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その12 北海道立北広島高校 立命館慶祥高校 日本ハム セレッソ大阪

2024-03-23 09:31:17 | Weblog

北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その12 北海道立北広島高校 立命館慶祥高校 日本ハム セレッソ大阪   

前回(2024.3.12)その11で、サッカー専用スタジアム妄想」を予告した。以前、その3(2017.10.29)でJR北広島駅から徒歩3分と近い石屋製菓工場の隣接地(石屋製菓所有)がカシマスタジアムと同等の面積(4.5ha)であることから適地だと述べた。JR北広島駅位の場所だ。また、その7(2019.10.8)では、ボールパーク内に用地を確保すべきと書いた。

今の僕の頭の中に浮かんでいる場所は、ボールパーク隣接地、BP内と言ってもいい場所だ。周辺は、BP関連で道路が整備され上下水道のインフラ環境も整っており、駐車場もBPと併用すればよい。2028年にはJR新駅も建設されることから利便性は抜群の場所だ。ゆっくりと周辺を回ってみて妄想が浮かんだ。

さて、それはどこか。ずばりBPの南側にある北海道立北広島高校の土地だ。BP関連道路に囲まれたBPと一体化している場所に高校があるのだ。同校を調べると、1978年に開校しており校舎等は築46年を経過してことから近いうちに改築が必要になるだろう。また、同校の校地面積は、 53,833.1m2(約5.4ha)と石屋工場隣接地よりも広い。僕は勝手にここが唯一無二の土地と定めた。

では、今の北広島高校をどこに移転するかだ。同校は進学校なので、より静謐な環境を求めるべきと考える。JR千歳線は石狩低地帯より一段高い台地の上を走っている。従って、JR北広島駅の東側方向には住宅地とともに、無限に広がる原野(昔は水田)がある。今は江別市西野幌にある立命館慶祥高校(中学校)が札幌市からの移転先を探した際に有力な候補地だった場所だ。(1997年に移転)JR北広島駅から徒歩10分ほどなので現在地よりも通学の便はよく静かで勉学に打ち込める場所だ。道立高校の移転改築なので道庁や道教委にも理解し協力してもらおう。

場所は決まった。次は、資金だ。北海道コンサドーレ札幌にとっては身の丈を超える資金を調達しなければならなくハードルは高い。でもいつまでもそこに縛られていてはチームを大きく脱皮させることはできない。今まで支えてくれたスポンサーには大感謝だ。義理も感じる。でもクラブの現状は、飛躍するか、シュリンクするかの瀬戸際に立っている。

僕は、BP関連事業として日本ハムの力を借りる時と考える。日本ハムがセレッソ大阪の株主なのは承知している。セレッソには申し訳ないのだが、日本ハムにセレッソからコンサドーレのスポンサーに変わってほしいのだ。日本ハムが北海道のプロ野球球団とサッカークラブを運営してほしいのだ。BPという同じ空間の中で野球とサッカーを観戦でき、ビジネスとしても成功してほしい。専用スタジアムで臨場感のある試合と圧倒的で熱量のある応援を観たい。

 

 

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北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その11 開幕戦 野々村チェアマン

2024-03-12 15:24:54 | Weblog

北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その11 開幕戦 野々村チェアマン

このテーマでは、2016.6.19のその1に始まり、2017.6.3その2、2017.10.23その3、2018.2.13その4、2018.4.19その5、2018.8.13その6、2019.10.8その7、2023.9.29その8、2023.10.12その9、2023.10.22その10と書いてきた。

今年は、コンサのホーム開幕戦(3.10)に行かなかった。毎年、開幕を待ち遠しく冬を過ごしてきた。開幕戦の時期はまだ寒いのだが朝早くから屋外で並んで、入場を待っていた。しかし、今年はなぜかわくわく感が湧かず、結局テレビ観戦になってしまった。

初戦を終えて、札幌ドームのピッチコンディションが悪い、浦和の選手に怪我人が出た、日ハム移転により札幌ドームの年間赤字が3億円を超えるなどネガティブな情報が出ているが、僕のしょんぼり感の原因は少し違う。

一言でいうと、「このチームの目指す方向が見えないこと」なのだ。昨年の最終戦を終えた時に三上GMがあいさつで「来年度はひとけた順位を目指す」と言ったが、「タイトルを目指す」とは言わなかった。シーズン中のク・ソンユン、金子、オフの小柏、田中、福森など主力選手が流出してしまう情況ではとても言えなかったのだろう。だが、選手たちはけな気にもタイトルを口にしている。

僕は、Jリーグの秋春制移行に便乗して、積雪寒冷地の地理的条件を前面に出して、ちょっとゴネながら、専用スタジアム実現に向けた動きをするべきと思っていたのだが、三上GMはあっさりと受け入れを表明した。これもちょっとした失望だった。

そんな時に、展望のある話を見つけた。

『アビスパ福岡の課題…Jリーグ野々村チェアマンがズバリ答えた! 苦戦する集客の打開は? 新スタジアムは?』(西日本新聞社3/11(月) 18:00配信)

野々村さんのコメントを以下に抜粋する。

札幌時代に集客で注力したことは、「お金をしっかり使って、投資をして露出を獲得していく。結局、露出がすごく大事でクラブがいい情報、知ってほしい情報を届けられるかということは徹底してやってきました。」

「クラブが強くなるってことはクラブの売り上げがどれだけ伸ばせるかっていうことと、ほぼ比例する。」

勝ち負けも大事だが、「熱量のあるスタジアムの方が本当にレベルが上がっていくと思っていたので、熱量のあるスタジアムをどうやってつくるかということを、僕が(札幌で社長を)やっていたころは考えていました。」

「(福岡の新スタジアムについては)基本的にはクラブと地域でサッカーを中心にどんな社会をつくっていけるのかみたいなことのコンセンサスを取ることだと思うんですよね。」

「フットボールサイドから見れば、サッカー専用のいろいろな楽しみが持てるようなスタジアムじゃないと、たぶん、クラブとして生き残っていけなくなると思うんですよ。生き残っていけないというか、トップクラブになっていくのなら、それを実現しないと難しくなっていくと思います。」

読むだけで力が湧いてくる。「未来のチームの姿のためにスタジアムに足を運んでほしい。チケットを買ってほしい。グッズも買ってほしい。友人、知人を誘ってほしい。」と呼びかけてほしい。そして、ともにコンサをトップクラスのチームにしていこうと。

次回は、僕の「北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム妄想」を書こう。

 

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