暦はすでに4月になっているのだが、今年の春は何だか寒々している。でも、今日は、少し暖かくなったので、今年初めての屋外走を少々。
同じ気持ちのランナーもいたようで、サイクリングロードでたくさんの人とすれ違う。皆さん、シーズン初めで身体が中々動かないようで苦しそうに走っている。
そんな、私も気持ちは春めいていても、身体が重くて苦しくて、ちょっとヘロヘロ状態に!
Ⅴ 反障害運動の方向性
第一六章 「障害者運動」の概観
1970年代以前、家族、教育関係者、研究者による、「愛される障害者」像に基づく、慈悲と恩恵にすがる運動
全国障害者問題研究会(全障研)による「発達保障論」(発達の弁証法に基づき、標準的人間像に近づけることが周りの者の役割)(*善意に発する差別!)
1970年代、日本脳性マヒ者協会青い芝の会のラジカルな活動
1976年、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成、反差別、代行主義の否定(親が抑圧者になる、自分たちのことは自分たちで決める。)、発達保障論批判(障害個性論の主張)
1980年台以降、障害別への分断、社会参加路線―機会均等派、生活保障運動(障害基礎年金)へ
第一七章 「障害者」をとりまく状況
障害者が労働力として組み込めるかどうかで、分断される構図
第一八章 反障害運動の方向性―新しい流れを生み出すために
一節 障害に対するとらえ返しからアンチとして定立しようとする反障害運動
著者は、「努力して障害を克服しよう」という形の差別の存在があることを捉え返そうと提起し、それが欠落したところでは、慈悲や恩恵のもとで生きざるを得ない、という。
二節 運動の中の反障害の思想と文化
(イ)「できるーできない」という言説に対する「どうでもいいじゃん」―能力主義としての「できること」の反対語―
障害者に住みやすい社会はみんなが住みやすい社会
(ロ)「はやく、ゆっくり」
(ハ)ユニバーサル・デザインの思想
三節 反差別への広がりと深化
(イ) ユニバーサリーゼーションとしての半障害―反差別運動
(ロ)資本主義的―新自由主義的、<帝国>としてのグローバリゼーションと対決するユニーバーサリーゼーション
スーザン・ジョージは、オルター・グローバリゼーション(もうひとつの)という概念を持ちだした。
以上、2ヶ月間近くかかりノオトと取りながら読み終えたのであるが、私なりの総括に至らない感想は以下のとおりである。
著者は、障害者が「標準的人間労働」という物象化された資本主義社会における労働のあり方に規定されるため、差別、排除される、と主張します。また、障害者ゆえに社会をとらえることができることがあることから、「反転」した社会の可能性を示唆します。
人間は、ユートピアとして平等社会の実現を模索してきました。ただし、その平等の内実が問われてもきました。
毛沢東のコミューン論もそのひとつです。60年代初頭に実践された労働点数相互評価制(自報公議)と言う分配方式です。それは、先ず労働者は、自分の労働を評価し申告します。それを集団討議し決定するものです。例えば、幼い子どもを抱えた夫のいない体の弱い女性は、壮健な男性に比べても3分の1も働きがないという場合でも、その女性が必死に働いているのだから壮健な男性よりも点数が高くて良いとされる場合があります。
この分配方式は、社会主義的な「労働に応じた分配」を超えるもので、共産主義的な「必要に応じた分配」に近いものと言えます。ただ、そこには、主観主義的な落とし穴や評価に手間暇がかかるという難点があります。(参考:加々美光行「中国における社会主義革命の展開と変容」情況2010.1.2 p.194)
以上のように述べたからといって、中国社会が障害者にとって差別や排除の無い社会であったなどと捉えるものではありません。現実には、社会的効率の追求や競争、淘汰が資本主義社会以上に過酷であったと思われます。反対に、20世紀型社会主義社会において、差別の問題が解決できなかったことに、この体制の根本的な欠陥、崩壊の原因のひとつが内在していると考えます。
また、この国における今日までの障害者運動も上記の社会主義社会を目指した革新勢力を中心として運動であるため、同様の欠陥を有していると考えます。
「差別」「排除」克服の問題は、今後も考えていきたいが、少なくても「こころ」や「宗教」次元の問題ではなく、「体制」による解決を追求すべきだと考えます。