スマートフォンに買い替えのキャンペーンで抽選に当たったのが天空の城・竹田城への旅となった。
城崎温泉へ
京都から福知山経由の城崎は、結構遠かったが車窓から“実るほど穂を垂れよ”という格言を思いつくように日矢を受けた穂は黄金色に耀く麦秋であった。
城崎温泉は外湯、外湯は城崎温泉とうたい文句にあったので、宿に着くと早速カランコロンと下駄の音高く露天風呂へと。滝の流れを眼の前に若葉も影を映すようなそんな中で湯につかるのは極楽かな。夕食後もまた外湯巡りを、柳風を受けながら湯から湯へそぞろ歩く湯の客の一人になる。
翌朝宿の辺りを散歩すると燕が忙しく飛び回っている。“つばくらめ湯宿飛び交ふ朝かな”
二日目は乗合タクシーで一路但馬路の竹田城へ。麓から約1キロにある天空の城は、400年を経た穴太積みの石垣で山城の遺構である。北千畳から三の丸、二の丸、本丸、南二の丸、南千畳と南北400mを平行移動しながら天空の城への第一歩を踏む。
354mの山頂に立つとに遠嶺に遠嶺を重ねた山容が広がる。この竹田城が広く知られるようになったのは、秋から冬にかけてよく晴れた早朝に朝霧が発生し、雲海に包まれた城が如何にも天空に浮かぶ城を思わせるそうだ。今城は万緑の只中にある季節、夢か幻か確かに燕が頂上の砦を掠めて飛び去っていった。“天空の城に飛燕や雲ながる”
この城は2006年高倉健主演による映画「単騎千里を走る」の舞台になったそうだ。その城は“山城の石塁崩れ夏あざみ”がただ風に揺れているのみ。5月とはいえ30℃を越す暑さも穴太積みの石垣の美しさに汗も引いてしまう。
下山後は福知山経由にて宇治平等院へ。平等院鳳凰堂は一年半ぶりに修理を終え池に丹塗りの姿を映し出された。藤原道長の別荘を寺院に改め創建された平等院は、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂である。風雪にさらされた寂びた趣の方が私は好きではあるが…。
近江八幡 水郷巡り
さてフリータイムの最終日は近江八幡の水郷巡りを計画、時は水無月の一日、水郷の葦が青々と茂り緑の壁を作るころ、葦の秀(穂とも)に葦切(行々子)がギョギョシギョギョシと鳴く声がそれはにぎやかに水郷中をひびくかに。五人乗りの乗合の手こぎ舟は葦原をゆっくりと進む。鳰(かいつぶり)も葦の間に巣を作るので鳰の浮き巣ということも話し上手の船頭さんの語り口で知ったりして楽しい一時間であった。
“手こぎ舟葉末に留む行々子”
葦の葉に行々子を見つける(真中辺りに)
その後日牟禮八幡宮拝礼、そしてロープウエーで八幡山へ。豊臣秀次築城の八幡城は荒れはて、あわれ秀次の末期と重ねる。この八幡山から見下ろす鳰の海(琵琶湖)は、この2,3日の気温の上昇で靄でかすんでおぼろであるが豊臣一族の悲劇が靄の中にあいまいにみえるのもよいかもしれない。
近江八幡はきっと美味しい食べ物があるに違いないと、昼食に選んだのが八幡堀の「やまとく」、自家製の鮒寿司を家人は「あの独特のにおいはダメ!作家の篠崎某氏はそれを日本のカーマンベールと喩えていたよと」と。それでうな重を食したが、これがまた関東人の家人にはベストといえなかったかもしれない。というのは、こちらのうなぎは蒸さないでカチッと焼いて鰻に包丁の切れ目を入れてという料理法らしい。鰻大好きな家人の講釈である。
安土城へ
また近江八幡の駅に戻り、琵琶湖線で一駅先の安土駅へ。一度信長築城の安土城を一目見てみたかったが、結果的に竹田城よりも安土城の方が強烈な印象を受けた。予備知識ないままに天主跡に続く大手道の石段をひたすら上る。その石段の何箇所かに石仏を使っているのは短期間に築城したために周辺の寺の石仏を運ばせたそうだ。
石段は当然足で踏まれるもの、そこに石仏を使っているのは信長の神仏への恐れを知らぬ行為がそうさせたのか、そのこと一つをとっても現場でみたことは驚きであった。そして天主跡は礎石が整然と並ぶだけではあるが、信長の世界を制覇する野心がこの場所だったのだということが時空をこえて迫ってきた。
帰路は三重塔、仁王門を通る。信長が甲賀から移建した三重塔(1454年建立)と仁王門(1571年建立)が緑濃き林から忽然と現われた。万緑の中に立つ三重塔はあくまでも美しい、冬の近江の安土城にも訪れてみたいと思いながら急ぎの旅を終えた。“駅頭や青水無月のあふみ去ぬ”