先日友人のお誘いで真之茶事へ。調べてみると6年ぶりの炉の茶事であった。
真之茶事の流れは主催する亭主により千差万別らしく、この度の流れは、
真の炭→一の膳(精進)→菓子→中立→ドラ→真之行→動座→薄茶→二の膳(精進落し)であった。
冬に戻ったような花冷え、炉を囲み、自然光で亭主が所作する動きだけに集中し、釜を上げたときの炭の赤々とした一点に心を奪われる。このとき突如として脈絡なく川端康成がノーベル賞授賞式の講演で話された明恵上人の「あかあかやあかあかあかや…」の一節が心をよぎる。
亭主は白鳥の羽箒を取り、ゆったり、ゆったりと掃かれる。如何にも白鳥が舞うかのように。所作の最後まで序破急で整えられる。自分まで亭主の呼吸に合せていたりする。
次の一の膳は、人数の関係で四畳半の小間席から立礼の広間へ動座、朱で整えられた膳一式、ルツに梅、椿皿の向付は、当然「胡麻豆腐美味しいわね」と話していると、何と麻の実豆腐だった!
懐石料理を手がける連客の方も「初めてだわ」と驚かれる。確かに胡麻豆腐のようなねっとりした舌触りがなかったような…。椀物、預け鉢も美味しかったことは云うまでもない。
さて七種の菓子が真之茶事の約束の数、既成の菓子だと縁高を占領してしまうが、亭主方で作った六種と水菓子が程よく納まっている。何といっても手作り、美味しくてまた七種とも食べたかったが、証拠の写真を撮りたいと持ち帰った菓子が写真の通り。
残りの4つ
中立ち後の銅鑼の響きが心にしみわたるような音色、大小大小中中大と打つ間の余韻こそ巧者ならではの見事な打ち方、(私の打つ銅鑼とは雲泥の差)、後入りの台子点前に神経を集中すべく加茂本阿弥椿とななかまどに迎えられて座につく。
この写真は我が家の台子
利休所持の松の木盆に瓶子形の茶入、茶碗兎毫盞で練られた茶は坐忘斎好み(銘は失念)、五人分を丁寧に丁寧に、菓子の甘さがまだ舌に残っているうちの濃茶が美味しかった。最近菓子も甘さを控えているようだが、やはり濃茶の濃さと菓子の甘さが相まっているからこそ美味しいのではないかと一人菓子の甘さを歓迎する立場。
亭主は道具の拝見を出された後、ゆっくり拝見する時間を与えてくださるのがうれしい。正客の依頼で詰が道具を返され戻った瞬間、亭主が襖を開けられたタイミングが絶妙。いつ返されても良いように呼吸を整えて控えられていたのだった。
また動座した広間の室礼は立礼が取り払われ、釣の雲龍釜が掛かっている。床には一行墨蹟「佛法如水中月」江雪老師筆、庸軒の竹一重切の花入に月光椿、貝母、山吹の蕾の枝、真之行台子の白椿から薄茶席の赤い椿へと見事に変化した。
ここでは半東が代点、亭主が語らいながら道具の説明を。踏青を思わせるような蕨と黄蝶の干菓子も手作り、了入火前印?黒茶碗、延宝年間頃の出雲焼茶碗、初代朝日焼茶碗など、「席主のところに自然に道具が集まってきますね」、と席の何処からか聞こえてきたりして。
お話しも一段落して二の膳で精進落し。煮物椀の蛤真蒸、八寸に野萱草の若芽と鯛を、真青な色にほのかな苦味がある。“野遊びや野萱草の芽青さ増す”
結局茶事は亭主を主人公のドラマ、ドラマを如何に面白くするのは客次第?
月光椿(卜伴椿とも)(椿の里hpより)