現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

八橋検校と小野お通

2021-07-14 08:25:56 | 筝尺八演奏家

近世筝曲の始祖「八橋検校」の起こした筝曲「八橋流」は途絶えたとされていたが、どっこい、松代市に住む真田志ん」さんという女性が「八橋流」を正しく伝承している ことが判り、昭和44 年には国の無形文化財に指定された。

昭和48年、古屋富蔵さんの会で、私は「真田志ん」さんの『六段』の演奏を聴いている。現在伝わる『六段』とあまりにも違うことに、私の頭は真っ白になった。

 

「真田志ん」さんは、その3年後の 昭和51(1976)年、92歳で亡くなられた。

その後、娘の「叔子」さんが継承し、「八橋流」について調べたことを真田宝物館の機関誌『松代』第3号で発表し、また、地元の本屋から私家本として『小野お通』を出版している。 真田淑子(さなだ・よしこ)著。風景社
(長野県長野市) 初版:平成2年5月(1990年)定価:2500円 A5判。

その「淑子」さんも 平成15(2003)年、90歳で亡くなられた。
宗家は消滅したが、門下生により「八橋流」筝曲は厳格に伝承されている。

さて、「なぜ、松代に『八橋流』が伝承されたのか」
これが、3通り憶測される。

①2代藩主「真田信政」の側室「お伏(二代目お通)」が、京都で 八橋検校から直接に筝を習ったという。



「2代目小野お通」とは、その母も「お通」といい、初代藩主である父「真田信之」が深く思いを寄せていた女性であった。この「初代お通(通子)」は、京都にいて、和歌や書画・琴にも優れ、信長や秀吉らとも親交があったと伝えられている。最初、塩川伯耆守に嫁いだが、夫が本能寺の変で討死にしたため、渡瀬羽林家に再嫁。一女をもうけた。
その娘が、上田藩主であった真田信之(信幸)の側室となり、真田信之(信幸)が 元和8年(1622年) 松代転封に伴い、母の「お通」も 松代に移り住み、松代で歿した。

娘の「2代目お通」(1587~1679年) が、京都で、八橋検校から「八橋流箏曲」を学び、それを 勘解由家に伝えたとされる。


③『真田勘解由家文書』では、松代の8代藩主「真田幸貫」が、藩士の禰津権太夫夫妻を京都に派遣して、八橋流 16代目の有一座頭」から「八橋流」を習わせ、藩内に八橋流を広めさせたと記している。
8代幸貫は、陸奥白河藩主 松平(久松)定信の二男で、真田家に養子として入り、箏や茶道、書などの文化を奨励した。


「初代と娘の“二代目お通”が八橋検校から直接『八橋流』を習った」という説には無理がある。

「2代お通の 京都在住が、1622年の松代移住前とすると、「八橋検校」はまだ8歳。「2代目お通」が八橋から直接習ったというのは、後世の挿話であろう。

となると、江戸時代半ば、八橋流16代目の「有一座頭」から伝承されたものというのが確実ではないか。

真田勘解由家」は、真田家二代信政と「2代目小野お通」の子「信就」を初代とする真田家の分家。現在も屋敷が現存し、子孫が住んでおられ、蔵の中には古文書類が多数あるとのことだが、その公開を拒まれているとのこと。

松代藩に伝えられたという「八橋流」は、八橋流16代目の有一座頭」から 禰津権太夫の妻千勢が 娘 喜尾へ免許を与え、喜尾が娘の伊豫(横田家へ嫁す)に伝え、伊豫が娘の由婦( 真田家へ嫁す)に伝え、由婦から孫の「真田志ん」に
伝承 されたというのが、私の説である。




八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係

2021-07-12 21:12:03 | 筝尺八演奏家

八橋検校」の出生地は、岩城国(福島県)(たいら=現いわき市)とされている。『筝曲大意抄』にそう書かれているそうな。


「いわき市平」の生まれかは判らないが、八橋検校は「岩城平(たいら)藩の江戸屋敷に、お抱え楽師として勤めていた時期があった。しかしそれは晩年の事。




いわき平藩、内藤家の三代目藩主「内藤風虎」こと内藤義泰(又は義概)が、なかなかの風流大名だった。この殿様の庇護のもと、八橋は筝曲を大成し、一般庶民にも広げた。

その八橋流」が、沖縄信州松代に伝えられたとされる。

この謎を解くヒントが見つかった。

なんと、沖縄の「エイサー」は、福島県いわき市に伝わる「じゃんがら念仏踊り」が原型とか。なぜ?

江戸時代の初め、まだ沖縄が琉球国として独立していた頃、岩城の出身の浄土宗の僧「袋中(たいちゅう)」上人」が、明国に渡ろうとして果たせず、琉球に留まり、琉球国王の信任を得ていたとのこと。その「袋中上人」が、岩城の芸能を琉球に伝えたという。

琉球の三線の曲に「落しすがち」という八橋流の筝曲の手使われているとのこと「滝落とし菅垣(すががき)」であろうか。「滝落とし」という曲は尺八にもある。また「菅垣(すががき)」とはお箏の手だが、尺八曲にも「山谷菅垣」とか「秋田菅垣」とか多くある

であるから八橋流筝曲は「袋中上人」が琉球(沖縄)に伝えたのであろうか。

袋中上人」と「八橋検校」は交流があり、「袋中」は八橋から三絃と箏との手ほどきを受けていたのではないか、と考えたいが、残念ながら、

八橋検校は、慶長19年(1614年)~貞享2年6月12日(1685年7月13 日)の人。

袋中上人」は、天文12年(1552)-寛永16年(1639)の人で、袋中」が琉球に渡ったのは、慶長8年(1603年)だから、八橋はまだ生まれていない。

であるから袋中が八橋から箏、三絃を学んで沖縄に伝えたとは考えられない。

逆に「六段」の原型、雅楽の楽箏や筑紫流の「六段」が岩城に広まっていて、「袋中」や「八橋」も、それを知っていたとは考えられないだろうか。





「六段」の作曲者は「八橋検校」ではない?

2021-07-12 21:06:10 | 筝尺八演奏家

日本音楽(日本音楽社発行)通号21(1949年10月)P.10~11に田辺尚雄氏が『日本歴史講話 ―六段曲は誰の作か』という論文を発表している。

ここで田辺氏は、「江戸時代には、『六段が八橋検校の作』と書き記したものは存在しない。それは明治以降」と断定している。また、

琉球には、『一段(瀧落菅攪)』、『二段(地菅攪)』、『三段(江戸菅攪)』、『四段(拍子菅攪)』、『五段(佐武也菅攪)』、そして『六段(六段菅攪)』、『七段(七段菅攪)』の7つの器楽曲がある。

そのうち、『六段菅攪(すががき)』は、本土の『六段』と寸分の差がない。拍子数が同じだが、調子は平調子ではなく筑紫流と同じ雅楽の呂旋法となっているから、曲調は全然違って聞こえる。

実は私は、この「琉球の六段」を聞いている。まったく曲調がちがうので、奇異に感じた。


田辺氏は「古典的な手法が用いられており、左手法も古風で単純。従って『六段』は、琉球の方が素で、本土の方が後であると言える」と結論づけている。

これに私は若干修正を唱えたい。

八橋はもともとは、琵琶法師であり、三味線弾きだった。そして筑紫善導寺の僧法水から筑紫流筝曲も学んだ。その筑紫流箏曲の『六段』は雅楽の呂旋律だった。それが沖縄にも伝播して「琉球の六段」として沖縄に残った。

それを「平調子」に改めたのが「八橋検校」ということになろう。

田辺氏は「六段を八橋の作曲とする史料は江戸時代にはない」と断定しているが、おっとどっこい、1782年刊行の『筝曲大意抄』「六段之調子、八段之調子、乱輪舌」他 組歌の目録を挙げ、「右 八橋検校作」と明記されている。

田辺氏がこの『筝曲大意抄』を知らなかったとは解せない


昨今の説では、現代伝わる『六段の調べ』は、おそらく八橋の門弟北島検校か更にその門弟の生田検校によって改変されたのではないかと言われている。

 


「いわき」と「松代」の意外な接点

2021-07-12 20:08:00 | 筝尺八演奏家

『八橋検校十三の謎』(釣谷真弓著) 2,100円

八橋流は、磐城平藩3代目藩主、内藤風虎(当時は若殿)の弟「遠山政亮」と真田家の婚姻を きっかけに、松代藩へ伝えられた。

2代目お通」と「八橋検校」の接点は、「真田信政」の娘が岩城平藩の「内藤風虎」の弟で、分家の湯長谷藩の初代藩主遠山政亮(又は頼直)」と結婚した所にあると。

2代目お通」は「真田信政」の側室で、その子「真田信就は、真田家の分家「勘解由家」の初代となっている。

つまり真田信政」の正室?が生んだ娘が、岩城に嫁いだ。嫁ぎ先は「八橋検校」のパトロンだった岩城平藩主の「内藤風虎」の弟「遠山政亮」だったという。

ややこしい。ずいぶんと よく 探り当てたものだ。

それで、「2代目お通」が京都にいた時、内藤家との縁で、八橋検校と交際があった。そしてその後、「真田信就」が信州へ入った時に持ち込まれた可能性が高いと思われます・・・というのだが、チョッと待って。

八橋検校」が、再度京に上り「八橋検校」を名乗るのは1639年〈寛永16年)以降。(それまでは「山住勾当」[上永検校」と称していた)。1639年、2代目お通は、すでに52歳。

真田信就」が松代に転封となるのは1622年。この時点では「八橋検校」は「山住勾当、上永検校と名乗っていた。その上永検校が京都に上り「八橋検校」と名乗るのは17年後の1639年(寛永16年)であるから、真田信就が松代に転封となって八橋流を松代に伝えた」とするのは年号が合わない。
この説は、松代の観光案内でもそのように書かれているが、誤りである。


6/25 宮城道雄の命日「浜木綿忌」

2021-06-25 09:30:21 | 筝尺八演奏家

今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日浜木綿(はまゆう)」。

「浜木綿」は宮城道雄の遺作となった曲名。それを記念しての命名。

宮城道雄は、紀州の実業家・小竹林二氏と親交があり、たびたび白浜を訪れていた。そして白浜に因んだ「浜木綿」という詩を作り、自ら曲をつけた。

温泉の匂ひほのぼのと
もとおりきたる鉛山の
これの小径いくめぐり
今平草原にわれはたたずむ
かぐわしき黒潮のいぶき
妙なる浜木綿の花のかおり
うずいして一握の砂を掌に掬べば
思いはかの千畳敷三段壁
はては水や空なる微茫の彼方につらなる
ああ常春のうるわしき楽土よ
時に虚空にあって聡に鳶の笛澄む
朝もよし木の国の白良浜やこれ

宮城道雄 自ら作詩、作曲した曲はこの「浜木綿」が唯一。

昭和31年(1956)6月4日、「宮城道雄先生詩碑」が完成し、その除幕式が行われ、「祝賀記念演奏会」が白良浜ホールで行われた。

この像については、大変不評であった。

宮城道雄氏は、ふだんのしぐさは建常人と同じで、盲人と思わせなかったという。

昭和31年6月4日、この像の除幕式に、宮城道雄と姪の喜代子、数江も列席した。幕を引いて現れたのは、等身大の宮城道雄?の像。眉をゆがめ、壁を探すように手を差し伸べている。いかにも盲人とわかる像に、喜代子、数江は不快感を顕わにした。

「宮城先生は、歩かれる時も普通の人と同じです。こんなぶざまな格好はしません!」と、作り変えを要求したそうな。

それでか、宮城道雄 没後40年たって、平成5年9月、詩碑のそばに宮城道雄の胸像が建てられた。

白浜での公演の20日後、宮城道雄は再び東海道線に乗って関西に向かった。
そして、6月25日、刈谷駅手前で、列車から転落して亡くなった。
いかに盲人とはいえ、列車のデッキのドアとトイレのドアとを間違えるはずはない。というのが事故説を否定する理由のひとつ。
さすれば、自殺か他殺か!

 


6/25 宮城道雄の命日「浜木綿忌」 転落死の謎

2021-06-24 20:02:07 | 筝尺八演奏家

今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日浜木綿(はまゆう)

1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城道雄は、東海道線夜行寝台急行「銀河」に乗って大阪に向かっていた。そして午前3時頃、愛知県刈谷市の刈谷駅手前で、

列車から転落。

 東刈谷駅の手前、三河線のガードのところに横たわっていた

午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から「線路際に人のようなものを見た」という通報を受けて現場に向かった刈谷駅の職員に発見され、豊田病院(現・刈谷豊田総病院)へ搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる

私は、その少し前、母に連れられて、歌舞伎座での宮城道雄の演奏を観ていた。今でもはっきりと覚えている。私は宮城道雄の演奏を直接見たことがある最後の世代かも)

それだけに、新聞・ラジオで宮城道雄の死が報道された時、世間が大騒ぎになったことをよく記憶している。

その後の宮城会の大分裂騒動も知っている。ところが今それをネットで検索しても全く出てこない。宮城道雄の死は「盲人にしては方向感覚が鈍く、誤って転落した」と片付けられている。これには宮城会からの相当の圧力がある故であろうか。

「宮城道雄、死の真実」を明かせば、邦楽界から抹殺される。でも関係者は皆故人となったので、ここで書かずにいられない。

宮城道雄には実子が無く、妻の姪「牧瀬数江、喜代子、芳子」の三人を養女にしていた。

道雄は末娘芳子を特にかわいがっていた。そして一番弟子の小野衛(まもる)と芳子を娶せ、婿養子にとり宮城衛となった。宮城衛は点字楽譜を出版したり、尺八もよくし、宮城道雄の後継者として認められていた。ところが、芳子が早世し、その後、衛が尺八家の兼安洞童の娘と再婚するとなって一大騒動が起きた。芳子の姉の喜代子と数江が猛反発し、衛を追放し、自分たちが宮城会宗家となった。「衛が宮城会の金を使い込んだ」とか警察に訴え、衛は刑務所に入れられ、「衛の罪状を挙げて、衛は宮城会と一切関係がない」との新聞広告までデカデカと出した。そして宮城(小野)衛と親しかった会員も全員追放。それは私の師 堀井小二朗はじめ、尺八家・邦楽家にも及んだ。(というわけで、私は今でも宮城会とはお付き合いしていただけません)

数江、喜代子の宗家横奪に反目した松尾恵子とその夫であり宮城会の副会長だった松尾清二氏はじめ、宮城道雄直門の幹部も宮城会から離れ独立した。

さてそこで、宮城道雄の死の真相、といってもあくまで推測にすぎないが、

宮城道雄は婿養子の(まもる)と数江、喜代子の争いに心を痛め、ノイローゼになっていた。当時はラジオ放送もまだ生放送。亡くなる直前のラジオ放送ではめずらしくミスをした。心そこに在らずの状態だったという。

喜代子、数江は、道雄の収入で高価な宝石や着物を買い身につけていたが、宮城道雄には古い紋付を着せていたという。ある時(喜代子だったか?)、箏の稽古の時、宮城道雄が「指輪をはずしなさい」と注意したという。盲目でも喜代子が大きな宝石のついた指輪をしていることがわかったのだ。

 

そこで、自殺説

宮城道雄は盲人とはいえ、トイレと列車のドアを間違えるはずがない。ドアを開ければ当然猛烈な風が当たる。「道雄は酒好きで、寝る前に酒を飲んでおり、酔いを醒ますために、ドアを開けて涼んでいたのでは? そして揺れた拍子に振り落とされた」ともいわれるが、現場は直線で揺れることはない。

救出された時、「ここはどこですか、私は列車から落ちたのですか? どこかへつれていってください。名古屋は近いですね」などと話していることから、自殺の意思は確認できない。大阪公演をボイコットするはずもない。とすると、デッキで涼んでいて、誰かに突き落とされた。他殺説。

列車には付き添いとして姪の喜代子が乗っていたが、朝7時、乗務員に呼び出されるまで「道雄が居なくなったことを知らなかった」という。いつもは「道雄が夜中にトイレに行くときは必ず付き添っていた」というのにである。一番疑われる立場だが、それについて言及したものは一切ない。

もっとも、この前後、三件だったか、この近辺で列車転落事故が起きているという。盗み目的か、突き落とす犯人がいたのかも。

悲しき記録

http://web.archive.org/web/19990824195159/http%3A//www.sinfonia.or.jp/~manfan/kanasiki.html

 

 


宮城道雄 触覚で見る

2021-06-11 23:13:03 | 筝尺八演奏家

宮城道雄 エッセイから 

指先をつかうことがだんだん慣れてくると、テーブルに手を触れただけでも、どこにきずがあるか、また、汚点があるかもわかるようになる。そして織物のようなものでも色はわからないが、縞の荒さなどは、どんなぐあいかということはわかる。私は変わったものを、目で見るかわりに、撫でてみるのが楽しみなのである。

 

 

私のところに尺八を習いにきているSさんも、同じことを言う。

「この尺八、ここ割れてますね」と、竹のヒビ割れや 疵も 触ってわかる。

竹の色、黒い染みまでがわかるようだ。「この竹は きれいですね」と。

あの点字も、われわれ目明きには、触っても全くわからない。

1万円札、5千円札、千円札、そしてコインも手で触って見分ける。

驚いたのは、耳の良さ。

100円玉を落としたら、「あ、百円 落ちましたよ」と。

「なんで百円と判るの?」訊くと「百円、十円、五百円玉、

それぞれ、みな判りますよ」と。

尺八は「ロ(ろ)」の音を連打する時、第1孔を打つか、第2孔、

第3孔を打つかで音色、感じ方が違う。それも聞き分ける。

「今3孔を打ちましたね?」と。

目明きのお弟子さんは、譜面しか見ていないから、「ロ」ならば

バカの一つ覚えで第2孔しか打たない。私が第1孔を打っていても、

気がつこうとしない。

だから、全盲のSさんが、私に最も近い吹き方をする。

高橋竹山の二代目も云っていた。「初代の竹山の音は、われわれ

目明きには真似できない。でも盲目の人にはできるんですよね」と。

 

 


尺八の流派 琴古系

2021-05-25 20:26:02 | 筝尺八演奏家

琴古流: 江戸中期に、下総一月寺と武蔵鈴法寺の浅草出張所で尺八指南を務めていた黒沢琴古の流れを汲む会派の総称。

初代 黒沢琴古   宝永7(1710)年 - 明和8(1771)年 本名は黒沢幸八。

福岡藩黒田美濃守家臣であったというが、福岡藩士の中に黒沢姓は見つからないとの調査報告あり。

脱藩して虚無僧となり、全国の虚無僧寺を回って本曲を修得し、一月寺鈴法寺の浅草出張所で尺八の指南役を務め、曲の収集、整理を行い、30余りの曲を制定した。

琴古の死後、弟子の宮地一閑が一閑流を名乗ったため、二代目琴古によって琴古流と称すようになった。

2代目黒沢琴古  延享4(1747)年ー 文化8(1811)年 本名は黒沢幸右衛門(後に幸八)

初代の実子。父同様に一月寺、鈴法寺の指南役を務め、江戸中に稽古場を作り庶民の普及にも一役買った。

 

3代目黒沢琴古 安永元(1772)年ー文化13年(1816) 本名は黒沢雅十郎(名は諸説あり、後に幸八)

2代目の実子。最初の号は琴甫。江戸時代の名手で作曲も多く尺八の製管も行なった。3代目が執筆した『琴古手帖』は当時の琴古流のことを知る貴重な史料。

4代目黒沢琴古 生年不詳 - 万延元(1860)年本名は黒沢音次郎(後の幸八)。

3代目の実子。

 

荒木派・古童会

初世 古童

豊田古童 生年不詳 - 嘉永3年(1850)。本名は豊田勝五郎。初代山田如童久松風陽に師事し、風憬、後に古童と称した。通称は「風憬古童」。

二世 荒木古童

文政6(1823)年 ー明治41(1908)年] 本名は荒木半三郎。号が竹翁近江水口藩士荒木亀三郎の三男。幼少から芸事が好きで尺八を嗜んだ。最初は一閑流横田五柳に付き、その後琴古流の豊田古童の門下となった。1850年に豊田古童が死去し古童の名を継ぎ久松風陽の門下となった。明治4年普化宗の廃止後、楽器としての尺八の復興に力を注いだ。後年長男に古童の名を譲り自らを竹翁と名乗った。弟子には初代川瀬順輔上原六四郎三浦琴童など多くの名手がいる。

三世 荒木古童

明治12(1879)年ー 昭和10(1935)年  本名は荒木真之助。二世古童の長男。明治末期から昭和初期にかけて活躍。同門の初代川瀬順輔と共に三曲合奏に力を注ぎ、名人とうたわれた。童窓会等を主催し多くの弟子を育てた。

四世 荒木古童

明治35(1902)年ー昭和18(1943)年  本名は荒木聚。号が梅旭(1923年より)。三世古童の四男。東京の生まれ、早稲田実業、東洋音楽学校卒業。9歳で父から手ほどきを受ける。尺八の他に雅楽洋楽三弦等を学び研究。三世古童没後に四世古童を襲名。早くに嘱望されたが41歳で亡くなった。

五世 荒木古童(竹翁)

昭和13(1938)年 本名は荒木達也。四世古童の三男。東京の生まれ。早くに父が亡くなったため、その高弟吉田錦童から尺八を習い、また三世古童の高弟の木村士童(友斎)が後見人となる。慶応大学卒、アメリカ、ウェスリニアン大学の尺八客員教授として渡米。現地でアメリカ人女性と結婚し、長くアメリカに滞在する。一時帰国し、慶応の尺八と箏のクラブ「竹の会」の指導にあたるが、現在はアメリカ在住。

六世 荒木古童

(1970年- )本名は荒木半三郎。アメリカ在住。五世古童の三男。琴古流古伝本曲を父より習得し、ケルト民俗音楽を独習。1977年アルバム「ペイパーボーイズ」にてカナダ年間最優秀「ジュノー賞」受賞。2005年に自作のCD「An Tua - Six of One, Five of the Oher」で年間世界最優秀「新芸術家賞」受賞(ダブリン)。2008年に六世古童襲名。よって父五世古童は竹翁を継承。

 

川瀬派・竹友社

明治27年に初代二世荒木古童の弟子だった川瀬順輔の一派。琴古流の宗家を名乗ったことで荒木派と激しく対立し、裁判沙汰にまでなった。判決では「琴古流はそれぞれが独立会派であって、都山流のような、組織化し、全体を統括する宗家は存在しない」です。

二代目の川瀬勘助が早世し、現在の宗家は三代目川瀬順輔。

 

竹盟社 : 大正10年初代川瀬順輔の弟子山口四郎を中心として創設。四郎の五男の山口五郎は平成4年に人間国宝に認定された。平成11年に逝去。

日本竹道学館 : 昭和3年 初代川瀬順輔の孫弟子兼安洞童を館長として開設。現在の三代目館長の小野正童は小野正志の弟。

美風会 : 昭和8年 初代川瀬順輔門下の鳥井虚無洞の弟子吉田晴風の門下の佐藤晴美が創始。

鈴慕会 :初代川瀬順輔の弟子青木鈴慕が創始。長男の青木道夫死去により次男の静夫が二代目青木鈴慕を踏襲。平成11年人間国宝に認定。現在三代目青木鈴慕。

童門会 :三世荒木古童の弟子納富寿童の系統。納富寿童(本名は安治)。明治28年佐賀県の生まれ。佐賀中学時代から尺八を始め、大正4年上京。三世荒木古童の内弟子となり、大正5年寿童を名乗った。大正7年独立し、寿会を主宰。

荒木古童を主宰者に童窓会を結成し、その幹事を務めた。昭和6年荒木派独自の楽譜を出版。日本三曲協会理事を務めるなど一時は琴古流の代表格になった。昭和10年三世荒木古童の死去に次いで、四世古童の早世で、荒木派の大数が納富寿童の寿会に流れた。昭和42年人間国宝に認定。48年嗣子・哲夫に寿童の名を譲り、寿翁と改名。昭和51年逝去。

怜風会 広門怜風の一派

 

 

尚、京都明暗寺系の虚無僧本曲を踏襲する 近藤宗悦の宗悦流は琴古流に属さない。琴古流は江戸・東京を中心てするグループである。




福沢諭吉の孫、堀井小二朗

2020-10-24 16:22:58 | 筝尺八演奏家

 

私の尺八の師は、福沢諭吉の孫、堀井小二朗。福沢諭吉の次男「捨次郎」の妾腹の子で」すので、母方の姓「堀井」。本名は「捨次郎」の子なので「小次郎」と名付けられましたが、それを嫌って、尺八の芸名は「小二朗」でした。

明治44年京都に生れ、父捨次郎の招きで、慶応に入り 昭和4年に卒業しています。母は京都の芸奴。その影響で、幼少の頃から三味線、琴、尺八の音に聞き馴染み、8歳で地歌「八重衣」を暗唱していたといいます。

  父 福沢捨次郎

大学卒業後、明治生命に入社しましたが、戦後は尺八家として名を成しました。木下恵介監督の『二十四の瞳』の海外版や『宮本武蔵』などで尺八を吹いています。

尺八上田流を開いた上田芳憧氏や福田蘭童とも親交がありました。

福沢諭吉が封建制を批判し、独立自尊の啓蒙を図ったように、堀井小二朗師も、邦楽界の悪しき慣習を打破しようとした一人です。

それまで、尺八家は旦那芸で、お琴のお師匠さんのスポンサーであり、お琴の会に出演しても、祝儀を出すのが習慣でした。
それに対して、堀井小二朗師は「私は演奏家です。これで食べているのですから、ギャラをいただきます」と言って、祝儀は出さなかった。それで「なんてお金に卑しい人」と非難されます。

また、上田流でも「上田芳憧氏の尺八もまだまだ(未熟)」と会報に投稿したことで、上田流の幹部会員が激怒し 除名されています。

そして宮城道雄の養子宮城(小野)衛とも親しかったため、小野衛が 宮城喜代子・宮城数江によって宮城会から追放されたことで堀井小二朗も宮城会から縁を切られるなど、邦楽会では孤立していきます。

ま、堀井小次郎は 福沢諭吉の孫子の中で、顔立ちが最も福沢諭吉に似ており、邦楽界の中で独立自尊を貫いた尺八家でした。

 


名張に谷狂竹の墓?

2020-06-16 00:00:20 | 筝尺八演奏家

名張には、「最後の虚無僧」と云われた谷狂竹の墓があるそうな。

虚無僧研究会会報『一音成仏』第24号(H6年)に紹介されていた。

名張市平尾3152 曹洞宗龍雄山徳蓮院という寺。
墓碑には「龍竹院 虚空狂竹湧泉禅師 昭和26年12月14日歿 昭和27年12月14日建之 二代秋山茂材」

とあって、谷狂竹の弟子だった秋山氏が建てたもの。

谷狂竹は昭和25年に亡くなっているので2年後なのだが、墓碑には「昭和26年歿」となっている。単なる間違いか、意図してのことか。谷狂竹は熊本で亡くなっているので、果たして分骨されているのか。
熊本に谷狂竹の墓があるのか? これも謎だらけ。

一度、名張の墓を詣で、また熊本の方も墓があるなら行ってみたい。どなたか谷狂竹の墓をご存知の方あれば教えてください。