聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★父親の愛と神の愛

2007-08-30 | 「神の愛について」



●「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子。』 」(2サムエル18:33)。

●「それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった。この日、民が、王がその子のために悲しんでいる、ということを聞いたからである。民はその日、まるで戦場から逃げて恥じている民がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。王は顔をおおい、大声で、『わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。』と叫んでいた。 」(2サムエル19:2~4)。


 かつてのイスラエルの王ダビデは、実に数々の苦難と波乱に満ちた生涯を送った王であったことは、聖書を読むとよく分かります。羊飼いの少年から身を起して、初代の王サウルに代わって王位に就きましたが、それは、神の導きで、彼が神を恐れ敬い、その導きに従ったからでした。でも、彼にも欠点があり、ある失敗のために非常な苦境を経験しなければならなかったのです。それは、実子アブシャロムが父親のダビデに反逆して、王位をめぐって親と子が戦わなければならなくなったことです。これは、ダビデにとっては非常につらい経験であったと思います。わが国でも、戦乱の昔、親子兄弟が相分かれて血で血を洗うような悲しい歴史が多く残っていることは、みなさんもご存じのことと思います。

 さて、ダビデ王の第三子であるアブシャロムは、父の王座を狙って謀反を起し、ひそかに工作して、民の心を自分に引き寄せ、クーデターを起したのです。不意をつかれたダビデは、一時は非常な危険に晒されたのですが、かろうじて逃げのび、幾多の苦難の後、やがて陣容を整えることができました。そして、双方の軍隊がエフライムの森で戦ったのです。この時、ダビデ王は出陣する将軍たちに「わたしに免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(18:5)と命令しました。ダビデにとっては、実のところ、自分のことよりも、自分に反逆を企てたアブシャロムのことで胸がいっぱいであったのです。自分のいのちを狙う敵ではあったのですが、アブシャロムはダビデにとって、愛するわが子であったのですから、当然のことであったと思います。 

 アブシャロムは、自分の出世のためには父の命をも奪おうと考えた野心家であったのです。2サムエル記18章の記述にあるように、エフライムの森で激しい戦いが繰り広げられたのですが、アブシャロムの軍隊に多くの戦死者が出て、密林で行き倒れなった兵士も多く、ダビデ王の軍隊が大勝したのです。戦いの最中アブシャロムは騾馬に乗っていたのですが、騾馬が大きな樫の木の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙吊りになってしまいました。それでダビデの軍隊は、木に宙吊りになっていたアブシャロムの心臓を槍で突き刺したので、アブシャロムは殺されてしまったのです。そして、戦線からの伝令が王のもとに走って来て、「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。」(18:28)と、伝えたのです。

 そうしたら、王は「若者アブシャロムは無事か。」と聞きました。伝令は、王の悲しみを思い(あるいは王を恐れて)、「‥‥何があったか分かりません」と口を濁して答えました。そこへ、第二の伝令が走って来て、王に「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」(18:31)と伝えました。王は、またその伝令に「若者アブシャロムは無事か。」と、再び尋ねたのです。そして、その伝令は「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者(アブシャロム)のようになりますように。」と言って、「死んだ」ということばを使わないで、ダビデの息子の死を遠回しに伝えたのです。この伝令のことばによって、わが子アブシャロムの戦死を知ったとき、王は身震いして悲しみ、門の屋上の部屋に上がって泣き続けました。

 まさに、王の心は断腸の思いであったことでしょう。そして、王は泣きながら、次のように叫び続けました。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」 聖書は、わが子を失った時のダビデの嘆きを、このように切々と書き記しているのです。父親に背いたわが子の罪を責め、咎めようともせず、「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と叫んだダビデの愛が私たちの心を打ちます。ダビデは勝利の喜びよりも、わが子の死を嘆き悲しんだので、その軍隊は戦いに敗れて逃げ帰った民のようにひそかに町にはいり、輝かしい勝利はすべての民の悲しみとなったことが記録されてあります。

 たとい、自分に反逆したわが子であろうとも、その子の死を悲しまない親がいるでしょうか。自分が天下をとるためには父のいのちをも奪おうとしたアブシャロムでした。しかし、たとい彼がいかなる悪事を働こうとも、ダビデにとっては、わが子であったのです。それゆえダビデはアブシャロムの死を悼み、泣き悲しんだのです。この父親のわが子への愛情や機微は、ダビデの命を守るために身命を賭して戦った将軍や兵士には、用意に理解できなかったかもしれない。しかし、父親の愛とはそういうものなのではないでしょうか。わが子が死ぬことを望む父はいません。このダビデのわが子アブシャロムに対する親の愛は、神の愛をよく表していると思います。

 あのルカの福音書15章の例え話を思い出してください。弟息子は、父の家にいることに満足できないで、父に反抗して家出をし、父親からもらった財産で毎日贅沢に遊び暮らし、放蕩三昧の生活をして、湯水のように財産を使い果たし、どん底の生活をするまでに落ちぶれてしまいました。最初は周りにたくさんいた友人も、一人二人とみな去って行きました。「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる。」という歌がありますが、この時の彼の心境は、この歌を詠んだ人の心境に似たものがあったと思います。人の心の冷たさに触れ、深い孤独感の中にあったはずです。彼は、豚小屋の中でやっと本心に立ち帰って、悔い改める決心をしたのです。

 ボロボロになって、乞食のようになって、帰って来たわが子に父親は駆け寄り、抱擁し、何度も何度も口づけし、抱擁したのです。「口づけした。」ということばは、直訳では「何度も何度も口づけした」という意味だそうです。そして、息子が帰えって来たときのために用意していた、最上の着物を着せ、肥えた子牛を屠って、ご馳走を作り、祝宴を開いたのです。父親は、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と、言いました。この例え話の中の兄は、自分の義を誇り、他人を見下げてさばいていたパリサイ人を表していますが、彼はこのような父の態度に満足せず、怒って家に入ろうともしませんでした。

 しかし、父親は、彼を諭すように言いました。「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と。何と大きな父親のわが子に対する愛ではないでしょうか。英文で、「愛は不在と隔たりと沈黙には耐えられない。」というような意味のことばを読んだことがあります。この父親は、こんなできそこないのような息子でも愛していました。弟息子が父から遠く離れていた「不在」と「隔たり」と「沈黙」には、耐えられないほど苦しみを味わい、断腸の思いであったことでしょう。ある人が「『親』という字は『木の上に立って見る』と書くでしょう。親不孝な子供でも、親というのは、木の上に立って、わが子の帰りを待っているのです。」と言ったことばが今でも心に残っています。
 
 この例え話では、「父親」は「神」を表しています。息子は私たち神から離れ、神に反抗して永遠の滅びに向かっている私たち罪人を示しています。ですから、この例え話は、「神の偉大な愛」を表しているのです。三つの例え話は、御子イエス・キリスト、聖霊、御父の三位一体の神の愛を示しているのです。預言者エゼキエルは、「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33:11)と、神のメッセージを語っています。神のみこころは、私たちが滅びることではなく、生きることであると語っています。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。


 父なる神から遣わされた御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、自らの罪のために滅びるほかはない私たちが生きるためであり、永遠のいのちを得るためであったのです。神は、こんな罪深い者たちのために、ご自身のひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。何という偉大な驚くべき愛ではないでしょうか。どうぞ、神が差し伸ばしておられる愛の御手を拒むことのないようにお勧めいたします。
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

●☆★●★☆●☆★●★☆●☆★●

★皮の衣を着せてくださった神

2007-08-16 | 「神の愛について」

     
    
●「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:6,7)。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。


冒頭に記した二つのみことばは、創世記3章の出来事の中に書かれてあるものですが、今日はこのみことばを中心に少し考えてみたいと思います。創世記というのは、家に譬えると「玄関」のようなもので、旧約新約聖書66巻の「入り口」のようなものです。家に入る時には玄関から入らなければなりません。裏口や窓から入ることも出来ますが、通常は玄関から入ります。それから、創世記というのは、いろいろなことの「初め(起源)」について書いてあります。最初が分からないと、その後を読んでも、なかなか理解できないのです。ですから、創世記には、「宇宙の起源」「地球の起源」「生命の起源」「人類の起源」「結婚の起源」「人類の罪の初め」「罪の贖いの黙示(予告)の初め」「言語の起源」「文化の初め」「民族の初め」「選民イスラエル(ヘブル民族)の初め」など‥‥etc。

さて、神様は最初に人間を創造されて、すばらしいエデンの園に住まわせてくださいました。「エデン」とは、「喜び」「歓喜」「楽しみ」などの意味があることばです。アダムとエバさん夫婦は、エデンの園で神様との親しい交わりを喜び、平和と満足を味わい、愛と光といのちに満ち溢れたすばらしいところであったのです。そこには、憎しみや戦争もありませんでした。当然、人殺しもありませんでした。妬みや悲しみもありませんでした。苦しみもありませんでした。死もなく、涙もありませんでした。空虚な気持ちとか、孤独を感じることもありませんでした。神様が、人間が生きるために必要なすべてのものを満たしてくださっていたからです。エデンの園は、ほんとうにすべてが満たされたすばらしいところでした。神と人との間に何の隔たりもなく、幸いに交わることができたのです。

ところが、創世記3章に入ると、人類のすべての悲しみと苦しみと混乱の根源である罪が入って来たのです。アダムとエバは、禁断の木の実を食べて神に反逆し、罪を犯してしまいました。これが人類のすべての不幸の始まりとなったのです。罪の結果、彼らがもった最初のものは、羞恥心と有罪感であったのです。これが、神のいましめに背いて、善悪の知識の木の実を食べた悲しい結末であったのです。次に、彼らは自分たちの裸をおおうために、「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作ったことでした。このいちじくの葉は、朝早く取った時には、新鮮で、みずみずしく、美しく見えたかもしれませんが、太陽が昇ると、その太陽の熱でしおれ、夕方になった頃にはもう枯れてしまっていたに違いありません。

これらの事実は、人間の自己義認を示しており、また、自らの罪を覆うための人間のあらゆる努力がいかに空しいものであるかをよく示しています。人間が作り出した世界中のあらゆる宗教も、哲学も、その裸の恥(人間の罪)を覆うことはできません。どんなに難行苦行を積み重ねて修業してみても、認罪の意識を取り除くことはできないのです。人間はみな自分の羞恥心と有罪感をおおい隠そうとして、高度の学歴と教養を身に着け、道徳的にも努力をしますが、それは、一時的には役立つかのように見える「いちじくの葉」のようなものなのです。いちじくの葉は、夕方にはもう枯れてしまい、役に立たなくなってしまうのです。あなたが、今、一時的に満足しているあらゆるものは、人生の夕方には、枯れてしまう空しいものとなるのです。
 
しかし、この創世記3章には驚くべきことが書かれているのです。すでに、罪を犯した人類に対する神の救いのご計画が記されているのです。神は人を誘惑した蛇(サタン)に対して「わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(キリスト)との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼(キリスト)のかかとにかみつく。」(創世記3:15)と宣言しました。神は、驚くべきことですが、罪に対するさばきとともに、救いのご計画を啓示されたのです。これは、神の救いに対する最初の約束なのです。ここで、「女の子孫」というのは、ヘブル語の原語では複数ではなく、「単数」になっているので、メシア、すなわち、キリストを示しています。ここに、キリストよるサタンへの勝利が示されており、キリストの福音が予表されているのです。

「おまえ(サタン)の頭を踏み砕き」は、サタンとその力に対する完全な勝利を表しています。敵の頭を打ち砕くならば、それは致命的なものとなります。しかし、それに対して、「(キリストの)かかとにかみつく」は、相手に激しい苦痛を与えるものとなっても、それは、致命的なものとならないことを示しているのです。「キリストのかかと」と「悪魔の頭(かしら)」との比喩的表現は、キリストが十字架の死ののちに復活されることに対して、悪魔は最後には、決定的にうち滅ぼされてしまうということを示しています。この3章には、神のさばきと、人間が神に背いた結果、罪がこの世に入って来たことを示していますが、同時に、神の愛と慈しみが記されており、神の恵みがすでに記されていることは驚くべきことではないでしょうか。

さらに、もう一つの驚くべき神の愛と哀れみが記されています。それは、冒頭の二番目の聖句です。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」というこの短い聖句に神の限りない深い哀れみと、キリストの十字架による救いのご計画が暗示されているのです。つまり、アダムが自分で作った手製の衣(いちじくの葉をつづり合わせたもの)に代えて、神は、アダムとエバのために、皮の衣を作って、着せてくださったのです。そして、特に注目していただきたいのは、皮の衣を作るためには、どうしても動物を屠って、血を流す必要があったということです。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とありますが、これは、こののち数千年後に成就するキリストの十字架の贖いを予表しているのです。
 
神が人に与えた皮の着物は、日が昇ると枯れてしまうような一時的な衣ではなかったのです。神が与えた衣は、血を流すことによって得た皮の衣であったのです。これは、キリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義の衣を表しているのです。イエス・キリストの義の衣を着せられたクリスチャンたちはそ恵みをどんなに感謝しても、し過ぎることはないのです。私たちが自分で正しいと思ってした行いも、聖よい神の御目からご覧になると、汚れた(不潔な)着物のようであると聖書は厳粛に告げています。あの預言者イザヤも召された時に言いました。「ああ。私は、もうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と。

●「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」(イザヤ書64:6)。 

●「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61:10)。

●「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 」(ガラテヤ書3:26,27)。

●「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』 」(ルカの福音書15:22)。
 

この放蕩息子の父親のように、愛に満ち給う神は、永遠に有効な「一番良い着物」を用意して、あなたが、罪を悔い改めて神に立ち返るのを待ち望んでおられるのです。その永遠に有効な一番良い着物とは、イエス・キリストが十字架でご自身の血を流して贖いのみわざを成し遂げてくださったことを信じることによって、あなたにも与えられるのです。私が若い時、聖書に精通したある先輩の兄弟が、「聖書は、旧約新約合わせて、1,189章あるけれども、人類の罪がなかった時代は最初の2章だけです。3章から罪が入って来て、全人類は死の恐怖の奴隷になっています。聖書には3章から、ずっと、目に見えない黒い線(人類の罪)が引かれています。しかし、同時に赤い線(キリストの十字架の血)も引かれているのです。」と。あなたは、どう思われますか。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

●☆★●★☆●☆★●★☆●☆★●


★敵でさえも赦す愛

2007-06-05 | 「神の愛について」



 人間は、だれでも自分が誰かに何かよくないことをした場合、心から赦されたいと願うと思います。しかし、いざ自分が他人の罪や失敗を赦すとなると、これは簡単ではないということに気づきます。人間にとって、一番難しいことの一つではないでしょうか。以前のことですが、とても心温まる美しい話を聞きました。それは、もうかなり昔の話ですが、トルコ人によるアルメニヤのクリスチャンの迫害があった時のことです。一人のアルメニヤの少女とその兄とが、血に飢え渇いたトルコ兵にに追跡され、遂に兵士は二人を田舎の小道に追いつめ、その少女の目の前で彼女の兄を殺してしまったのです。彼女は、やっとのことで、逃げのび、のちに看護師となって働くようになりました。

 さて、ある日のこと、彼女の働いていた病院に、一人の負傷した兵士が血だらけになって担ぎこまれて来ました。彼女は、しばらくしてからその兵士こそ、かつて自分の兄を殺した人であることに気がつきました。しかし、その兵士の状態は、注意深い看護がなければ生命が危険にさらされるほどの重傷であったのです。彼女はその兄を殺したトルコ兵を、それこそ骨身を惜しまず、日夜看護にあたったのでした。その丁寧な配慮の行き届いた看護のお陰で、その兵士は日毎に快復に向かって行きました。そしてある時、その負傷兵は、その看護師こそかつて自分が殺した人の妹であることを知ったのです。

 不思議に思ったその兵士はある日、「何故あなたはあなたの兄を殺した私のためにこのように親切にしてくれるのですか。」と彼女に訪ねました。すると、彼女は答えました。「私は、私が敵対していた神様が私の罪を全部赦してくださったので、私に敵対する人をも赦さないでいることのできない信仰を持っているのです。」と。彼女は、神の愛のゆえに、イエス・キリストの十字架によって自らの罪が赦されていることを確信していたので、自分の敵であっても心から赦さないでいることができず、神の愛を実践して、その敵対者に打ち勝つことができたのです。これは、何と心打つ感動的なお話しではないでしょうか。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ人への手紙12:21)のみことばを実践したのでした。

 「敵をも赦すことのできる信仰」‥‥‥彼女が持っていると言ったこのような崇高な信仰、これは、今日のように乱れた世の中においては、最も必要なものではないでしょうか。この他人を赦す心があれば、私たちの生活はどんなに変ることでしょうか。憎しみや妬みに代わって赦しの心がこの社会に満たされたら、どんなにこの世の中は変ることでしょう。しかし、この世の中は決して良い方向に向かっていないことは確かであり、聖書もそのように語っています。この他人を赦す心は、決して自分だけの力や努力では真似できないものであり、不可能なのです。この敵でさえも赦すことを実践できるのは、神が私たちのために遣わされた救い主イエス・キリストの十字架の福音を心から信じることによって、初めて経験できることなのです。

 イエス・キリストは、この地上の33年半のご生涯は、常に完璧な模範を示され、彼は他人に教えられる前に自らそれを実践なさいました。イエス様は、たった一人の人をも憎みませんでした。人々に謙遜と愛の極みまでもお示しになられました。どんな扱いを受けても、決して呪いのことばを返すようなことはありませんでした。イエス・キリストは、酷い迫害や仕打ちに対しても、最後まで忍耐し続けられました。人々の憎しみと反抗は、キリストを十字架につけることにより頂点に達したのです。その時、キリストはどうされたでしょうか。キリストは、血を吐くような苦しみの絶頂においても、十字架の上で、天の御父なる神に向かって、静かに次のようなとりなしの祈りをなさったのです。

●「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)。 

 キリストは、人間の側からはとうてい理解できないくらい、人間を愛し通されたのです。キリストは、人間の心の中にある罪を憎んでも、その人を憎むことはありませんでした。心から愛されたのです。罪に支配されている哀れな人間に、ますます赦しの心をもって接してくださいました。イエス・キリストは、人に赦し合うことを教える前に、まず、ご自身が人の罪を赦す道を開いてくださいました。ご自分を殺そうとたくらむ人たちのためにすら祈り、そして、ご自身のいのちまでも奉げられたのです。ここに、すばらしい真の神様の愛(アガペーの愛ア)があります。

 この神が遣わされたすばらしい救い主であられるイエス・キリストを信じて、罪が赦された者は、他人の罪や失敗をも心から赦すことができる人になるのです。憎悪と悪意、憎しみと殺意に満ちた今の世界で、「人を真心から赦す心」こそ、今日もっとも必要とされているものの一つではないでしょうか。憎しみは、破壊につながります。家庭を破壊し、人と人の繋がりを破壊し、人としての親しい交わりを破壊し、国を破壊します。しかし、「他人(人)を赦す」ことは、常に建設的です。家庭の中に、職場の中に、人と人との交わりの中に平和を建設します。すなわち、世の中に平和を作り出す人になるのです。キリストを信じて、神にすべての罪が赦された確信を持った人だけが、他人を赦すことができるのです。

●「‥‥しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 」(ローマ人への手紙4:8~10)。

●「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 」(エペソ人への手紙4:32)。 

●「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイの福音書5:44)。

●「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)。
 

●☆★●★☆●☆★●★☆●☆★●  

★母性愛と偉大な神の愛

2007-05-09 | 「神の愛について」


 
  江戸時代のことですが、ひとりの子供をめぐり、私が実の母親だと主張する二人の女が奉行所に訴えるのです。これに対して、裁判官は真偽を見極めるために、女たちに、子供の腕を両側から引っ張り、引き勝ったほうが、子供の親とすることにすると言いました。二人の女は、何としてもその子を手離したくないという一心で、両側から必死に腕を引っ張りますが、子供は痛みに耐えかねて、泣き出してしまいました。それを見た片方の女は泣きじゃくる子供の姿に耐え切れずに、とうとう子供の手を放してしまいます。子供を奪い取った女は、自分が勝ったと喜んだのですが、この裁判官は、手を放した女こそ真の母親であると裁定を下したのです。真実の親だからこそ、泣く子を哀れに思い、手を放したのだと、判断したのです。

 江戸町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)の温情篤く、人情味に溢れる裁きはよく知られていますが、上に記したのは、その中の一つの感動的な話です。今でも、公正で人情味のある裁定や判決が下されるときに、使われる、俗に言う「大岡裁き」のひとつで有名な逸話となっているものです。
ところで、旧約聖書の中に、これと非常によく似ている実話が記録されてあります。イスラエルの初代の王ソロモンは、神に知恵を求めて、すばらしい知恵を与えられた王ですが、神様から特別な知恵が与えられていたソロモン王の知恵と思慮に満ちた裁判が記されています。これは、列王記第一の3章に記されている有名な実話であり、読む者に非常に大きな感動と教訓を与える話です。

 よこしまな生活をしていた二人の女性が同じ家に住んでいたのですが、あるとき、王のところに来て互いに訴えました。一人の女が「わが君。‥‥‥私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。‥‥‥ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、私が眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、その子は私が産んだ子ではないのです。」 と言いました。

 ところが、もう一人の女が訴えて言いました。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」と。先の女はまた言いました。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」と。このようにして、二人の女たちは互いに一歩も譲らず、王の前で言い争ったのです。そこで王は、彼女たちが互いにこれは自分の子だと言っている姿を見て、「剣をここに持って来なさい。」と、大変驚くようなことを命じたのです。剣が王の前に持って来られると、王は何と、次のように言い放ったのです。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」 と。これは、一体、何という恐ろしい非情な命令ではありませんか。

 すると、生きている子の本当の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言いました。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言ったのです。そこでソロモン王は宣告を下して言いました。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」 と。イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて驚嘆し、王のうちにある神の知恵を知って神を崇めたのでした。このように非常に難しい裁判を、ソロモン王は、知恵を用いて難なく裁いたのです。

 ソロモンは、母親の「母性愛」がいかなるものかを知っていたので、その母性愛という本能に訴えたのです。ソロモンがその子どもを剣で二つに断ち切るようにという恐ろしい命令を出して、彼女たちがどのような反応を示すかをじっと観察していたのです。そして、すぐに、どちらがその子どもの真実の母親であるかが明らかになったのです。その子どものほんとうの母親は、自分の子どもが苦しみを受け、いのちを断たれるのを見るよりも、自分が一生苦しむとしても赤ん坊を(手放して)失った方がいいと思ったこのです。しかし、もう一人の婦人は、盗んだ赤ん坊がほんとうの母親に返されるよりも、むしろ子どもが死んだ方がいいと思うほど、その婦人に妬みを覚え、また、その赤ん坊を愛していなかったことは明らかです。

 これは、ソロモン王の何と賢明で、明敏な裁きではないでしょうか。ことばだけで分からないことも、問題の核心に触れる危機がおそうとき、真実と虚偽が識別されることも教えられます。いずれにしても、ソロモン王にこのような知恵を与えたのは、愛に満ちた神であり、母親にこのような母性愛を与えたのも神なのです。この箇所を読んで、真の愛とはいかなるものかを覚えさせれます。神の前に虚偽は必ず明らかになる時が来ることも教えられます。このような難しい問題の訴えにも冷静に判断し、それを正しい方法で対処したソロモンの知恵にもすばらしいものがあり、深く考えさせられます。ここを読んで何の感動も覚えない人が果たしているでしょうか。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。

 これは、紀元前750年位に書かれたイザヤ書のことばですが、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。」と、自分のお腹を痛めて産んだわが子に対する母親の愛がいかに大きなものであるかをはっきりと教えています。シェークスピアのことばに「女は弱し、されど母親は強し」ということばがありますが、確かに女性は結婚して子供を産み、母親になると、わが子を守るために非常に強くなるのです。「母の愛は、世界を敵に廻しても、わが子のためなら自分のいのちまで捨てる。」というそのような強さを感じます。わが子のためなら自分のいのちまでも差し出す覚悟があるのですね。

 しかし、この世で最も美しく気高いと思われていた母親の愛でさえも、最近は何かおかしくなって来ました。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、虐待して殴り殺したり、高い橋から川に投げ捨てたり、食べ物を与えずに放置して死なせたり、昔は考えられなかったような悲しい報道が目立っています。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2,700年も前に予知していたかのようでもあります。しかし、このようなことは、最近に始まったことではなく、旧約聖書を読むと、自分たちの住む街が敵に包囲され、兵糧攻めに会って、極限の空腹の状態になったときに、母親が自分の子を煮て食べるというぞっとするような恐ろしい話が記録されています。Ⅱ列王記6:24~29参照。 
 
 しかし、母親が万が一、あなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはない、と聖書は語っています。先ほどの聖句の中で、「たとい、女たちが忘れても、このわたし(愛なる神様)はあなたを忘れない。」と言っています。昔も今も、女性が自分の産んだ子どもを忘れることがある可能性を示唆していますが、神は決してご自身がお造りになられた人間をお忘れになることはないのです。もし、一瞬でも神があなたのことを忘れて、心臓を動かすのを忘れたならどうでしょう。あなたは、今日生きていることはできません。太陽の熱と光をこの地上に降り注がせるのを止めたら、あなたは、今、生きていることはできないのです。あなたは、日々神に生かされている存在なのです。
 
●「天の父は、悪い人の上にも良い人にも、太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも、雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5:45)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 
 神様の愛は、何と偉大でしょうか。私たち人間はみな神から離れ、自己中心の罪の中に生きています。人類の始祖アダムとエバが自分勝手な罪の道を歩み始めてから、数千年以上過ぎましたが、今日も人類は坂を転げるようにまっしぐらに滅びへの道を突き進んでいます。このまま突き進んで行くと、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル書9:27)とあるように、人類は間違いなく、永遠の地獄に向かっているのです。でも、愛なる神様は、私たちひとりひとりを救うために、ご自身の御子イエス・キリストを救い主としてこの世にお遣わしになられました。そして、33年間の罪のない聖よいご生涯の後に私たち罪人の身代わりとなって、十字架につけられ、死なれ、墓に葬られ、三日後に復活されました。この方を個人的な救い主として信じるなら、どなたでも永遠のいのちを得ることができるのです。  

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

●☆★●★☆●☆★●★☆●☆★●  

★神の愛と罪の赦し

2006-11-18 | 「神の愛について」



 いつかどこかで聞いた話ですが、ある男がまだキリストの集会(教会)行き始めて間もない頃のことです。その男は聖書のお話を聞いているうちに次第に自分の罪深さが示されて、小さい頃、何度か万引きをしたことを思い出したのです。過去の罪を悔い改めなければと思い、思いつく限り一軒一軒店に立ち寄り、昔万引きしたことを告白し、代金を払って廻ったそうです。そして最後に警察に立ち寄り、すべてを告白して「私はどうしたら良いのでしょうか」と尋ねたそうです。ところが、お巡りさんは「もう時効となっているから、これからは何か社会の役に立つような生き方をしなさい」と言われたそうです。そして、彼は納得して家に帰りました。

 ところが、なぜか彼の心には平安がありませんでした。どうしてだろうかと考えました。彼は居ても立ってもいられない気持ちを抱えながら、自分の部屋で聖書を読み、神様にお祈りをしました。そして、主イエス様のみもとに歩み寄って赦しを乞いました。すると、主イエス様は不思議な平安で彼を包み、「あなたの罪はすべて赦されました。私があなたの罪を赦すために、十字架で身代わりとなったのだから、私を信じる者はもう罪が赦されているのですよ。」と優しく語りかけてくださったのです。彼はやっと悟りました。一つ一つの罪が問題なのではなく、自分が神様に背を向けて、自分勝手に生き、神様を悲しませて来たことが問題だったのだ。だから、こうして悔い改めてイエス様を信じて神様のもとに立ち返る時に、初めて心の平安と喜びが湧き上って来るのだと分かったのでした。

 多くの人は自分の罪がキリストを十字架に張り付けにしたなどということを全く知らずにいます。十字架上で血を流し、激痛と渇きに苦しんでいるキリストの話を聞いても自分とは全く関係ないものと思っているのです。ある人は薄気味悪いと言い、ある人はあんな死に方だけはしたくないと言います。しかし、キリストを十字架につけたのは、確かに私であり、あなたの罪なのであります。そして、十字架上で鮮血に染まったイエス・キリストを自分の罪のためであったと心から信じて神様のみもとに立ち返るとき、あなたのすべての罪が赦されるのであります。人間は、そのことを経験することなしに、本当の愛も平安も分からないのであります。

 私のブログに似たような話を別な箇所に書いた記憶がありますが、ある小さな女の子が泣きながら帰って来ました。学校でいじめられたのです。「お前の母ちゃんはお化けみたいだ!」と言われて、心がひどく傷つき、悲しくなりました。女の子のお母さんの顔は酷い火傷でただれていたからです。女の子は自分がいじめられるのはお母さんのせいだと思いました。お母さんがお化けみたいな顔をしているから、いけないんだ‥‥。「どうしてそんな顔なの!」と尋ねても、お母さんは決して答えようとはせず、ただ「ごめんね‥‥」と言うだけでした。ところが、ある日再びいじめられて帰って来た女の子は、もう我慢ができずに「どうしてお母さんはお化けみたいな顔なの。どうして他のお母さんたちとは違うの!」と、大声を出して泣き出してしまったのです。すると母親は初めて真実を語り出したのです。

 それは女の子がまだ幼少の頃のことでした。誤ってストーブのやかんをひっくり返してしまったのです。母親はあわてて女の子をかばい、上におおいかぶさりました。熱湯は容赦なく母親の顔にあびせかけられました。その痛みと苦しみ、そして女性として大切な顔が失われていくことは、一言では言えないほどの悲しみであったはずです。しかし、それによって女の子の命は救われたのです。女の子は初めて真実を聞き、体が震えるような衝撃を受けました。そして、涙がぽろぽろと頬を伝って流れ落ちたのです。それから後には、彼女は一切母親の悪口を言いませんでした。友達からからかわれても、もう平気で問題ではありませんでした。母親の火傷の跡に、自分に対する大きな愛を見たからでした。母の愛を知った時、女の子の中に大きな変化が起こり、心の中に平和が生まれたのです。

 「女は弱し、されど母親は強し」ということばがあります。母の愛は、世界を敵にまわしても、わが子のためなら自分のいのちまでも差し出す覚悟があるのです。母親の愛は神の愛に似ていると言えます。私たちは本気で十字架に張り付けになったイエス様のところに飛び込んでいかない限り、神の愛は分かりません。キリストの受けられた傷、十字架で流された血潮の一滴一滴が私に対する愛であったことを知るとき、私たちは初めて自分はイエス様によって救われたのだと知るのです。その瞬間、神の平安は確かにやって来るのです。私たちはキリストを個人的に救い主と信じる時に救われ、生まれ変わるのです。女の子が母親と本当に深い愛の関係を得たように、私たちは神様との愛の交わりが与えられて、神の子どもとして生まれ変わるのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:8)。

                     
●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。 

 この世で最も美しく、崇高であるはずの「母親の愛」も、最近はどうも狂って来ているようです。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、愛人との生活に邪魔だからとか、言うことを聞かないからとか、そんな簡単な理由で、虐待して半殺しにして川に捨てたり、食べ物も与えずに放置して死なせたり、昔は考えられないような非常に悲しいニュースが連日のように報じられるような昨今であります。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2.700年も前に予知していたかのようなみことばにも思われます。母親があなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはないのです。どうぞ、ご自分の罪をお認めになられて人知をはるかに超えた神の偉大な愛をお知りになって下さい。 
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

●☆★●★☆●☆★●★☆●☆★●


★人生と愛の神の摂理

2006-09-22 | 「神の愛について」

             
 日本人は、不運なことや良くないことが起こるとすぐに「運命だから・・・」と言って諦めてしまう傾向があります。《運命》とは、広辞苑によると、「人間の意志にかかわりなく、身の上のめぐり来る善悪、吉凶。人生諸般の出来事が必然の超自然的な力によって支配されているという信仰または思想に基づく。めぐり合わせ。宿命。命運。」と定義されています。「宿命」とは、生まれる前から決まっていて、どうにもならない運命を意味しているわけであります。
 
 《宿命論》とは、人生の一切からの出来事は、超自然的な力や意志によってあらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変えることができないとする説であります。ですから、「運命」とか「宿命」というのは、ある超自然的な力や意志によって決定されていると見るので、そこには人間の自由はなく、全く希望を持つことができないわけであります。よく、「めぐり合わせが悪かった。」とか、「悪い星のもとに生まれて来た。」とか聞くことがありますが、そのようなことは全く曖昧で漠然とした考え方で根拠がありません。そのようなことで、大切な人間の一生を決定するにはあまりにも不明確であります。

 名前が良いとか悪いとかいう姓名判断。その他、印鑑、墓、方位などによって人の一生が決定されるなどということがあるでしょうか。そのようなことは決してないのであります。「運命」とか「宿命」を信じて生きる時、人間は暗い希望のない不安な一生を送らざるを得なくなるのであります。実際、「運命」ということばは、良い意味で使われることはほとんどないのです。例えば、「そうなったのは、あの人の運命だからしようがないのだよ。」と言ったりしますね・・・。「運命」という言葉を聞いて明るいイメージを持つ方は殆どいないのではないでしょうか。

 しかし、運命とか宿命ではなく、神の摂理を信じて、どのような現実の中にあっても、希望を持って生きる道があるのです。聖書は私たちの人生に光を与え、希望を与える書であり、平安な確信に満ちた人生のあることを約束しています。聖書に表されている「摂理」とは何かと言いますと、創造者である愛の神様が、ご自分の意志によって私たちの人生を導いてくださり、すべてを益となるように働いてくださるということであります。このことを信じて生きる時に、いかなる時も希望をもって生きることができ、人生に絶望するということはないのであります。

 人間のいろいろな失敗があるにもかかわらず、神様はいつも最善の方法によって導いておられることを信じることが出来るのであります。「あの時、ああしていればこんなことにならなかった。」と言って、いつも後ろ向きに歩む人生は、どうしても心が暗くなります。また、「これは私の運命だから‥‥。」という諦めの人生でもない。もっと希望のある人生、光に向かう人生があるのであります。大きな試練と苦難に満ちた逆境の人生の中にあっても、私たちが光と愛に満ちた神に向かう時に、全く新しい希望のある世界が開けて来るのであります。

●「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。『主があなたがたとともにおられますように。』彼らは、『主があなたを祝福されますように。』と答えた。 」(ルツ記2:3~4)。

 旧約聖書ルツ記に記されていることは、イスラエルの歴史の中で、最も暗い時代であった士師時代にあった出来事です。それは、砂漠に湧き出るオアシスのように、聖書を読む者の心に慰めを与える箇所であります。ルツはモアブの子孫で、結婚前は異教徒であった女性です。しかし、イスラエル人の夫や姑を通して、真の神様を信じるようになり、すばらしい信仰の人となったのであります。聖書中、その名が書名として用いられている女性は、ルツの他にはペルシャの王妃となったエステルだけであります。

 ルツは飢饉のためにモアブの地に逃れて来たナオミの息子と結婚したのですが、10年の幸せな結婚生活の後に、夫に先立たれてしまいました。夫に先立たれたルツは、姑ナオミに仕えることを決意して信仰によって夫の故郷であるイスラエルのベツレヘムにやって来たのであります。このルツ記2章には、人生の不思議な出会いのことが書かれています。ベツレヘムの裕福な親戚であるボアズとルツの出会いです。ルツは、無意識のうちにボアズの畑に導かれて落穂を拾っていたのですが、「ちょうどその時」ボアズも町からやって来たのであります。「ちょうどその時」ということばは、神の摂理を暗示していることばです。

 神は祝福を与えるために、「時」と「場所」を準備され、特に人を用いられる方であります。ルツとその姑ナオミがまだ何も考えないうちに神は彼女たち祝福のためにボアズを備えておられたのです。人生には、神の摂理があって、偶然と思われる出来事の背後に神の導きがあるのです。「はからずも」と「ちょうどその時」ということばに目を留める必要があります。神は、私たちを祝福されるために、時も、場所も、人も備えてくださることがあるのです。これは、人間的知識によれば、偶然の出会いであります。ところが、このような些細なことの中にも、神の永遠のご計画を着々と実現しておられるのであります。

 ルツは、神様の取り計らいによってボアズと結婚します。ルツ記4章まで読み進むと、ルツの系図が書かれていますが、ダビデはルツの子孫として生まれたことを示しています。ルツは、モアブの女でありながら、イスラエルで最も偉大な王の先祖となる特権を得ただけでなく、新約聖書のマタイの福音書1章には、ルツが全人類の救い主であるイエス・キリストの(人間的には)先祖となったことが記されています。(もちろん、キリストの誕生は聖霊によるものであり、ルツの血がキリストの体に流れていたということではありません)。これは、何という驚くべき神のご配慮ではないでしょうか。

 しかも、それは、ルツが「はからずも」ボアズの畑に落穂拾いに行ったことにすべての端を発しているのであります。これは、驚くべき神の摂理であります。神の摂理は聖書に満ち溢れており、その中の一端を紹介したに過ぎません。人生というものには、偶然ということはありません。神は私たちの人生のすべてを支配し給う御方であります。日常のどんな小さな出来事の背後にも神の摂理のあることを覚える時に、人生の見方が変わってきます。当然なことですが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、偶然のことであるはずもなく、天地創造の前から既に神様がご計画されていた深遠な真理なのであります。

●「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)。

●「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。・・・その道は、何と測り知りがたいことでしょう。・・・・・というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ人への手紙11:33~36)。


◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 
★☆彡☆★彡★☆彡☆★彡★☆彡☆★彡★☆

★奴隷オネシモの救い

2006-08-24 | 「神の愛について」

     

●「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」(ピレモンへの手紙18)。

 新約聖書の中に、パウロが書いたとても短い手紙があります。それは、「ピレモンへの手紙」です。この手紙は、パウロが福音のためにローマで獄中にあった時に、コロサイ集会の信者であったピレモンに宛てて書かれたものです。その背景を少し考えますと、ピレモンの奴隷であったオネシモは、主人(ピレモン)の物を盗んで逃亡し、ローマにまで行ったのです。

彼は、恐らく大都会の雑踏に紛れ込めば容易に捕まらないだろうと考えたのではないでしょうか。そうするうちに、どういう事情か分かりませんが、オネシモは獄中のパウロに出会い、キリストの福音(良き訪れ)を聞いて、回心したのです。 
 
 そして、オネシモはクリスチャンになってからしばらくの間、パウロに仕えていたようです。彼が救われてからすぐにパウロに仕えるようになったことは彼の回心(悔い改め)が本物であったことをよく表しています。当時の習慣によれば、奴隷はあくまでも主人の所有物であったので、パウロは機会を見て、彼を主人であるピレモンのもとに帰そうと考えていたのではないかと思われます。

しかし、主人の物を盗んで逃亡した奴隷は殺されるのが常であったのです。そこで、パウロはピレモンに、オネシモを今までのように奴隷としてではなく、主にある兄弟として赦して受け入れてくれるように頼んでいるのです。そのために書かれたのが、この「ピレモンへの手紙」です。一介の奴隷に過ぎない者のために心を砕き、愛の労苦を惜しまないパウロの姿の中に”キリストの愛”を彷彿とさせるものがあります。

 オネシモが与えた損害は自分が代わって負担すると申し出ることで、主人と奴隷が和解することをパウロは願ったのです。この手紙は、パウロが書いた手紙の中で最も個人的なものであり、オネシモという一人の奴隷のためにピレモンに懇願するという愛に満ちた執り成しの手紙なのです。この手紙を通して、当時の奴隷制度の一面と、それに対するキリスト者の態度をも知ることができます。

パウロは奴隷制度それ自体には反対していませんが(勿論、聖書は奴隷制度を肯定しているのでもありません)、主人も奴隷も主にある兄弟として交わることにより、実質的には奴隷制度が改善されることを願っているのです。

●「むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。」(ピレモンへの手紙9)。
 
 パウロは、使徒としての権威をもってピレモンに命じることも出来たのですが「愛によって、あなたにお願いしたいと思います。」と言って、謙遜に懇願しているのが分かります。パウロは、10節で「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っていますが、これは、もちろん霊的な意味での比喩として言われていることは明らかです。

 オネシモは獄中にいたパウロと出会い、パウロに導かれて回心し、救われたのであります。それで、パウロはオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っているのです。ここに、パウロのオネシモに対する主にある親愛の情が示されています。

●「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」(ピレモンへの手紙11)。

 「オネシモ」とは、「役に立つ者」という意味です。事実、彼は以前は役に立たない者でしたが、今はキリストを信じて救われ、神のために役に立つ者とされました。私たち人間も、神の前には役に立つ者として創造されたのですが「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3:12)とある通り、神から離れ、役に立たない者となってしまいました。

 私たちは全く無益な者であり、神の前には何の役にも立たない罪人でありますが、キリストを信じて救われる時に、初めて役に立つ者(有益な者)となることができるのであります。したがって、クリスチャンは、今、神のあわれみによって、役に立つ者とされたのです。

●「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。」(ピレモンへの手紙15)。

 この聖句は、オネシモが逃亡した背後には、神の摂理があったことを示唆しています。人の目から見ると、自分で勝手に主人であるピレモンから逃亡したように見えますが、神の側から見ると、また別な見方があるのです。そのように、一切の出来事の背後に愛なる神の許しと摂理があることを認める時に、人生の見方が全く変わってしまうということがあるのです。

 パウロは、すべての出来事の背後に神の摂理があることを認めて信仰によって生きた人です。「人が失望(disappointment)する時は、神の計画(appointment)の時である。」ということばがありますが、事実、その通りなのです。

 この世では、クリスチャンであっても人はみな社会的身分があったり、職業も違い、人種や肌の色も違います。また、社会的な差別があったりします。しかし、それは、この世だけのことです。天国では、もうそのような区別も差別もありません。永遠に主に在って兄弟なのです。ルカ伝15章に有名な放蕩息子の例え話がありますが、あの弟息子も父親から逃亡し、しばらくの間父親から離れていました。

しかし、その背後にもやはり神様の許しと摂理があったのです。それは、父親が弟息子を永久に取り戻すためであったのであります。私たちもまた、同様に、長い間神様から逃亡し、神様に背を向け、罪の生活を続けていましたが、その背後にも同様に、神の暖かい摂理のあったことを認めることができます。

●「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」(ピレモンへの手紙18)。

 私たちは、パウロの、奴隷オネシモに対する愛の中に、イエス・キリストの私たちに対する愛を見ることができるのです。パウロは、オネシモが主人ピレモンに損害を与えた責任を自分が代わりに負い、弁償しようというのです。このようなキリスト者としての美しい愛は、キリストの十字架の身代わりの死に原型があります。ルカの福音書の23章のキリストの十字架の場面を思い起さずにいることはできません。

イエス・キリストは、私たち一人一人のために、十字架の上で次のように執り成してくださったのです。何という驚くべき愛ではないでしょうか。私たちが、このような神の絶大な愛を拒む理由はありません。どうか、みなさんも、キリストの愛を受け入れて永遠の滅びから救われて下さい。神はあなたが神に立ち返るのを待っておられるのです。

●「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 
 


◆◆-★-◆◆-★-◆◆-★-◆◆◆-★-◆◆


★人間の愛と神の愛

2006-07-06 | 「神の愛について」



  大正時代の著名な作家、有島武郎が語った「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。」という有名なことばがありますが、意味深長で「真実の愛とは一体何か・・・・?」について考えさせられるのではないでしょうか。ここに人間の愛の本質と限界を覚えさせられるのです。

 人間関係を難しくしている問題のほとんどが愛の欠如によるものであり、愛と憎しみの葛藤が人間を不幸にしている一番大きな原因であると言っても過言ではありません。私たちはだれでも心の中に人に愛されたいという思いがありますから、自分を愛してくれる人がいると、そちらの方に惹きつけられて行きます。しかし、私たちの周りには真実な愛があるように見えてもないのが現実ではないでしょうか。例えば、男女間の愛はうわべは純粋なように見えても、非常に利己的で肉欲的であり、相手の犠牲を要求することが多いのであります。そして、人は、相手に愛を期待するときに、それに応えてくれないと孤独感を味わうのです。人間の愛は常に相手に何かを期待し、求める愛なのです。

 「最高のそしてもっとも深い愛とは母性愛である。」と言った人がいますが、確かに、母親のわが子に対する愛は献身的、犠牲的でこの世の中で一番美しいもののように見えます。しかし、その母親の愛でさえ、自分の子供にのみ注がれるもので、普遍的なものではありません。また、最近は、そのもっとも美しいはずの母親の愛でさえ疑わしくなって来ました。近頃の母親はその実の子をゴミのように捨てたり、殺したり、恐ろしいニュースが毎日のように報道されています。殺伐とした嘆かわしい時代と言わざるを得ません。すなわち、母親でさえも本当の愛を示すことが出来なくなって来ているのです。また、互いに愛し合って二人が再婚したけれども、自分の夫の子供を愛することが出来ないと悩んでおられる方もおられます。

 ギリシャ語で、愛を表すことばが四つあるのをご存じでしょうか。
①『エロス』‥‥男女間の性愛を表すことばで、このエロスということばは、新約聖書には一度も出て来ないのです。
②『ストルゲ』‥‥特に家族間の愛を示したものです。これは、父子、兄弟などの愛を表しているようです。しかし、ストルゲも新約聖書に一度も出てきません。
③『フィレオー』‥‥友情や夫婦間の愛情を表すことばで、新約聖書には4回ほど出てきます。
④『アガペー』‥‥新約聖書には120回ほど使われ、これが動詞になったものは130回も使われています。この愛は、神が人を愛する愛を表すときに使われていますが、自分に敵対する者をも愛する無条件の愛なのです。 

 聖書は神の愛を「アガペー」と言っています。アガペーとは自己犠牲的愛、自分を注ぎ出す愛です。相手に何も見返りを求めない一方的な愛、無条件な愛です。それに対して、人間の愛は自己中心的で、条件つきの愛です。「あの人は誠実な人だから愛する。」「金持ちだから愛する。」「自分に親切にしてくれるから愛する。」というように、条件付で他人を愛するのです。この人間の愛と対極にあるものが「神の愛」(アガペー)であります。何も見返りを求めない純粋な愛なのです。自己犠牲はそういう損得勘定と関係なしに、損得を超えて奉げる愛であります。イエス・キリストが人類の罪のために身代わりに十字架に架けられ、死んでくださったのは、自己犠牲の愛です。どんなに罪深い人の罪をも赦す十字架の愛こそ、神の愛であり、アガペーの愛です。

 この世の中に「完全な愛」などというものが存在しないのです。生まれながらの人間はこのような純粋なアガペーの愛を持っていません。私たちはだれもそのような愛を知りませんし、まただれもそのような愛を持ち合わせていないのです。ところが、聖書には「神は愛です。」(Ⅰヨハネの手紙4:16)と書かれてあります。そして、その愛は「完全な愛」(4:18)であるというのです。神の御子であられるイエス・キリストは、その神の完全な愛を表すためにこの世に来てくださったのです。ですから、私たちがイエス・キリストを信じ、このお方を知る時に、完全な愛とはいかなるものかを知るのであります。愛の試金石は犠牲であります。十字架は愛のクライマックスです。キリストの十字架の下(もと)に来て、人は初めて「愛」の真の意味を知ることが出来るのです。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れには刑罰が伴なっているからです。‥‥私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙4:18,19)。

 
 現代は断絶の時代と言われていますが、人と人の間の信頼と愛が失われて行くのは本当に悲しいことであります。親と子、夫と妻、先生と生徒(学生)‥‥これらの最も親密であるべき人間関係にも亀裂が生じてきて、人々はお互いに信じることができず、傷つけ合って生きているのであります。そして、社会のいたるところに分裂や争いや憎しみが満ち、不信感が人々の間に広がっています。しかし、確信を持って言えることは神の真実の「愛」(アガペー)こそは、人生のあらゆる問題を解決する鍵(かぎ)であるということです。人と人を結び合わせるもの------それは神の愛です。お金や利害関係や組織による結合は一時的なものであり、必ず破綻が来ます。

 しかし、人と人とが本物の神の愛によって一つに結び合わされるとき、それは非常に強いものです。愛の絆ほど強いものはありません。「愛は死のように強く、‥‥大水もその愛を消すことはできません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌8:6,7)と聖書にあります。どんな困難に直面しても神の愛はそれを克服することができ、また忍耐する力も与えられます。そして、真実の愛は自分だけではなく、他人をも生かすのです。憎しみは人を滅びに至らせますが、愛は人を生かす力があります。愛は人を赦し、人を受け入れ、人を理解しようとします。断絶した人間関係を回復させるものは「神の愛」であり、人々の心に平和と安らぎを与えるものです。

 聖書は、この世の中は終末に向かうに従って、益々人々の愛が冷えることが予告されています。現在、多くの人々は愛の欠如のゆえに非常な心痛と疲れを覚えなら人生を送っているのではないでしょうか。愛のあるところに渇きはありません。この地上で、もし人が互いに愛し合うことができるならば、人間の心の渇きはどんなにか満たされることでしょう。また、その心の疲れはどれほど癒されるでしょうか。あなたも、この愛に生きる人生を送るために、是非、聖書をお読みになってください。そして、キリストの十字架に表された神の愛がいかに絶大なものであるかを知ってください。神の愛を受け入れるときに、あなたも神と人とを愛する人生を送ることができるようになるのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。 

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。 

●「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 」(ヨハネの手紙4:7~11)。


 愛の本質は与えることであると聖書は語っています。人間にとって不幸なことは、人から愛されなくなることよりも、人を真実に愛せなくなることです。多くの人は本当の愛なんてないのだ、そんなものは机上の空論に過ぎないのだと考えています。しかし、それで、納得し満足しているかというとそうではないのです。神はイエス・キリストによって、人間の世界に本当の愛を示してくださいました。神の御子であられたキリストは、33年間この地上で人間として生活されました。彼の生涯はご自身を無にして与え尽くすものであったのです。そして、十字架の上でその愛は完全に示されました。神はキリストの愛を今もあなたに与えようとしておられます。あなたがその愛を受け取るために差し出す手が信仰なのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 

★身代わりの死によって

2005-11-29 | 「神の愛について」


●「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。・・・・』」(創世記1:29)

 神様は、最初に人を造られた時、人に食物を備えてくださいました。神様がもしその食物を備えてくださらなかったなら、私たちの肉体は一日も生きられないのです。ところで、神様が肉体の生命を維持するために食物として人に与えたのは種を持つ草や木の実である植物であります。神様が人を生かすために何か別の方法があったかもしれませんが、そこには深い意味が隠されているように思われるのです。よくよく考えて見ますと、人間が毎日このように生きているということは、必ず他の何かのいのちが身代わりになって犠牲になっていることを意味しているのであります。

 「あるものが死ぬことによって別のものが生かされている。」という”犠牲の原則”があります。この犠牲の原則は日常生活の中に恵みとして絶えず表されているのですが、私たちは案外そのことに気づいていないことがあります。そして、この事実は神を全く認めようとしない人にも及んでいるのです。すなわち、人間の肉体は他の有機体の生命(いのち)ある動植物が殺されることによって生きているということであります。私たちが毎日口にするご飯やお惣菜もすべては、他の植物や動物が犠牲になって、その身代わりに死んだ動植物のおかげで私たちは生かされているのです(ちなみに、肉食が許されるようになったのは、ノアの大洪水の後のことです)。神様は創造の初めから身代わりの死による人類救済のご計画をお立てになっておられたことを暗示しているのではないでしょうか。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。

 神様は、人間(アダム)が罪を犯した直後にすでに人のために救いの道を用意しておられました。アダムとその妻エバは、エデンの園において自らの裸の恥を覆うためにいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰の覆いを作ったのです。しかし、愛なる神様は、彼らをあわれみ、皮の衣を作って彼らに着せてくださったのです。このみことばの背後には、神に近づく道としての身代わりの犠牲のことがすでに暗示されています。「皮の衣」を着せるためにはどうしても動物の血が流されなければなりませんでした。これは、明らかに神のあわれみによるものであります。そして、それは「身代わりによる贖い」ということであります。人間の肉体でさえ他の命の身代わりによって生かされているのであれば、神に罪を犯した人間の本体である霊的ないのち(たましい)が生かされる(贖われる)ためには、更に強力な何かの身代わりが必要であることは明らかなことではないでしょうか。

 旧約時代には、律法によって定められた多くの動物の血が流されました。民数記28、29章によると、主が定めた公的な犠牲の動物だけで、一年間に1,273頭もの動物をささげなければならなかったのです。モーセからキリストまでの約1,500年間には神が定めた公的な動物だけでも、約200万頭の動物の血が流された計算になります。しかし、これは年間行事の最低必要数であって、私的にささげられたものを合わせると、天文学的数字なります。ちなみに、ソロモンは神殿の奉献の時に一度に何と羊と牛を合わせて14万2千頭のいけにえをささげたことがありました。Ⅰ列王記8:63参照。14万2千頭もの動物が一度にささげられた場面を想像してみてください。犠牲の動物は山と積まれ、動物の血は海を赤く染めるほどであったと思います。

 さて、このような膨大な量の動物は一体、何を示すのでしょうか。それは、一つは人間の罪の大きさであり、二つ目には、キリストの身代わりの死の価値の絶大性ということであります。それほどの天文学的数字の膨大な量の犠牲がささげられましたが、それでもたった一人の人間の罪を取り除くことすらできなかったのであります。どうしても、罪のない神のひとり子イエス・キリストの十字架の身代わりの死が必要であったのです。

 物の値打ちは、それを贖う代価によって比較することができます。人間の罪を贖う代価は、どうしてもキリストのいのちでなければならなかったのです。それよりも低い代価では決して贖うことができないのであります。たとえば、ある罪人が死刑の判決を受けたとすれば、だれでもその犯した罪がどれほど大きなものであるかを判断することができます。イエス・キリストの十字架の身代わりの死が私たちにとってどれほど大きな代価であったのかを是非、真摯にお考えになってください。

●「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 」(ヘブル人への手紙10:10)。

 正しい意味において、「罪人の身代わりになる資格(必要条件)」は少なくとも三つ考えられます。
①まず第一に、「人であること」です。
当然のことですが、人の身代わりになるためには、人間でなければなりません。家畜や犬や猫ではダメなのです。猿もその外側の姿は人間に近いと言われていますが、人の身代わりになることはできません。大変次元の低い話ですが、ハイジャック事件があった場合、その人質の代わりに犬や猫を連れて行っても、犯人は人質を解放することは決してありません。
②次に、「罪が全くない正しい人であること」が必要であります。
罪のある人間は罪人の身代わりになることはできないからです。それは、溺れている人が溺れている人を救えないのと同様なことです(もちろん、罪の全くない正しい人というのはこの地球上に一人も存在したことはありません)。
③人間以上の存在、すなわち、「神であること」が必要であります。
なぜなら、もし万が一、この世界に罪のない一人の人がいたとしても、その人はただ一人の人間の身代わりにしかなれません。ですから、世界中の人類を贖うためには、人間以上の存在、すなわち、神であることがどうしても必要であります。

 そして、この三つの条件を満たすことの出来る方は、ただ一人、比類のないイエス・キリストだけであります。神の御子であられるイエス・キリストは、人の姿を取ってこの地上に誕生され、人として完全に罪のない聖よい生涯を送られました。聖よく正しい方であるイエス・キリストが私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。聖書の次のみことばにある通りであります。 

●「キリストも一度(人間の)罪のために死なれました。正しい方(キリスト)が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロの手紙3:18) 。

 これは外国であった古い話ですが、ある時一人のクリスチャンの青年が路傍伝道をしていた時、群集の中から一人の男性が「あなたがたはキリストが十字架で身代わりに死んだと言われるが、私は他人の死によって恵みを受けようとは思わないね!」と嘲りました。すると、そのクリスチャンの青年は「あなたはそう言われるけれども、あなたが履いている靴は、死んだ牛の皮で作ったものですよ。あなたの被っている帽子は、死んだウサギの毛で作ったものですよ。あなたの着ている服やシャツは羊の毛から作ったものですよ。あなたの持っている鞄(かばん)は、ワニの皮で作ったものですよ。また、あなたは家で食事をするとき、牛肉や鶏肉を食べたことはありませんか?」と言いました。このことばに、その男性は無言で去って行ったそうであります。

 神様は愛なる御方であり、大変恵みに満ちた御方です。私たちの健康の維持のためにすべての必要なものを与えられる方は、同時に私たちの最大の敵である罪より解放するためにイエス・キリストをも十字架につけて全人類の贖罪とされたのであります。イエス・キリストの身代わりの死を信じる者は、だれでも罪と神のさばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのであります。そして、死後には天国に入ることができるのです。神は愛なる御方です。

    

★感動的な犠牲の死

2005-08-27 | 「神の愛について」
 
             

  大分昔の話ですが、外国のあるところに一つの開き橋がありました。船が通る時には橋が開き、汽車が通過する時は元のとおりに橋が閉じるようになっているのです。ある時のこと、船舶の往来がはげしく、時間が過ぎても橋を降ろすことができませんでした。汽車の警笛が遥か彼方に聞こえています。けれども、船はまだ半分ほど通過したに過ぎませんでした。躍起になった番人は大急ぎで橋を閉じようと大童(おおわらわ)になっている時も時、何ということでしょうか、この番人の一人の男の子が川に落ちてしまいました。親としてそのまま飛び込んで助けてやりたいのですが、しかし汽車に乗った幾百人もの人々の命には代えられません。
 
 彼は列車が通過するのを待って夢中になって橋を閉め、それから大急ぎで川に飛び込んで、わが子を抱き上げた時にはすでに遅く、もはや息は絶えてしまっていたのです。親としてわが子が溺れて死にかけているのを目の前にみながら、その子を助けることができませんでした。「せがれや、赦してくれ~!」と彼は死骸に取りついて絶叫し、ただ男泣きに泣きじゃくるばかりでした。しかるに、列車の乗客たちはこのような悲劇があったことは露知らず、雑談にふけったり、煙草をくゆらしながら、何事もなかったかのようにその開き橋のある場所を通過して行ったのです。

 もう一つの感動的な実話があります。かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が審判台に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄であったのです。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しました。ところが、裁判官は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのであります。そして翌朝には、彼は死刑にされることになったのです。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしたのであります。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを言ったのです。

 「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を罪に定めた。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救いに来たのだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけないよ。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのであります。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 私がこのような譬え話を書いた理由は、神様の愛とその御子イエス・キリストの愛がどんなに大きな犠牲の伴なったものであるかを、みなさんに少しでも知っていただきたかったからであります。最初の話は、たった一人の息子を犠牲にしてまで、多くの乗客を救った話ですが、それは、愛なる神様がそのひとり子をお与えになったほどの犠牲的な愛をもって、罪を犯して永遠の滅びに向かっていた全人類を救おうとされた事実を知ることができます。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(ヨハネの第一の手紙4:9)。


 後者の二つ目の例話は裁判官である兄が重罪を犯して死刑に定められた弟の身代わりに処刑された話ですが、これは愛なる神に遣わされた御子イエス・キリストの十字架の愛について僅かにではありますが知ることができると思います。
どのような譬え話を用いても、その事実の一面は伝えることができても、そのすべてを説明することはできません。どうか、そのことをご了解いただいてお考えになってくださいますようにお願いいたします。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4、5)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙3:19)。




★神の愛の告白

2005-08-20 | 「神の愛について」


●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。

  旧約聖書イザヤ書43章に書かれているのは、神様ご自身が贖ったイスラエルの民に対して語っておられることばですが、これは、また神様と私たちとの関係でもあります。この4節のことばは、神様の私たちに対する「愛の告白」のことばであります。聖書は、旧約と新約合わせて全部で66巻、1.189章ですが、すべてが私たちに対する神様の愛の告白であり、神様からの長い長いラブ・レターであると言っても過言ではありません。みさなんも、これほで長いラブ・レターをもらったことも書いたこともないと思います。(私事で恐縮ですが、私が今までに一番長い手紙を書いたのは、自分がキリストを信じて間もなく、母親に宛てた手紙ですが、便箋24枚でした。神様のこんな大きな愛があるならまず苦労して自分を育ててくれた母親に伝えたいと思ったからです。)

 神の全人類に対する愛がどれほど大きなものであるかを考えてみたいと思います。

【1】まず第一に、神様はだれも彼も無条件に私たち一人一人に「あなたは高価で尊い」と言って愛してくださるのです。

 神様の愛は無条件の愛であります。現代の物質文明の社会では、人間の価値も物と同じように扱われてしまいます。有能で他人よりも実績を多く積んだ人は価値のある人と見なされるのです。裏返して見ると、貧しい人、地位の低い人、病弱であったり、身体に障害を持っている人、そして、年老いて働けない人は価値のない者としてゴミのように捨てられてしまうのです。また、この世の中の進歩について行けない人、学校の授業について行けないで落ちこぼれたような人は価値のない者とみなされてしまいます。しかし、聖書の神様はそのような能力などには関係なく、だれかれの区別なく、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と言ってくださるのです。

 人間の愛は、「金持ちだから」とか、「顔が美しいから」とか、「仕事ができるから」など、自己中心的な条件付きの愛でありますが、神様は何の条件もつけずに、私たちを高価で尊い存在として、愛してくださり、受け入れてくださるのであります。なぜかと言いますと、神様は、すべての人間を一人一人、ご自身の愛の交わりの対象として、人格的な存在として造られたからです。「わたしの目には‥‥」とあります。たとい、他人が自分を認めてくれなくても、神の目には尊い価値ある存在として、受け入れてくださるのです。聖書の別な箇所には「すべての人は迷い出て、、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3:12)と書かれてありますが、しかし、それでもなお神様は私たちを愛してくださり、無益な者を有益な者に変えてくださる愛の御方なのです。

【2】次に、神様は私たち一人一人を「わたしは、あなたを愛しています。」と言って個人的に愛してくださる方であります。

 神様は十把一からげにして「あまたがたを」と言われるのではなく、「わたしは、あなたを愛しています。」と言われます。「わたしは、あなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)とあります。神様は、創造の神、贖いの神で、親がわが子の名を呼ぶように、夫が妻の名を呼ぶように、私たちの名前を呼んでご自分の者として愛してくださる方であります。神様は親しみを込めて、個人的に私たちの名前を呼んで救い出し、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。アブラハム、モーセ、サムエル、エリヤ、マリヤ、ザアカイ、サウロなど‥‥みな、神様から、個人的に名前を呼ばれました。

 この世の中の不幸な問題の殆どは、愛の欠如によるものです。そして、自分はだれかに個人的に愛されているという実感がないときに、人は孤独を感じるのです。親に愛されている子供も、夫に愛されている妻も実に幸せそうではありませんか。そのように、神様に個人的に愛されているという実感は、その人の心を幸福感で満たします。天地万物を創造され、宇宙を支配しておられる全能の神様が、私たち一人一人に関心を持っておられるだけでも驚きですが、そのような偉大な御方が私たちを個人的に愛しておられるということは、さらに驚くべきことではないでしょうか。

【3】次に、その神の愛は、抽象的なものではなく、現実に人類の歴史の中に表された愛です。
 それを証明する聖書のみことばは、聖書にたくさんありますが、もっとも代表的な聖句は次のみことばです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 「愛」ということばは、形がなく、抽象的なものですが、その形のないものの本質を表すのに表現が必要であります。神様の愛は、絵に描いたボタモチのようなものではなく、ご自身のひとり子イエス・キリストによって具体的に私たちに表された現実の愛であります。口先で「愛しています」と言っても、それが目に見える行いとなってあらわさなければ、そのことばは、空しいものではないでしょうか。しかし、神様はご自身から離れて永遠の滅びに向かっている人間を愛して、そのひとり子イエス・キリストを全人類の救い主として遣わされたのです。そして、キリストは、十字架で私たちの罪のために身代わりに死んでくださったのです。

 「そのひとり子をお与えになったほどに‥‥」とあります。贈りものは、今、本当に相手にとって何が必要であるかを考えて決めるのです。神様からのプレゼントは、神様のひとり子であります。これは、私たちに対する最高の贈りものであり、大きな犠牲を伴なったものなのです。愛の大きさは、何によって測ることができるでしょうか。それは、相手のために払われる犠牲の大きさによって測ることができます。キリストは、あなたや私のためにご自身のいのちを捨ててくださいました。いのちよりも価値のあるものはありません。

●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書15:13)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3;16)。


 神様のこのような真実で命がけの愛の告白に対して、私たちは無関心でいてよいのでしょうか。神の愛はあなたに強く迫っています。真実な愛であれば、自分が相手に愛を告白したならば、当然、相手にその愛を信じて受け入れてほしいと願うのではないでしょうか。神の愛も同様であります。神様はあなたからの真実な応答を期待しておられることは間違いのない事実です。




★「愛」がなければ・・・・。

2005-06-08 | 「神の愛について」

明治の文豪と言われた徳富蘆花の歌に、「人は愛せずして生きるあたわず。愛されずして生きるあたわず。」というのがあります。また、ドイツの文学者ゲーテは、「天には星がなければならない。地には花がなければならない。人の心には愛がなければならない。」と言いました。真の愛のない人生は空しいものであります。人は誰からも愛されていないと考えた時、非常に孤独に感じるのです。特別な例外を除いて人は、全く愛を失って、「自分はひとりぼっちだ・・・」と考えたとき、生きる望みも気力もなくなり、死を考えることがあります。人は愛なしには生きられない存在だからであります。日本では、年間約3万人位の自殺者がいますが、先進国の中でも、これは際立って高い数字です。そして、そのうちの多くは誰からも愛されていないという孤独感によるものと言われています。

●「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義 とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与 え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。 ・・・・・・ こういうわ けで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 」(コリント第一の手紙13:1~8、13)。

 新約聖書の中で、このコリント第一の手紙13章は、一般に「愛の章句」として、最もよく知られている箇所の一つであります。この章は、「愛の賛歌」とも言われています。この所には、私たちの人生において、最も大切なものは「愛」であると教えられています。他に何があったとしても、愛のない人生には、「何の値打ちもありません。」(2)と教えられています。人生の値打ちは愛のあるなしによって決まるというのであります。また、愛がなければ「何の役にも立ちません。」(3)とも語られています。神と人に対して役立つ有意義な人生であるかどうかは、愛があるかないかによって決まるというのであります。

 いくらお金があっても、地位や名誉があっても、体が健康であっても、もし愛がなければ、その人の人生は空しいものであると聖書は教えています。人間関係の問題の大部分は、愛の欠如によるものであると言っても過言ではないと思います。人間の不幸も悲しみも、人肉親の間の確執も、国家間の戦争も、みんな人の心に真の愛がないことが原因であります。そして、人生の問題のほとんどは、愛があれば解決できる問題です。現代は、家庭でも、学校でも、職場でも、「愛」がどんどん失われつつある時代です。何か殺伐とした荒(すさ)んだ潤いのない世の中になって来ているのではないでしょうか。

 動物は与えられた本能によって生きているだけで満足しているので、愛のゆえに悩んで自殺したりすることはありませんが、人間にとってこれは深刻な問題であります。人間は愛する者、愛される者として造られた存在だからであります。人は対物ではなく、対人関係の中に生かされているのです。「物質」は人の心の渇きを満たしてはくれません。どんなに多くの富や財産に囲まれ、立派な邸宅に住んでいても、人の心の渇きは満たされないのです。フランスの詩人ユーゴーは「人生最大の幸福は、自分自身のいかんにかかわらず、愛されているという確信である。」と言いましたが、まさにそのとおりであります。

 しかし、問題は移ろいやすく不安定な人間の愛ではなく、神に愛されているという確信を持つことであります。私たちの周りには愛があるようで、実は本物の愛を見出すことは非常に困難です。世の中には、確かに母親の美しい愛もあれば、友人の愛、男女の愛など、愛があるように見えるのですが、しかし、それらはみな自己中心的な愛であります。明治~大正時代にかけての小説家有島武郎は、「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本質は、奪うものである。」と書いています。彼は、内村鑑三の影響で一時は聖書に触れたことがあるのですが、神の愛もキリストの十字架の福音も知らずに死んだ人であります。人間の愛の本質は、自己中心的であります。表面的には美しく見えても、本質は自己中心的であり、条件付きでしか人を愛せない者たちであります。

 コリント第一の手紙13章には、神の本物の愛(アガペーの愛)の特質が書かれています。普通の人が考える愛と全く違うことがお分かりいただけると存じます。しかし、これが真実な愛であるとすれば、このような崇高な愛はだれひとり持ちあわせていないことが分かります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます・・・・・」(4~7)の箇所を読めば、自分はいかに愛のないものであるかということに気づかされるのであります。この「愛」ということばの代わりに、「自分の名前」を入れて読んでみると、非常に違和感を覚え、不釣合いで、大抵の人は、このみことばに心が鋭くえぐられて、すぐに自分は愛のない人間であるということに気づくのであります。

 しかし、この「愛」という文字の所に置き換えてぴったりと合うお名前のお方が、世界でたった一人だけおられます。それは、まさしく「イエス・キリスト」であります。例えば、「キリストは寛容であり、キリストは親切です。また人をねたみません。キリストは自慢せず、高慢になりません・・・・」と入れ替えて読んでみても、全然違和感がないばかりか、ぴったりと当てはまるのです。このような崇高な愛を持っておられる御方は、イエス・キリスト以外にはだれ一人いないのであります。そして、本当の愛というのは、神様だけが持っておられるのであって、神はご自身の愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わされて、目に見える形で、その愛を十分に表してくださいました。そして、その愛のクライマックスがキリストの十字架なのであります。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 」(ヨハネの第一の手紙4:9)。
 

 神を信じ、キリストを個人的な救い主と信じる時に、今まで経験したことのない愛の中に生きることができます。「愛」とは重荷とはなりません。たとえば、同じ5kgの重さでも背中におんぶしている赤ちゃんは重く感ぜず、背負う荷物は赤ちゃんより重く感じるのです。それはなぜかと言えば、「愛」の有無によるのです。母親は、一生の間にわが子のために毎日毎日どれだけの仕事をするでしょうか。しかし、その労働のためにたったの一円のお金も要求しようとはしません。それは愛のゆえであります。そして、神の愛によって人が変えられる時に、今まで重荷と感じていたこともそれほど重く感じなくなるから不思議であります。

 ★.。.:*・゜☆.。.:*・゜★.。.:*・゜☆.。.:*・゜★   

★母親の愛と神の愛

2005-02-23 | 「神の愛について」
     


  この話は、もう何十年も前に、スコットランドで実際に起こった出来事です。その古風な高地にある村は、木の生えない切り立ったスコットランドの山と山の間にありました。そして村の人たちは山間(やまあい)の畑で作物を作って生活していました。仕事の間、幼い子供たちはそばで遊び、赤ん坊はバスケットの中で眠っていました。

 ある朝、ものすごく大きな鷲が大空を舞っていましたが、すごい早さで急下降し、畑の方に飛んで来たかと思うと、バスケットの中で眠っていた赤ん坊を素早くわし掴みにして、空中高く舞い上がりました。村人たちは、すぐ追いかけましたが、鷲は高く舞い上がり、高い山の上の岩の上に、その赤ん坊を置いて飛んで行ってしまったのです。そして、もうその赤ん坊は助からないとだれもが考えました。 

 その時、勇敢な船乗りが、この急な山の斜面を登ろうとしましたが、あまりにも急で危険なため、諦めざるを得ませんでした。さらに、いかにも体のがっちりしたベテランの山男がこの急斜面に挑みましたが、やはり、途中で諦めて山を下る以外になかったのです。
ところが、なんと、更に、一人の貧相な農民の女の人がこの危険な斜面に挑んだのです。屈強な体格のいい男が無理だったのだから、これはあまりにも無謀な話です。

 ところが、彼女は意を決したように、命を賭けて溶岩をよじ登り始め、一歩一歩、上へ上へと登って行きました。そして、なんと、彼女はついにあの絶壁の頂上へと達したのであります。下の方では、村人たちが緊張して息を殺すようにして、張り詰めた雰囲気の中で、ハラハラしながら彼女を見ていました。彼女は、今度は一歩一歩、赤ん坊を背負ったまま、下り始めたのです。そして、村人たちの喜びと驚嘆の叫び声の中で、山のふもとに辿りついたのです。これは、なんと驚くべき光景でしょうか。

 一体、がっしりとした体格の良い船乗りや山男に出来なかったことが、どうして、この婦人にできたのでしょうか。これは、本当に不思議なことです。その答えは、ただ一つです!。その農夫の婦人は、その赤ん坊の「母親」であったのです。当然、その母親はわが子を強く愛していました。「愛は不可能を可能にならしめる不思議な力を持っている」のであります。「愛」はみなすばらしいものですが、とりわけ母親の愛は崇高なものではないでしょうか。母親の美しい愛は、たとえ全世界を敵(相手)に回しても、自分がお腹を痛めて産んだわが子を愛するものです。

 しかし、母親の愛よりも、何百倍(いや、幾万倍)も崇高な愛があります。それは、ご自身のひとり子イエス・キリストを賜ったほどの「神の愛」です。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。
 

 この世で最も美しく、崇高であるはずの「母親の愛」も、最近は、どうも怪しくなって来ました。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、泣き止まないからとか、言うことを聞かないからとか、そんな簡単な理由で、虐待して殴り殺したり、食べ物も与えずに放置して死なせたり、昔は考えられないような目に余る悲しいできごとが多くなって来ました。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2,700年も前に予知していたかのようなみことばにも思われます。母親があなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはないのです。

●「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」(詩篇27:10)。 

●「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:5~8)。 

●「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、‥‥今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 」(ローマ人への手紙5:5~8)。
 

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:8)。
   


★放蕩息子のたとえ話

2005-02-10 | 「神の愛について」



  新約聖書の中で、イエス様が語られたとても有名なたとえ話があります。それは、「放蕩息子」の例え話と言われていますが、次のような話です。私はこのたとえ話を何百回も読みましたが、何度読んでも、飽きることがない感動的な話です。

●「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。・・・・」 (ルカの福音書15:11~24)。


  このたとえ話は、一般的に「放蕩息子のたとえ話」と言われていますが、実は、イエス様はこのたとえ話によって「神の愛」がいかに絶大であるかを語りたかったのです。「神の愛を示すたとえ話」と言った方が正確かもしれません。このたとえ話の中で、ふたりの息子の父親は「まことの神様」を示しています。また、父親から財産の分け前をもらって、家を出た放蕩息子(弟)は、神から離れて罪の中に生活している私たち人間の姿を表しています。(実は、このたとえ話には、このあとに続きが書かれていて、兄息子は父親の家にいて生活していましたが、自分を正しい者と思っていたパリサイ人を示しており、同様に罪人であったのです。)

 この弟息子は、父親の家で幸福に暮らしていたのに、親から自由になりたいと思って、勝手に家を飛び出して遠い国に行って、財産を浪費し、毎日遊び暮らして放蕩三昧な罪深い生活をしていました。これは、まことの神様の愛から離れて、神に背を向けて自分勝手に生活している人間の不幸で危険な姿を示しています。

 しかし、父親からもらった大切な財産をすべて使い果たし、飢えと孤独を経験し、惨めな人生のどん底まで落ちて、やっと彼は自分の犯した罪と間違いに目覚め、本心に立ち返って、豚小屋の中で、悔い改めて家に帰る決心をするのです。私たちも、神様の前に自分が今置かれている神を無視した生活がどんなに危険なものであるかを悟って、悔い改めることを神は待っておられるのです。この弟息子は、父の家から離れたために多くのものを失いました。お金、健康、暖かい家庭、健康、友人、信用など‥‥です。しかし、たった一つの失われなかったものがあるのです。それは、「父親の愛」です。あなたも、多くのものを失ったかもしれません。しかし、「神の愛」だけは失っていないことを、どうか覚えてください。

 毎日毎日、断腸の思いで息子の帰りを待っていた父親は、ある日の夕暮れ時、トボトボと重い足取りで帰って来た息子を遠くから見つけ、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけして迎えました。そして、この父親は、こんな放蕩息子のために、彼に着せるための「一番良い着物」を用意し、美味しいご馳走を作って家中で、息子の帰宅を喜びました。父親の喜ぶ姿が目に見えるようですね。神の愛もそれと同様なのです。

 あなたも、今、愛の神様から離れて、人生の悲哀と孤独と空しさを経験していませんか?でも、祝福と平安に満ちた父の家(神様のところ)に帰る勇気を持ってください。父の家にはパンがあり余っていたように、神様のところには、霊的な祝福が豊かに満ちているのです。あなたがご自分の罪を悔い改めるなら、神のひとり子イエス・キリストの十字架のみわざの故に、あなたのすべての罪を赦して、受け入れてくださるのです。

●「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:7)。 




★人類の不平等と神の愛

2005-02-03 | 「神の愛について」



  ある方が、世界の人類に関して、一つの統計結果を書いています。どのくらい正確な統計であるのかは、はっきり分かりませんが、大変興味深いもので次のような内容です。

 もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を「100人の村」に縮小するとどうなるでしょう。その村には、57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。52人が女性で、48人が男性です。70人が有色人種で、30人が白人、6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍、80人は標準以下の居住環境に住み、70人は文字が読めません。50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあります。1人(たった1人!)は大学の教育を受け、そしてたった1人(たった一人!)だけがコンピューターを所有しています。

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、今までと少し別な視点から世の中を見ることができるのではないでしょうか。私たちは、ものごとを見る時、どうしても、自分とその周囲の僅かな狭い視野からものごとを判断し、結論を出しやすいのですが、視点を変えてグローバルな視野でこの世界を見るなら、また、自分自身が置かれている状況を客観的に見ることが出来るように思われます。そして、同時に、この世界は何と不平等な世界だろうかと疑問を持ってしまうことも事実です。
  
世界中には、戦いの危険にさらされ、家族が引き裂かれ、投獄される孤独や苦悩、あるいはその日に食べる一切れのパン、スプーン一杯のスープもない飢餓に苦しみ、拷問や死の恐怖を感じながら生きている人々が数多くいることも事実なのです。また、独裁者が人民を抑圧し、自分の意見を一言も言えない言論の自由のない国に住んでいる人もいます。もし、あなたが冷蔵庫にいくらかの食料があり、着る服があり、頭の上に雨露をしのぐ屋根があり、寝る場所があるのなら、あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれているのです。

もし銀行に預金があり、財布にお金があるならあなたは、この世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人なのです。もし、あなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことであるわけです。また、日本人は文字が読めることを当然のように考えていますが、本や新聞などの文字を読める人は、世界中で、たった30%しかいないのです。私たち日本人はその点では大変恵まれています。もちろん、この日本でも、住む家のないホームレスの方もおられます。また、今、この瞬間にも、都会のどこかで、一人暮らしの老人が孤独死しているという現実があるかもしれません。この世界には、まだ知られていない多くの不安と恐怖に満ちた悲惨な現実があることをもまた事実なのです。

あなたは、この世界は何と矛盾に満ちており、何と不平等な世界だろうかと疑問を持たれるに違いありません。しかし、それでも聖書の神様は、依然として「愛の神」であるのです。神様は、あなたが、現在、どのような状況や環境にあろうとも、神様に愛されているということは事実なのです。人生が、もし地上の生涯だけで終わるのであれば、この世界は確かに不平等であると考えざるを得ないと思います。しかし、聖書によれば、肉体的な死は、死後の世界の入り口であり、永遠の始まりに過ぎません。そして、死後には天国と地獄は確かに存在します。神様は、私たちをかけがえのない一人一人として個人的に愛しておられ、そのために全人類の救い主としてご自身の御子を遣わされました。

●「神にはえこひいきなどはないからです。」(ロ-マ人への手紙2:11)。
 
●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。‥‥ 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ書43:4,5)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音者3:16、17)。 

●「‥‥イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:22)。
 

 イエス・キリストを心から信じる者に、天国に入ることの出来る「永遠のいのち」の救いが与えられることにおいては、何の差別も不平等もないのです。これは、神様の恵み以外の何ものでもありません。