聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★「イエスは涙を流された」

2005-09-27 | 「キリストの偉大なる生涯」

 

●「イエスは涙を流された。」(ヨハネの福音書11:35)。

 
  聖書は旧約新約の全聖書合わせて、31.000節ありますが、この「イエスは涙を流された。」という一節は、聖書の中では最も短い一節として知られています。英語では、「Jesus wept 」で、僅かに二語だけです。新約聖書の原語であるギリシア語では僅かに三つの単語しかありません。「エダクリュセン・ホ・イエスース」です。私はこの短い一節の意味を深く解説しようなどとは毛頭考えていません。私のよな凡人には、神の御子であられるイエス様がラザロの墓で流された涙の深い意味を十分には理解できませんし、それに説明を加えるなどということ自体、何か恐れ多いことのように感じるのであります。しかし、この短い一節は、ラザロだけでなく、神様の全人類に対する深い憐れみに満ちたみ思いが凝縮されているような箇所ではないだろうかと、最近ふと考えることがあります。(因みに、日本語の新改訳聖書では、自分が調べた限りでは、一番短い一節はルカ20:30です。)
 
人間は、いろいろな時に涙を流すものであります。悲しみ嘆く涙、同情して流す涙、後悔した時の涙、嬉しい時に流す歓喜の涙、その他言葉では到底説明のできない涙もあります。雄大な大自然の美しい景色を眺めていて、その背後にある創造者の神秘的な力に圧倒されて、何かわけもなく涙が頬に流れているという経験をされた方もおられると思います。私が若い頃のことですが、無人島の松前小島の灯台で働いていた頃、まだ夜明け前の早朝に起床して、東の水平線から海面を真っ赤に染めて静かに昇って来る太陽を眺めていて、なぜか涙が目からあふれ出て来たのを40年過ぎた今でも記憶しています。そして人が涙を流す時には必ず何かの感情が伴なうものであります。涙は、ある意味で心の中の真実を表すものであるように思います。もちろん、俳優は演技力によって、涙を自由に流すことができるようですが、これは例外的なことです。

 15年ほど前になると思いますが、父が78歳の時、胃癌で亡くなりました。父が息を引き取ったのを悟ったそのとき、母は突然病室のベッドに伏していた父の亡き骸にしがみ付くようにようにして泣き伏していたのを思い出します。自分たちが子供のころから、病弱で随分苦労の多かった母でしたが、それでも、貧しい開拓農家で父と共に懸命に開墾のために鍬を振るい、農作業に汗を流して働き続けたのです。子供たち5人を育てるために極貧のどん底にあって、その苦労は、並大抵のものではなかったと思います。

そして、どんなに苦しい時にも母が声を出して泣いていた姿を見たことはありません。時々、悲しいかな、貧しさゆえに夫婦喧嘩をしている母の目に涙があったのを見たことがありますが、それは多くの場合、子供を守るためであり、常に子供の味方であり、母の優しさから来るものであったように思うのであります。その母がこの9月1日に肺炎のために病院で、静かに息を引き取りました。私は兄から電話で訃報を聞いても涙が出ませんでしたが、なぜか今頃になって、時々、自分が子供の頃の母の愛を思い出しては感慨に耽り、涙することがあるのです。悲しみだけではない、ことばに表せない複雑な涙です。

 日本ではなぜか、泣いたり涙を流したりすることは、女々しいことで男のすることではないと昔から言われて来ました。男は「顔で笑って、腹で泣け」などと言われて来たのであります。私もそのように言われて育ったせいかどうか分かりませんが、大人になってから声を出して泣いたという経験がないように思います。確かに最近は、女々しいと思われても仕方がないような若い男性も多くなって来たように思うこともあります。しかし、世界の文学を紐解いてみても、男が泣いたり、涙を流すということは決して珍しいことではないのであります。聖書の中の章や節は近代になって聖書の印刷業者によってつけられたものですが、なぜこの三語だけを一節としたのでしょうか。その印刷業者もまた、「イエスは涙を流された。」というこの聖句に感銘を受けたのではないだろうかと推測される方もおられます。

 イエス様が涙を流されたのは、死んだラザロの墓の前で、姉妹のマリアが泣き、一緒に来ていたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった時です。死という冷厳な事実の前に、人は無力であり、人間の愛は引き裂かれ、泣く以外にどうすることもできないのであります。この事実をご覧になって、イエス様は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」(33節)涙を流されたのであります。イエス様が「涙を流された」のは、人間的には同情の心から出たものと思われますが、受肉されたイエス様の真の人間性を示すものであると思われます。主イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(ヘブル4:15)と書かれています。しかし、イエス様の深い同情と苦悩の涙には、それ以上に、ラザロを死の支配から解放し、神のご栄光を現すための真の力が秘められていたものと思われます。そして、「霊の憤りを覚え」、イエス様の霊に激しく燃え上がった憤りは、「人類の最後の敵である死」(Ⅰコリント15:26)に対する挑戦の意味が秘められているのではないでしょうか。
 
 ヨハネの福音書11章の初めに、「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」(ヨハネ11:6)とありますが、初めてこの箇所は読む者には戸惑いを感じさせるのではないかと思います。愛する者の病気の知らせを聞いて駆けつけない者はいないはずであります。しかし、主イエス様は、ラザロの病気の知らせを聞いても、なお二日間同じ場所にとどまり、ラザロが確実に死へと向かうのをわざと待たれたのであります。一体、それは何のためだったのか。死にかけている病人を癒すよりも、死んで墓に葬られて四日も経て、腐敗を始めて臭くなっているような人を生き返らせた方が、さらに神の偉大な力と栄光を現すことができるのは間違いのないことであります。この二日間の意図的な遅延は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子が、それによって栄光を受けるためです。」(ヨハネ11:4)とのイエス様のおことばが実現するために必要なことであったのです。

 この11章では、イエス様がベタニア村のマルタ、マリア、ラザロの兄弟を愛されたことを、人間の情愛を指す動詞(フィレオー)を何度か用いています。イエスは温かい心の生身の人間として、彼らを愛されたことを示しているのでしょう。その愛が死によって引き裂かれ打ち砕かれる事実に、同情と共感の涙を流されたのです。このイエス様の涙は、主が私たちの悲しみを御自分の悲しみとしてくださっていることを示しています。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とありますが、イエス様も泣く者と共に泣かれたのであります。神の愛(アガペー)は、人間の情愛(フィレオー)を否定するものではないのです。マルタやマリヤが、やがてラザロがよみがえることを知って喜ぶことを主イエス様は十分知っていたはずなのに、「涙を流された」のです。悲しんだり、涙を流すことと信仰は決して矛盾しないことを教えているのではないでしょうか。悲しい時には悲しみ、泣きたい時には泣いてもよいのです。

 イエスはラザロを生き返らせるために墓に来たのですから、イエス様の流された涙は単にラザロの死を悼んでの涙ではないように思います。確かに同情の涙でもありますが、罪のために死を免れない人類の不信仰と不幸に対する深い憐れみの思いが含まれていた涙ではないであろうかと思うのです。しかし、イエスは涙を流された後、憤りを覚えながら、じっと墓を見据え、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と、力強く死者に命じたのであります。すると、死後4日もたって遺体も腐敗し始めていたラザロが生き返って、手と足を長い布で巻かれたまま墓から出てきました。彼の顔は布切れで包まれていたので、イエス様は、「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言ったのです。これは、何と驚くべきことでしょうか。そして、これらの事実を目の当たりに見ていた多くのユダヤ人が、イエスを信じたのです。ラザロの墓の前で、「涙を流された」イエス様と、死人に向かって「ラザロよ。出て来なさい。」と命じられたイエス様とは決して矛盾することなく、完全な人間であられ、また完全な神であられたイエス・キリストを十分に現しており、また調和を保っているのです。

 新約聖書には、イエスが他に二度ほど涙を流され、また泣かれた事実が記録されてあります。一つは、イエス様が最後にエルサレムに入城されるとき、その都のために泣かれたのです(ルカの福音書19:41)。エルサレムが、彼らの不信仰のために紀元70年にローマ軍によって滅ぼされるのを予知してのことであろうと思われます。もう一つは、十字架を目前にして、ゲッセマネの園での祈りの時のことと思われますが、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 」(ヘブル人への手紙5:7)と、記されています。この時、イエス様は血のしたたりのような汗を流して祈られました。キリストは、全宇宙を造られた創造者であり、今も万物をご自身の力で保持しておられる偉大な御方であります。このような御方が人の姿を取られ、この世に下って来られて、人々のために汗を流され、涙を流され、最後には罪人である私たちのために十字架で尊い血を流されたのであります。私はこのようなイエス・キリストの愛に対して大きな感動を覚えずにはおられないのです。あなたは、どのように思われるでしょうか。 

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★人間の罪とその結果

2005-09-20 | 「人間の罪の問題」
 
ある本に次のようなことが書かれていました。戦時中、日本の一人の軍人が捕虜を生きたまま解剖するという恐ろしい経験をしたのですが、戦後、その罪の呵責でず~っと長い間悩み続けたのです。そして、時間が経つうちに、やがて、だんだんその呵責を感じなくなって行くという内容です。人間というものは、ある時その心の中に罪の自覚が起こっても、あるいはそういう罪を教えられても、いつの間にかその自覚が希薄になって消えて行ってしまって何も残らなくなってしまうことがあるのです。ちょうど、広い太平洋に毒薬を一滴落としたようなもので、それがだんだん薄められて行くと、いつの間にかその毒が分からなくなってしまうのです。人間の罪についても同様のことが言えるのです。

 「公害」の問題が一時は大変大きな問題となりましたが、最近は当時ほど大きな問題として取り上げられなくなって来ているように感じます。しかし、実際には、当時に比べて何も改善されていないというか、さらに悪化しつつあると言っても過言ではないと思います。「公害」時代になって分かって来たことの一つに「希釈」(うすめる)ということの恐怖があります。大分以前の話ですが、スウェーデンの海で、海藻の多くが死滅したので調べたところ、工場排水に銅イオンが含まれていたことが分かりました。それは、ごく少量で何でもないと思われるほどであったのです。ところが、実はその薄められた少量の毒が海藻類の命取りになったのです。気がつかないうちに少しづつ海藻に害を与えていたのです。

 「水俣病」の場合も同じです。メチル水銀が大量に海に流れ込んだなら、魚介類は急に死んだと思いますが、当然、死んだ魚介類を人は食べるはずがありません。したがって、もしそうなら「水俣病」は起こらなかったはずです。ところが、毒が薄められていたので、気がつかないうちに魚介は汚染され、それを食べた人が「不治の病」となってしまったのです。海に落ちた猛毒は一度は分からないほどに薄められますが、プランクトン→魚→動物→人間という順序でだんだん濃縮されて、体の中に毒が残って、恐ろしい結果となることが分かったのです。太平洋の中に消えたはずの毒の一滴が突然の死を引き起こすように、人間が罪の自覚や罪の結果に恐怖しなければならない時が必ず来ることを聖書は厳粛に告げています。

●「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(エゼキエル18:4)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 」(ガラテヤ人への手紙6:7)。

●「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。 ・・・・・」(ローマ人への手紙2:1~5)。


 ユダヤ人は、自分たちは異邦人のように汚れた者ではないと自負していました。しかし、旧約聖書のユダヤ人の歴史を読むと、ユダヤ人も異邦人もみな同じように罪人であることがはっきりと示されています。それは、例えて言えば米の品質検査官が先のとがった細い管を米の俵(袋)に差し込んで、中から少量の米を取り出して、その米の品質を見て、その全体の等級を決めるのによく似ています。神は、全人類の中から、ユダヤ民族だけを取り出して、それに律法を与えてそれを守れるかどうかを試されたのです。そして、ユダヤ人は律法を守れないことがはっきりしました。ですから、ユダヤ人の恥ずべき罪状は全人類の罪状であると言い切ることができるのです。

 ユダヤ人も異邦人も、聖なる神の前にはみな罪人であり、悪を行えば罰せられるのであります。それには人種による差別はありません。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)には、律法が与えられませんでしたが、良心が与えられましたので、それによって罪が分かるはずであります。また、当然ですが貴賎貧富や男女による差別もありません。私たちは、社会が悪い、政治が悪い、親が悪い、学校が悪い・・・・・といいますが、そして、それは事実そのとおりであるかもしれませんが、だからといって、それは神の前には言い訳にならないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 人間の罪に対しては、必ずさばきがあります。そして、それは人が人を裁く時のような不完全なものではありません。神による完全な正義のさばきであります。聖書に記されている神は、人の心の中に隠されている思いもすべてご存じであり、それを明らかにし、正確に裁かれる方であります。しかし、神は人間の心の中の罪も、外に表された罪過もすべて裁くことのできる正義の御方でありますが、同時に愛の神でありますので、私たち罪人のために救い主をお遣わしになられ、その救いを提供しておられる方なのです。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。 


 「死」と「永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端であります。私たちは、罪のゆえに、当然、死、すなわち永遠の滅び(地獄)に行くべき存在であります。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方であります。しかし、そのためには、自分の罪の事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、頑なな心を開いて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、尊い救いをご自分のものとなさってくださいますようにお勧めいたします。


 

★決断を遅らせてはならない

2005-09-14 | 「人の死とその備え」

       

 いつも古い話で恐縮ですが、昭和46年1月、北海道美唄市のある美容院(室)の美容師宿舎において悲惨な火災事故が起こり、人々の涙を誘ったことがありました。当時の新聞報道によりますと、その時、寝室の窓には化粧格子がはまっていて、非常口もなかったそうです。火災現場では、幅1メートル位の狭い階段で、10人の女性が絡み合うようにして倒れていました。しかも、一人を除いた他の女性はみな16歳~27歳までの若い女性ばかりであったそうです。しかし、一つ不思議に思われることがありました。それは、全員がきちんと身支度し、オーバー、ハンドバック、またはある人は手袋まで嵌めていたのです。もし、彼女たちが火災に気づいたとき、洋服を着るより先にいち早く逃げていたら、あるいは助かっていたのではないかとも考えられます。  
  
 火事場での女性の物惜しみなのか、年頃の娘さんらしい身だしなみなのか、その辺のことは想像の域を出ませんが、実に悲しい出来事であり、当時の新聞のニュースを読んだ時、同情の涙を禁じ得なかったことを記憶しております。調べてみると、昭和7年にも東京の白木屋大火で、身だしなみにこだわった多くの女店員が逃げ遅れて亡くなったことがありました。白木屋は、寛文2年から続く江戸の老舗であり、三越と並ぶデパートとなり、昭和6年に新ビルが完成して間もない昭和7年12月16日に大火があり、店員・問屋関係者14人が犠牲となったのです。4階おもちゃ売り場の歳末の飾り付けに、電球の火花が引火し、商品に燃え移り、あっと言う間に大きな火事になったということであります。 家事だと気づいたら、まず急いで逃げる決断をすることが肝要であります。どんなに身だしなみを整えても、逃げ遅れて死んでしまったら何もならないのです。

 さて、前置きが長くなりましたが、神のことばである聖書は、神に背を向け続けているこの罪の世界は、やがて神の審判を受けようとしていることを明言しております。しかし、神は罪を犯して永遠の滅亡に向かっている人々を愛しておられ、ご自身のひとり子、イエス・キリストを救い主として世に遣わされました。そして、神の御子イエス・キリストは十字架につけられて、私たち罪人のために身代わりに聖よい神の刑罰を受けて死んでくださいました。この世界には、必ず、神の怒りの裁きが下る日が来るのであります。でも、イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は救われて、永遠のいのちを受け、死んだ後にも、天国に入ることができるのであります。神は真実であり、偽りを言うことはありません。その偽りのない真実な神のことばが聖書なのです。

 そして、今の恵みの時は決していつまでも続くものでないことを聖書は語っています。今こそ、キリストを信じる決断をすべき時であり、その決断を遅らせてはならないことを教えています。聖書が勧めていることは、「いのちか死か」、「救いか滅びか」、「天国か地獄か」、二者択一の選択を迫っているのであります。この世界は確かに急速なスピードで終末に向かって突進しています。この世界は、譬えて言えば座礁して遭難、沈没しかかっている船のようであります。船客であるあなたがすべきことは、船からの脱出であり、破損した箇所を修理したりすることではありません。そのような時間はもう残されていないといってもよいでしょう。この世界は、もっと深刻な緊急な状況下にあるのです。

 神様は、すでに巨大な救命ボートを用意しておられます。急いでそのボートに飛び降り、脱出することが求められているのであります。そのライフ・ボートは、「イエス・キリスト」であり、キリストの十字架と復活の福音こそが人類を救われる唯一の神の方法です。その他に救いの道はないと聖書は繰り返し語っています。「遅すぎる決断は決断しないことと同じです。」とある人が言ったことばを覚えています。すべてに優先すべきことは、キリストを自分の救い主として受け入れることなのです。どうか、みなさん、聖書は神の永遠の真理の言葉です。単なる宗教の一つではありません。イエス・キリストの福音を信じる決断が遅すぎないように、躊躇しないで急いで決心して下さい。
 
●「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書7:13,14)。
  
●「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。 」(ローマ人への手紙13:11~14)。) 

●「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。‥‥私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:14,19)。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント人への第二の手紙6:2)。 


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★イスカリオテ・ユダの誤算

2005-09-08 | 「聖書と人生」

       

●「‥‥そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、 こう言った。『彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 」(マタイの福音書26:14~16)。
 
  ここには、大変悲しい出来事が記されてあります。キリストの弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダが自分が三年間も仕えて来た師であるイエス・キリストを銀貨三十枚で祭司長たちに売り渡す交渉をしている記事です。人間の利害とお金にからむ醜い話です。お金の欲に目がくらんでいたユダはイエス様を裏切って敵に売り渡してしまうのであります。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」というユダのことばは、金額次第ではどうにでもなるという彼の貪欲な心をよく表しています。ユダの心の中は、お金のことでいっぱいだったので、霊的なことに対しては盲目になっていたのです。

 古今東西、いつの時代にも物事をお金で解決しようとする人間はいるのです。さて、この箇所において交渉は銀貨三十枚でまとまったのであります。旧約聖書の出エジプト記の21:32によると、これは奴隷一人の値段であったのです。イスカリオテ・ユダは、このように奴隷一人の値段で神の御子イエス・キリストを敵の手に売り渡してしまいました。ユダは、彼の人生において取り返しのつかない大変な過ちを犯してしまいました。人間は、間違った価値観を持つことによって、大きな過ちを犯してしまうものです。ユダは、イエス・キリストに対してそれだけの価値しか見出せなかったのでしょうか。これは、まことに残念な悲しい出来事です。

 彼は、イエス・キリストを裏切る決心をして銀貨三十枚で祭司長たちに売り渡しました。二度と取り戻すことのできない誤算です。ところで、一人の人間が大きな罪を犯すまでには必ず迷いがあります。そして、最終的な決断を下し、決行するのであります。イスカリオテ・ユダは、イエス様を敵に売り渡すことを決断するためには、心の中でどれだけ迷い、また、悩んだでしょうか。そして、ついに彼は、それを決行したのであります。ユダはキリストを売り渡したあとも、決して心の中に平安はありませんでした。良心の呵責で苦しんだに違いありません。彼は、のちにキリストが罪に定められたのを知って後悔し、首を吊って死んでしまいました。

 彼は、人生において、間違った決断をし、またそれを実行した人物です。そして、非常に悲しい結末を迎えたのです。何故、このような結末を迎えたのでしょうか。それは、イエス・キリストに対して正しい価値を見出せなかったことによる誤った決断であったと言えると思います。彼は、全人類の救い主として来られた神の御子に対して、たった銀貨三十枚の価値しか認めなかったのであります。人間の一生は、その人がどのような価値観を持つか、何に真の価値を見出すかによって決定されると言っても過言ではありません。「聖書」という本は、イエス・キリストというお方がどれほど尊い偉大な御方であるかを表している本なのです。私たちは、聖書によって、イエス・キリストに出会う時に確かにその人生の価値観が180度転換してしまうのです。
 
●「‥‥私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ人への手紙3:7,8)。

 パウロは、かつてはキリストに反対していた迫害者でしたが、復活のキリストに出会ってから、彼の人生は完全に変わってしまいました。キリストを信じる前に大切にしていた人間的な誇りも地位も富も、キリストを知ったことによる価値に比べるなら、それらのものは塵芥(ちりあくた)と等しくなり、糞土のように捨ててしまったのであります。このよに、人が聖書に触れ、その真理を正しく理解しキリストを信じる時に、その人の生き方と目標は変わってしまうのです。その人の価値観が変わってしまうからであります。霊の目が開かれる時に、確かにその人の人生観も変わってしまうのです。一人の人間がどのような価値観を持つかは、その人の生き方を根本的に変えてしまうのです。

 パウロは以前は、人間的に誇るべきものをたくさん持っていました。しかし、これらの誇るべき血統や家柄や学歴も、比類なきキリストを知り、信じることによって、塵芥のように全部捨ててしまったのであります。パウロにとって、キリストを信じて罪赦された喜びと幸福は、いかなるものにも代えることのできないほどすばらしいものとなったのであります。世の中のすべてが塵芥というのではありません。みんなそれぞれに価値があります。しかし、イエス・キリストを知った価値に比べるなら、それらのものは、塵芥に等しいというのであります。それらは、永遠のいのちに比べるなら、取るに足りないほど無に等しいものばかりであります。パウロは、キリストを知ってから、その残りの生涯のすべてをキリストのために生きた人であり、またその信仰を貫き通した人物であります。パウロの次のことばがそれを力強く証言しています。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。

          

★人間のいのちの価値

2005-09-03 | 「人の死とその備え」



●「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。 」(マルコの福音書8:36,37)。

  最近は、人命があまりにも軽く扱われ、簡単に人のいのちを奪ってしまうような事件事故のニュースが多いので、人間の尊厳は一体どうなったのかと何か悲しくなってしまうことがあります。冒頭のみことばは、人間のいのちの価値を正しく知っておられる神の御子イエス・キリストのことばです。人のいのちは、全世界のすべてのものをもってしても代えることのできないほど尊いものであるとイエス・キリストは語っておられます。

 この世の中には、価値のあるものがたくさんありますが、本当に価値のあるものは決してお金に替えることの出来ないものなのです。そして、人間のいのちにも決して値段をつけたり、お金に替えたりすることができないのです。しかし、現実には、何かの事故などで人命が失われたりしますと、必ず補償の問題が起こって来ます。人間の命の問題をお金で解決することなど不可能であることは当然でありますが、しかし、それでも止むを得ず、命に値段をつけなければならないことが現実に起こるのであります。参考までに、、過去のいくつかの事故の補償金について例を上げてみますと以下の通りです。

 昭和29年、青函連絡船「洞爺丸」事故の補償金は、1人56万5千円だったそうです。それから12年後の昭和41年の全日空機羽田沖墜落事故では、死亡者1人に500万円が支払われました。そして、昭和60年8月の日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落した事故は、まだ記憶に新しい方も多いと思いますが、当事者の年収などを基に算定して、平均6.000万~8.000万円が支払われたとお聞きしました。そして、現在、車の任意保険では、対人は1億円以上が常識と言われている時代であります。しかし、日本を離れると、事情は少し異なって来ます。平成に入って間もなくの頃だったと記憶していますが、中国へ修学旅行に出かけた高知学芸高校の生徒と先生28人が列車事故で死亡したという悲惨な事故がありました。その補償交渉の結果は、1人で500万円だったのです(同じ事故で亡くなった中国人の犠牲者は何とたったの8万円であったそうです)。あまりにも安い「命の値段」ではないでしょうか。

 私がこのような実例をいろいろと申し上げましたのは、人間の命に値段をつけることがいかに困難であるかということを示したかったからであります。人間は人の命が尊いものであることをどなたでも、知っていると思いますが、しかし、人間が考える命の価値と神様がお考えになる命の価値との間には大きな開きがあることが分かります。イエス・キリストは、一人の人間の命は、全世界のすべての金銀財宝をひっくるめたものよりも価値があると言われたのです。そして、人間の命について考えなければならない大切な事実は、一度いのちを失ったならば、どれほどの代価を払っても、もう再びその命を買い戻すことは不可能であるということなのです。

 全世界の富をもってしても、たった一人の人間の命を買い戻すことができないのです。人間の命がいかに大きな価値があるかお分かりかと思います。それなのに、人々は人の命をあまりにも軽々しく扱い、粗末にしているのではないでしょうか。日本では、1年間に平均して25.000人くらいの自殺者があるという最近の統計があります。もちろん、自殺に至るいろいろな事情があるのは分かります。しかし、人間の命の価値がどれほど尊いものであるかという自覚が希薄であるということは確かなことではないでしょうか。また、最近は、大人の命も子供の命もあまりにも軽々しく奪われて行くのを見ると、本当に恐ろしくもありまた悲しいことです。そして、人がどのように評価しようとも、人間の命は社会的身分や人種や貧富の差や老若男女によって区別などはなく、みな同じ価値があるのです。

 しかし、聖書が重んじているところの人間のいのちの尊さというのは、単なる肉体的な命のことだけではなく、人間の魂の価値と「霊的ないのち」のことであります。すなわち、人間の永遠のいのちの問題です。上述した事故の補償の問題などは、みな人間の肉体的な命の問題ですが、もっと大切ないのちがあるのであります。人間の肉体的な命は、この地上に生きているだけですが、人間のたましいは永遠に存在するのです。人間は肉体的な死をもってすべてが終わるのではなく、死後において神のさばき(第二の死)を受けなければならないのですが、イエス・キリストは神から離れて永遠の滅び(地獄)に向かっている私たちを憐れみ、救い出すために父なる神から遣わされ、私たちの罪のために十字架で身代わりに神のさばきを受けてくださった唯一の救い主なのです。

 ですから、人生にとって最も尊いものは、「永遠のいのち」であります。キリストの福音を拒んでこれを失ってしまう人生はまことに空しく希望のない人生であります。大切なのは、キリストを信じて、この霊的な新しいいのちをキリストから受けることです。そのためには一つの決断が必要です。そして、この霊的な永遠のいのちを失ってしまうならば、どのような代価を払っても、それを再び買い戻すことは不可能なのです。「自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:7,8)とあります。神への不信仰による永遠の損失を金銭によって穴埋めすることは不可能なのであります。どうか、みなさんがイエス・キリストを信じ受け入れて、神が与えようとしておられる「永遠のいのち」を、是非、ご自分のものとなさってください。
   
●「人の子が来たのが、多くの人のために贖いのために贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(ペテロ第一の手紙マタイの福音書20:28)。

●「あなたがたが、先祖から伝わった空しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない子羊のようなキリストの血によったのです。」(ペテロ第一の手紙1:18,19)。

●「わたし(キリスト)は彼ら(信じる者)に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父はすべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネの福音書10:28,29)。