笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

兎小屋ならぬ鳥小屋

2015-02-28 | Weblog
 故あって、家移りをした。新築の西洋長屋に越してきたが、畳の広さの酷さには閉口した。俗に江戸間、京間と言われ、マンション畳はその狭さに日本間を真似たもので日本間ではないと云われて久しい。先日まで住んでいた拙宅は、築年数もさることながら、大家が隣家に住んでいたから、6畳間とあれば、本当の6畳であった。即ち縦が6尺、横3尺の畳み一枚を6枚並べたものであった。収納も、押し入れを模したクローゼットだから1畳分あった。
 今回、越してきた物件は、不動産屋の表示では、寝室5畳、クローゼットありとある。実測して面積を割り出せば、マンション畳の5畳である。マンション畳だから、江戸畳に換算すれば4畳半あるかないかである。クローゼットを見れば、奥行きもない半畳あるかの大きさである。小生は、マンションに疎いから、あまりの狭さに閉口して、何人かに聞けば、今時のクローゼットはそんなものであると慰撫してくれた。嘘かまことかわからない。なれど、越してきた家を見てしみじみ思うのは、消費社会の特徴そのものであると感じた。帯蔵する事を厭い、使わなくなったものを捨て、次から次へと買い足して行くのを厭わない人間が暮らす部屋であると。書斎のあるとは家の謳い文句であるが、書斎というものも、ある位置を越えねば持てない。しかしながら、世間の標準とは本のない生活なのかしらと思ってしまう。読書量が減ったという話はこの何十年来、つとに言われてきたが、1LDK,2LDK,ならば書斎とは言わなくても、書棚を置く場所があるのか知らんと考えてしまう。勿論一人暮らしなら問題はなかろうが。
 もう一つ、クローゼットの狭さをみて、予備の布団が置けない。置けないと言う事は、客人を呼べないということである。況や、肉親を泊める事も出来ない。核家族の完成どころか、他人と干渉を持たない人の住む家である。なるほどマンション、アパートは西洋の個人主義を基にして作られたものである。だから今更、それを指摘したことで甲斐なきことであろう。しかしながら、少子化が進み、産めよ増やせよと気軽に言うが、この家の作りを見ていれば、若い女性が母親になる、若い母親が子育てをするには、不安が残るのではなかろうか。体調不良を訴えた時に、手を貸してくれる身近な人が一緒に暮らせない。産む、産まないは個人の自由である。だからこの世の女性、全員が母親になれとは言わない。言わないが、産んでも大丈夫な状態があるのないのとでは大違いである。
 いつもの如く小生の偏見であるが、夫婦向け、若者向けと謳って不動産賃貸を促しているが、実はあれは単に寝る所である。生活を営むところではない。営む所でなくなってもうどのくらい経つかわからない。外国人が日本の家屋をみて兎小屋と揶揄したのはいつのことだったか、兎小屋を越して、ブロイラーの鳥小屋になったのだ小生は新居を眺めて思う。