久しぶりに幸田文の「父・こんなこと」を再読しました。露伴の博覧強記はつとに有名で、娘の文は、その衣鉢を継がずに、というよりもむしろ父が継がさずにいたのかもしれませんが、女一通りのことを徹底的に仕込まれました。掃除の始め方、道具の選び方、そして掃き、拭き掃除の仕方と。下手な掃除ならせぬ方がよいと最後は誇りを積もらせておけとまで父露伴は文に言います。
文豪露伴の娘に育ち、その筆は父のことしかかけなかった文であります。文さんが書けないのではなく、周りが書かせてくれませんでした。文豪の二世とは、かくも不幸なものです。漱石、鴎外、鉄幹にも子供はおろうに、世間はその子供らに期待しません。聞くことはただ父のことばかりであります。文も同様に、父の呪縛から免れずにおりました。が「流れる」に至って、世間の評価が変わります。
「流れる」とは、あらためて感心しました。その題名に、内容にであります。それというのも、「父、こんなこと」を読んだからであります。小生迂闊でありました。先の本のなかで、父の死、闘病記が書かれております。その中で、「東京へ行く」という言葉が散見されます。蝸牛庵を引き払ってから、露伴翁が移り住んだのは、川向こうであります。そういえば、昭和の中ごろまで、川向こうに暮らす明治生まれの老人は、銀座に行く時に、「御府内まで行って来る」と言ったという話を聞きました。「流れ、流れて落ち行く先は」とは有名な「流浪の旅」の一節であります。現代の感覚では、川向こうも立派な東京23区でありますが、文、露伴翁にとっては、都落ちの感覚があったのではないのでしょうか。
「流れる」では主人公が「置屋」に女中として勤めます。女一通りが出来る彼女にとって、お裁縫、洗い物、掃除と重宝がられ置屋の主人、芸者衆、出入りの職人からも可愛がられます。勿論、文の実話を基にして書かれたこの作品でありますから、主人公と重ねて読むことが出来ます。しかしながら、小生の疑問に、文の叡智、感性をもってしても、「あの世界」の独特な人情の機微はこうもうまく処理できるのはなぜであろうかということでありました。
この答えが、先ほど申した、小生の迂闊さであります。「父、こんなこと」の中に、論語の先生が出てまいります。先生と言っても、「インテリ」ではありません。露伴翁が、床屋で知り合った老人であります。学はないけれども、論語の読み方、人品徳ともに申し分ないと翁は判断して、老人を文と弟の師として招きます。論語の勉強がいつの間にか、世間を読む勉強に変わります。世間を読むとは、浅草に二人を連れ出すことであります。レビューを見せ、路傍に店を出す人を見せ、ことあれば、二人に感想を求めたり、問いを投げかけます。文は、論語は忘れてしまったが、世情を見る眼を培ったとうれしそうに書いております。
「流れる」という小説をあらためて読み直したくなりました。
文豪露伴の娘に育ち、その筆は父のことしかかけなかった文であります。文さんが書けないのではなく、周りが書かせてくれませんでした。文豪の二世とは、かくも不幸なものです。漱石、鴎外、鉄幹にも子供はおろうに、世間はその子供らに期待しません。聞くことはただ父のことばかりであります。文も同様に、父の呪縛から免れずにおりました。が「流れる」に至って、世間の評価が変わります。
「流れる」とは、あらためて感心しました。その題名に、内容にであります。それというのも、「父、こんなこと」を読んだからであります。小生迂闊でありました。先の本のなかで、父の死、闘病記が書かれております。その中で、「東京へ行く」という言葉が散見されます。蝸牛庵を引き払ってから、露伴翁が移り住んだのは、川向こうであります。そういえば、昭和の中ごろまで、川向こうに暮らす明治生まれの老人は、銀座に行く時に、「御府内まで行って来る」と言ったという話を聞きました。「流れ、流れて落ち行く先は」とは有名な「流浪の旅」の一節であります。現代の感覚では、川向こうも立派な東京23区でありますが、文、露伴翁にとっては、都落ちの感覚があったのではないのでしょうか。
「流れる」では主人公が「置屋」に女中として勤めます。女一通りが出来る彼女にとって、お裁縫、洗い物、掃除と重宝がられ置屋の主人、芸者衆、出入りの職人からも可愛がられます。勿論、文の実話を基にして書かれたこの作品でありますから、主人公と重ねて読むことが出来ます。しかしながら、小生の疑問に、文の叡智、感性をもってしても、「あの世界」の独特な人情の機微はこうもうまく処理できるのはなぜであろうかということでありました。
この答えが、先ほど申した、小生の迂闊さであります。「父、こんなこと」の中に、論語の先生が出てまいります。先生と言っても、「インテリ」ではありません。露伴翁が、床屋で知り合った老人であります。学はないけれども、論語の読み方、人品徳ともに申し分ないと翁は判断して、老人を文と弟の師として招きます。論語の勉強がいつの間にか、世間を読む勉強に変わります。世間を読むとは、浅草に二人を連れ出すことであります。レビューを見せ、路傍に店を出す人を見せ、ことあれば、二人に感想を求めたり、問いを投げかけます。文は、論語は忘れてしまったが、世情を見る眼を培ったとうれしそうに書いております。
「流れる」という小説をあらためて読み直したくなりました。