笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

本年掉尾の一文

2005-12-31 | Weblog
 本年掉尾の本欄であります。4月から始めました文も200弱になります。日々更新されるブログもあれば、止まっているブログもあります。ブログを開くと、アクセスランキングなるものが右端にあり、日毎その数は増えております。いつぞや漱石夫人が、漱石の手紙やら遺稿やらを人にあげたり、焚き付けにしたという話を書きました。過日、ある本の中で、日記は焚き付けになったという文言を見つけました。漱石だけでなく、緑雨、鴎外、その他諸々の文人の日記は家人によって焚き付けにされたということです。焚き付けにしなければ、世の中日記だらけになってしまうとも書かれておりました。なるほど、荷風や啄木の日記は、書物として流通していますが、あくまでもあれは他者を意識したものであり、将来公開することを予期して筆を運んでいたのでしょう。
 さて、日毎増えるブログは、画面の中で記憶されはするものの、焚きつけにもならぬものであります。80万ものタイトルと、日毎並べられる文字数を考えると天文学的数字になり、それを原稿用紙(400字詰め)に換算したら、これまた富士のお山でもかなわない高さになるのではないでしょうか。そして本ブログもその一部となるわけでありますが、小生が好きな言葉に「世の中ダメと無駄」があります。
 山田風太郎翁ではありませんが、後何回の大晦日で、元旦であるか指折り数えてみたりします。馬齢を重ねるとはよく言ったもので、ダメの人、無駄に年をとるということです。本年購入して読まなかった本、見ていないDVDが戸棚に積んであります。どうしてこんなものをと思いますが、件の言葉が最大の方便であります。
 ダメの人、無駄を好むと。
 何の拍子か、クリックしたら怪しや、面妖なる文が出てきて、暫時読んでみたら前とやっぱり同じことだったと、それでも懲りずにアクセス戴いた読者諸兄には心より御礼申し上げます。もう少しこの機械に明るければ、福助人形でもおいてみたいところですが、まずは来たる平成の年が、皆々様にとって良いお年でありますようお祈り申し上げます。(足袋)

 オシムの言葉と知人の言葉

2005-12-30 | 
先日、近隣に住む古老が鬼籍に入りました。よく行く湯や(銭湯)で、カランを並べて、昔話を聞かせてもらいました。南方に出征し、命からがら故郷の土を踏んだそうです。老人が、小生に話してくれたのは、猿を撃ったこと、荷物を運ばせた水牛の話だけです。飢餓地獄で、目に入るものを食べ、最後の最後で、苦楽を共にした痩せこけた水牛を自らの命のために食したということです。口ぶりは明るく、その顔には一片の翳りもありませんでした。ですが、その声と表情に潜む戦争の悲惨さには十分なものでありました。このときほど、湯船の中でよかったと思わなかったことはありません。
 オシムの言葉という本があります。ジェフ市原の監督で、その言葉に軽妙さと機智に富んだ味わいがあります。彼はあのユーゴの悲劇中で、サッカーの監督を務めました。平和な世の中でボールを蹴ることの素晴らしさを知る人でもあります。本当の悲しみ、人間の業を知った人は寡黙であります。ただひたすら目の前にある使命の為に一身をささげます。それは偉大な事業ではありません。彼、もしくはそのような人にとって弾の飛んでこない日常こそが自らを捧げるに足る事業であることを知っています。
 本の紹介文としては、少々逸脱しているかもしれません。他の人のブログを見ると、内容の一部が紹介されています。ですが、小生は今回はあえてこのような形でこの本を紹介します。だからと言って暗い内容の本ではありません。オシム監督の人となりが見事に書かれている、そして今年のジェフの勇躍が書かれた本です。
 言葉の重みを最近とみに軽視している小生には、大きな贈り物でした。
 一千万といえど我行かんは、競技場だけにして欲しいと、思う次第であります。
 『オシムの言葉』集英社刊 木村元彦 税抜 壱千六百円也

備えあれば憂いなし

2005-12-25 | Weblog
冬至も過ぎて、徐々に日が延びてきました。夕方5時の鐘の頃は、真っ暗だったのが、西の空がまだかすかに明るいです。これからは日が延びますが、寒さは益々厳しくなっていきます。思うに禽獣の類は、朝の来たこと、日が延びたことを体で認識し、それとなく人に伝えてくれてものです。「カラスかあーで夜が明けて」は落語の中の決まり文句で、カラスが朝早く鳴くのは、世のおかみさん連中を起こして、台所仕事をさせ、朝の支度で余った食材を捨てさせるためであるなぞと聞きました。江戸の御世からはや150年、やはりごみの日は、カラスは早朝より電柱にあつまり、燃えるごみを早く出せと催促しています。変わったのは、夜にもカラスかあとねぐらに帰るのではなく、はぐれガラスか大食漢か、飛び回ることでありましょうか。
 最近は、禽獣の方でも勘違い、能力の衰えは隠せないようで、地震があるたびに、近隣をうろつく猫なり犬なりの反応を見ていますが、とんと要を得ず。人間様並みに、地震が来てから狼狽するのが多いような気がしますが、いかがか。
 便利になって鈍磨してきたのは頭の中身だけではなく、感覚もなのでしょう。別に、地震を予知するとか、見えぬものが見えるなどという空想科学小説めいた話ではありませんが、暑さ寒さを感じるとか、時間の感覚などが失われているのではと思います。例えば、自分の足の速さが大まかにわかっており、自分の足で何分かかるということはこれだけの距離になるとか、日頃自分の持つものの重さがこれだけだから、この荷物はこれだけとか、このような感覚は日頃か意識して訓練しておかないと身につきません。それが身についたからといって、なんの役に立つかといえば、大したことがないのかもしれません。しかしながら、年を重ねて自分の身体に衰えを覚えるのを察知するには大いに役立つのではと考えております。
 年をとると老人性鬱症になる人が多いと聞きますが、肉体年齢と精神年齢の乖離が一因とも聞きます。分際を知れとは上のものが、下のものに言う台詞であります。自ら分際を知ることは誰にとっても難しいことですが、身体感覚もまた分際を知る術だと、古の武術の達人は教えてくれました。何も今からとも思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、備えあれば憂いなし、爺になってから騒がれても困る。
 目先の蠅に疎いことは変わりませんが、せめて日々の自然の変化には目を向けようと努力しています。

「おでんくん」

2005-12-24 | 世相
昨日、リリィフランキー作、主演本上まなみ という凄い番組を見つけました。教育テレビ金曜6時半のなかのアニメ 「おでんくん」というのがそれです。おでんの具がそれぞれ登場人物になり、主役おでん君は巾着であります。他にはんぺん君、ちくわ君、がんぐろたまごちゃん、とこれでもかとユニークなキャラクターが出てきます。話はたわいの無いものでありますが、身辺雑記のような話を描く作品が減ってきました。ちびまるこでは、少々色気がありすぎます。あれは子供の格好をした大人で見え透いた計算しか浮かびません。
 かつてテレビ東京で「キョロちゃん」というお菓子のチョコボールのキャラクターを主人公にしたアニメがありました。些細なこと、「雲がどこからくるのだろうか」、「雪がふらないかなあ」、「どうしてこの人はこんな話し方をするんだろう」というような話を15分弱にまとめて、一回に2話で放映しておりました。振り返ってみれば、ちろりん村やヤンボーニンボートンボー、など子供の日常の疑問を話にした番組はたくさんありました。産めよ増やせよではないですが、子供を生むことに社会が抵抗感を覚えなかった時代だったのでしょう。今日、少子化が進み、その分、子供を意識した番組つくりというものも疎かになっているような気がします。その一方で息の長い作品があるのは、世代を越え愛されるキャラクターの存在の大きさを教えてくれます。そうはいっても、いつまでもドラえもん、アンパンマン、サザエさん頼りではいささか寂しい気がします。
 今や児童番組は、早朝、日曜と限られたものになり、「ゴールデン」ではお目にかかれないのが実情であります。苦肉の策からか日本昔話が復活しましたが、あれも先行きが長くないと睨んでおります。おそらく、リリィフランキー氏のように才能ある作家がまだまだいると思うのです。テレビ東京さん、どうかひとつ主婦の友のようなニュース番組に辟易している小生のためにも良質なアニメを放映しておくれ。斬った張ったの格闘冒険漫画はフジに任せて。

未来予想図

2005-12-22 | 時事
コンピュータが発達して、テレビ電話が出来て、家にいながら世の中のことすべてがわかる。会社へ行かなくても家で仕事が出来る。会社に行くのは週に一度くらいになる。そんな未来予想図を描いたのはバブルの頃でありました。
 「会社には行かないけれど、自分で会社を作って、家にいて仕事をしています。年商は億単位ですかねえ、この前もちょっとした取引で7億近く儲けましたよ。あ、仕事ですが、大したことじゃないです。毎日コンピュータに向かってキーボードを叩いているだけですから」
 ―システムエンジニア?それともソフト開発ですか?
 「いえ、ネットで株売買しているだけです」
 笑い話かと思えば、引きこもりの特権か、それとも未来予想図通りか、現実に会社に行かずお金を稼ぐ人が出てきました。サラリーマンの生涯賃金に勝る金額を数分で稼ぎ出すことに眉を顰める論調で報道していますが、お忘れであろうかと、件の絵を描いて見せたのは、他ならぬマスコミのみなさんとシンクタンクとか呼ばれる方々であることを、満願成就して現れたのが「ほりえもん」ではなく、ネットで株を売買する若者でありました。官民一体となって、技術革新を叫び、コンピュータの普及と未来様相図を喧伝して、いかに便利な世の中になるかと説いて回ったのをどうしてくれようか。
 車が飛んだり、太古の生き物が蘇り、巨大ロボットが悪いやつらをやっつけるという未来図には、小生、幼い頃ときめいたものですが、件の会社に行かないという未来図には鼻白んだものです。眉に唾して「評論家」の皆様の話を聞いていました。しかしながら、このようにお金儲けを立派にして、彼らの言うが如く在宅勤務をしている人物が現れたことに、「よかったじゃないか」と声をかけてあげたくなりました。
 さて今度はどんな未来予想図を描いてくれるのか、経済評論家のみなさん、馘首して待っております。
 追記:福知山線事故の際に、救助活動に活躍なさった会社のお話が、今週発売の週刊文春、猪瀬直樹氏の記事に載っております。

火の用心

2005-12-21 | 歳時記
明日は冬至であります。行きつけの風呂屋は明日が定休日のため、一日早いゆず湯でありました。冬至の時のゆず湯は、少しく風呂が寂しく思えたものです。平素は入浴剤を入れる風呂が、色なしの水になり、水の中に切ったゆずを浮かべただけという簡素さが、幼心にはなんだか寂しく感じられました。ゆずで顔を洗うと肌がつるつるになると言われ、顔にゆずの切断面を押し付けては、いつまでも浴槽に浸かっていて怒られたものです。ゆずの種が散ると水抜きの際に手間がかかるからと、みかんを入れる網の中に押し込み、浮かべていましたが、いつの間にか弟とキャッチボールに興じる場もありました。
 広い銭湯いっぱいに漂うゆずの香は、季節の移ろいの早さを感じさせ、いよいよ年も押し迫ったという気になります。
 湯から上がって、夜道をどてらをはおって家路を急げば、彼方から夜回りの「拍子木の音」が聞こえます。二番煎じよろしく、大きな声を出すかと思えば、昨今の住宅事情からか、カチカチと大きく音を鳴らすだけであります。今この文章を書いている時間帯は、夜回りは町会のかつての青年団、すなわち老人会の皆様であります。これが夜の十時を過ぎた頃には、青年団の皆様に変わります。町内をぐるぐると回って、拍子木の音が大きくなったり、小さくなったり、冬の夜の透徹した冷気を打ち破るが如くカチ、カチという音があたりに響き渡ります。
 ゆず湯の温もり、夜回りの音が聞こえてくると、世間の喧騒が嘘のような冬の夜の静寂さが身に沁みます。
 当今流行のクリスマスのイルミネーションも、今宵はなぜか鬱陶しく感じられません。

滑って転んで、たぁかく舞って 転んで

2005-12-20 | 時事
 年齢で五輪出場が出来るできないが巷間で騒がれておりますが、あの手の話には辟易させられます。五輪が始まるたびに、わが国は遺伝子なのか、それとも才覚が無いのか、相変わらす新聞紙面は、往時の雰囲気になります。「燃えよ一億火の玉だ」「父よ貴方は強かった」、「欲しがりません勝つまでは」であります。
 一朝事あったら、あれだけ星条旗を振る国ですらも五輪に関しては冷淡であります。自国の選手が最終予選まで残れば報道するが、大概はスポーツ紙の片隅に結果のみを掲載するだけであります。もっとも、かの国はスポーツエンターテイメントが四季を通じて豊富にありますから、何も五輪に向かう必要は無いわけで、加うるに、健康さに対する精神衛生として「商業主義」が生かされており、有名選手をその期間わざわざ欠場させて、売り上げを下げるような莫迦な真似はしないという発想があります。あれだけ騒いだ野球すらも、大リーグ開催を異国で行い、バスケットに関しても、一度宣伝で用いたら、後は有名選手を営業に出せば事足れりとしました。サッカーにいたっては、ワールドカップさえも危うくなっております。
 談合、接待、癒着、利権の争奪戦。これらが政治、経済で行われると新聞は挙って正義を振りかざしますが、スポーツ団体と企業の癒着、談合にはほっかむりであります。長野五輪の赤字はどうなった、開催前、開催後新聞は何も書かず、言わずに行政に無駄金を使わせていました。
 スポーツ文化がいまひとつこの国で成熟しないのはどうやら、五輪の持つ健康さと関係あるように思えるのですが。 

引けば必ず見つからない

2005-12-19 | Weblog
最近、とみに人の名前が出てこなくなりました。俳優の名前なぞとりわけ顕著であります。このことは以前に書いたことがあるかもしません。まくらが同じなのはご愛嬌ということで御寛恕願えれば幸いです。
 さて、常日頃、電子辞書を持ち歩いているのが小生の習慣で、何かあったら引いてみるという具合に使っております。大概の電子辞書には広辞苑なり、百科事典が入っています。しかしながら、これぞ知りたいと思った時に、肝心の項目が出てこないのです。例えば、丹下左善を演じた俳優一覧とか、松方弘樹の父親とか、あくまでも小生の趣味の世界の話でありますが、これだけ機械化が進んで、携帯辞書に辞書編纂機能がついてないのはおかしいのではないかと思うのであります。別段知らなくても困らないことですが、近頃流行のトリビアではありませんが、自分の中でのトリビアを気軽に作れる辞書はないでしょうか。春の七草、秋の七草、六歌仙、三蹟、世界三大料理、三代珍味、三倒れ、河川三兄弟と。思いつくまま数字を使ったものを挙げてみましたが、このような具合にジャンルはばらばらでも共通項を自分で設定して記憶させる機能のついた電子辞書は出来ないものかと思った次第であります。
 子供の玩具で対決式の携帯ゲームがありました。端的にいえば「たまごっちの決闘ゲーム」のようなものです。自分のお気に入りの怪物を成長させて、相手のゲーム機に接続するか、電波を送信するかで対決させるというものでした。ならば、電子辞書も似たように個人編纂の辞書が互いにダウンロードが出来て交換できるようなものがあってもおかしくないと思うのですが。知恵蔵、現代用語の云々なら毎年出されていますが、情報の整理がつかずに単なる資源ごみと化しているように見えます。
 もっとも、世間様は小生が考えるよりも多忙でありましょうから、自分で辞書を編纂する奴はいねえよといわれるのが関の山ですが。そんなことを考える前にしっかり覚える努力するのが得策なのかもしれません。
 「小人閑居して不善を為す」の如く、閑に飽かして、つい無精をする方法を考えておりました。
 

おおつごもり

2005-12-18 | Weblog
これだけ寒くなってきますと、大晦(おおつごもり)という言葉がしみじみと心に感じられます。年の瀬も押し迫ってきました。雑誌、テレビの類は今年の十大ニュースを取り上げます。ブログも同様に自分の中の十大ニュースなど百花繚乱の如くタイトルが湧くことでありましょう。小生、自らブログの時事部門に限って拾ってみますと、脱線事故、反日デモ、選挙、戦後六十年(靖国)、地震、鉄道テロ、耐震偽造ぐらいしかありませんでした。事件、事故は極力扱わないようにしたつもりでありましたが、生来の才覚不足で、つい筆の勢いに任せてキーボードを叩きました。毎年、個人の日記には、新聞テレビを参考にして、今年の十大ニュースを記しておりますが、本ブログでは扱いません。
 事件、事故は去年もあったし、一昨年もあったし、十年前もありました。毎年、この季節になると大掃除の際にでた燃えないごみのように、「どうしてこんなものを」という態度で、それぞれの事件をかたづけて紐でくくって、はいおしまいという具合です。不燃ごみの貼り紙宜しく「世の中全体が悪い」云々と紋切り型の話で済ませてしまいます。一年の計は元旦にに倣って、「来年こそは」とおまけがつきます。
 世は日捲りカレンダーであります。捲っても捲ってもであります。たまさか目に留まった「先勝」「大安」、「友引」の文字の如く、事件、事故を取り上げます。そして大晦日を迎えると新たに日捲りを足していきます。事件、事故に対しての意見なぞは、これまた古人が述べております。それを現代訳に直して見せるだけであります。さらにそれをまた「有識者」から小学生にいたるまでが口真似をします。自分の頭で考えて、意見を述べよは無駄であると再三再四本欄で述べてきました。ゆえに一億揃って「ぱくぱく」です。今風に言えばパペットマペットの牛君、蛙君であります。
 福知山線の事故でなくなられた遺族方には辛い一年であり、年の瀬でありましょう。ならばその後、JRはどうなったかといえば、安全義務を怠らぬようとのお題目です。あの時、小生は「三十過ぎたら走らない」と述べました。世間一般が慌てぬようになればと、ゆとりがあればと述べましたが、一向にその気配は感じられません。電車に乗るたび、次の電車を、駆け込み乗車の声を聞きます。
 霊魂、祟り、呪いなぞは全く信じませんが、この時期になるとふと思います。生きている人が説いても聞かぬのなら、あの世から出てきて説教をたれとくれ。説教とは大仰なと言うならば、どれだけ無念であるか聞かせておくれ。なにせ人は他人に思いが及ばぬのが常なりと古人が言ってくれてるのだから。

西念よろしく のろのろと

2005-12-16 | Weblog
 本日は、全くの私事であります。ノロウィルスにやられました。深夜3時過ぎに、夢うつつのまま、嘔吐感が始まり、気がつくとトイレに駆け込んでいました。上か下かと迷った挙句、下を選択したところ、脂汗が引き、一段落つきました。蒲団に戻って30分もしないうちに第二波が襲ってきました。あとはトイレへの往復であります。下と上と選択をせまられ、下を選んでおりました。何回か済んだ後に、一口水を含んだところ、上が強制選択をせまり、冷たい陶器が人肌で温もりを持つくらいまでに。これはいかんなあと思いつつも、事態は収拾できずに意識が朦朧として、それでも部屋、床は汚すまいと決意しつつも、朝を待って回復を願ったのでありますが、願いもむなしく悪化の一途となり、体を引きずって近隣の病院へ行き、診断と薬を貰い「静養」となったのであります。しかしながら、このノロウィルス、「黄金餅」の西念よろしく、「水を飲んじゃ厠に」であります。(西念さん、水飲んで、病が治るかい。さあ、病が下りやしねえかと思って)
 テレビ、ラジオ一切つけずに、窓の外から聞こえてくる音で一日を過すのもいいものだと暢気に養生をしていました。寝ては起きての繰り返し、久しぶりに体の中の、頭の中の悪いところを出したような気がして、爽快感がありますが、胃の方は、まだまだで空腹感との戦いに苛まれております。
 寒い日が続きます、読者諸兄の皆様方もどうか御体を御自愛くださいませ。