笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

粉飾決算

2006-05-30 | 時事
ホリえもんの裁判がどうなるか皆目見当がつかないが、粉飾決算に、部下達が勝手にしたことならば、どこかで聞いた話である。ほりえもんは、拘置所に入り、株主に対して賠償金を払う破目になるのかもしれない。だが、かたやどうせ人の金だから、どう使おうとも関係ない、使ったもの勝つである。社会保険庁のこの度の不始末は、粉飾決算と同じではないのか。それとも支店ぐるみでやっておいて、都合が悪ければ、個人の判断、支店長の判断である。見事にトカゲの尻尾きりをやりおおせるかみものであるが、たぶんは上手くいき、そのまま民営化とやらに収まっていくのであろう。第一、金貸しが黒字に転じたと騒ぐ国民性であるからして、困ったものだと言っておしまいである。
 共謀罪の立案を目指す前に、この度の社会保険庁の役人とやら馘首して、退職金で、粉飾分の埋め合わせをさせたらどうであろうか。どうせ役人である、恩給、ボーナスの類はたくさん出るはずだ。更に元を辿れば、その給料とやらも皆血税から出ている。金貸しに公共性を求めて補填したなら、年金とやらにも補填をしたらどうか、蓋し、民間企業で粉飾とやらをやれば、マスコミに袋叩きに遭い、加えて命を落とす。命までとは言わないが、ご迷惑をおかけしましたとカメラの前でいけしゃーしゃーと述べている課長だか、局長だか知らないが、その連中、職員の給与で補填させればよい、補填を拒むなら懲役刑でも科して、モッコの一つでも担がせればよい。古くは佐渡の金山ではないが、ちょうどガス田とかで大騒ぎしているところがある。ガスでも掘らせて罪一等を問わないなんて粋な裁きはどうか。
 

マイフェアレディー

2006-05-29 | 世相
格差社会というが、貧富の格差よりも品性の格差が取り上げられないのはなぜかといえば、品性、徳というものがすでに滅んでしまったからである。今時品性と徳を見たければ、千代田のお城に参内するしか術がないのではと思う。毎度のことと思う読者諸兄は、読み飛ばされてけっこうである。近所の小学校で運動会が中止になったという。天候不順で順延になって平日に実施ということで、頭を悩ませたことが消えたと、ご近所さんが語ってくれた。
 頭を悩ませていたことを尋ねると、すべて学校の教師と父兄のやりとりである。教師はPTA活動に関して、なるべく手間をかけたくない、面倒は嫌だという消極的な姿勢で、協力が望めぬという。日曜日の開催だと休日出勤だから面倒くさいとぼやく。勢い、段取りから運営の一手を父兄が背負うことになる。ところが父兄のほうでも厄介で、ビデオ、カメラの撮影は見苦しいから、学校側で写真屋を雇って撮影するという告知をしても、それを無視してカメラの類を持ち込む輩がいる。学校付近は駐車禁止になっているので、車での来校はお断りの通知を出しても、車で来る。子供は毎日徒歩で通っているのにもかかわらず。路上駐車をして、挙句警察に違反切符を切られると学校側の不備に文句をつける。運動会の場所取りは見苦しいし、家庭にも事情があるだろうから、運営役員が席割り、場所指定を行うという通知を出しても、これまた無視して場所取りに勇んでくる。あろうことか朝の六時に塀を乗り越えての仕儀である。だから、場所取りを取り締まる係りを父兄から出さねばならぬ。まだまだ話は聞いたが、キーボードを叩いて腹が立つのでやめる。件のご近所さんは、平日開催は子供に可愛そうな所があるが、それでも「バカ親」が来る確立が減るので嬉しいと言っていた。しかしながら、よくよく聞けば、そういう「ばか親」こそ、平日でも会社を平気で休んでやってくるのだと。
 なりたての父親、母親に対して、子供が子供を生んだようなものだとはよく言う。その父親、母親も子供と過して、成長を見守るうちに親になる。大人の矜持を持つ、異性の目、年上の目だけでなく子供の目を意識をする。品性、徳の少々欠けたものでも、不器用ながらも身につけてくるものがかつての相場であった。だからこそ、親になって親の凄さを知り、同時になあんだと親の心を覗き安堵しもした。
 格差社会で、裕福な家庭は、私立へと流れるのも無理はないかと今日の話を聞いて悟ったが、どうしても腑に落ちぬ、小生の近隣には私立高校もある。いわゆる大学の付属といわれる高校である。校舎も瀟洒で、乗り込む車も立派である。だが近隣への迷惑は時に度を越すものがある。なれど流石に私立だけあって評判を気にするから、目は細かい。それにしてもである。金で買えるのは「頭」だけで品性と徳は金では買えぬことを「マイフェアレディー」で教えてくれたのに。

悪戯考

2006-05-27 | 世相
白い嘘と黒い嘘があるように、他愛の無い悪戯と酷い悪戯がある。山手線のホームの上で、談志師匠と蝮師匠が並んで立っていると、電車が轟音を立ててホームに滑り込んできた。その瞬間、蝮師匠は、談志師匠の背中を押した。談志師匠、まじになって怒る。蝮師匠、笑って「洒落だよ洒落」ときつい一言を。
 過日、友人と話していると、最近大人がいないという話になった。大人はもとより年寄りもいないと日頃口外して止まぬ身ゆえに、話に花が咲くということもなかったが、詰まる所、大人に余裕が無くなったということも起因しているのではないか。見渡せば、世間は説教を好む。細木何某、江原某、それに美輪明宏先生と修身道徳の類を、優しく、時に怖く説く。昔なら、江原さんが怖い説教をして、がつんとやり込め、細木さんが、優しい言葉で涙を誘うのであろうが、女性が強いと言われて幾星霜、今では父親役を細木さんが、母親役を江原さんがやっている。大人が余裕がない分、テレビが子供に対して親の代用をしたのは昔の話で、今では、大人に向って親の代用をしている。遊びが出来ないから、遊べと言ってくれる人を好むのか、余裕が無いのは百も承知だけれども耳を傾けるのか、知らない。
 余裕を遊び心と考えれば、悪戯もちょっとした余裕の表れである。聞いた話で、恐縮だが、道行く年寄りに、誰彼構わず挨拶をするという悪戯がある。相手を嘲弄する意味ではなく、年寄りに声をかければ、その人は、声をかけてきた相手を誰何する。相手が誰かを考えことで、ボケ防止になるという理屈である。実際に、そう上手く運ぶかどうかは知らない。小生も閑人ゆえに、たまに道行く年寄りに声をかけてみる、知らん顔する人もいれば、挨拶を返してくれる人もいる。その反応を見るだけでも楽しい。もう一つ、子連れの母親に声をかけるのもある。これはいささかタイミングが難しいが、さも易者風情のような顔をして、お宅のお子さんは末は立派な人物になる相が浮かんでるとか、幸に満ちた人生を送ると、歯の浮くような言葉をかける。その後で、どうかおかあさん、素直に育ててやっとくれ、間違いは無いはずだからと念を押す。なに人相も手相も要らない、ただただ立派になるといえばいいだけである。誉められて嫌な気を起こす人もあるまい。そうして誉めて子育て、躾がましになればと思うだけである。そんな子供が一人二人と増えていけば、少しはましな世の中になるのではと、今日も新たな悪戯を考えて、一日が終わってしまった。

権ちゃん

2006-05-26 | 映画 落語
敬愛する柳家権太楼師匠の落語論という本が出た。権太楼師匠、以下師匠で通します。は寄席に行かねば逢えない噺家である。池袋の演芸場で月に一回、練習会を開いておってが、最近は小生の不精が祟って、調べていないので今はどうなっているか知らない。が、月一回の稽古、発表会はよく足を運ばせてもらった。通常の出演では叶わない大ネタを師匠が披露し、その後に高座で一頻り出来を述べたり、芸談を語ったりしたのが小生にとっては大きな収穫であった。芝浜なら、三木助、可楽、志ん生、志ん朝、談志といろいろな人の話を聴いたり、見たりしたが、師匠の芝浜も、件の名人に劣らぬくらいものであった。とりわけ、女房とのやり取りに、ある意味での品のなさ、荒っぽさを取り入れたのは、もしかすると師匠の生い立ちによるものかもしれぬと感じたのだが、今回師匠の著作を読んで、得心した次第である。
 師匠の本の中で、小生が気を引いたのは「蹴られる」という言葉使いである。「蹴られる」とは客に受けない、相手にされないということである。「蹴られる」を説明する際に使った挿話が、枝雀師匠と志ん朝師匠の話である。二人がある女子大で落語を演じるために出かけたが、相手は名門の女子大で「落語の下世話な世界なぞ知らぬお嬢様」、おまけに古典の素養なり、古い文化なぞも見当つかないお育ちである。午前と午後の二部制であったが、午前の部が終了した時点で、枝雀師匠が逃げ出した。逃げ出したという表現は、失礼かもしれないが、要するに舞台を降りてしまったということである。うんともすんとも言わない客、自分が笑うなと思うところで反応しない客に嫌気がして大阪へ帰ってしまったと書いてあった。
 師匠は、この「蹴られる」という行為が、噺家を強くし、余裕を持たせるのだと述べている。今でも高座に上がって、客に蹴られることがあるという。でも師匠はそれを気にしない。蹴られる練習、話の練習と思えばなんともない。東京の噺家は寄席がまだ生き残っている限り、蹴られるのに慣れている。対して大阪の噺家は寄席がない分蹴られるのに慣れていないと。この辺りは小生、大阪の噺家さんの声も聴きたいと思うのだが、それはさておき「蹴られる」とは「バカの壁」に遭遇することではないかと。噺家と言う特殊な職業でないかぎり、蹴られることはないと多くの人は思うかもしれないが、実は生活を見渡せば、そこここで「蹴ったり」、「蹴られたり」しているのが常ではないか。大切なことは、自分がどこに、何を持っているかではないかと小生は感じた。
 師匠はその容貌から、与太郎話がかつては得意であったが、いつの間にか、といっても生意気を承知で言わせて貰えば、池袋演芸場で披露した噺の数々で、力をつけているのはわかったが、見事に時代を担う噺家になった。
 第一、距離のとり方が上手いんです。権太楼師匠は。ミーハーですが、師匠の直筆、小生の名前まで入ったCDに手ぬぐい、色紙、大事にしております。

狂言回し、猿回し

2006-05-23 | 世相
昨日からか、それとも昨日のみか知らないが、筑紫哲也の番組で、小泉劇場は、メディアが用意したものとして特集を組んでいた。民主党の岡田某や、自民党の議員が出てきて、メディアに論旨のすり替えをやられた。視聴率の良い、取れるフレーズを使うことで、いつの間にか、政党の公約、政策論ではなく「刺客」という言葉で片付けられてしまったという弁であった。
 筑紫何某がやるなら、所詮は終戦の「一億総懺悔」に他ならない。「メディアが当時どのように報じ、視聴者に何を伝えたのかを検証することで、私たちは、小泉劇場と呼ばれるもの、そしてメディアの置かれている状況を見直したい、これはマスコミと言う世界に身を置くものとして云々」である。往時の選挙演説映像を並べ、関係者に一言、二言コメントを貰い、報道の中立とやらで、与野党の代表を並べておしまいである。やっていることは、日曜日の朝の関口何某の番組と大差がない。よくみれば、ふたりとも白髪である、傍らの人間に横柄な口を聞いている。ニュースの合間に、合いの手のつもりか愚にもつかない言葉を吐く。時折怒ってみせる。年末になると、なぜかキャスター気取りでニュース総決算番組に出てくる。閑話休題して、小泉内閣、更にはその前の森内閣で決まったことを並べてみるといい。テレビでは五年後放送形式だか形態が変わると喧伝している。サマータイムが来るのも数年後である。陪審員制度とやらも、やってくる。高齢者の医療費負担増も来る。基礎控除とやらも来年あたりからなくなる。煙草が上がるのは、この8月だかである。
 メディアが小泉劇場を顧みて、全体なんとしようか。今度は民主に期待せよと、民主、民主と世論を引っ張り、英国だか米国だかの二大政党とやら、「先進国」並みの政治形態を持たせたい。持たせることが責務だと勘違いしているのだろうか。二大政党とは響きがいいが、黒白をつけることという発想に他ならないのではないか。ならば、二大政党設立の動きとは、階級闘争の証か、自民が金持ちで、民主が貧乏人の代表、その逆でも一向に構わないが、さすれば小泉劇場とは、見事にマスメディアをたぶらかし、階級格差社会の礎を作った大芝居となる。ところが困ったことに、多くの人は貧乏人と名指しされ、うんと頷く人間はいない。また「よっ、御大臣」とよいしょされ、胸を反る人もいない。いないから、自民、民主どちらも「金持ちの味方です、庶民の味方です」と標榜するしかない。マスコミは、その黒白をつけられない。同じ棒組だからである。二大政党といいながら、上から読んでも下から読んでもおなじものである。
 メディアが手を貸した劇場だからこそ、幕引きもメディアがというのは思い上がりである。思い上がっていないというのならば、年末のニュースのたな卸し番組の代わりに、今年は筑紫何某と関口何某をフレンドなんとかに、出しておくれ。

西洋棟割長屋

2006-05-21 | 世相
折からマンションブームと聞く。駅を降りれば、スーツ姿の若者がチラシを配り、モデルルーム公開中と声をかけてる。傍らに立て看板を持つものもいる。土地不足の東京ならではあろう。マンションを購入しても立地条件、所得階層、住民の動向まできちんと見るものはどのくらいいるのであろうか。
 知人がマンションを抜け出し、戸建てに住み替えた。聞けば、マンション自体が、スラム化してきたというのだ。まず管理費、運営費を払わぬ輩が出てきた。民事裁判に出て、支払い命令を出して貰ったが、支払わぬ当人は、頬かむりをして、知らぬ存ぜぬである。不動産や銀行はローンの支払いさえ滞らねば何も言わない。ならば我も我もとニ世帯、三世帯と管理費を払わぬ輩が増えた。一部は賃貸になっていたから、住民が変わった。気がつかないうちに外国人が越してきた。自国の流儀、文化意識をそのまま持ち込んでいるから、ごみはベランダから下へ捨てる。流しの排水溝、トイレ、風呂場と水は詰まらせる。階下の住民に迷惑をかけても修繕費等は出さない。やがて一人去り、二人去り、終には、当初からいた住民が消えてしまったのが、今年の春先だと知人は話してくれた。
 景観、眺望が見事でも、三年経てばわからない。いつの間にか近隣に高層マンションが建つかもしれぬ。高齢者だけのマンションになるかもしれぬ。俗にマンションの寿命は三十年と聞く。ローンを払い終わって、我が家になったかと安堵したとたん、自分の住処がスラムの一角になっていたことだってあろう。地面なら、土地を売ってなにがしかの金を手にいれられよう。マンションは空間を買うものだと、常々思っている。だから小生はいい年をして借家住まいである。彦六師匠になぞれば西洋風棟割長屋の住人である。
 よもやこの土地が、思っているのは当人だけで、他人の目はそうは見ない。気がつけば、売りや、売り地になっている。マンションが建っている。景観は5年経てば見事に変わっている。変わっていないのは、区指定、都指定の樹木だけである。近所を散歩がてら、モデルルームを冷やかしてきた。なるほど千三ツ屋だけあると感心して、今日も枕を高くして寝る。

教育テレビとタモリ倶楽部

2006-05-20 | 世相
教育テレビの番組変遷史というものがあれば、恐らく戦後の日本人の生活様式や文化、趣味の嗜好性を辿ることができるだろう。総合の趣味の園芸は講師を変え、新種の草木、流行を読みながら回を着実に重ねている。教育は「おかあさんといっしょ」である。語学教室は、いつの間にか種類も豊富になり、内容も軽めになっている。先日見かけたドイツ語講座では、ドイツ語でビートルズの曲を歌っていた。蓋し、英語だけが総合に進出して、相変わらずの「カムカムエブリバディ」である。趣味の時間を、充実させたものに、「なんとか工房」と題するものが日替わりの内容で9時過ぎから放映している。流行の骨盤体操やら、編み物やら「ワークショップ」なるものの項目とさして変わらない。ここでもパソコンだけは突出して、独立したものになっている。してみると、教育テレビも駅前とアビバには勝てぬかと。他に市民大学講座めいたものもある。講師は、大学教授ではなく作家であったり、芸能人であったり、生涯教育がここにもある。
 珍芸人としてタモリが、脚光を浴びたのは昭和50年代と記憶する。中州産業大学教授というコントやイグアナの物真似で、怪しき風貌で「インテリ」を沸かせた。早大のジャズ研にいた経歴から、日テレで音楽番組をやっていた。ジャズ、スタンダード、民謡をアレンジしたものを毎回ゲストを迎えて軽い談笑と歌で綴る良質の番組である。系譜を辿れば、「夢で逢いましょう」、「シャボン玉」になる。記憶が正しければ、井原さんが手を貸していたはずである。構成作家の高平氏は「いいとも」だったと思うが、その後、テレ朝で「タモリ倶楽部」が始まる。深夜枠とタモリというキャラクターが手伝って、お色気路線と空耳なる笑いが入った番組であるが、昨今ではお色気が息を潜めて、もっぱら趣味の世界、懐古趣味になっている。タモリ、鉄道倶楽部。工業地帯写真、ポン菓子、3分で出来るおつまみ、作業服ファッションショーと、ここ数ヶ月の番組内容をみると、タモリの齢に関連して構成したものばかりである。しかも、昔で言う「マニア」、今で言う「おたく」を対象としたもの。よく言えば趣味人を集わせている。
 教育テレビが陽の当たる趣味人の世界ならば、タモリ倶楽部は「陽の当たらない」趣味人の世界である。どちらも見ていて見聞が広がる、楽しさが伝わる、思わず笑みが浮かぶものである。
 退職後何をするか、趣味の一つでもという発想は、駅前を流行らせる事由だとわかる。教育とタモリ倶楽部を見ていると、常日頃から好奇心をもって眺める豊かさがなければダメであるということ、せめて「どっこいしょ」の一声で体が動く柔軟性がないとダメだとわかる。
 教育テレビとタモリ倶楽部のクロニクルなんて作ってくれないかと腰が重い小生は、毎度他人頼みをする。

プラモデル

2006-05-18 | 世相
 以前、文芸春秋社から出ていた『日本プラモデル興亡史』が、文庫本になっているので、一つ手にとってと読み出したところ、思い出すことが続々出てきた。その一つが、三共のピーナッツシリーズと呼ばれるもので、縮尺150分の1で、手のひらサイズの戦闘機の模型である。これなら、今の食玩の原型ともいえるだろう。もっとも食玩も多岐に渡っているから、限定すれば飛行機や戦車シリーズと言えばピンと来る人にはピンと来る。田宮や今井のように高価でなく、安価でいて精密に思える三共の模型は、随分と小さい頃に買って集めた。ところが、なかなか入手できない機種もあり、根気のない小生は中途で挫折、仕方がないので怪獣もの、テレビ映画の飛行機ものへと乗り換えた。
 田宮は、戦争もの、車を主軸にし、田宮ニュースを発刊し、よりリアルなジオラマを紹介し、模型の愛好家の裾野を広げただけでなく、その作成技術も開陳していたのを覚えている。彩色方法も、キットから外す前に、下塗りをすると重厚感がでるとか、迷彩塗装は、脱脂綿をあらかじめキットに貼り付けてから塗るとか、ハンダゴテ、それがない場合はドライバーを熱して、完成模型に当てると、被弾した後、破砕された工夫が出来ると。毎回テーマなりが設定されていた。加えて、二次大戦の様々な戦場を誌上で再現して見せた。
 本書は、田宮だけでなく、今井、マルサン、三和と各メーカーの略歴と、模型飛行機が、プラモデルに、そして今流行のガンプラ、ミニ四駆、と大正から平成の御世に至るまでの模型の歴史を俯瞰できるように書かれている。
 さて、よく読めばわかることだと思うが、あの円谷監督の作成した、戦時中の太平洋艦隊なぞの一連の戦時映画の模型は全体何を材料にしていたのだろうか。読めば、一部にセルロイドと出ている。そんなことを考えながら頁を繰っている今であるが、以前本欄に書いた記憶があるが、今日の流行のガンダムのプラモデルは、彩色済みに、接着剤要らず。危険防止か、それとも別の理由か知らないが、組み立てる根気、組み立てた後の出来の不出来の個性は、もはや望めぬものになってしまった。レンジでチン、ファーストフードと簡便さとスピードを求めて手先の不器用さが残ったのは、子供だけではなかろう。

だるまさんが転んだ

2006-05-17 | 世相
使う言葉、使わない言葉と書けば、日本語の話に聞こえるかも知れぬが、さにあらず。近所の子供が学校帰り、歩道橋の下で、「チョコレート、パイナップル、グリコ」をやっていた。じゃんけんぽんと元気よく手を出して、距離が出来た子は、大きな声で、手と同時に声を出す。「ぱー」、「グー」の声の後で、勝った、負けた。更に続けて勝った方が、「パーイーナーッツプール」と歩調に合わせて、階段を上って行く。
 達磨さんが転んだもよく聞こえてくる。中には、勢い余ってか、それとも新しいルールか、「よ」の一文字をつけて字余りにしている。関西では「ぼんさんが屁をこいた」というが、九州では「インド人のくろんぼ」と言うと聞いた。『あほバカ地図』ではないが、「だるまさん」の様々な言い方を集めたものがるのだろうか。小生の知るところで、幸田文の小説「みそっかす」がある。「みそっかす」も地方によって呼称が違う。小生の地方は「みそっかす」であった。他に「おまめ」と言うところがある。山形では「あぶらめ」と言うらしい。
 有名私立小学校では、父親が昔の遊びと称して、ベーゴマ、面子の類を子供の前でやって見せると聞いた。面子、ベーゴマのある世代からは、縁遠いものなっているのだろうと察するが、お節介はやめにしておく。面子にもルールがあって、相手の面子の下に自分の面子が入るのを、「さし」と呼ぶのもあれば「さば」と呼んだりする。小生は後者で呼んだ。更に、相手の面子の下を通り抜けたら、「抜けさば」と呼んで、もう一回できるルールであった。小生たちは、更に面子の裏のじゃんけんも使った。自分の面子が裏返されたら、その面子に描いてあるじゃんけんと、相手の裏のじゃんけんを比べて、勝ったらセーフ。もう一度自分の面子を表にして置く。相手は再び面子を振るうというルールである。
 昭和を知らない世代が今18である。面子をやらない、ベーゴマをやらない世代は立派に大人になり、子をなしているだろう。遊びに工夫が出来なければ、大人の目を盗むこともできやしまい。ひいてはお上を欺くなんて高等な技術も身につくはずがなかろう。
 共謀罪を適用する法律が、今日明日で決議されるとか、世は穏やかならぬ空気である。成立可決を望む方は、相変わらず国際社会を登場させ、「先進国では日本だけが云々」である。テロ対策、有事にと次に言葉を続ける。ならばオウムはどうしたと問いたい。地下鉄サリン事件で苦しんでいる人が既に鬼籍に入ったわけでもなかろう。あの時、テロとみなさずしてお茶を濁し、未だ首魁の裁判すら結審していない。共謀罪云々よりも、先に片付けることがあるだろうに。それに、共謀罪を成立させたところで、敵もさるもの、隠語でやり取りとされたらなんとする。隠語と言っても、専門用語でなくてもよい。「味噌っかす」に、「パイナップル」、「だるまさんが転んだ」、と。よもやそれらがある種の団体、人々で交わされるまがまがしい出来事を指す隠語になったからとて、歩道橋で遊ぶ子供をお縄にすることはできまいに。

日曜の朝

2006-05-14 | 世相
ここ数日、陽気がおかしい。寒くなったり暑くなったり、毎年この時期は寒暖の差が激しかったかと思い出してみるが、思い出せない。それとも年を取ったせいであるかと。そのせいかどうかわからないが、眠くて眠くて仕方がない日もあれば、なかなか寝付けない日もあり、一体どうなっておるのだ。
 日曜日のテレビは、先週一週間をまとめる番組が目白押しである。こんなこと、あんなことと並べて、識者と呼ばれるタレントを並べて、はいお終いの構造である。よくもまあこれだけ次から次へと並べてると感心させられる。その様は、魚屋の棚、花屋の店先である。しかしながらどれもどこかで聞いたことばかりで、何も代わり映えがしない。ニュースは鮮度だと気取って言うが、文字通り第一報を報じたらおしまいで、あとは掘り下げもしない。掘り下げているようで、社説、道徳の類を説いているだけである。TBSの夜のキャスターは、毎晩、「今日はこんなところです」と言って、挨拶する。テレ朝のキャスターは、まだまだ予断が許されないとか、このままにしておけないと勿体つけておいて、挨拶する。気がつけばNHKは、元の夜九時代に戻した。先週のニュース、先々週のニュース、更にその前のニュース、日曜日を遡って行けば、行き着くところはすべて同じである。
 俗にリセットという、再び新しくしてやり直すという意味であろうが、日曜日は、次の日に向けてリセットの日であるのか、とあらためて知った。リセットするなら、今までのデータ、業績、ごみを捨てなければならない。小生の住むところは、火曜と金曜が燃えるごみで、土曜日が不燃物である。近所のコンビニには、資源ゴミ回収箱がある。ニュースが、どんなごみであるかは知らない。日曜日の朝はごみの分別と、ごみ捨ての日かと、朝のテレビにスイッチを入れて思う次第である。