笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

「日本古来」の酢豆腐

2015-03-20 | 時事
「日本古来の」、「万葉のより」という枕詞が就いたら、眉に唾して聞くといい。日本は稲作だと言われて久しいが、田植えも今の姿でなく、昭和の30年頃まで、南方の米作のように、腰の上まで田に使って田植えをしていたなんて、今、どのくらいの人が知っているか怪しいものである。里山に代表されるような、千枚田のような風景は誰もが思い浮かべるかも知れない。その一つをとって日本古来の田植え風景というにはあまりにもものを知らなすぎはしまいか。「べにらぼうなかまる」の如く浅学非才を忘れて、小生は呟いてしまう。
 八紘一宇という言葉の出所も知らなければ、意味も恐らく後から調べて悦に浸っていたのではるまいか、巷間、揶揄されているように、「ヤンキー」の姿は、中学時代、「天上天下唯我独尊」と制服の裏地に大書して、肩で風を切っていた同級生を彷彿させる。今ある家族制もまた近代の産物であるし、ましてや夫婦のありかたも近代の産物である。それでも日本古来、伝統の枕詞を重ねれば、これまた不思議でいかなるものも権威を帯びてくる。
 日本には古来より「横断歩道」という言葉があります。横の繋がりを絶つことで、縦の繋がりを強め、親から子へ、子から孫へ、そして子々孫々、その道を歩むという意味であり、即ちその家にある伝統を絶やす事なく墨守するという意味であります。と書いて、気分は落語の竜田川を思い出した。
 ものを知らないということは、恥ずべき事であり、知っているからと言ってそれを誇示することも恥ずべき事である。古人は、これを青代通と呼んだ、噺の中では「酢豆腐」という演目にある。
  酢豆腐の面白い所は、食通ぶる若旦那に腐った豆腐を食べさせて「半可通」を嗤いものにするところである。周囲は腐った豆腐と知っている、若旦那一人だけが「知らない」ということになっている。今般の国会の姿は、全員若旦那になっているところが怖い。
 山本翁は「健康とは嫌なものだ」と書いた。自国の歴史を歪めて教える国がどこにあろう、国も人も自らを貶める事を厭う、だから健康が好きだ、健康とは嫌なものだという主旨である。先の戦さを讃えることがあっても悪くはない。なれど行き過ぎた賞賛は、健康に通じる。
健康が判らない、健康とは良いものだということを至上のものにしてしまう価値観を持った人間が増えた世の中は、違った意味で不健康である。
 そういえば、噺の枕に、昨今の健康ブームを揶揄して、「健康ならば死んでもいい」なんてのもありました。


明けて今日は、十二日

2015-03-12 | 世相
  どうだ、数字は取れたか。
 ええ、まあ、裏よりも取れましたよ。
 どれ、おいうちが今回はトップかよ。
 はい、これなら特別報奨金間違いなしですね。
 そんな簡単にはいかねえよ。
 でも、ここ最近、うちはどの時間帯もトップ取れていませんから、それにこの時間帯のニュース番組だし。
 おいおい、そう浮かれるなよ。
 やっぱり、いいとこに持って行きましたね。
 まあな、今回は上に頼んで、余計なノイズをカットしたしな。
 余計なノイズっていうのは。
 決まっているだろう、馬鹿。あれだよ、あれ。あれって言うと、お前も鈍いなあ、ジャーナリスト気取りでニュース読んでいるだけなの
  に、やたらと現場主義とか言って掻き回すあいつだよ。
 あー、メインキャスターの、
 おっと、そこから先は言うなよ。それに今回は、場所も少しずらしたからなあ、他局は、岩手、宮城だろう。うちは福島にして、しかも
  ゼロから出発というのをテーマに選んだからなあ。
 ああ、そうでしたね。
 お前もうちょっとましな返事しろよ。
 あのおばあちゃんの表情もよかったんだよ。なんか、もうすべてを受け入れて、そこからだって覚悟を感じさせる表情だったしなあ。
 おばあちゃん、そういえば、出てましたねえ。
 おいおい、お前、なんか気に障る事言うなあ。
 すみません、でも内容的には普段よりもよかったですよ。
 お前、その上から目線はどういう意味だよ。
 すみません、言葉を選ばなくて。
 そうだよ、ラストだって遠景にして、余韻を残すように編集したしなあ。
 遠景はいつものスポットでしたよ。
 おまえ、何言ってんだよ、ちょっと待て、いつものスポットってどういうことだ、聞くけど、この時間のトップって、枠だよなあ。
 いいえ、枠でうちが他局に勝てるわけないじゃないですかあ、時間、時刻でですよ。他局が3.11特集やっている時に、うちは、則ちゃんの「則天去私」、天気予報ですよ。彼女、彼氏でもできたのかなあ、最近妙に艶っぽくなってきましたよねえ。俺、モニターで見ていてドキドキしちゃいますよ。今回は全国のお天気の中で、特別に被災地も加えましたしね。

 4年経って変わった事はどれだけなのか、小生には判らない。偉そうに述べても、小生もまた自分の頭の上の蠅を追う毎日である。聞けば、畏きどころの大旦那さまは、あの日から節電を続けておられる。アイドルグループが毎月、被災地に通って歌を歌っている。売り上げの数%を被災地の復興費に寄付している企業もある。
 私事になるが、知人が被災地出身で、支援活動を続けているが、被災地から親を引き取り介護していた。環境の急激な変化の為か、それとも他の理由かしらないが、痴呆が始まり、介護生活がしんどくなり、支援活動もままならなくなった。震災から1年半後に母親が生まれ故郷とは別の土地でなくなった。そして去年、父親もまたおなじように亡くなった。天気と同じように、人生、毎日晴れの日が続く訳がない。誰しも、曇りや雨、時に嵐がやってくる。ゆえに、軽々に支援を続ける、日々の営為を大過なく続けることは容易でないと思う。思うが、忘却の二文字は着実に人々の心に忍び寄ってきている。時に、忘却も必要であろう。必要であろうが、意識せずに忘却の彼方に追いやってしまうことが恐ろしい。ロバートバーンズではないが、should old acquintance be forgot and old days of syne ? なのか。3.11を明ければ、大晦日のように、番組から震災の二文字が消えて行く。被災者にとっては、何度も繰り返されるのは堪えられないであろう。だから、小生は、冒頭、テレビ番組を揶揄する文をものしたが、テレビ局の番組編成、新聞社の記事の内容の配分に苦労があることも判る。判るが、声なき声なり、見えなくなりつつある姿に色を付けてくれる手立てはないものか。
 復興増税で集めた金が余って、義捐金が足りなくなっているとも仄聞した。明後日は宇都宮線と東海道線が乗り入れする。過日は東京環状線が開通した。一極集中は益々加速している。地震があったらどうするという問いは計画者の、我々の頭の中から消えている。
 
  2015年 三月十一日  本日 天気晴朗、夕刻より寒風。本日も平穏なり。午後より散髪に行く。
  2015年 三月十二日  本日 天気晴朗。 午前、ブログを書く。本日も平穏なり。