「日本古来の」、「万葉のより」という枕詞が就いたら、眉に唾して聞くといい。日本は稲作だと言われて久しいが、田植えも今の姿でなく、昭和の30年頃まで、南方の米作のように、腰の上まで田に使って田植えをしていたなんて、今、どのくらいの人が知っているか怪しいものである。里山に代表されるような、千枚田のような風景は誰もが思い浮かべるかも知れない。その一つをとって日本古来の田植え風景というにはあまりにもものを知らなすぎはしまいか。「べにらぼうなかまる」の如く浅学非才を忘れて、小生は呟いてしまう。
八紘一宇という言葉の出所も知らなければ、意味も恐らく後から調べて悦に浸っていたのではるまいか、巷間、揶揄されているように、「ヤンキー」の姿は、中学時代、「天上天下唯我独尊」と制服の裏地に大書して、肩で風を切っていた同級生を彷彿させる。今ある家族制もまた近代の産物であるし、ましてや夫婦のありかたも近代の産物である。それでも日本古来、伝統の枕詞を重ねれば、これまた不思議でいかなるものも権威を帯びてくる。
日本には古来より「横断歩道」という言葉があります。横の繋がりを絶つことで、縦の繋がりを強め、親から子へ、子から孫へ、そして子々孫々、その道を歩むという意味であり、即ちその家にある伝統を絶やす事なく墨守するという意味であります。と書いて、気分は落語の竜田川を思い出した。
ものを知らないということは、恥ずべき事であり、知っているからと言ってそれを誇示することも恥ずべき事である。古人は、これを青代通と呼んだ、噺の中では「酢豆腐」という演目にある。
酢豆腐の面白い所は、食通ぶる若旦那に腐った豆腐を食べさせて「半可通」を嗤いものにするところである。周囲は腐った豆腐と知っている、若旦那一人だけが「知らない」ということになっている。今般の国会の姿は、全員若旦那になっているところが怖い。
山本翁は「健康とは嫌なものだ」と書いた。自国の歴史を歪めて教える国がどこにあろう、国も人も自らを貶める事を厭う、だから健康が好きだ、健康とは嫌なものだという主旨である。先の戦さを讃えることがあっても悪くはない。なれど行き過ぎた賞賛は、健康に通じる。
健康が判らない、健康とは良いものだということを至上のものにしてしまう価値観を持った人間が増えた世の中は、違った意味で不健康である。
そういえば、噺の枕に、昨今の健康ブームを揶揄して、「健康ならば死んでもいい」なんてのもありました。
八紘一宇という言葉の出所も知らなければ、意味も恐らく後から調べて悦に浸っていたのではるまいか、巷間、揶揄されているように、「ヤンキー」の姿は、中学時代、「天上天下唯我独尊」と制服の裏地に大書して、肩で風を切っていた同級生を彷彿させる。今ある家族制もまた近代の産物であるし、ましてや夫婦のありかたも近代の産物である。それでも日本古来、伝統の枕詞を重ねれば、これまた不思議でいかなるものも権威を帯びてくる。
日本には古来より「横断歩道」という言葉があります。横の繋がりを絶つことで、縦の繋がりを強め、親から子へ、子から孫へ、そして子々孫々、その道を歩むという意味であり、即ちその家にある伝統を絶やす事なく墨守するという意味であります。と書いて、気分は落語の竜田川を思い出した。
ものを知らないということは、恥ずべき事であり、知っているからと言ってそれを誇示することも恥ずべき事である。古人は、これを青代通と呼んだ、噺の中では「酢豆腐」という演目にある。
酢豆腐の面白い所は、食通ぶる若旦那に腐った豆腐を食べさせて「半可通」を嗤いものにするところである。周囲は腐った豆腐と知っている、若旦那一人だけが「知らない」ということになっている。今般の国会の姿は、全員若旦那になっているところが怖い。
山本翁は「健康とは嫌なものだ」と書いた。自国の歴史を歪めて教える国がどこにあろう、国も人も自らを貶める事を厭う、だから健康が好きだ、健康とは嫌なものだという主旨である。先の戦さを讃えることがあっても悪くはない。なれど行き過ぎた賞賛は、健康に通じる。
健康が判らない、健康とは良いものだということを至上のものにしてしまう価値観を持った人間が増えた世の中は、違った意味で不健康である。
そういえば、噺の枕に、昨今の健康ブームを揶揄して、「健康ならば死んでもいい」なんてのもありました。