えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

最後の更新です

2023-11-16 | 日記
 夫が直腸がんのステージ4と知った時から4年目の今年2023年。

ことのほか暑かったこの夏に
夫は精一杯自分の人生を生ききって旅立って行きました。
76歳でした。

 20歳で冤罪に巻き込まれ、身に覚えのない強盗殺人事件の犯人とされ、仮釈放で故郷に戻った時は49歳になっていました。
そして、裁判のやり直しを求める活動に専心し、
44年目にやっと再審で無罪判決を勝ち取りました。
ずっと背負わされてきた「強盗殺人罪・無期懲役囚」という重荷から解放されて、「真の自由」を手にできた時はすでに64歳になっていました。

 その後、自分の体験から、
裁判で無罪判決が出ても、検察は「たまたま有罪立証が認められなかっただけ。あいつは今でも犯人だと思う」などと、
公然と口にし、冤罪を作った反省も無く平然としていられる司法のあり方を問いたい、と勝ち目がないといわれてきた国家賠償請求裁判に挑みました。

 この裁判も8年以上の歳月がかかりましたが、夫が最初から訴えて来た警察や検察の取り調べの違法性、検察の再審妨害などが認められた判決でした。
「そうだよ。そうなんだよ。ずっと俺が言い続けてきたことが、やっと認めてもらえたよ」と、嬉しそうに夫は判決を聞いた後に言っていました。
この時、夫は74歳になっていました。
すでに癌とのたたかいも始まっていて、本当に壮絶な歳月でした。

えん罪が明らかになっても、何も改まらない、反省もしない、謝罪もない。
この国の刑事司法の現実を変えるには
冤罪被害者が直接声を上げて
「再審のためのルールを作ること」を求め続けることだと先頭に立って活動してきました。

夫は、「俺が生きているうちに実現は無理かもしれないが、もうその方向で確かに動き出している。これは必ず実現する」と言っていました

 1998年、私が初めて夫と会ったときに、これほどの人生を歩む人とは全く想像がつきませんでした。
再審ですら全く実現するかどうかも期待できない状況でした。
それなのに、夫は優秀な弁護団の先生方、全国から応援してくださった日本国民救援会を中心とした支援者の皆様、また直接夫の人柄や熱意に共感、賛同して応援してくださった皆様に支えられ、
夫はその愛と信頼にこたえようと精一杯生き抜いてきたように思います。

 詩人、歌手として、本も出版、CDもつくりました。
 コンサートも何度も開かせていただきました。
 ドキュメンタリー映画の主人公にもなりました。
 還暦野球のメンバーにも入れていただきました。
 講演も、授業の講師も、短い挨拶でもその一回の出会いでファンを増やして来ました。

そして
病床にあっても最後の最後まで希望を持ち続け、諦めない姿を私に見せながら旅立って行きました。


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「のんびり野菜作りでもしながら過ごすのもいいな」と言ってくれたのはいつだったかな・・・。
病気さえなかったら、そんな時間もこの先とれたはずなのに、と思います。

野菜作り、
1年目は、あれもこれもと植えては枯らし、おばあちゃんが笑ってみていたっけ・・・。
2年目は、いろんな野菜に挑戦してたくさん収穫できた。二度は失敗しない人だって、あの時に思ったよ。
今年はあなたも私も、まったく時間が取れずほとんど手をかけられなくって、だめにしちゃった…。

 でも、先日、真面目に一緒にやって来なかった私が、一から始める気持ちで
あなたがやったように、玉ねぎを植えました。
気にしていたイチゴもちゃんと植え替えました。
さやえんどうも植えました。
これからも、できることはやって行こうと思っています。

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2006年から始めて、途中、何度も書き続けられなくなって休んだことの多かったこのブログですが、夫との二人三脚は夫がいない今、もうできなくなりました。(この2年間は、特に夫の闘病に触れざるを得ない日常で、私自身、そのことを綴ることは避けたく思い、完全に休みました。心中察していただけますなら幸いです)

本日をもってこのブログの更新を最後にします。
長い間本当にありがとうございました。
               
                        桜井 恵子 

 



かぐや姫のように・・・

2021-10-02 | 日記
 母が逝った。
95年の生涯だった。
まるでかぐや姫のように、中秋の名月と満月が重なった9月22日の未明に・・・。

 あの日、9月21日。私は午後4時頃入院中の母の洗濯物を取りに病棟に行った。コロナ対応で面会は許可されない。母は入院6日目だった。
「状態はどうですか?」と対応してくれた看護師に尋ねると「変わりないですね」との返事。
その時、私の横を「○○さんの写真を撮りに来ました」と、放射線科の技師さんが可動式の撮影機器を押しながら母の病室の方に入って行った。
少し気になりながら、看護師に尋ねることなく私は家路についた。
車のハンドルを握りながら、前方に大きな月が上って行くのが見えた。
「きれいだな・・・」と呟いた・・・。

 自宅について程なくして病院から電話が入った。
「先生から、お話があります。病院に来られますか?」と。
「6時半くらいには行けます」と言って私は不安を抱えながら病院へ向かった。何故なら、面会許可が下りない今の病院対応は、患者に異常があるときに連絡が来ることになっていたからだ。
病棟に着くと、主治医がすぐに母の病状を説明してくれた。脳梗塞で緊急入院した母だったが、梗塞の改善も見られないまま内科的な異常も見られ、CTやMRIを撮って調べたところ、内臓のあちこちにダメージがあり残念ながら命を救うことはできない、との説明だった。
 「そのような状態なら、家に連れて帰りたいのですが」と言うと主治医は、
「残念ですが、今日、個室に移しただけでも血圧が下がってしまったような状態なので、それは無理だと思います」と言う返事だった。

 5分間の面会が許され、たくさんのチューブに繋がれ、酸素マスクをしていた母は呼吸も苦しそうだったが、私の声かけに反応があり、分かってくれたように思えた。
「エレベーターホールで待機していていいですか?」の問いに、病棟課長さんが言った。「申し訳ないです。お気持ちはわかりますが、一旦ご自宅に戻って…」との返事。

 夕方見た月は、高度を上げた雲一つない夜空で煌々と輝いていた。私は、その月を見ながら母は「あのお月様と一緒に行ってしまうかもしれない・・・」そんな思いに駆られた。

 午前0時半。
携帯が鳴った。病院からだった。
「呼吸が浅くなりました。来られますか?」

 寝ていた夫に「後から来てもらうようになるかもしれない」と告げ私は病院に向かった。車中からやはり月を見上げた。不安いっぱいだったが、月に見守られている感覚になっていた。

 母の呼吸は止まっていた・・・。ドクターより死亡確認が告げられ、夫に連絡。
葬儀社への連絡と実家までの移送の依頼。
駆けつけてくれた夫も特別に面会が許され、私たちは葬儀社の迎えが来るまでの約1時間半、病室で永遠の眠りについた母の寝顔を見ながら時を過ごした。

 母は、入院前の表情とは違って本当に安らかな寝顔だった。声を掛けたら、すぐにも起きて笑ってくれそうなそんな穏やかな表情だった・・・。

 実家に帰りついたのが、明け方の4時半。
満月は、西の空のかなり低い位置にあった。
「やっぱり、あのお月様に導かれるように逝ったんだね。
 良かったね。今までの苦痛から解放されてもう自由に何でもできるんだよ。
 みんなが向こうで待っていてくれるよ。
 おかあちゃん、かぐや姫のようだったね。きれいだったよ・・・」





厳しかった寒さを越えて

2021-03-05 | 日記


きれいに咲いてくれました♫

余命1年の宣告を「元気に越えて」

2021-02-26 | 日記
 昨日は夫の受診日。
特に病院の治療を受けているわけではないが、定期的に経過を見ていただいている。
 直腸がんの肝臓転移(ステージⅣ)と医師から私が告げられたのは一昨年の秋のことだった。
(本人は6月に大量の下血があったことを、誰にも言わず自分だけで抱えていたことを後に話してくれたが、「何でもっと早く言ってくれなかったのか!?」、それにしてもなぜ私も気づかなかったのか・・・と自分を責めることに・・・。)

あまりの暑さの日々。
遠出をする予定もいっぱい入っていて忙しそうにしている夫に
「今年こそ、検診に行ってね」と言ったのは7月中旬ごろだった。
その時に、あっさりと抵抗なく
「そうだな。行って来るよ」の返事をもらって、いつもと違う反応に「気になるところでもあるのかな?」とふっと不安がよぎったのが、本当に始まりだった・・・。

 そしてはっきりと「余命1年の宣告」を受けたのが昨年の2月26日。
ちょうど1年前のことだ。これは、こちらから主治医に質問をして聞いたのだった。
主治医は、もう手術ができる状態ではないと言い、化学療法(抗がん剤)を薦めると言った。
「化学療法の目的は何ですか?」と私。
主治医「延命です」
「それをやってどれくらい・・・」
「2年です」
「やらなかったら?」
「1年です」
    ・・・・・
こんな時、患者や家族はショックでその先の言葉は出て来なくなるのだろうが、夫も私も、「よし!それなら迷わず代替療法でやってみる」と決心できたような気がしていた。・・・・

この1年、病院の治療は受けず、食事療法や温熱療法などの代替療法を夫は選び、徹底してそれを実践してきた。その効果を明らかに感じながらの、今回の受診。(私も行った方がいいかなと思って夫に言ったら、「何であんたがついて来るの?」と言われて、自宅で待機・・・。
 
 そして、その結果は 〇 (おぉ~きな、マル♬)

(血液検査の結果から、そう言えるね、とふたり・・・)

 主治医は、もちろんそんなに安易な判断はしてくれない。先生がみている腫瘍マーカーの数値は検査回数を重ねるたびに確実に増えているのだ。それも、今回は上限値の380倍だから当然のことなのだと思う。
それでも・・・私たちは他の検査項目に全く異常値がなく、これは逆に検査回数を重ねるたび改善されて、それが今回完璧に腫瘍マーカー以外全項目がクリアされているのだから、「断然いいじゃない!」と私たち・・・(o^―^o)ニコ)
この矛盾を夫が主治医にたずねたら、
「なぜなんでしょう?」と返答してきたという。
この会話を楽しんではいけないが、先ずは数値より目の前の夫の姿を見てください、と私は言いたくなる。
この主治医の慎重さやことばに、私はこの1年、本当に影響を受けて来た。
夫は治らないと主治医は診断して、緩和ケア病棟の申し込みを勧め、夫も応じて来た。だけど元気いっぱいの夫の状態をみていると「いったんキャンセルしたほうがいいですか」となる。でも、主治医は、
「いや、このままで…」の返事。
そんなに悪いの?・・・とまた、私は目の前にいる元気な夫を見てて落ち込み、
「食欲あるのは、癌が欲しているの?」
「悪くなる時は一気に来るって言うけど、それってすぐ目の前のことなの?」
「元気な夫に、もっと静かにしてて。あまり外出しないでって言った方がいいの?」
「食事療法って、本当にこのままでいいのかな?」と頭の中は自問自答の連続だった。

 そんなこんなで不安いっぱいだった1年間。でも、全く違う心境で今日を迎えてる。間違いなく、夫は「良くなっている」
これは夫の確信でもある。
メタトロンの先生も1週間前に
「肝臓は全く問題ない。直腸も、炎症がきれいに消えている」と診断されたというのだから回復が間違いないことを、自覚からも言えるらしいのだ。

 昨年の余命宣告は、本人にとってはもちろん、私にとっても精神的に本当にキツかった。でも、同時にそれは目標にもなった。先ずは、そこを越えれば・・・と。
だから、また新しく2年目への挑戦が始まったのだ。
それも、昨年のようなしんどさからのスタートではなく、気持ちは軽い。

 癌は完治できれば一番いい。でも、癌があっても「悪さ」しないように根気よく付き合って、そのうち居心地が悪くなって癌の方から立ち去ってくれればそれが一番理想なのだろう。
あせらず「癌のエサになるものを与えず」「癌の好む環境を体内に作らない」とこの1年努力してきたことをまた続けて行けばいいこと。
夫にも、そういう意味で頑張ってもらおう。

 病院に勤めていたことから、病気の治療には「お医者様の言う通り」にするのが一番と思っていた。でも、今更ながらにそうでない選択もあったことを、もっと早くに知っておきたかった・・・。弟の時、父の時に・・・。
 そんな後悔もしながら、夫の病気には違う目で癌と付き合うことを学んでいる・・・。


21回目の結婚記念日

2020-07-05 | 日記
 フェイスブックの「過去の思い出」で、昨日が結婚記念日だったと知りました(^_^;)

昨日の朝食の時、そのことに気付き「あっ!」と思い出した私に、
夫は平然と「俺はちゃんと知っていたよ」と…。

二人で指を折って確認。
「21回目の記念日だね」と・・・。

でも、今年は何だか余裕なしの自分に気付き、ハンセイ・・・。

21年前のこと、
21年間のこと、
そして夫の病が明らかになってのこの1年間のこと、
思い返してみました・・・。

不思議と、「大変だった時期」のことも穏やかな気持ちでふりかえることができています。

今日は22年目の初日。
夫が「元気」でいてくれることに感謝!・・・です。

「要支援2」

2020-06-27 | 日記
 母の介護保険申請で「要支援2」と決定した。
父が88歳で他界してからまもなく8年。
母は、実家の跡取り娘でそれもあって「家を守らなければ」の強い思いがあった。
だから、私や東京の兄のところへ行くことよりも、生まれ育った家で最期を迎えたいという強い気持ちが母の健康を維持してきたように思う。

 現在、94歳。
ずっと一人で頑張って来てくれた。
でも、今年に入り体調を崩し、なかなか改善せず、気弱にもなって「介護申請しようか?」の問いかけに「そうだな。そうしてくれや」と言うことになったのだ。
 今月は、保健師さんの訪問があり、ケアマネージャーさん、福祉用品のレンタルの件で担当の方、ベッドの配送やさん、ヘルパーさんとの打ち合わせと慌ただしい日々が続いた。

 7月から、母にとっても、私にとっても新しい生活が始まります・・・。
家族以外の人と触れ合う中で、少しでも「外への関心」が向いてくれることを期待しているのですが・・・。



母の気持ち…

2020-06-16 | 日記
 息子の誕生日。
その日、母に
「幾つになったんだ?」と聞かれ、
「う〜ン。最近子どもの歳もすぐに計算できなくなってね」と私。
昭和、平成、令和と来てとにかく計算できなくなった。自分の歳も分からないくらいだからどうしようもない(^_^;)
(西暦でやれば良い。昭和○○に25を足して、それから計算すればいいんだ、とは夫の助言。確かに、と思うんだけど…。)

「○○君(私の弟)の歳を超えちゃったね、あの子も」と私。

「そうだなぁ…」

会話はそこで終わった。

 弟は、次男坊。
お母ちゃん子だった。ずっと家を離れて働いていたが、家を継ぐため実家に戻り、これからという時にガンを発病。そして、2年で逝ってしまった。

 あの時の母の悲しみの深さを私は知らない…。
今、自分の息子があのときの弟の歳を超えたことを認識し、改めて母の気持ちを考えている…。

「二人でいること」

2020-06-01 | 日記
  新型コロナウィルス感染拡大防止のための、緊急事態宣言が出され、外出自粛が言われ、まるまる2ヶ月家にいた夫が久しぶりに遠出している。

クーの様子がおかしいと思ったのは、初日の夜。いつもと違った大きな鳴き声で、家の中をあちこち歩き回っていた。
翌朝、いつも私の足の上で眠っているはずのクーがいないと思ったら、夫のベッドで寝ていた。少し、ひんやりした朝だったのに…。
リビングに降りても、何か落ち着かない。
 そうか・・・。
夫を探しているんだと気づいた

この家に「二人いる」っていうのが、クーにとってこの2ヶ月間で普通になってきていたんだ、と思った。。
 
 私にとっても…
こんなに長くずっと一緒にいたのは、結婚してから初めての体験だった。
(最初の10年は、お互い別々に住んでいたし、再審が終わった後約9年間ずっと、月の半分、夫は遠征?していたから(笑)

私も「二人いる」生活に、4月よりも、5月の方がもっと慣れてきていました。
その前に、夫の病気のことがあって、食事作りがあったから、実際には今までになく密度の濃い時間が私たちには流れていて、それはそれで結構緊張の続いた半年だったように思う。
不器用で気の利かない私と、否応なく死と向き合わざるを得ない緊張の中で過ごす夫と、気持ちの擦れ合いみたいなものをお互いに感じながらの時間だった。
でも、それがこの「2か月」は、お互いにスケジュールがほとんど白紙状態になり、普段よりゆとりを持って互いの姿を見せあえたとても良い時間だったように思えるのだ。
やはり病気の夫が目の前にいてくれた方が私は安心する。
「見えない」ことがどんなに不安を増幅するか・・・。
傍にいてくれ、欲を言えば「同じこと」が一緒にできたらいいんだけれど、とにかくお互いの趣向が違うのがネックかな…

母の「終活」

2020-06-01 | 日記
 母と夕食を一緒にし、帰るとき、
「玄関、外から閉めるね。玄関にわざわざ降りなくてもいいようにね」と言って帰ってきた。

「もし、私に何かあったとき、外から○○(兄)も、お前も入れなかったら困るなあって思ってたんだ。お前らが、持っててくれるなら安心だ」と言うことで、
先週、母の了解を得て、兄と私がそれぞれに実家の鍵を持つことにしたのだった。

「遺言」も母の体調の悪化がもとで思いがけずに聞く流れになり、私は動揺もしたが、母は母なりに終活を一通り終えた気分で、心も軽くなって元気になってきたのかな…。

夫は、「一旦死を覚悟したことで、逆に安心したのかも知れないね」と言った。

母の姿が見えない!ことへの不安・・・

2020-06-01 | 日記
 母のところに行った。
いつも、居間で横になってテレビを見ているはずの母がいない。電気も消えている。外は気温が28度もあるというのに廊下もカーテンがしまったまま。寝室も暗く、でも、姿がない。
台所にはいつも作りおきの煮物や、残った味噌汁の鍋があるのに、それらもきれいに洗われていて…。
玄関には杖もおいたまま…。
えっ?
何?どこに行ったの?
 先週まで、それも3ヶ月間も具合が悪かった母だ。急に胸がドキドキしてきた。庭に出て、家の回りを見回したら、
おばあちゃん?
痩せてほんとに小さくなってしまった母が背中を丸めて、草取りをしていた

「あれ?なんだ?(検査結果が出て)病気の名前が分かって来てくれたの?」と母。

「違うよ。顔を見に来たの。どうしたかな?って思って…。」

母は、いつもの穏やかな笑顔を見せてくれた。
私は安堵感で気が抜けた。
あの不安感は何だったのかと、一人苦笑した。
(それだけ、私にとってはこの数ヵ月の母の姿を見てきて、このまま弱っていってしまうのかなって思う気持ちがマックスになっていたのだった)

「大丈夫なの?私もやるわ。」

それから二人で庭の草取りをした…。
日陰に吹いてくる風は、カラッとしていて気持ちよかった。