カトリック情報

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神社参拝に関する変遷変更妥協 ←公会議なんぞ知らんでも立派にやり遂げなすったから、今更土着化しようなんて心配せんでええ。

2020-08-16 | 教会
 「神社参拝」受諾へのみちのり    ――1932年上智大学靖国神社事件――  ナカイ, K. W.(Kate Wildman Nakai 上智大学)      訳:冨澤宣太郎(東京大学大学院)

1932(昭和7)年5月5日 カトリック信徒であった3人の学生が参拝への参加を見送った。翌日、この一件について将校から問い質されると、上智大学学長へルマン・ホフマン(Hermann Hoffmann 1864-1937)は、確かに教会は信徒に神社への参拝を禁じており、そこには靖国神社、伊勢神宮、 明治神宮も含まれることを認めた。

神社に対して距離を置くのと並行して、日本政府は世俗国家を目指す方向に舵を切り、こ れは1889(明治22)年の大日本帝国憲法公布へ結実する。憲法編纂の最終責任者であった伊藤博文(1841-1909)は、国教を採用すべきであるという、ルドルフ・フォン・グナイスト(Rudolf von Gneist 1816-1895)ら外国人顧問の提案――グナイストは国教として仏教を想定 していた――を容れなかった

神社・宗教問題に関する議論は、1930(昭和5)年から1933(昭和8)年にかけて、時に白熱しつつも噛み合わないまま延々と続き、結果として、神社政策に関わる人々や、調査会委員の意見がいかに多様であり、また異なっているかを示すものとなった19。

教会指導部は、当初は、神社を単体の問題としては特に認識せず、カトリック信徒にとって迷信として禁じられた日本の伝統的な宗教行為の一部分としてのみ捉えていた。代理区や後には司教区がそれぞれ発行した初期の教理問答書の中には、第一戒律によって禁じられた罪として、「偽神、仏陀抔を信じ其の偶像等を拝み、札、守、禳、卜などを 用 」ことがあげられている。寺社建立への寄付も禁じられた。これらの行為は、1896(明治29)年に日本全国で統一的に用いるものとして採用された教理問答書では「妄信」とされ、同時期の祈祷文では、「糺明の箇条」において更に仏壇神棚の設置も「妄信」に含めている21。

19世紀後半の教会指導部は、日本の習合的な宗教実践の中で、神社よりも仏教と関連した 習慣――特に、親族や知人の葬式への参加に対する周囲からの期待――を、より大きな問題 と見做していたようである。同時に、日本の教会指導者は、もはや明確には宗教的性格を持たない土着の儀礼を、慎重にではあるが、受け入れる用意のあることも表明していた。

ところが、1911(明治44)年以降、内務省と文部省が神社参拝の奨励を強めるに従い、『声』 には神社参拝のもたらす種々の問題や危険性に関する記事が次々に掲載されるようになっ た25。

1917(大正6)年の函館の事件の経緯からも分かるように、教会は神社祭祀への参加を求める圧力に対して、公式声明においても、より強硬な姿勢を取る方向に向かっていった

同様の強硬な姿勢は、1917(大正6)年に出版された、ベルギー人宣教師エミール・ラゲ (Émile Raguet 1854-1929)の手になる教理問答の解説書にも明らかである。ここでは注を付して、神社参拝に内在する問題を指摘している。

或人は神社参拝は宗教的事でないと言張れど、参拝と云ふ字ばかりを見ても、宗教的業である事解る筈。又神社は神道と云ふ宗教の機関たる事は、恰も寺は仏教の機関、御堂 はキリスト教の機関たることゝ同様である。而して神社に行はれる式は、仮令行政官を以て行はれても、尚神職は神道の礼儀に則り、 重に祓、祝詞、開扉、神饌等を行へば、社会的交際法に甚だ遠ざかつて、宗教的性質を帯びるに相違ない。〔中略〕又招魂祭等が、唯国家の為に尽力した人を社会的に崇敬するに止るものならば、愛国心の為に之に与る事は差支ない筈なるも、現に行はれる所では一種の宗教と成るから之に与る事、又神社参拝等は迷信の罪に成るのである。35

陸軍が上智大学の対応を不満とし、事態がさらに深刻なものとなった以上、より踏み込んだ改善策が必要なことは明らかだった。日本のカトリック指導部の数人は、神社参拝を巡る衝突が日本におけるカトリック教会の存在を危険にさらしていることを認識し、神社参拝に対する方針の変更に動いた。この動きは複数の方面から見られた。その一つは、中国地方 を管轄する広島使徒座代理のヨハネス・ロス司教(Johannes Ross 1875-1969)によるもので あった。イエズス会員であったロスは、6月に文部省が、陸軍の配属将校引き揚げ要求を初 めて上智に伝えた時、たまたま東京に滞在していた。すでに以前より参拝が信者や教会にとって問題となっていることを懸念していたロスは、社会の要請やその他の切迫した状況下で非カトリックの宗教儀礼に参加し得るかを規定した教会法の条項に、解決策が見出せる のではないかと主張した。すなわち、教会法第1258条を引き、「受動的参列」の考え方を神社参拝に適用することを提案したのである。この条項によれば、深刻な理由がある場合には、 信者の関与が純粋に受動的である限り、冒涜あるいは迷信として禁じられた行為も許容さ れることになる49。

また別のアプローチとして、1890(明治23)年の司教会議で示された、土着の慣習に対する柔軟な姿勢、特に、もとは迷信的な慣習も環境の変化によってその迷信性を失いうるという見解に沿うことで解決を図る意見もあった。このアプローチの中心人物は、豊富な人脈を持つ海軍少将山本信次郎(1877-1942)であった。

1932(昭和7)年秋、東京のカトリック指導部と文部省は、この参拝とは「教育ノ 一手段」であるという発想に拠ることで、神社で行われる行為は「純粋に世俗的で政治的な」 ものであることを公的に示し、教会が神社参拝を受け容れられるようにする妥協案を捻出 しようとしたのである。

敬礼の意味に対する公的な見解を入手したシャンボンは、次いで10月初めに、この内容を 東京大司教区の司祭に伝達した。この中でシャンボンは次のように記している。参拝は「複合的な問題」(une chose mixte)、すなわち問題性を含む面と許容できる面の両方を含んだものであるが、「深刻な理由がある場合には、受動的参列や敬礼は許容し得る」。それ故、司祭は学校生徒やその親に対して、「(非カトリックの)宗教儀礼への参加は慎むべきだが、生徒が集団で神社へ率いて行かれた時には敬礼をする」ように指導するよう60。シャンボンは更 に、10月18日、文部省に宛てて、カトリック信徒の学生は今後神社参拝に参加すると約束す る文書を送付した。

シャンボンや駐日法王庁使節が1932(昭和7)年の9月から10月にかけて採った姿勢は、カトリック教会の神社祭祀に対する立場の大きな転換点となった。最終的には、1936(昭和11) 年にローマ法王庁が、宣教活動を監督する布教聖省の訓示を通じてこの見解を承認し、神社祭祀は「純粋に世俗的な意味のみ」を持つ、と公式に認めることになる61。

1933(昭和8)年2月に至り、上智と暁星は「愛国心ト忠誠」の表現を特定の範囲内に封じ込めようという暗黙の試みを打ち捨て、さらに踏み込んだ。大司教シャンボンの許可を得て、日本のカトリック信徒の生活における神社参拝の重要性をより広範に認める共同文書を文部省に提出したのである。

その翌月の1933(昭和8)年1月、教会のさまざまな情報発信に携わっていた田口芳五郎 (1902-1978、1973[昭和48]年に日本人として2人目の枢機卿に任命される)は、『カトリッ ク的国家観』と題する冊子を発表し、カトリック教会の立場の変化に対する理論的説明を示 した。この論考の大部分は、聖書からの大量の引用によって、教会が政権に対する忠誠と愛国心の育成に貢献し、正義の戦争を支持することを示す叙述に費やされている。ところが、 最後に神社参拝に関する短い章が付されていた。その中で田口は、まず政府が、神社が宗教 でないという主張を正当化するために、神社の「内容」の問題を議論せず、制度上の管轄の形式的分離に専ら依存していることを批判した。しかし、続けて、神社が世俗的な愛国心と宗教的要素の両方を含み、「此の二分子は、密接なる関係を有するも、或程度まで此の二者は独立的存在を保持し得る」と提案する。そしてその実施方法の手掛かりとして、教会法第 1258条、シャンボンの鳩山文部大臣宛て書簡、それに対する文部省の返答を引用した71。

教会の方針の変化がこのような形で一般信徒へ通達されたにもかかわらず、公教要理ではその後も数年の間、神社参拝が禁止され続けた。しかし、神社祭祀は「純粋に世俗的意味」 を持つものと承認する1936(昭和11)年の布教聖省の訓令の布告を受け、1937(昭和12)年 にこの制限は消えた。改訂された教理問答書は、「迷信」の例として御神籤、偶像崇拝、自然崇拝を挙げているが、神社と守札に対する個別的な言及は全て取り除かれている72。

戦後の研究者は、1932年の文部省回答を、神社参拝を強制しようとした政府の試みの証拠としてよく引用してきた79。確かに政府官僚は、神社に対して崇敬の念を示さないことが問題となるような環境を醸成する上で主要な役割を果し、そして上に引いた岡田包義の叙述 が示すように、上智大学靖国神社事件の結末は、神社参拝は「臣民の義務」に含まれるという彼らの見解を助長した80。けれども、その展開の中で、1932(昭和7)年になされた神社参拝の内容と意味の定義の案出がどのような役割を果たしたかを理解するためには、これが単に上からの一方通行によって押し付けられただけのものではなかったことを念頭に置く 必要があろう。それは相当程度、文部省と東京のカトリック教会代表者による合作であった。 両者の間の協力はどちらの側からも積極的なものではなかったかもしれないが、最終的には、陸軍からそれぞれの利益を守るという共通の必要性が、両者の共闘を促したのであった。

http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_jat&data_id=77848


ラッチンガーは公会議後の勝手な受肉を仕込んだ一味 中央集権的な反近代主義を解体し、世に福音を受肉させる偽ユートピアのためにはラテン語のタガをはずす必要があることを知らなかったキュングは小物と知れる。

2020-08-14 | 教会

「長かった19世紀」は、間にレオ13世(在位年1878〜1903)のやや開放的な時期もあったが、グレゴリウス16世(在位年1831〜1846)の治世に始まる、近代主義に包囲された教会のカルチャーから理解されなければならない。イヴ・コンガール(生没年1904〜1995)が日記で記しているように、冷戦時代においてこのカルチャーのゆえに、教皇庁は、イタリア国内での共産主義政府樹立によるバチカン包囲への恐怖感によって、世俗世界への対立姿勢を強めていた。だから「長かった19世紀」は、20世紀が後半に入りまもなくの第2バチカン公会議開催直前まで続いたと言える。その姿勢は、数々の近代主義的傾向の排斥に見られるものである。

著者は、教会典礼用語としてのラテン語がすべてを統括する普遍主義を象徴していたことを指摘する。ハンス・キュング(生年1928)は自叙伝の中で、公会議の最初の文書がもっと重要であるはずのテーマでなく、典礼についての憲章であったことに対して滑稽感ともに幻滅感をもったと回想しているが、著者は『典礼憲章』の採択は、公会議において重要な、象徴的出来事として受け止めている。それは、以後、公会議で「起こったこと」、特に19世紀に高揚した教会の中央集権的メンタリティとの決別を象徴しているからである。

ヨハネ23世の「アジョルナメント」は、「現代世界を恐れるな」ということであった。当時もっぱら進歩的若き神学者として評価が高かったラッツィンガー(生年1927。教皇ベネディクト16世としての在位年2005〜2013)は、『第二バチカン公会議をふり返って』(原著1966年、再版2009年)という小著の結論として、「教会は喜ばしい時にも、悲しむべき状況でも、心の単純な人々の信仰に生きている。……彼らこそが新約の希望の灯火を後世に伝えるのである」と述べている。しかし「単純な人々の信仰」には、たしかに信徒のローマと教皇に対する強い愛着がつきものであるが、ローマ中枢の聖職者主義的カルチャーとは無縁であったのではなかろうか。オマリーの説明をたどれば、公会議の結末をなす重要な文書『現代世界憲章』は『典礼憲章』から出発したうねりの帰着、大団円であったのである。

『現代世界憲章』は、もっとも激しい議論を経て出来上がった文書であった。ルター派の義認論的人間観を意識したドイツ司教団は、フランス語圏の顧問が作成した原案に賛成しなかった。おそらくその背後には、よく言われるようにアウグスティヌスから出発するラッツィンガーの考え方があったのかもしれない。彼は公会議閉幕の典礼が「バロック的」雰囲気を醸し出したとコメントし、以下のように述べている。「しかし、公会議後の仕事はもっと深いところに及ぶ。ローマで起こったことは与えられた使命の公文書化にすぎない。その遂行が今や始まるのである」。つまり、それらの文書が現実に教会の制度に受肉されていくかどうかが問題なのだということであろう。

近代世界は、技術の次元にとどまるものではない。重要なのはそこに生きる人々である。著者によると、第2バチカン公会議は、外面的様相においても内面的姿勢においても、第1バチカン公会議とはまったく異なる教会の姿を夢想する一種のユートピアを掲げた。第2バチカン公会議で起こったのは、長すぎた「19世紀」の影と決別し、近代世界に対して識別の眼差しをもって積極的に関わらなければならないと考えた多数の司教たちの考え方が優位に立ったということである。しかし『教会憲章』で打ち出された司教の「共同性=コレジアリタス」の原理は、世界代表司教会議(シノドス)の制度化へと矮小化され、結果的にはそれを超えることなくとどまり、一極集中型の制度自体を本質的に変えるためにはさほどの影響を与えなかった。

オマリーの冷徹な歴史眼は、この公会議がそれまでと同様の権力中枢で開かれ、その名前(バチカン)を戴き、その組織の助けによらなければ成果を上げることができなかったという矛盾を内包していた事実を見抜いている。保守派は、かつて国務長官だったパウロ6世の後ろ盾によって最後まで結束を保っていた。ハンス・キュンクは、保守派の頭目オッタヴィアーニ(生没年1890〜1979)枢機卿が公会議閉幕時に「我々は勝利した」と喝破した、と記している。その後、改革を推進しようとするならば、さらに保守派の助けによって行わなければならないというジレンマが第2バチカン公会議の行く手にはあったというのである。

http://webmagazin-amor.jp/2017/10/02/%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%83%bb%ef%bd%97%e3%83%bb%e3%82%aa%e3%83%9e%e3%83%aa%e3%83%bc%e8%91%97%e3%80%8e%e7%ac%ac%ef%bc%92%e3%83%90%e3%83%81%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%85%ac%e4%bc%9a%e8%ad%b0%e3%81%a7/


トリエント公会議は近代に向けて教会を刷新したと近代主義者はいうが、あくまで反宗教改革的姿勢に基づいたカトリックアイデンティティによる教会改革であるからオーセンティックで反近代的である。

2020-08-14 | 教会

コンスタンツ公会議では、諸侯つまり聖職者を含む諸国の大使が「オラトーレス」と呼ばれ、すべての会議に出席する権利を与えられており、会議の決定に大きな影響力をもっていた。しかし、ともかくも、コンスタンツ公会議に比べて、トリエント公会議は、聖職者が主導権をもった公会議であった。教皇はローマに在住し、枢機卿たちを集めた枢密院会議を定期的に開いていたので、教皇代理としてトリエントに派遣されていた数人をのぞいて大部分の枢機卿はローマにとどまっていた。教皇代理たちは、トリエントからローマへ議事録を送ったり、教皇から指令を仰いだりするために、多くの日時を要した。

18年もかかった公会議は、教皇にとって財政的に重い負担を背負わされる、結末の見えない事業であった。だから、彼らは教皇代理にしばしば強い調子で議事促進の指令を出した。それで「昔の公会議は聖霊が天から司教たちに降って進行したが、この公会議では聖霊がローマ教皇の指令の郵便袋によって到着する」と皮肉をささやかれたものである。

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トリエント公会議は、ヨーロッパ内の不安定な状況に加えて、中央ヨーロッパと地中海へのイスラム(オスマン帝国)の進出による脅威の中で続けられた、教会刷新をめざした公会議であった。J.H.ニューマン(生没年1801〜90)が長い間、ローマ・カトリックへの改宗をためらった理由は、彼自身の言葉によれば、トリエント公会議がそれまでのキリスト教の伝統を捨てて、教会が昔の姿とは似ても似つかない代物に変わったと考えたからであった。

しかし、カトリック教会はまさにトリエント公会議によって近代への対応ができる教会になったのである。トリエント公会議は「祭具室の中での話し合い」では決してなく、近代に向かいつつある社会に対応する教義と制度に基づいて教会生活を確立しようとしたものであった。

http://webmagazin-amor.jp/2017/08/07/%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%82%aa%e3%83%9e%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%80%8e%e3%83%88%e3%83%aa%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%83%88%e2%80%95%e2%80%95%e5%85%ac%e4%bc%9a%e8%ad%b0%e3%81%a7%e4%bd%95%e3%81%8c/


教導権への従順強化は近代主義撲滅のためだったのに、今や近代主義増殖のために使われているありさま。従順とハサミは使いよう。

2020-08-14 | 教会

ヨアンネス23世(在位1958〜63年)以前の歴代教皇は、近代主義が教会に入り込むのを極度に警戒し、信者の社会運動は必ず司祭の指導下にあることを義務づけ、徹底的にローマの監視が行き届くように配慮した。「教える教会」(ecclesia docens)と「習う教会」(ecclesia discens)ははっきりと区別され、後者から司教教書、教皇庁各省の文書を含む教導権への従順が義務づけられた。ピウス10世の時、英国のカトリック司教位階組織に対してこの政策を具体的に実施する務めを担ったのは教皇庁国務長官メリ・デル・ヴァル(1865年〜1930年)であった。彼はスペイン・アイルランド系で英国生まれであったため、
英国のカトリック界に強力な影響力を行使した。

このように、英国カトリック教会の公的姿勢は教皇至上主義的でローマ依存的であったのだが、ベネディクトゥス15世(在位1914〜1922)は回勅『アド・ベアティッシミ・アポストロールム』で、カトリック信者に、使徒座の介入がない領域でのさまざまな意見表明を容認した。一貫して、近代主義の脅威に対する敏感な姿勢が取られたが、社会問題についてはかなり広範な意見表明の可能性が与えられた。司教たちは主要な問題となった社会問題に関心を示し、教会の社会教説の原理を説くことが使命であると考えた。ただし、政治の分野へのカトリックの司教位階組織からの直接的な指導や介入は英国ではみられず、政治に対する関心の表明は信者にゆだねられ、そこではおおむね公正、寛容、自由の原則が容認されていた。ヨーロッパ大陸におけるような、聖職者の強力な指導下にあるカトリック政党は英国では実現しなかった。それはおそらく英国のカトリック教会が一般社会から隔離されていたためであった。

それでも、カトリック教会は近代主義と道徳的、社会的混乱に対して残された最後の砦と考えられ、ロナルド・ノックス司祭(1888年〜1957年。1917年カトリックに転会)に代表されるように、英国教会からローマ・カトリック教会への転会者の数は増加の一途をたどり、1920年には12,621人とそれまでの推移のピークに達した。両大戦間時代の世界情勢と国内情勢は、英国社会に根強かった反カトリック感情を弱めると同時にカトリック教会を社会の主要な潮流に統合させ、指導者たちは、英国社会に属する教会であるという自覚と対外姿勢を明らかにするようになった。

http://webmagazin-amor.jp/2017/05/08/%e3%82%b1%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%82%b9%e3%83%97%e3%83%87%e3%83%b3%e8%91%97%e3%80%8e%e8%a6%81%e5%a1%9e%e6%95%99%e4%bc%9a%ef%bc%9a%e8%8b%b1%e5%9b%bd%e3%81%ae%e3%83%ad%e3%83%bc/


嵐の舟で

2020-02-14 | 教会

マタイ

8:23それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。 8:24すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。 8:25そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。 8:26するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。

マルコ

4:36そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。 4:37すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 4:38ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。 4:39イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。 4:40イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

ルカ

8:22ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。 8:23渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。 8:24そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。 8:25イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。

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そののち嵐がくると、セデバカンティストと名乗る弟子たちは、この舟にはもう主はいなくなったと言って、おのおの別の舟を調達して散って行った。

コンクラビストとされる弟子たちは、主はこの舟から消えてしまったが、実は別の所に隠れていていづれ出てくるからといって、新しい舟に乗り込んで出て行った。

それと似たアパリショニストと称する弟子たちは、聖母が現われて別の救いの箱舟に乗れとメッセージで言われたと言って出て行った。

また、マルセルとその弟子たちは、舟がひどい疫病に汚染されているのを見て、救命ボートで脱出し、感染が治るまでは距離をとってつかず離れず進むことにした。

ところが、マルセルが死ぬと、その弟子たちは、母船の食事がほしいがために、ウィルスのことを忘れて乗員の相互の乗入れを始めたので、ウィルスは知らぬ間にマルセルの救命ボートに広がっていった。

そのことを危惧した一部の弟子たちは、死んだマルセルの方針を継承するために抗い、更に別のボートを新たに作って乗り移っていった。

これらのことが起こっている間も、主は舳(へさき)で眠っておられたので、多くの者がもう舟は沈没して死ぬと絶望したり、世俗の客船に乗り換えるためにその戦艦から下船して行った。

 


キリストの神秘体 聖書解釈ならいいが教会論として用いると「秘跡である教会」のように解釈され教会概念が全人類にまで拡大してしまうので要注意

2019-01-18 | 教会

 教会がキリストの神秘体だという定義は、やはり教会の一面の姿しか表はしていないけれども、この一面たるや、これによって我等が教会の本質の深い所まで洞察することの出来るものである。尤も如何に深く洞察し得るにしても、最後には結局玄義に逢著して見通しが利かなくなるには違ひない。この定義はその根拠を聖書の中に有し、聖アウグスティヌスを主とする教父達が神学思想の中心に据えたものであり、神学者がこれを完成し、基督教国民に衷心から親しまれているものであり、我等も多数の神学者の説に従ひ、この一面の姿を、教会の純基督教的定義だと考へるものである。ヴァティカン公会議が教会の定義として作成した議案は、討論に至らずして止んだけれども、とにかくキリストの神秘体という観念から出発したものであった。

 『カトリック教理神学概説』 ユングラス 大泉孝訳 光明社 1949年 


キリストの神秘体 ←信徒や非カトリックの参加のために典礼改変、聖書自由解釈、教会合同をもたらす。カトリックとして可視できない教外者でも無意識に神秘的体の一部だという二元論的異端教説をもたらす

2019-01-18 | 教会

 ・・・最近の神学で、とくに力を入れられた一問題は、「キリストの神秘体」としてのカトリック教会論である。ピオ十二世のこの時点での貢献として、回勅ミスティチ・コルポリス(一九四三年)、メディアトル・デイ(一九四七年)、フマニ・ジェネリス(一九五〇年)などがあげられる。p310

 ・・・この教会論には、次の新要素が含まれている。一つの神秘体の四肢の部分(平信徒)の貢献を重視した点である。従来の神学は、頭たるキリストが四肢に生命を与え導くことに力点をおいていて、四肢相互間の交流、四肢の有機的結合には注目が足りなかったのである。そこに、四肢が頭を必要とするように、頭もまた四肢を必要とすることが、力説されたわけである。p311

 もう一つの新味は、カトリック教会の所属信徒以外の広義のキリスト教徒との親愛関係を強調した点である。「カトリック教会の可視的構成に属しない人びとの善意と祈りとは、大いに歓迎されるべきものたることは、言うをまたない。彼らは、その寛容と誠実とにおいて、彼らをカトリック教会に結ぶあらゆる結帯、キリスト自身に対する共通の愛、神への共通の信仰を、忘れることはできない。」(ピオ十二世の世界新秩序に関する最初の回勅スンミ・ポンティフィカトゥス1939年、拙訳、参照)。「彼らもその無意識裡の希望と意向とによって、救主の神秘体に結ばれていることも、ありうる」(聖座公報AAS一九四三年三五、二四三頁)。現にこの心の結びつきは、広義のキリスト教徒のみならず、ユダヤ教徒、イスラム教徒にさえ、教皇謁見などの際に示されている。

 かかる教会論は直接に、典礼運動の促進、聖書研究の奨励、教会合同のこころみにつながるものである・・・ p311

 ・・・こうして「キリストの神秘体」説が教会の信心生活全般にわたり、教理神学から司牧神学にもおよび、一般平信徒の信心生活にも大きな影響をもつようになった。

 民衆典礼運動がこうして始められた。ラテン原文が各国語に訳されて、司祭の唱えるラテン文の伴奏のように各国語で一般会衆が、ミサに積極的に参与する風潮が強められた。・・・

 この傾向に対し、教皇庁でも早くから反応を示しはじめた。今世紀初頭に教皇となり、二十世紀前半にいわゆるピオ時代のもとを築いた聖ピオ十世は、グレゴリオ聖歌の復興(1930年)、ローマ聖務日課書改訂(一一、一三年)により、これを促進した。その上、「整体の教皇」と言われるだけあって、万国聖体大会を開始し、できるだけ頻繁な聖体拝領をすすめ、幼年からの拝領をも認めなどして、聖体を中心とする典礼運動を奨励した。・・・ p312

 もともとカトリック教会は聖書の編者であり、聖伝と教導職のみがこの正解を一任されているという考えをもっている。このことは、一九〇二年ピオ十世の頃創設された教皇庁聖書委員会も、十四決議と二宣言とをもって、明らかにしている。

 ところが近頃は、一般のカトリック教徒においても聖書研究熱が盛んとなり、近代各国語新訳もしきりにすすめられている。p313

   とくに注目されるのは、カトリック側でも従来ヴルガタ聖書が近代語訳の底本とされていたのに、近頃はそれを参考にするだけで、ヘブレオ、ギリシャ原典から訳出され、伝統的注解のほかに家庭用聖書、病者用聖書のように現代家庭用または患者向親注が付加されることである。

 ピオ十二世はこの研究の指針を与えている。その第一は、まず原文の確立で、ヴルガタ訳にのみ頼ってはならないことである。むしろ正確なヘブレオ語、ギリシャ語原文の確立が、ヴルガタ訳改訂の前提条件とされる。一九四五年の教皇自発教令によって、ヴルガタ訳に代わって聖務日課用にラテン語新訳の詩編が用いられ、これが一九四七年すべての祈り文にも用いられるようにきめられたほどである。p314  

 第二は、文意解釈の確立である。・・・

 第三は、聖書記者の性格、その時代環境などが、一層重視される傾向である。p315   

 ・・・平信徒にももっと積極的に参加させ、キリストの神秘体ということを、これら四肢の部分にも徹底させなければならない。

 ・・・ルッテルおよびその宗教改革運動そのものに対するカトリック側の見方も、近頃は大部変わってきた。p316

 こうして一致のための会談に熱心に参ずるカトリック教徒がふえてきたためであろう。一九四九年教皇庁の検邪聖省から、次のような警告が発せられた。「近頃教会法の規定に反し、予め教皇庁の許可をもらわずに、信仰問題に関しカトリック教徒と非カトリック教徒と会談することが所々で行われている由であるから、教会法一三二五条第三項によって、予め許可なくしてかかる会談に参加することは、平信徒ならびに教区付司祭、修道司祭に禁止されていることを、再び思いおこすように。ましてかかる会談を招集し主催することは、カトリック教徒にゆるされていない。この規定が厳守されるよう教区司祭の善処されんことを望む。」p317

 こうした動きから「教会帰一のための祈りの週間」が設けられるような気運が熟してきた。・・・一九三七年フランスの司祭の申し入れで「キリスト教徒の一致のための一般の祈りの週間」と改名され、・・・ p318

   

   二十世紀におけるカトリック思想 小林珍雄 『カトリック思想史』 戸塚文卿訳編 中央出版社 1960年 


教会の外に救ひなし byフィステル神父様   ←ちゅうことは教会内にはメーソンなしなんですね、ほっとしました

2019-01-18 | 教会

教会の外に救ひなし

 キリストにより確立された教会の本質に就いての以上の叙述から、救ひに到達する為めには、この教会に所属せねばならぬことがキリストの意志である理由が明瞭に解る。

 何となれば、キリストの意志に従えば、個々の信徒が救ひに到達する為めに必要な超自然的手段は悉く教会に委託されてあるからである。教会はキリストの教説の誤ることなき保護者、伝達者であり、教会の秘跡は信徒にキリストの超自然的生命を伝達し、信徒の悉くを超自然的団体、即、キリストの神秘体と結合せしめ、教会の聖職は、信徒を、宗教生活に於いて天主の権威を以って導く。凡ゆる時代の人間に對するキリストの偉大なる救世事業の授與は、キリストの意志に基づき教会の内部に於いて、教会に現存する救ひの機関を経て行われる。第十九世紀の或る偉大なる神学者はこのことを次の如くに表現する。即、『キリストの教会は天主に依って啓示せられたる宗教を悉く特定の形で体現し具体化する唯一のものであるから、全人類が、この宗教の内に於いて救ひに到達すべきことが天主の意志であり、従って、この教会に帰属することは實に救ひに到達する為めの何らかの手段たるのみではなく、寧ろ、絶対的に必要なる手段である。』と。これは、既に古代教会に於いても共通の見解であった。洗礼に依り信徒は教会の組織に織り込まれ、教会に於いて新しい超自然的共同体を形成する。チプリアノ(Cyprianus)は第三世紀の中葉に於いて『教会を母とせざる者は何人と雖も天主を父と為し得ず』と言っている。故に彼は “Extra Ecclesiam nulla salus" (教会を外にして救ひはない)と表現する。この命題を、カトリックの傳統は最も明瞭に且つ整然と確保し、常に之を表明している。教会の偉大なる教師達は之を詳細に解説し、公会議及び教皇の布告は之を明瞭に證明している。以上の叙述の結論は、キリストの建てた教会は、天主自らにより全人類に指定されたところの救いに到るべき唯一の道であること、並びに、この道を拒絶して、而(しか)も、キリストの救ひの恩寵に到達し得る者は一人もないことである。

『基礎神学講話』 パウロ・フィステル 中央出版社 1947年 p154-156