それはまるで、香の気が変わらぬようにと言わんばかりだった。
その日、徳川筆頭家老から槇村家に仕向けられた使いは、荷物持ちを入れて総勢23名。その使いの中には5人もの剣の達人も入れられている。彼らは見るからに獰猛そうで。
何が何でも香を大奥に連れて行こうという大奥総取締、滝川の想いがそのまま表れたような一行であった。
香は慣れ親しんだ家、兄、義姉、長く槇村家に仕えて来た者、地域の者たちと、碌々別れの時間もとらされぬまま、金糸の見事な打掛を羽織らせられると、徳川の家紋が付いた黒光りする籠に、押し込まれるように乗せられた。
槇村家の周囲には、多くの人々が押し寄せ成り行きを息を止めるように見守っている。皆、香が連れて行かれるのが辛くて仕方ないのだ。
香はじゃじゃ馬だが、とても優しく美しい。香を知る者は皆、老若男女問わず、香が大好きだった。
冴羽家からは、ミックの助と、妻のかずえ姫の姿も見える。かずえ姫は相当泣き腫らしたようで、目は充血していた。右手を固く握りしめ胸元にあてなから、香を連れ去る一行を睨むように見ている。
しかし。なぜかここに肝心のリョウの助の姿はない。
勿論、ミックの助も、秀幸の助も、リョウの助の姿が無い事には気づいていた。
そして、リョウの助が、何か香の為に行動を起こそうとしているかもしれない事も、容易に想像できたけれど・・・。
互いに何も言わなかった。
・・・互いに・・・。
できる事なら、リョウの助と香には、二人手を取り合って逃げて欲しいと願っている。
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その頃、リョウの助は、社務所の中、全裸に着物をかけられた状態で寝ていた。それでも、社務所の窓から強い日光や、野鳥の声がけたたましい。
リョウの助は、ようやく目を覚まし、そしてすぐさま愕然とした。
『香ッ!!!』
しかし、そこには香も、香が身に着けていたものも何もなくて。
まるで、リョウの助が最初から一人でいたような錯覚になる。
途端に、リョウの助は青ざめた。
この日の高さなら、時は正午に近いはず。いつもなら道場生や師範たちの稽古をつける声や、竹刀と竹刀があたる音でにぎやかなはずである。
何故、誰もいないのか。
何故、これほど静かなのか。
リョウの助は、急いで着物を着るや否や、社務所を飛び出した。
そして、江戸城下へ続く一本道めがけて駆け出して行った。
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その頃、徳川の籠に揺られながら、香は髪の毛に隠していた小さな包み紙を取り出した。リョウの助を眠らせる為に使った薬である。
この包み紙、中身はリョウの助を眠らせた眠り薬である。ただし、この薬。一舐めなら、効きの良い眠り薬だが、半分以上飲んで寝れば再び目覚める事の無い劇薬で。
香は、槇村家に初めて書簡が届けられた日、こっそり冴羽家のかずえ姫の元を訪ねていたのだった。
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その日も、いつものようにかずえ姫は自身専用の調合部屋で薬の材料をすりつぶしていた。
『あの、かずえ様?』
そろそろ夕方にさしかかるであろう頃。香はこの部屋に現れた。
時々、香はここへも遊びに来ていたので別段かずえは驚かずに香を迎える。しかし、今日の香は様子がおかしい。今にも泣きそうな顔をしていた。
『香さん、どうしたのかしら?お顔色が優れないわ。月の物かしら。お腹が痛いの?』
かずえは医者の家の出で。香の様子に、まずは体調の状態を気に掛ける。
『いいえ、いいえ、かずえ様。・・・ワタクシに・・・、あの眠り薬を下さいませ。』
香は懇願してくる。
しかし、かずえはその様子に違和感を覚えた。
確かに、眠り薬は時々処方するが、今まで一度も香に処方した事がない。
そもそも、あの薬。
一舐めなら良い睡眠をもたらすが、耳かき一杯程度では手術の麻酔薬になり、薬包紙半分程度では二度と目覚めぬ眠りに導く劇薬でもあるのだ。
こんな不安げな表情の香に簡単に処方するのは気が引ける。
『ねえ、香さん、あの眠り薬はあなたも知ってのとおり、とても強い作用なのよ?誤って多く含んでしまえば、取り返しがつかないの。なぜ、あの薬が必要なの?』
問い詰めるかずえに、香は観念した。正直に言うしかないであろう。香は両手で顔を覆うと声を殺して泣き出す。初めて見る香の泣き姿に、かずえは驚くが、気丈にその華奢な背中をさすってやりながら香が口を開くのを辛抱強く待った。
しかし・・・。
香の口から出てきた言葉は。
--“今日、大奥から書簡が届きました。ワタクシを大奥に入れたいと”
--“ワタクシは公方様の側室になるそうです。”
--“大奥には、正妻も大勢の側室もいて”
--“ワタクシは公方様の慰みものになり、二度と大奥から出られない・・・。”
かずえは香の話のあまりの重大さに血の気が引いていく。
そして、最後に香は言ったのだ。
『ワタクシが大奥に行かなければ槇村家はおとり潰です。でも、ワタクシは・・・、皆から引き離され、大奥でやって行ける自身もない。』
かずえには何も言えなかった。
香は、義弟のリョウの助に思いを寄せているのは感づいていた。
それに、家族や温かい仲間に囲まれて生きてきた無邪気な香が大奥でやっていけるとは到底思えない。
しかし。
それでも。
徳川家は絶対の存在で、徳川家の申し出を断ることはできる事ではない。
『かずえ様、お願いです。どうしても耐えられなくなれば、誰にも迷惑をかけずに消えたいのです。かずえ様、・・・お願いです。』
泣きながらかずえにすがる香に、かずえは結局何も言えなかった。ただ、ただ、悔しい思いしかない。
かずえは泣く泣く、香に一包みの眠り薬を託した。
香はそれをたもとに忍ばせると、涙を袖で拭いて槇村家に帰って行った。
それから、ほんの数日後。
香は徳川家筆頭家老の使いのものに連れて行かれてしまった。
«続»