久しぶりに、真澄の伊豆の別荘に呼びだされた聖は、白いアウディを走らせていた。台風がちょうどさった後で、空気は新鮮な潮の香りを含んで爽快である
真澄の別荘につくと、聖は勝手知ったものでスペアキーで中に入ると、真澄がいると思われるリビングに行く。しかし、大きく放たれた窓は、レースのカーテンが海風にあおられているだけで、誰もいない。
『・・・真澄様?』
ソファのローテブルに、頼まれていた調査資料の入っている茶封筒を置く。耳が慣れてくると、波しぶきが岸壁にあたる音にまぎれて、他にも水音がしてきた。
聖は開け放たれた窓から続く、広いベランダへ出て、その音の出所を探す。すると、ほどなく、その音の主は、下の方で見つかった。
水音の中でも、聖の車の到着はエンジン音で分かっているのだろう。真澄は振り返り、屈託のない笑顔を向けてくる。
手にはホースが握られ、先端からは水の飛沫が別荘の庭木に向けられていた。台風の後とは言え、この暑さである。水をかけらた木々は瑞々しさを増し、太陽に光を受けて反映しあう水滴は、植物の緑いろを一層鮮やかにしていた。
『早かったな、聖。コーヒーをいれよう。』
手元で水を止めると、真澄は階段を上り、聖のいるベランダに上ってくる。そして、不思議そうにポカンとして自分を見る聖を認めると、満足そうにニヤリと笑った。
『聖、どうした? まるで、マヤみたいな表情だそ。』
真澄は、いつも自分以上に隙のない腹心の部下、聖が、驚きの表情をしているのはなかなか見物と思う。
『ま、真澄様。まさか、あなたが水やりなど・・・。いつも別荘番に任せておいででしたのに・・・。』
そう、真澄は植物に水をやるような男でなない。
別荘にくるのは、集中して仕事を片付けたい時、逆にリラックスして酒を飲みたい時、あとは聖と密会するとき。その三点に限られる。
それに、こんな風にイタズラッコのような瞳で自分に笑いかけるなど今まではなかった。
聖は真澄の申し出をうまくすり抜け、自分で二人分のコーヒーを入れる。これ以上真澄のペースで過ごすと、聖だって調子が狂う。
『ったく、お前は義理堅いな。』
聖の入れたコーヒーを優雅に口に含みながら、真澄はゆったりとソファに腰かけている。聖は、オットマンに腰を掛け、さりげなく真澄を観察しながらコーヒーに口をつけた。
真澄は連日の激務を潜り抜け、最近は少し落ち着いてきたらしく、前回真澄と面会した時にあった目の下のクマはなくなっている。そして、変わりにあるのは、人間らしい真澄のくつろいだ表情だ。
『恐れ入ります。ただ、お茶請けの菓子がなくて。途中で、買ってくるのでした。』
しれっとした表情で、聖がそんな事を言うものだから、真澄も応戦だ。
『酒のツマミに冷えた板チョコが旨いのを最近知ったが。コーヒーは、やはりこれだけでいい。』
真澄が食べ物の話をするのは本当に珍しい。ポーカーフェースのまま、聖はまた驚く。
『マヤ様なら、コーヒーよりもクッキーを欲しがると思いまして。』
さっき、真澄からでた“マヤ”の名前をスルーした聖だが、直球を投げた。
そんな、聖に、真澄の態度はいつになく自然で。それは、演技でもなくポーカーフェースでもなんでもないように見える。
『クッキーか・・・。あの子には一缶じゃ足りん、二缶だな。それから、ミルクに砂糖。聖、今度、ここに来るとき買ってこい。』
わざわざ簡単な買い物を自分に頼む真澄に、聖は安堵のため息をつく。
真澄は変わった。あれほど人を寄せ付けず、影の部下の自分にすら隠し事を抱えているような男だったのに・・・。
今、彼は人との間に無理をした距離間を必要としていないように見える。人間としての芯の強さが感じられるのだ。
聖は直感した。
恐らく、近いうちにここにマヤを招くのだろう。
クッキーのお使いは、真澄から聖への“心配するな”、のメッセージだ。
でも、やはり聖は心配で。
女の子が来るのなら、こまごま準備が必要だと思うのだ。ペットじゃないんだから、クッキー・ミルク・砂糖じゃ済まされない。真澄は、そういう所に気が回りそうにないので、聖はちょっと焦る。
流石に、今、そこまで真澄に進言すれば、せっかく進みかけた話も後退しそうで・・・。
冷めかけたコーヒーを眺めながら、聖はこっそりとこの伊豆の別荘に用意する女の子の必需品の品々を検討するのであった。
«完»
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