明け方に近い深夜、玄武門の裏口が開かれる。
外には、ファルコンただ一人と、彼のランクルだけが二人を待っていた。外灯の明かりが遠くからほの暗く周囲を照らすものの、特に外灯も用意はされていない。
香の蘇生が新宿に広まるのは、今は、まだ、早く。極力、目立たないよう各々が行動していた。
それに、裏口とはいえ、新宿である。獠にとっては、外灯をわざわざ用意しなくても、街から漏れ出る明かりで光源は充分であった。
そこへ、香を両腕に抱え抱き、階段をゆっくり上がってきた獠が出てきた。慎重に、裏口から外に出る。
獠の腕の中の香にとって、八年ぶりの新宿だ。場所はキャッツの隣だから彼女の瞳に映る外の景色は見慣れたものと思われるが、もし彼女の記憶が“17歳”のものなら、まだ知らない光景である。
けれど、獠には香を外に連れ出す事にためらいはない。
例え、今の新宿が香の記憶と違う姿でも、ここが香が愛する唯一の街である事には変わりないからだ。
遠くから聞こえる喧嘩のような怒鳴り声も、酔った若者の集団の騒ぎ声も、遠ざかる救急車のサイレンの音も、歩道を散らかすファストフードの包み紙さえも・・・。
新宿のすべてが、香の宝物だ。
こんな街で拾われた、野良犬の獠。
今、香はその彼の腕に抱かれたまま、何も言わず外の空気を感じている。
『獠、早く乗れ。』
ファルコンがランクルの後部座席のドアを開いて押さえたまま、獠に搭乗を促した。
香はファルコンを覚えているのか否なのか。何も言わない。まるで全てを獠にゆだねているように見えた。
ファルコンも余計な言葉は発しない。あくまで、いつも通りの彼だ。
『サンキュー、海ちゃん。』
獠もいたって普通に返事をすると、腕の中の香を水平に保ちながら、するりと後部座席に乗り込む。既に玄武門の裏口は閉ざされ、まるで元々ここには3人しかいないようだ。獠はとにかく大げさにしたくなく、この方法を選んだのだが、選択に間違いはなかったようだ。
この水入らずともいえる空気の中、香は新宿に舞い戻る。そして、あっというまに、この喧騒の街にシンクロしていくのだろうから。
ランクルの後部座席で、獠は羽根布団に包まれたままの香の肩を右腕で包むようにだき、その逞しい胸に、彼女の背中をもたれさせかけると、新宿の光景が見やすいように獠は靴を履いたままの右足をシートに乗せて、あたかも香の肘掛のように彼女を支える。
まるで、獠の体が彼女を守る番人のような。そして、彼自身が香だけの椅子のような。
獠自身無意識なのか、ファルコンは獠が気配を消して香に尽くしているのを感じる。その情景があまりに切なく。前を見るファルコンの眼から一筋涙が落ちた。
だが、ファルコンは早々に気持ちを切り替える。
『いくぞ、獠、少し新宿見物だ。ゆっくり走る。』
何も言わない事が、獠の肯定のサインだ。ファルコンはエンジンキーを回した。
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獠と香を乗せたファルコンのランクルは、歌舞伎町の周辺を掠めるように走る。このあたりは、新しいアミューズメント施設やホテルが立てられ、ずいぶん変わってしまった場所もあるけれど、歌舞伎町の入り口のネオンがギラギラと輝くゲートは不変だ。
中の方を良く見ると、路上で胸元を大きく露出した女が客引きをしているのが見える。ずいぶん年をとったようだが、香がたまに獠のツケを支払に行ったキャバレーの女だった。
---なあ、香、覚えているか? オレ達の街だぜ・・・?---
獠は彼自身の体全体で、背後から香を抱きしめるようにしたまま、香の瞳にうつる光景の数々を共にする。
そのうち、花園神社の入り口に近づき、真っ暗だけれど、香が好きだった木々に囲まれた小道の前も通過した。
そして、新宿東口に差し掛かる。
香は新宿東口駅の前から、電車が通過していく高架線路を見るのが好きだった。流石にこの時間では、通過していく電車はないけれど。
それでも、ファルコンはホームレスと数名の酔っ払いしかいない駅前を、ことさらゆっくりとランクルを走らせる。
香はまだ記憶の宇宙をさまよっているのかもしれない。
だから、ゆっくりでいい。
唯、唯・・・、お前が愛した街を、またお前が愛せるようになれ、と。
それだけ願い、ファルコンは界隈を抜け出す。
3人を乗せたランクルは、ゆっくりと冴羽アパートに向かって行った。
«完»