『いつも三月って、、、。』
香はクッションを抱えて床に座り込みながら、灰色にに濁った空を睨み付けて、ぶつぶつ言っている。ご機嫌は斜めだ。今日は朝からずっとこんな感じで。もう夕方近いというのに、朝から水以外は口にもしていないようだ。
ソファでタバコを燻らしながら英字雑誌を読んでいた獠は、窓に区切られた曇り空を見ている香の後姿に視線を移した。
今日も秀幸のお下がりのぶかぶかなもオーバーオールに、これまた秀幸が中学生の頃に来ていた縞模様のトレーナーをインナーにした姿。横には、スタジアムジャンパーが脱ぎ捨てられてくしゃくしゃになっている。
つい先日、絶世の美女に変装してきたかと思えば、拗ねたような後姿は正真正銘のシュガーボーイで。
ちょっと獠はこんな香をもてあます。女が訳もなく、機嫌が悪くなる理由なんて・・・。適当につけたラジオから流れる、テンションの高いトークのせいか、タバコの煙のせいか・・・?
こんな天気の日は、獠だってけだるい。あんまり考えずに出てきた言葉は、
『なんか香ちゃん、ご機嫌わるいのな。生理か?』
間髪入れずに、クッションが飛んできた。獠の適当なコメントは当たりだったようで。
香はスタジャンを着ると、体育座りをして丸くなってしまった。実は、生理痛もあって、こんな日はいつもは楽しい冴羽アパートでの時間がひどく憂鬱だ。
でも、仕方ない。
昔、秀幸に検挙された男が仮釈放されたのだが、槇村家のポストに逆恨みの手紙を投げ込んで来たのだから。
---妹をぶっ壊す---
その手紙はたった一行の文句に、隠し盗りした香の写真の胸部と下腹部に卑猥な言葉を油性マジックで書きこんだものが同封されていた。
秀幸は、昨日投函されたらしいその手紙を見るや否や、簡単に荷造りするよう香に言い含めると、香を冴羽アパートに押し込んだ。
『獠、絶対に香をここから出さないでくれ。』
そういって消えた秀幸は今頃犯人を捜しているのだろう。一応獠は、
『槇ちゃんが香とアパートにいれば? オレが行った方いいだろ? よ~く脅しておくぜ?』
とは言った。秀幸が自分で肩をつけにいくであろう事は分かっていたが、心当たりの犯人は単独犯ではない。刑事時代の秀幸に麻薬売買の調査を受け、つぶされかけた組織の幹部だ。組織のトップは当分堀の外へは出られない。そこで、仮釈放で先に出てきた幹部の一人が報復に動いているのだ。刑事の秀幸なら、警察組織として動けたが、今はそうではない。獠という相棒はいるが単独と変わりないのだ。
獠はひそかに情報屋に秀幸の行動を監視させた。秀幸が窮地に落ちれば、すぐ飛んでいく算段で。でも、情報屋から連絡は何もない。香の護衛も兼ねてるから、獠も冴羽アパートから出られなくて。不機嫌なシュガーボーイと絶賛籠城中だ。
『暖かくなったと思ったら、急に寒い。』
獠が秀幸の事を考えていたら、ヤツの妹はまたしゃべり出す。さっきの続きのようだ。この少年のような生き物は、突然訪問してきて甲斐甲斐しく食事の世話や掃除をすると思いきや、想像を超えたとんでもない美女に変装してきたり、こんな風に石のように丸まったり・・・。捉えようがないのに、一緒に過ごす空気に違和感のない、不思議な存在だ。
しゃべりだす香の肩が小さく震えている。獠は咥えタバコを灰皿変わりの缶詰の空き缶で揉み消すと、背後からこっそり香に近づき顔を覗き込んだ。急に、獠が覗き込んだ来た事に気が付いて香がかみついてきた。
『なんだよ! いきなり! 見てんなよ!!』
言葉遣いこそ、男言葉のオンパレードだけど、涙を流しながら歯を食いしばり必死に何かに耐えているのが見て取れる。いつもは白いほほが、赤く染まり、足を抱える手は、手の甲に爪跡が残りなそうなほど握り占められ小刻みに震えている。
『あのなあ、同じ部屋ん中で相棒の妹がこんなんで放っておけるか? 訳はなせよ?』
獠は香の横に胡坐をかいて座る。泣いている女を慰めるのは大得意だが、泣いているシュガーボーイはどうしてよいか分からなくて。まずは事情聴取だ。
頑固な秀幸の妹だ。そう、簡単に口を割らないと思っていたが、以外と早く香は言葉を口にし始める。
『明日・・・、あたしの誕生日なんだ。でも、いつもこの時期、また寒さが戻ってきて・・・。』
香の言葉は、泣いている理由に聞こえない。昨日、秀幸は一緒に冴羽アパートに来た香を置いて、すぐに犯人を捜しに出かけてしまった。秀幸を心配していた香は夕べろくに寝ていないのだろう。脈来のない言葉は、そのせいか・・・? と獠は考えつつ、次の言葉を待つ。
外は小雨が降っていて、風も吹き始め、窓ガラスの水滴が増えていく。この分だと、見ごろの桜も大分花弁が散ってしまうだろう。
『なのに、いつもアニキ、いないんだ。いつも、いなくて、・・・誰かのために・・・』
そこまで言うと、香の目がギュッと閉じられ大粒の涙があふれ出した。寂しいから泣いたのではない。自分よりも、他の人間の心配をして昼夜寒暖も関係なく飛び回る、たった一人の兄を案じての涙。少ない香の言葉でも、獠にはその気持ちが痛いほど分かった。夕べ、秀幸は例の脅迫状の手紙をこっそり獠に渡すと、香を置いて出て行ってしまった。理由が分からず不安気な香には、
『香、お兄ちゃん用事があるから、ここで獠と一緒にいてくれ。お前の誕生日までには戻るから。』
それだけだ。後は優しい笑顔を浮かべ、見上げる香の頭をそっとなでて。
こんなイレギュラーなこと、香が納得しているはずもないし、かえって心配を煽るだろうだろうと獠は思うのだが、とことん妹に甘い兄は、事情など説明する気はないらしい。どうも、この兄にとって、香は小さな妹のままのようで。保護すべき、愛しい存在といった所か。でも、香はそこまで子供ではない。いつもは自分から遠ざけたがる獠に自分を託し、行き先も告げずに帰って来ない兄の心配は時間が立てば経つほど募る。この時点で香は限界で。大粒の涙は、限界をこえてあふれた香の悲しみだ。
今までも、たまにこんな事があった。突然、自分を昔の同僚家族に預けて姿を消し、やっと帰ってきたと思ったら、ひどい怪我をしている事もあり・・・。でも、兄の心配をして泣いている自分を見せたことは今まで一度だってない。何故か、この男のそばでは泣けるのだ。
泣いて少しすっきりしてきた香を、ふいに暖かいものが包む。
『心配すんな。 お兄ちゃんは、オレの情報・・・、あ~、いや、ダチがみてっから。 なんかあったらオレも行くし。』
獠は丸まったままの香を横から大きく抱き留めると、あやすように話す。暖かい囲いの中で、香の体から力が抜けるのが感じられる。獠はそのままじっと動かずに香の様子伺った。香は少しづす落ち着きを取り戻しているようで、獠の胸に耳を当てるようによりかかり、かたく握っていた手を緩め、足を崩していく。規則正しい獠の心音を聞いているようだ。
---可愛い---
獠は素直にそう思う。自分の作った囲いの中で、安心して身をゆだねる存在は純粋に兄の無事を想うシュガーボーイ。泣きつかれて、いつの間にか呼吸は静かな寝息に変わっている。窓ガラスに打ちつける雨が強くなってきたし、ラジオから流れるハイテンションなトークは相変わらずだけど、まるで世界に二人きりのような優しい時間に、獠も一瞬の安らぎを知った。
このあと帰ってきた秀幸に、香を抱いている所を見られ、制裁を加えられる事になるのは数時間後のお話。
【完】