高嶺下の小屋で過ごす夜は、自作の空き缶ランタンの明かりと、炭火の暖かさ、美味いコーヒー(私は酒を飲めないので)、それに小さなラジオから流れるFM番組だけです。
それでも馴れれば充分に明るい。本も読めるくらいの明るさです。食事だって炭火で作ります。スーパーで買った安い肉も、塩胡椒だけの味付けで充分。
囲炉裏の炭火は、本当に心を和ませます。ゆっくりと燃焼する堅木炭は、何とも言えず人を癒します。
何が良いのか、どんな効果があるのか、そんな事を分析するより、実際に炭火にあたってみればいい。
私は火を眺めながら、穏やかな気持ちで何時間でも過ごせます。
その間、いろんな事を考えますが、全てを前向きに考えられる。「これでいい」と、自信を持って言える。
普段よりも3時間早く睡魔がやってきます。静かな山の中で眠りにつき、朝日で気分良く目覚める。
そんな火の文化を味わいながら過ごす山小屋での時間は、懐古主義ではなく、むしろ新しいスタイルにさえ思えます。
薪や炭を使ったスローライフという生活が、もっと浸透すればいいのに。電気や化石燃料から得たエネルギーを、ふんだんに使った生活から、いつかは抜け出さなくてはいけないのです。そうしないと本当に地球がダメになる。
そんな事を掲げながら都会で活動している人たちもいます。
残念な事に、NET上で飛び交う意見や、街の中で行われる会議では大袈裟で上っ面な言葉が目に付く事があります。理想ばかりで地に足が付いていない事が多い。自分の言葉に酔って、発言する事で完結してしまっている人がいる。もちろん、それぞれの人たちは真面目に取り組んでいるし、間違ってはいない。
でも、現場では何も変化が無いのが現実です。山で仕事をする人たちは、そんな事の繰り返しで冷めてしまっているのです。結局、あの人たちは何しに来たんだ?って事になるのです。問題提起はしても、解決策が出ない。現場の人たちは、とっくにわかっているそんな問題に対して、解決しようと真っ向から挑んでいる。動きながら考えている。
小綺麗な服装、組織の経費で、たまに山に現れるそんな人たちには、少しだけ違和感を感じます。そんな人たちはやたらに愛想良く、しかし手を汚す事をしません。納得させられる意見を出す人はみな、実際に山で汗を流している人たちです。言葉巧みなおりこうさんでなく、自腹で山へやってくる小汚い格好の森林ボランティアの人たちです。口よりも先に体が動いてしまう、肉体を伴った輝く魂の持ち主たちです。小手先の美しさよりも一粒の汗の方を良しとする人たちです。街の人が慌ただしく帰った後、黙って仕事を再開している人たちです。その時、誰も街の人を攻めたりしません。街の人だって頑張ってるのを知っているからです。
私も、真っ黒に汚れながら、地に足を付けて寡黙に働きたい。魂の命ずるままに行動したい。
言葉ばかりが先行して、現場を後回しにするような事はしたくない。
結局、山を守るには、山で汗を流す以外には方法が無い。
山で汗を流せないのならば、山を守る人を守る以外には方法が無いのです。
それでもいい。自分のできる事をすればいいのだから。
「山を守る人を守る」この言葉をよく検討してもらいたい。
つまり、山で頑張る人と、一緒に頑張るって事です。都会に住む人たちの方が、山に憧れていると聞きます。
だからこそ、山で頑張っている人を熱い気持ちにさせるような応援をしてもらいたい。
山で起こっている問題を、語って理解してもらえるのならば、次に行動して欲しいのです。
もちろん、それぞれの人ができる範囲で・・・・