小説『雪花』全章

心身ともに、健康を目指す私流生活!!
食事や食材、ダイエット、美容などの豆知識がたくさんあります。

小説『雪花』第八章-6節

2017-10-20 10:36:05 | Weblog

         六

   店員がお酒の摘みを持ってきた。萝(ロー)卜(ボ)頭(トオ)と枝豆の炒めものだった。
 大根の漬物の萝卜頭は、黄味を帯びた半透明の琥珀色で、小さく丸い形にしてある。
 生産地は、蘇州から三十キロほど離れた六(ロウ)直(チー)の故鎮だ。六直の豊かな河流に囲また土で栽培収穫された萝卜頭は、肉よりも貴重な食べ物と言われた。
 仁は、興味の眼差しに笑みを浮かべて、伝えた。
「これは、六(ロウ)直(チー)の萝(ロー)卜(ボ)頭(トオ)だね。祖父の家で、食べたことがある」
 仁の言葉を聴いた凡雪は、ふと脳裏に、楚と杜の姿が懐かしく過(よ)ぎった。そこで、夢を見るような想像をし始めた……。
 六(ロウ)直(チー)に行って萝(ロー)卜(ボ)頭(トオ)を買ってきた楚は、祖父の厨房に入った。小椅子に座った杜は、竈(かまど)に薪を入れた。パチパチと小さく爆ぜる音が流れると、楚は大鍋に油を加えて、枝豆を入れた。シャーシャーと炒める音が流れた。
 香ばしい匂いが漂って来るタイミングで、杜は水桶から少量の水を掬(すく)って、鍋に入れた。楚は指先で塩を掴み、鍋に散らし、黒酢も垂らした。枝豆が水分を吸いながら鮮やかな緑色になると、楚はさっと萝卜頭を鍋に入れ、枝豆と軽く絡めた……。
 白い皿に載せられた萝卜頭と枝豆が艶めかしく絡み合っている。お酒を一口じっくりと含んだ仁は、箸でしっとりした萝卜頭を口に運んだ。
「うん、コリコリして、少し酸味があって。この味は、祖父が大好きだな!」
 仄かに酔った仁の頬は、透き通りそうな赤となっていた。瞳には、生き生きと微(かす)かに濡れた光が流れて見え、凡雪には、仁が世界で最も愛らしい人に思えた。
 一瞬の間に、温かい気持ちが水脈のように溢れてくるのを感じた凡雪は手を伸ばして、仁の手と、そっと重ねた。
「仁さん、来週の土曜日、六(ロウ)直(チー)に行きましょう」
 すると仁は、はっと眉を上げ、目には嬉しい表情が浮き上がった。
「好(ハオ)開(カイ)心(シン)!(とても嬉しい)」
 仁の瞳に青みを帯びた光が揺れて見える。初夏の薄日を思わせるほど美しい風儀だった。
 凡雪は、窓ガラスの外を見遣った。雲が薄い膜のような、幻白さに見えた。
 雲に面白い精霊でも隠れているように感じた凡雪は、ふと、心に温かい火が点いたような不思議な心地よさを味わった。いつの間にか、仁は凡雪の手を握っていた。
 突然「雪海蟹(シウエハイシャ)肉(ロウ)です」と、店員の声が聴こえた。料理が運ばれてきても、仁は凡雪の手を離そうとしなかった。仁はホホと、小さく笑って、緩んだ声を出した。
「好(ハオ)逗(どオ)―だな!(面白い)今度は、〝雪の海〟って、ええ~、蟹じゃないか!」
 大きな皿に、淡水の蟹の肉が水晶のように煌めいていた。
 上に僅かに載せられた糸切りの葱は、蟹の卵黄油が掛けられていて、白銀が黄金色に染められたように素敵に見えた。凡雪は手を、そっと戻して、小碗を持ち上げた。
「此処の店は、一年中、蟹を食べられますよ。淡水蟹は、身体が冷えると言われますけど、《元紅酒》が強いお酒なので、身体に熱が籠り易い。仁さんに、ぴったりの料理ですね」
 仁は、ゆっくりと小碗を受け取って、ふふと、微笑んだ。
「僕は、お酒は強くないよ。でも、飲みたいな!」
 仁の真っ直ぐ燃えるような眼差しに、奇跡的と思えるほど堅実さと強さを感じた。
 凡雪は脳裏に、古風優美な仁を想像してみた。
 独特な明(ミン)黄色の袴を穿き、下駄を履いた仁は、高坂を駆け登っていった。
 コロン、コロンと揃えた木の足音がリズム良く聴こえた。ようやく頂上に立った仁は、景色に溶け込んで、凛々しく絵姿のように見えた。
 不意に凡雪の前に、仁から小碗が置かれた。芳香を漂わせた蟹の匂いが、凡雪の心の奥まで、温かく優しく蕩けていく。
 凡雪は目を仁に向けた。目の前の仁の眼差しは、しなやかに輝いて見えた。空をほんの焦がした赤香色の太陽を思わせた。
 仁は、酒壺を持ち上げた。仄々と頬を緩めて、凡雪の酒杯にゆっくりと注いだ。
 仁のしなやかな動きで、凡雪は心の炎が、少しずつ大きくなっていくのを感じた。同時に、今まで萎縮していた様々な気持ちの全てが解き放たれたような軽やかさも感じた。
 凡雪は仁の酒杯にお酒を加えた。仁は、酒杯に手を伸ばして、囁くような声を出した。
「雪さん、乾杯をしよう」
 ゆったりとした仁の声が、凡雪には美しく雅に聴こえてきた。
 酒杯を掲げた凡雪と仁は、乾杯のとき杯を合わせ、同時に、お酒を一気に飲み干した。
 つづく

小説『雪花』第八章-5節

2017-10-17 06:41:52 | Weblog

                  五

その時、店員が中碗の料理を持ってきて「美味(メーウイ)魚(イウ)唇(ツン)です」と伝え、丁寧にテーブルに置かれた。仁が碗の中を見て、瞳の内側に光が揺れた。
「魚の唇?」と訊ねてきた仁の表情は、美しい混沌の世界を漂わせて、面白く見えた。
 凡雪は、笑顔を堪えて説明した。
「淡水の鳊(ビエン)魚(イウ)、激浪(ジラン)魚(イウ)、という魚の唇ですよ」
 すると仁は「ええー、本当?」と驚き、歯茎が見えるほどに大きな笑みを顔中に拵(こしら)えた。
 碗の中の魚(イウ)唇(ツン)は、白い木耳にも似て、柔らかく温かな色調で、湖の夢幻とも思わせる。
 すぐ小碗を取った凡雪は、匙で掬いながら、仁に話し掛けた。
「昔、乾隆皇帝が蘇州の《松鶴楼(ソンフーロオ)》の店で、魚の頬だけの料理を食べた伝説がありますけど、今は、魚の唇だけの料理も食べられますね」
 凡雪は小碗を仁の前にそっと置いて、話を続けた。
「魚の唇は、高蛋白質で、骨(コ)胶(ラー)源(ゲン)がたっぷりと含まれているんですよ!」
 仁は静かに微笑んで、匙で、ゆっくりと掬(すく)い、口に運んだ。
「おおー、ホロホロして、プリプリして、煮込んだ牛筋の感触だね。全然、魚の腥味がなくて、讃(さん)!(最高)」
 仁は、すぐ左手で頬を触って「本当だ! 顔がツルツルしているよ」と冗談を加えた。
 笑顔を浮かべた凡雪は、まず、とろとろっとしたスープを掬い、口に含んだ。
 温かい優しい味が凡雪の口に、隅々まで溶け込んでいく。そっと喉まで流れていくと、胸が静かに波打った。
 不思議に胸が熱くなった凡雪は、笑みを含んでいる仁の顔を眺めた。キラキラ光る湖水の流れを眺めているように思えて、目を奪われた。
 一瞬の間に、胸の中で小魚が踊っているように、微(かす)かに興奮した凡雪は、仁に伝えた。
「此処の店の《元(イエン)紅(ホン)酒(ジウイ)》は、有名ですよ!」
《元紅酒》は紹興の代表的な名酒で、多くの人に飲まれている。
 すると仁は、愛嬌のある笑みに変わって、即座に「一緒に、飲もうか!」と返事した。
 凡雪は、笑みを浮かべながら、頭で頷いた。視界に白い魚唇のスープが、澄灯の中で、夕陽に染まった薄雲のように映っていた。
 凡雪は、その風景を見初(そ)めるかのように眺めた。仁は店員を呼び、お酒を注文した。
 仁の流暢な中国語が凡雪の耳元で流れ、心が嬉しくなるほどの魅力を強く感じた。
 仁は、ゆっくりと音を立てずに魚唇を堪能している。柔らかな動きの中で、日本人なりの繊細さと美しさが、凡雪の注目を引いた。
 凡雪は、心がきゅっと締め上がってくるのを感じ、心の中で仁を賞賛した。
 その時、凡雪は、長夜の夢から醒めたように思い、現実の中での喜びを味わった。
《元紅酒》と酒杯が運ばれてきた。壺の紫味の深い紅色は、高貴さを表す色のようだ。
 店員は包まれた紅袱紗(ふくさ)を巧みに捌き、蓋を取ってくれた。雪はゆっくりと酒壺を持ち、小杯に注いだ。淡い光に映された《元紅酒》の赤味色が朧に幻惑的な色に彩られて見えた。
 その時、微(そよ)風が凡雪の頬を撫でた。仙界から漂ってきたような淑やかな風だった。
 凡雪と仁は酒杯を持ち、軽く乾杯した。仁はゆっくりとお酒を一気飲み干した。
「うんー、美味い! もう、一杯ください」
 仁が要求する微(かす)かに響いた声に、凡雪は命の息吹を持った力強さを感じた。
 すぐ仁に笑みを送った凡雪は、お酒を一口そっと含んで、話し掛けた。
「仁さん、《元紅酒》は品(ピン)味(ウイ)(賞味)するものですよ……」
 すると仁は「今日、酔ってみたい」と返してきた。仁の目は風変わりで神秘的に見えた。まるで、未知な世界から遣って来た小妖精と出逢ったようで、凡雪は愉快な、驚きに満ちた体験を味わった。頬を上げた凡雪は、再び仁の杯にお酒を入れた。
「品味してね!」と凡雪は、張りがある声を意識して出した。
 頬が赤らんできた仁は、嬉しそうに凡雪を見て、頷いた。仁の瞳に神々しい光が優しく流れているように見えた。その時、凡雪の脳裏に、空と大地が、瞬時に輝かしく溶け込んでいくような麗しい幻影が浮んできた。

   つづく

小説『雪花』第八章-4節

2017-10-12 12:39:58 | Weblog
 
    四

   女の店員が一品料理を持ってきて「紅(ホン)嘴(ツウイ)緑(リゥ)鹦(イン)哥(コ)です」と、明快な声で料理名を伝えた。
 仁は凡雪の手をゆっくりと離した。目をテーブルに置かれた料理を見た仁は、少し張りのある声で「えっ! 菠薐草(ほうれんそう)ではないの?」と話し掛けた。
 仁は、子供のように目を瞠って、驚いた表情を出した。
 凡雪はふふと笑って、説明を加えた。
「菠薐草は、鹦(イン)哥(コ)と似ていない! 根元が赤くて体が緑(みどり)色で」
 仁は、すぐ頬を緩め、「なるほど! ぴったりの名前だね」と納得した表情に変えた。
 大きな白い皿の真中に、均整に載せられた菠薐草は、艶やかで瑞々しく見える。
 頭の部分は紫(し)味(み)のある赤色で、葉の緑色は翡翠(ひすい)のように見え、鹦(イン)哥(コ)の羽を思わせる。
 仁は嬉しそうに、箸で菠薐草をゆっくりと、一つを取り、口に入れた。
「シャキシャキして、うん~、甘い!」
 仁の微(かす)かな濡れた唇が可愛(かわい)らしく上がった。瞳の奥に、青みを帯びた空のような、妖しい透明感を潜んでいるように見えた。
 凡雪は一瞬にして、詩情な世界に舞っていくような新鮮さが胸に湧き上がった。凡雪の脳裏に、遠い向こうの幻影が浮んできた。
 芳香に満ちた畳を敷いた部屋に、凡雪は仁と座って会話を交している。突然、窓の外から小径(こみち)から下駄を履いた人の、コロン、コロンという足音が静かに聴こえた。
 その時、風の中で、鄧(テイ)麗(レイ)君(サテン)の歌声が漣のように、心地よく繰り返し流れて聴こえた。
 凡雪は、一口じっくり菠薐草を食べて、目を仁に向けた。
「日本にも、菠薐草がありますか?」
 すると仁は「ありますよ。もう少し、渋味があるかな」と答えた。
 仁は、何かを思い出したような表情をして、ゆっくりと両箸を揃え、小皿に置いた。
「以前、祖父から聴いたけど、蘇州の土が肥えているから、野菜が美味しいって」
 店員が二品目の料理を運んできて「清風(チンフウ)蝦(シア)餅(ピン)です」と伝えた。
 仁は不思議な目で料理を見て「えー、クッキーみたいだね!」と感想を述べた。
 皿に、蓮の緑葉が載せられ、上にクッキーのような形にした、淡水蝦(えび)の料理だ。
 蝦の身を砕き、餅粉を軽く塗して、油で揚げたようだ。
 涼しげな蓮の上に薄い黄色の蝦餅が精致に光って美しく見える。
 仄かな香ばしさが清風のように漂ってくると、凡雪は予想もしなかった食欲が出てきた。
 仁は、察しているように蝦餅を見て、「美味しそうだな!」と少し弾けた声を出した。
 一枚を丁寧に取った仁は、さっくと一口噛み、すぐに目を見張って視線を凡雪に向けた。
「サクサク、プリプリ、初めての触感! 好(ハオ)好(ハオ)吃(ツ)!(とても美味しい)この味は、病み付きになるよ!」
 仁の微(かす)かな咀嚼する声が、凡雪の耳元に心地よく聴こえた。仁の温かい眼差しに異国の情緒が溢れているように見えた。
 黄昏に連れ、薄い澄色の灯に、妖艶さを感じた。仁の頬が柔らかく、ほんのりと赤くなっていた。凡雪は、胸に海水が打ち寄せてきたように感じて、身体が微妙に揺れた。
 秘かに息を吸った凡雪は、一枚、蝦餅を取り、さっくと噛んだ。蝦(えび)の香りが、ふわりと、口に広がった。次は、油に絡んだ蝦の旨味が、舌の上で愉快に躍り、喉を通っていった。
 凡雪は静かに「美味しいね!」と呟いて、仁に顔を向けた。
 仁は少し俯いて、無心に食べ続けていた。静かな咀嚼音が心楽しい音に聴こえてくる。
  つづく

小説『雪花』第八章-3節

2017-10-07 11:12:48 | Weblog


ドリンクを飲み干した仁は、顔を凡雪に向けて感想を述べた。
「石榴ジュースは、仄かな酸味が効いて、美味しい!」と仁の声が柔らかく聴こえた。
 凛々しい双眸の奥に、優美で愉快な世界が隠れているように感じられた。
 突然、南風が、ふっと吹いてきた。濡れた芝のような香りがして、凡雪は仄かに酔い、好奇心が頭を擡げた。
「仁さん、中国の歴史が好きでしよう?」
 仁は、上半身を後ろに少し退し、両手で頭の後ろを抱えた。
「実を言うと、中国の成語(ツンイウ)(慣用熟語)が好きだな! 小さい頃、万里(マリ)祖母に、よく教わったよ。たった四文字で、物語が詰まって、面白いね」 
 仁の意外な答に、凡雪は別な世界に飛び込んだように、胸が熱くなってきた。
 凡雪は、そっと背筋を伸ばして、仁を見詰めながら、試して訊いた。
「仁さん、〝対〟の文字になっていてカップルを意味する成語は、何と言いますか?」
 すると仁は、得意げな表情を浮かべ、即答した。
「〝成(ツン)双成(スアンツン)対(トイ)〟と言うでしょ。今の僕と雪の関係みたいだね」
 仁の言葉が、二人の幸せを祈っているように聴こえ、凡雪は、天空に聳える富士山の頂上に立っているような高揚感を味わった。凡雪は想像を絞って、仁にクイズを出した。
「昔、あるお爺ちゃんが、山を運んでいた。成語の四文字は、何と言いますか?」
 仁は、微(かす)かに戸惑った様子が表れた。中国の過去の文化の流れを簡単に汲(く)めないような表情に見えた。ところが暫くして仁が表情を一変させ、両手をテーブルに戻した。
「分かった! 〝愚公(イウコウ)移(イー)山(サン)〟だよ!」
〝愚公移山〟は、《列子・湯問》という本に書かれた伝説だった。
 古代、愚(イウ)という名前の公(老人)が、山に住んでいた。ある日、愚は決心し、山を掘り始めた。その後、愚は自分の子供を起こして山を掘り始めた。世々代々が山を掘り続け、ついにある日、天(テン)爺(イエ)(神様)が愚子孫の行ないに感動し、山をごそっと動かして、移した。
〝愚公移山〟の成語は、困難から逃げず、意志が強い人と比喩されていた。
 仁の表情がゆっくりと微笑んで、眼差しが驚くほど輝いて見えた。
 凡雪は、仁の不思議な魅力に圧倒され、掌を上げた。仁も手を上げ、凡雪の手とハイタッチした。仁は凡雪の手を、そっと握って、テーブルに戻した。
 風音に、駿馬が優美に走っている足音が聴こえてきたかのように、凡雪は胸が高鳴った。
 心底から温かい思いが、次から次と溢れてくるのを感じていた。
つづく

小説『雪花』第八章-2節

2017-10-03 12:45:29 | Weblog
  二
  静かな新城区に着いた凡雪と仁は、自転車を止め、《創意(ツアンイ)飯店(フアンテン)》に入った。
 広い店内は左側の一面に大きなガラスが嵌められ、外の青色の竹が直ぐ間近に見えた。初夏の清涼さが、十分に伝わっている。仁は小声で「良い雰囲気だね」と呟いた。
 微かな香ばしい匂いが漂ってくると、凡雪は仄かに酔うような幸せな気分を味わった。奥の席を選んだ凡雪と仁は、テーブルの前の椅子に腰を下ろした。
 灯光は薄い澄色で、柔らかく注いでいる。台湾の歌姫、鄧(テイ)麗(レイ)君(サテン)の《夜来(イエラン)香(シアン)》の歌が囁くのように流れていた。幻想的な世界に入り込んだ心地になった凡雪は、胸の底から軽やかな感情が、清流のように流れてくるのを感じた。
 凡雪は、まずドリンクだけを注文した。一口だけ飲んだ凡雪は、静かに仁を眺めた。
 直面に座っていた仁の瞳は、深く澄んでいる。奥は雪を頂く日本の富士山が陽に照らされて、雪が緩やかに溶けているかのようだった。
 突然、仁は「雪さん、何を考えているんですか?」と訊ねてきた。
 凡雪は微笑んでから、「日本の富士山を想像しています」と軽快に答えた。
 すると仁は、興味深げな表情を浮かべて、凡雪に質問を掛けた。
「雪さんの名前の〝雪〟って、どういう意味で付けられたんですか?」
 凡雪は小さく息を吸い、「うん、生まれた時に、雪が降っていたからかな」と返事した。
 仁は、ふっと双眸に笑みを浮かべた。風変わりで、面白く魅力的な変化を見せてくれた。
 仁はストローでドリンクを飲みながら、言葉を紡いだ。
「〝雪〟の名前は素敵ですね! 日本語で、【雪明り(ゆきあかり)】という言葉があるんですよ。暗い夜、積もった雪の反射で仄かに夜が見える。〝雪から放たれた光〟という意味ですよ」
 思い出しながら説明する仁は、瞳に優しい透明感による魅力を感じさせた。
 その時、日本の富士山の高嶺(たかね)から涼しい風が漂ってきたかのように感じた凡雪は、不思議なほど快い心地になっていた。
「ご注文は」と若い女店員がメニューを持ち、凡雪の横に立った。凡雪はメニューを受け取り、目を仁に移した。仁は、笑顔を見せて「雪さんに任せますよ」と頼んだ。
 凡雪は笑顔を仁に返してから、幾つかの料理を注文した。
 その時、店の門口に若いカップルが見えた。女性の冴えた青色の服が目立っていた。
 ところが、中に入ってきて、薄い澄色の灯光に照らされると、女性の服の色が、柔らかい白味を帯びた青に変わって見えた。
 不思議な色変化に凡雪は、視線を仁に移し、「仁さん、一番好きな色は何ですか?」と訊いてみた。仁は顔を少し俯き、ストローでドリンクをゆっくりと飲んでから、顔を上げた。
「北京の故宮紫禁城(ズチンツン)の、琉璃(ルゥリ)瓦(ワ)の黄色だな。独特な黄(ワン)色で、長い歴史っていう感じだよ」
 故宮紫禁城の全体は鮮やかな紅色で、強さを表し、火炎を連想させる。世界で、博物館紅色と称されている。屋上の琉璃瓦の明(ミン)黄色は土の色で、中央に位置する色ともされた。
 中央は古代中国の皇帝の位地であり、明黄は皇帝の専用色となっている。当時、民間では禁止されており、使ってはいけない色となっていた。
 仁の答を聴いた凡雪は、ぱっと脳裏に、燦燦たる太陽の光を受けた紫禁城の建物が、紅色から強い紅紫色に変っていく景色が浮んできた。仁の澄んだ瞳が、一瞬にして、優しい陽射しが流れているように見えた。
 凡雪は、胸に感謝の気持ちが湧き上がっていた。同時に凡雪は、仁の新たな新鮮さを感じた。まるで、優美な世界からの訪問者を見ているように、無性に惹き付けられた。
つづく

小説『雪花』第八章雪から放たれた光

2017-09-30 10:31:52 | Weblog
       一
 一週間が経ち、六月に入った。
 凡雪は、香山で祖父にもてなされて過ごした好日が、ずっと心に残っていた。
 太陽が燦燦と注ぐ香山の緑の腹が、紅から柔らかい紫の彩色に朧に変化する佇まい様子を脳裏に浮かべてくると、凡雪は、聖地に携わったような気分になり、永遠の自然を心に抱かせようとした。
 月曜日の仕事を終え、図書室を出た凡雪は、手で自転車を押しながら足を前へ進めた。
 文化宮の外へ出た凡雪は、すぐ視界に、仁の姿を認めた。胸を躍らせた凡雪は「あっ、仁さん!」と呼んだ。同時に、馬に似た祖父の優しい双眸が頭を過った。
 凡雪は目を逸らさずに仁を見つめた。ふと笑った仁の双眸は、駿馬を思わせるほど黒目がちの優しい双眸だ。
 無性に仁を愛しく感じた凡雪は、頬を上げ、ずーっと仁を見つめ続けた。
 微笑んだ仁は、凡雪に近寄ってきて、大きな掌を、すっと上げた。
「お久しぶり! 雪さん、手を上げて」と仁は、凡雪に話し掛けた。
 凡雪は何気なく手を上げた。仁は自分の手で、凡雪の手と軽くパっと一回、ハイタッチした。仁は、満足げな表情を見せてくれた。
「雪さん、祖父に逢ってくれて、有り難う!」
 凡雪は口角を上げ、「仁さん、一緒に食事しませんか? 私が、請(お)客(ごる)わ」と自ら勧めた。
 すると仁は、目を輝かせて「ああー、嬉しいな!」と即座に返事した。
 春から夏にかけて夕方の空は、陽の茜色(あかねいろ)に繊細に染められていた。
 遠くへ目を見遣ると、雲で月が半分ほど隠れていた。まるで、娘(おと)子(め)の細き眉根が笑みで曲がっているように可愛らしく見えた。
つづく

小説『雪花』第七章-17節

2017-09-27 11:58:08 | Weblog

      十七

   凡雪と凡花は、祖父の家を出た。肩を並べた姉妹は深く頭を下げて、祖父に別れの挨拶をした。
「いつでも、来てもいいよ!」と祖父の声が微かに弾けた。
 すると、凡花は狂喜乱舞して「やったー!」と大きな声を出して、叫んだ。
 凡雪は顔を上げて、祖父をじっと見つめた。
 すらりと立っていた祖父は、優しい面差(おもざ)しに、目が少し潤んでいた。瞳の奥には一輪の高貴な花が咲いているかのように見えた。
 突然、背後ろから「先生、お早うございます」と、男性の声が聴こえてきた。
 凡雪が振り返ると、視界に山間地を背景にして一人の青年が映った。学生鞄を提げて、祖父に顔を向けていた。
 祖父は「ああ、凯(かい)だね。香山の農民の息子だ」と紹介すると、横に立っている楚が言葉を加えた。
「凯くんは、香山の〝秀才〟ですよ! お祖父様に日本語を教わっていますね」
 青一色の服を着ていた凯は、祖父に近づき、礼儀良く挨拶をした。
「凯は、今年七月に、江蘇省の外国大学の試験を受けるんだ」と祖父は目を凯に移した。
 祖父の穏やかな声が、山間地に漂って滲んでいく。凯は一歩退いて、清々しい立ち姿だ。
 空は縹(はなだ)色のような、明るい群青色になっていく。陽は、緋色と鮮やかな紅色が重なって見えた。二層に重なる染織の世界を思わせるほど眩しく美しく見えた。
 時折、飛んできた鳥たちは、一斉に歓声を上げるように鳴き始めた。
 再び目を凡雪に向けた祖父は、右の手を伸ばして「仁、宜しく頼むな!」と凡雪の手をしっかりと握った。目を潤わせた凡花は、祖父をそっと抱き締めて「老いた〝鳩〟でも、鳩には変わらないですよ」と甘い声で囁いた。
 凡雪は枇杷を右手で持ち、凡花と山間地の下り道を歩き出した。
「気をつけて」と祖父の声が聴こえ、楚の声も杜の声も聴こえた。
 一瞬の間に、惜別の思いに駆られた凡雪は、一度、目を瞬きした。心の中で「有り難う」と呟いた凡雪は、後ろに向かずに、一歩、一歩と足を進めた。
 遠くへ連なる緑の光景が、凡雪の目に映った。無辺な太湖が視界に入って、波の音も微かに聴こえた。進むにつれ、潮騒の響きがはっきりと聴こえた。
 凡雪は、同時に、香山の生を響かせている声も聴こえてきたように感じた。一瞬の間に、祖父の全ての人生に触れたように、凡雪は胸に高揚感を味わっていた。
 凡雪は、太湖のしなやかな音を心地良く聴きながら、太陽の下で足を進めた。
「姉(ジエ)ー、来週、仁さんと会うのが楽しみだね!」と凡花は、愛しい声を出した。
 目の奥が温かくなるのを感じた凡雪は、左手で凡花の手を、そっと握った。
「今度は三人で、香山に来ましょうか」
  次回は第八章を載せます。

小説『雪花』第七章-16節

2017-09-24 11:33:01 | Weblog
   その時、杜が朝食を持ってきた。糯米に小豆や棗、金柑が入った料理だ。
 朱に染まっている糯飯を眺めた凡雪は「美味しそうね」と期待した。
 杜が椅子に腰を下ろして、ご飯を装った。「口に合うかな」祖父は、笑みで御飯を勧めた。馬に似た穏やかな双眸が、いっそう優しく見えた。
 卓台の前に置かれたご飯を見た凡雪と凡花は、静かに視線を合わせた。碗を持ち上げた凡雪は、一口を食べて、ゆっくりと噛んだ。絶妙な柔らかさと甘さが、すぐ口の中に蕩けて広がっていく。優しい気持ちになるような味だった。
 凡花は、一口一口じっくり食べて、碗の隅々まで、米粒を残さず綺麗に食べている。
 食後に再び、祖父の淹れたお茶を飲んだ凡雪は、茶の豊かな香りに倍の滋味を感じた。
 何気なく窓を見遣った凡雪の視界に、一片も雲のない青空が映った。ふっと脳裏に、仁の顔が過った。
 心地よい熱が仄々の胸に込み上がってくるのを感じた凡雪は、密に想像をした。
 羽織袴を着けた仁が、空から爽やかな風に乗って走ってくる。
「雪さんー、祖父のお茶を飲むと、病みつきになるでしょ!」と仁は、暫くじっと凡雪を見つめた。
 ふと笑った仁の目は、祖父の目と似て、駿馬を思わせる黒目がちの優しい双眸だ。
 突然、庭から足音が聴こえてきて、楚が客間に現れた。
 楚は、柳枝で編んだ篓を持っていて、中には、枇杷が一杯に積まれていた。
「あぁ、間に合って、良かった! 香山の枇杷を持っていってください!」
 凡雪に近寄ってきた楚は、朗らかな声で伝え、篓を卓台に置いた。
 窓から陽射しが明るく客間を浴びている。枇杷は陽の輝きを秘めた色に反射して、澄色に艶めいていた。
 時間は、本の最後のページのように、容赦なく迫ってきた。外の風も、戦ぐ度に、庭の樹木をさわさわと鳴らして、別れの時間を告げているように聴こえた。
つづく

小説『雪花』第七章-15節

2017-09-21 11:34:41 | Weblog

              十五

  祖父がお茶を玻璃コップに注ぐと、元々の緑色のお茶が、紅色に変わっていた。ほんの少し紫色も滲んで、異様に麗しく美しく見えた。
「わあ~、お洒落!」の凡花の緩んだ喋り声が、凡雪の耳元で、ゆるゆると流れた。
 凡雪は両の掌で、コップを包むように持ち上げ、そっと吸い付けた。
 お茶の仄かな甘味(かんみ)と薔薇の高貴な香りが、口の中で馴染み、滲み込んでいく。喉奥まで流れていくと、巡り逢った豊潤さが、凡雪の身体に速やかに渡っていった。
「あっ!」と歓喜の小声を零した凡雪は、自然の偉大な力が身体に取り込まれてきたように感じた。一瞬の間に、躍動感を味わった凡雪は、同時に、憧れの境地に立ったような快い気分にもなった。
 外の天空は、澄み切った朝の光が虹色に弾き、増して、煌いていた。
 凡雪は、ゆっくりと頬を上げ、「お祖父様のお茶は、別格で、病みつきになりますね!」と心情を率直に伝えた。
 すると祖父は、柔らかい表情を浮かべて、凡雪を見つめた。
「ははー、雪は、仁と同じ感想を言うなあ」
 一陣の風が点心の香を連れ、凡雪の鼻元を擽った。そっとコップを持ち上げた凡雪は、お茶を含むと、改めて極上の滋味を堪能した。
 凡花は、お茶をこくっと一口飲み、「私も同じですよ!」と祖父に目を向けた。
 祖父は眉を上げ、笑いながら点心の皿を凡花の前に置いて、勧めた。
 皿には、桃色の点心が、珍味甜(ツウンブィテン)宝(パオ)の字の形に並べられていた。漉し餡で栗一粒を丸ごと包み込んだ、蘇州風の点心だ。
 凡花は、すぐ手を伸ばし、一つを取った。口に入れた凡花は、目を瞑って味わった。
「ううん、優しい甜さですね。〝平和〟って感じ!」
 凡雪も一つを取り、半分に分けた。静かに味わってから、凡雪は「ううん」と頷いた。
 晴れた青空から浅い風が、軽やかに客間に流れている。和やかな雰囲気を運んでくれたような心地になった。その時、凡花は、悪戯っぽい表情を浮べ、喉の奥から声を出した。
「お祖父様の家に、〝鳩〟がいますね」
 はっと目を輝かせた祖父は「〝平和〟って鳩かい?」と冗談を交して、訊ねた。
 凡花はハハと笑って、再び席から立ち上がった。両手を上げ、ふわ、ふわと上から下へ、鳩の舞い姿を真似した。
「お祖父様も、楚も杜も、姉も私も、皆ーが、平和な鳩!」と凡花が剽軽に演じると、祖父は、笑みを湛えながら言葉を返した。
「老いた鳩は、もう、飛べないなぁ!」
 すかさず凡花は腰を席に戻して、「大丈夫ですよ! 若い鳩が、支えてあげますから」と喜んで大声を上げた。
 窓からの風が、宇宙に張り巡らせたように、吹き上がって流れた。柔らかく艶めいた光が客間に注ぎ込んで、凡花の頬が白く溶けているように見える。
 つづく

小説『雪花』第七章-14節

2017-09-18 11:26:56 | Weblog

      十四

 その時、凡花は、真っ直ぐな目で祖父に対い、問い掛けた。
「煎茶って、美味しいですか?」
 祖父は微笑みながら答えた。
「美味しいよ。お茶は同じ種類の樹(き)なんだけど、栽培方法や、発酵させるか否かとか、どの部位から作られるかによって、味が変わるんだね。日本茶も烏龍茶も紅茶も」
 すると凡花は、「えぇーー、お茶の樹は、全部、一緒ですか?」と再び訊いた。
 祖父は、平然とした声で「そうだな……植物としては、一種類の樹なんだ」
 凡花は「えー! ひょっとして、珈琲(カーフエ)もできますか?」と訊ねると、祖父は明るく「それは、また、違うなあ!」と笑った。
 朝の涼しい清に、溌剌とした命の芽吹きと歓声が充満していた。冷えた茶器の表面に粒の水滴が滲んできた。茶が豊潤に思えた凡雪は、そっと頬を綻ばせた。
 祖父は、片手で茶器を持ち上げ、三つの玻(ガラ)璃(ス)コップに冷茶を均等に注いだ。
 眉根を笑みで曲げた凡花は、コップを見て、「熱くないお茶ですね」と甘い声を出した。
 凡花の透き通った声が、客間を上に下に漂った。玻璃中の冷茶は、朝の露を思わせるほど淡い澄んだ緑色に見えた。
 ずっと笑みを含んだ凡花は、凡雪と視線を交して、コップを手に取った。
 こくこくと飲み終えた凡花は、張り詰めた声音で伝えた。
「う、うわ~、冷たくて、美味しい!」
 コップを持ち上げた凡雪は、ゆっくりコップを傾け、お茶の馥郁たる味わいを堪能した。
 冷たいのに、殊の外、爽やかな香が、口の中でふんわりして、広がっていた。
 喉元に流れていくと、澄み切った滋味と同時に、胸の底から何かが、湧き上がってきた。
 まるで自分の人生よりも遥か昔からの、何かに出逢ったような気持ちだった。
 ――特定の場所ではなく、全てを包み込んだ自然の中で、生きる万物の喜びや悲しみに触れて共振しているように思えた。
「一杯のお茶は、自然のもてなしだね」
 静かに呟き、お茶を飲み干した祖父は、空になったコップを鼻元で嗅いだ。
 凡花は、ふふと笑って、真似して空コップを嗅いでみた。
「あぁ、香っていますね!」
 祖父は「有り難い香りだ」と頬を緩めた。
 そこで凡花は、唐突に立ち上がって、手を伸ばした。
 空コップを、祖父のコップにぽんと当てた凡花は「〝乾杯〟!」と、にこりと笑って、腰を下ろした。玻璃を交した音が、何時までも客間に響き渡っていた。
 互いに隣国の呼応をしているような、優しい響きに聴こえてきた。
 窓の外から吹き入る戦ぐ風に乗って、太湖の潮騒の音も聴こえた。心が、ゆるりと解れた凡雪は、祖父の慈愛に溢れた貌を眺めた。香山の土で微動だにしない祖父の泰然たる姿は、まるで太古から連綿と受け継がれているように見えた。
 祖父の強力な精神が滾々と脈打っているように感じた凡雪は、その時、胸から、深い尊敬の念が湧き上がってくるのを実感した。
 冷茶を何回も飲み楽しんでいた後に、杜が魔法瓶と点心を持ってきた。
 客間には、湿気を孕んだ風に、芳ばしさが漂っている。
「これから、煎茶にお湯を入れるよ」
 ほろりと笑みを浮かべた祖父は、卓台の瓶から、乾燥した薔薇を指で掬い出した。
 僅かな量の薔薇を茶器に入れた祖父は、ゆっくりとお湯を注いでいく。茶器から、熱気がふわと昇り上がって、甘い香りが流れていた。
  つづく