タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

岩国城と錦帯橋。

2014-09-30 07:45:26 | サンスベリアとトクトク(三輪車)
岩国城と錦帯橋。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利氏は領土を大幅に削減された)した吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。
岩国領は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われた。これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかったことと深く関わりがあるとする説があるが、実際には長府藩や徳山藩が長州藩主の子孫による分家として宗家継承権を有していたが、吉川家にはそれがなかったなどの事情があったとされている。当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)に漸く独立の藩として認められ諸侯に列したが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった。





















高知の宗安寺(そうあんじ)と川上不動尊

2014-09-27 08:14:52 | パタヤビーチ
高知の宗安寺(そうあんじ)と川上不動尊

=== 重要文化財(国指定) ===
* 木造不動明王坐像(明治44年8月9日指定) - 檜材、一木造、像高142.3cm、鎌倉時代作
* 木造持国天・増長天立像(明治44年8月9日指定) - 持国天像は欅材、一木造、像高160.2cm、鎌倉時代作。増長天像は檜材、一木造、像高135.3cm、平安時代後期作。










高知の宗安寺(そうあんじ)と川上不動尊

2014-09-26 08:18:49 | パタヤの水上マーケットその1
宗安寺(宗安禅寺)は別名、川上不動といい、四国三十六不動尊第17番札所に定められ、地元ではお不動さんと親しまれています。
当寺由緒に、昔鏡川上流領家郷の横矢から洪水に流された不動尊が、現住地の大藤に掛かり安置された、との伝承から川上不動の名があります。
開基は古く平安時代とされ大同二年(807年)と比定されています。
国指定重要文化財
 木造不動明王坐像(明治44年8月9日指定) - 檜材、一木造、像高142.3cm、鎌倉時代作
 木造持国天・増長天立像(明治44年8月9日指定) - 持国天像は欅材、一木造、像高160.2cm、鎌倉時代作
 増長天像は檜材、一木造、像高135.3cm、平安時代後期作

正式に宗安禅寺が成立したのは、鎌倉時代末期で、京都五山東福寺派の雙峰国師の開設により、本尊は釈迦如来像が安置されました。
やがて、長浜の雪蹊寺、五台山の吸江庵(寺)と共に土佐の臨済宗三大禅寺の一つと言われるようになりました。
宗安禅寺は戦国時代は土佐七雄(とさしちゆう)の中でも最大の豪族本山氏の菩提寺であり、その後土佐を統一した長曾我部氏も厚く保護したそうです。


== 歴史 ==
大同2年([[807年]])の創建とも伝えるが、草創の事情は定かでない。中世には裏山の不動堂とともに修験の道場となっていた。戦国時代、[[朝倉城 (土佐国)|朝倉城]]主の本山梅慶([[本山茂宗]])が当寺を保護し、同家の菩提寺となった。この際に禅寺に改められたとみられる。<ref>『日本歴史地名大系 高知県の地名』、p.361; 『日本名刹大事典』、p.513</ref>






















高知の宗安寺(そうあんじ)

2014-09-25 20:02:52 | パタヤの夜景
宗安寺(そうあんじ)は高知県高知市にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。鏡川の上流から流れてきた不動明王を川の畔の現在地に祀ったことが起源と伝えられ、別称を川上不動といい、宗安禅寺とも云われている。四国三十六不動第17番札所に定められている。










朝の散歩道の花々。その3

2014-09-19 07:17:46 | Weblog
朝の散歩道の花々。その3
彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。ただし、仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセンの花は白い)。『万葉集』にみえる「いちしの花」を彼岸花とする説もある(「路のべの壱師の花の灼然く人皆知りぬ我が恋妻は」、11・2480)。また、毒を抜いて非常食とすることもあるので悲願の花という解釈もある(ただし、食用は一般的には危険である)。