ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「古戦場」

2017年08月07日 | 旅の豆知識
 近年、日本の戦国時代から安土桃山時代の群雄割拠から天下統一期に、関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、この時代のいろいろな史跡を訪ねてみるのも、興味深いものです。
 その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「古戦場」について見てみたいと思います。
 戦国時代から安土桃山時代にかけては、戦国大名間で、あるいは、家臣が主家を倒すような合戦が日本中で行われました。また、土一揆、一向一揆、国一揆など全国で民衆の抵抗がおこり、戦国大名と対峙した場合もあります。
 そのような中で、徐々に有力な戦国大名による天下統一の方向へと向かっていくことになります。
 その場合には、楽市楽座や関所の廃止、治山治水、鉱山開発など経済の発展や民衆の期待を担えるような戦国大名が勝ち残っていくことにもなりました。
 戦国時代から安土桃山時代にかけての古戦場は、日本中にありますが、石碑があるだけで、目ぼしいものが残っていない場合もあります。しかし、本陣や砦の跡とか、死んだ武将の墓や首塚とか、激戦地の跡とか、いろいろ巡ってみると自ずと戦いの様子が目に浮かんできたりします。また、死者の血で川が真っ赤になったとか、亡霊が出るようになったので鎮めたとかの伝説が残っていたりします。
 残酷な戦場の跡ではありますが、人間の歩んできた歴史を振り返るという点で、そういう史跡を巡って、その時代に思いを馳せることも必要なことのように思えるのです。

☆「古戦場」関連のお勧め

(1)三増峠の古戦場<神奈川県愛甲郡愛川町>
 1569年(永禄12)に、相模国三増峠付近(神奈川県愛甲郡愛川町)で、約2万人の武田信玄軍と約2万人の北条氏照・氏邦軍により行われた合戦で、武田信玄軍が勝利しました。序盤では、武田軍が苦戦し、武田の将浅利信種が戦死したりしましたが、最後は北条軍が総崩れとなって退却したのです。武田軍も勝利後は、兵をまとめて甲府へ戻っていきました。現在では、合戦の行われたと考えられる場所に三増合戦場の碑と慰霊碑が立ち、近くには、戦死した武田の将浅利信種を弔っている浅利明神、首塚、胴塚等があり、ゴルフ場の上の方に武田信玄が本陣を置いたと言われる旗立て松の碑があります。

(2)川中島古戦場<長野県長野市>
 越後の上杉謙信軍対甲斐の武田信玄軍による川中島の戦いは、1553年(天文22)から 1564年(永禄7)までに、主なものは、①1553年(天文22)、②1555年(天文24)、③1557年(弘治3)、④1561年(永禄4)、⑤1564年(永禄7)の5回あったとされていますが、その4回目の1561年(永禄4)の合戦(八幡原の戦い)が一番有名で、武田軍2万と上杉軍1万2千が激突しました。武田軍は信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなどして序盤劣勢でしたが持ち直し、結局この戦いによる死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、上杉軍は越後へ引き上げることになります。現在は、武田軍が本陣を置いたとされる場所が、八幡原史跡公園となっています。その周辺には、首塚や信玄・謙信両雄一騎討ちの像、「三太刀七太刀跡」の石碑、執念の石、逆槐などがあり、公園の一角に「長野市立博物館」があって、川中島合戦のことも展示されているのです。また少し離れて、典厩寺(信玄の弟・典厩信繁の墓がある)、山本勘助の墓、胴合橋、赤川の碑 などもあり、巡ってみることができます。
 
(3)三方ヶ原の古戦場<静岡県浜松市北区>
 これは、1573年(元亀3)に、三方ヶ原で起こった、武田信玄軍と徳川家康・織田信長連合軍との間で行われた戦いです。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田信玄軍が勝利しました。徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰ったといわれています。現在では、三方原霊園の駐車場の一角に三方原古戦場の碑が立っており、少し北に行ったところに武田信玄が本陣を置いたといわれる根洗松跡がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖古戦場には、史跡碑と宗円堂があります。宗円堂は三方ヶ原の戦いにおいて両軍の死者を祀るために建てられたお堂で、現在は犀ヶ崖資料館となっています。ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いです。

(4)長篠の戦い関係古戦場<愛知県新城市>
 長篠の戦いは、1575年(天正3)に、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000人と武田勝頼軍15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。

(5)桶狭間の古戦場<愛知県名古屋市緑区>
 1560年(永禄3)に、駿河の今川義元軍と尾張の織田信長軍との間で尾張の桶狭間を中心に戦われた合戦です。約2万5千もの大軍を率いて尾張に侵攻した今川軍に対して、少数の織田軍が本陣を強襲し、今川義元の首を取って、今川軍を敗走させました。織田信長が、それ以後領地を広げ天下統一を目指す転機となった重要な戦いでした。古戦場跡の公園周辺は宅地開発され、住宅が立ち並んでいて往時の面影はなく、まるで都市公園のようになっていました。しかし、公園の木陰にいくつかの石碑が立っていて、その中に今川義元の墓標もありました。あたりはとても静かで、空気が冷たいのです。かつての戦いを偲ぶには良い雰囲気かも知れません。公園を一回りした後、高徳院にも上ってみましたが、資料館も開館していなかったので、境内を巡っただけにしました。桶狭間以外にも徳川家康が兵糧を入れた大高城跡、前哨戦で織田方が全滅した鷲津・丸根砦跡、今川義元が前日に宿泊した今川方の沓掛城跡などが散在していて、見どころがいろいろとあります。

(6)関ヶ原古戦場<岐阜県不破郡関ヶ原町>
 1600年(慶長5)に、東軍(徳川家康方)と西軍(石田三成方)によって天下分け目の関ヶ原の戦いが行われたところで、1931年(昭和6)に国の史跡になっています。この戦いでは、東軍(徳川家康方)の勝利となり、これによって徳川家康の天下となっていきました。関ヶ原には、いたるところに武将の陣の跡や首塚、墓標などがあり、巡ってみると、当時の戦闘のすさまじさを追憶させてくれます。また、近くに「関ヶ原町歴史民俗資料館」があって、この合戦の模様を詳しく展示しています。

(7)姉川の古戦場<滋賀県長浜市>
 1570年(元亀元)に、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉軍と約3万4千人の織田・徳川軍との間で合戦が行われ、織田・徳川軍が勝利したところです。序盤では浅井・朝倉軍が優勢でしたが、家康軍の奮闘により、形勢が逆転しました。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となったのです。姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。

(8)厳島の古戦場<広島県廿日市市>
 1555年(弘治元)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢とで戦われ、毛利方が勝った日本三大奇襲戦の一つ、厳島の戦いが行われたところです。1551年(天文20)に、中国地方7ヵ国を領した守護大名大内義隆は、家臣陶晴賢に襲われて自殺しました。その主君の仇を毛利元就が取った形ですが、これが毛利氏が中国地方を制覇する足がかりとなったのです。当時、厳島は瀬戸内水運の要衝で、ここにあった毛利方の宮尾城が、2万余の陶晴賢軍に攻められていたのを、毛利軍3千余が、荒天に乗じて奇襲上陸し、陶軍を壊滅させ、陶晴賢も自刃させました。現在、島内には毛利方の宮尾城跡、陶晴賢本陣が置かれていた塔の岡、包ヶ浦の毛利元就上陸之跡碑、高安ヶ原の陶晴賢敗死之所碑などがあって見て回ることができます。

☆戦国時代から安土桃山時代の主要な合戦一覧

・1467年 - 1477年 : 応仁の乱(山城国、近江国、河内国など)
・1525年 : 岩槻城の戦い(武蔵国 - 埼玉県岩槻市)○北条軍×●上杉軍
・1532年 : 山科本願寺の戦い(山城国 - 京都府京都市)○柳本軍×●山科本願寺軍
・1546年 : 河越城の戦い(武蔵国 - 埼玉県川越市)○北条軍×●上杉軍
・1548年 : 第二次小豆坂の戦い(三河国 - 愛知県岡崎市)○今川・松平軍×●織田軍
・1548年 : 上田原の戦い(信濃国 - 長野県上田市)○村上軍×●武田軍
・1550年 : 砥石城の戦い(信濃国 - 長野県上田市)○村上軍×●武田軍
・1551年 : 坂戸城の戦い(越後国 - 新潟県南魚沼市)○長尾景虎×●長尾政景
・1555年 : 厳島の戦い(安芸国 - 広島県廿日市市)○毛利軍×●陶軍
・1560年 : 桶狭間の戦い(尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市)○織田軍×●今川軍
・1560年 - 1561年 : 小田原城の戦い(相模国、上野国、武蔵国)△北条軍×△上杉・長尾軍
・1561年 : 第四次川中島の戦い(信濃国 - 長野県長野市)△武田軍×△上杉軍
・1563年 : 三河一向一揆(三河国)○徳川軍×●三河一向一揆
・1565年 : 永禄の変(山城国)○三好・松永軍×●足利義輝軍
・1567年 : 稲葉山城の戦い(美濃国 - 岐阜県岐阜市)○織田軍×●斎藤軍
・1568年 : 薩埵峠の戦い(駿河国 - 静岡県静岡市)○武田軍×●今川・北条軍
・1569年 : 三増峠の戦い(相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町)○武田軍×●北条軍
・1570年 - 1574年 : 長島一向一揆(伊勢国- 三重県桑名市)○織田軍×●長島一向一揆
・1570年 - 1580年 : 石山合戦(摂津国 - 大阪府大阪市)○織田軍×●石山本願寺軍
・1570年 : 金ヶ崎の戦い(越前国 - 福井県敦賀市)○朝倉軍×●織田軍
・1570年 : 姉川の戦い(近江国 - 滋賀県長浜市)○織田軍×●浅井・朝倉軍
・1571年 : 比叡山焼き討ち(山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市)○織田軍×●比叡山延暦寺
・1572年 : 三方ヶ原の戦い(遠江国 - 静岡県浜松市)○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年 : 槇島城の戦い(山城国 - 京都府京都市・宇治市)○織田軍×●足利義昭軍
・1573年 : 一乗谷城の戦い(越前国 - 福井県福井市)○織田軍×●朝倉軍
・1573年 : 小谷城の戦い(近江国 - 滋賀県長浜市)○織田軍×●浅井軍
・1575年 : 長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)(三河国 - 愛知県新城市)○織田・徳川軍×●武田軍
・1575年 : 岩村城の戦い(美濃国 - 岐阜県恵那市)
・1576年 : 七尾城の戦い(能登国 - 石川県七尾市)○上杉軍×●畠山軍
・1577年 : 手取川の戦い(加賀国 - 石川県白山市・能美市・川北町)○上杉軍×●織田軍
・1577年 : 信貴山城の戦い(大和国 - 奈良県平群町)○織田軍×●松永軍
・1578年 : 上月城の戦い(播磨国 - 兵庫県佐用郡佐用町)○毛利軍×●尼子軍
・1578年 - 1580年 : 三木合戦(播磨国 - 兵庫県三木市)○織田軍×●別所軍
・1581年 : 鳥取城の戦い(因幡国 - 鳥取県鳥取市)○秀吉軍×●毛利軍
・1582年 : 備中高松城の戦い(備中国 - 岡山県岡山市)○秀吉軍×●毛利軍
・1578年 : 耳川の戦い(日向国 - 宮崎県木城町)○島津軍×●大友軍
・1582年 : 高遠城の戦い(信濃国 - 長野県高遠町)○織田軍×●武田軍
・1582年 : 天目山の戦い(甲斐国 - 山梨県甲州市)○織田・徳川軍×●武田軍
・1582年 : 魚津城の戦い(越中国 - 富山県魚津市)○織田軍×●上杉軍
・1582年 : 本能寺の変(山城国 - 京都府京都市)○明智軍×●織田軍
・1582年 : 山崎の戦い(山城国 - 京都府大山崎町、摂津国 - 大阪府島本町)○秀吉軍×●明智軍
・1582年 : 神流川の戦い(上野国 - 埼玉県児玉郡上里町)○北条軍×●滝川軍
・1583年 : 賤ヶ岳の戦い(近江国 - 滋賀県長浜市)○秀吉軍×●柴田軍
・1584年 : 小牧・長久手の戦い(尾張国- 愛知県小牧市・長久手市)△秀吉軍×△徳川軍
・1585年 : 羽柴軍の四国攻め(四国地方)○秀吉軍×●長曾我部軍
・1585年 : 第一次上田合戦(信濃国- 長野県上田市)○真田軍×●徳川軍
・1587年 : 九州平定(九州地方)○秀吉軍×●島津軍
・1589年 : 摺上原の戦い(陸奥国 - 福島県磐梯町・猪苗代町)○伊達軍×●蘆名軍
・1590年 : 小田原征伐(関東地方)○秀吉軍×●北条軍
・1600年 : 関ヶ原の戦い(美濃国 -岐阜県不破郡関ヶ原町 )○東軍×●西軍

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