仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

No.1真如(宇宙の英知)に全て任せる絶対他力の祈りについての考察1

2019年12月22日 11時18分06秒 | 祈りの科学的研究

 

No.1真如(宇宙の英知)に全て任せる絶対他力の祈りについての考察1

仏教ヨーガ=自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)は現世利益をもたらす

われわれは、お釈迦様の本来の教えに戻るべきです

 

 

アダムスキー氏の「生命の科学」より抜粋

(真如=宇宙の英知=宇宙の意識)

 

『前述のように、心が宇宙の意識から印象を受けないときはありません。

宇宙の意識は全知者であり創造主でありますので、それは創造物を愛しています。

特にみずからの宇宙の意識の総計を表現し得る心にたいしてはなおさらです。

そこで恩寵の法則が行使されて、心にたいして、それと(宇宙の意識と)一体化して現象化するべき好機を与えています。

つまりわれわれは”生まれかわる”ことによってこの好機が与えられるのです。』

 

 

 

覚者であられるお釈迦様やイエス・キリストがおられた時代や、大乗経典、密教経典、新約聖書の福音書が編纂された時代は、21世紀の我々のような現代人が知っている科学や科学技術は、全く存在しない時代でした。

あの時代の僧侶や司祭たちは、時間、空間、宇宙科学、原子、分子、電磁波、電気、化学、物理学、生物学、栄養素、人体の構造と機能、生化学、生理学、潜在意識と顕在意識の機能などに関する科学的知識は全く持っていなかったのです。

そのような時代に凡夫の僧侶や司祭により編纂された、非常に限られた知識に基づく仏典や福音書の記載内容に、全面的な信頼を置くことはできません。

約2000年前の科学的知識のない凡夫の僧侶や司祭の言う事なぞ、鵜呑みにはできないのです。

そして、そんな知識しか持っていない現代の僧侶や司祭(牧師・神父)の言うこともあてにはできません。

 

21世紀の我々は、科学的な評価を行ない、何ができて何ができないのか、事実を確認すべきです。

私のブログで紹介しているラリー・ドッシー博士の意識と祈りに関するレビューやスピンドリフトの科学的実験などは、非常に優れた科学的研究であり、我々に多くのことを教えてくれます。

 

自然界に存在する知性と力を持つ存在(空=法=ダルマ=真如=宇宙の英知)は、本来、自然科学として扱うべきものだと私は思っています。

21世紀の我々に必要なのは、自然界に物理的に実在している空=法=ダルマ=真如=宇宙の英知に関する、自然科学の知識と技術の体系であり、嘘と迷信に汚染された宗教ではありません。

 

しかし、地球の科学は未発達ですから、宇宙の英知に関する科学的研究は、初歩的な段階にとどまっており不十分です。

自然界に知性と力を持つ存在(宇宙の英知)が現実に存在することを示唆するスピンドリフトによる実験結果はありますが、これだけでは十分な証明にはなっていません。

 

このため、既に把握されている科学的研究だけではなく、誤りを含む混乱した宗教界の多くの情報群の中から、宇宙の英知に関する真実と思われる情報と、具体的な実行方法とその実績を抜粋してまとめ、科学的研究の不足部分を補うしかないと思っています。

 

仏教・神道・キリスト教などの既存の宗教の教義を鵜呑みにする、無条件で信じる、という姿勢は取りません。

むしろ、それらは誤りと嘘の部分が非常に多いため捨て去って、誤った宗教による精神的な呪縛・支配・マインドコントロールから解放すべきものだと思っています。

 

 

このブログの参考記事

 

(1)自然・宇宙・森羅万象を作り・動かす存在(宇宙の英知、真如、高次の宇宙的な知性)に対する祈りの有効性  

「どのように祈るべきか スピンドリフトの実験」

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/72b792ba1469edc7a4bc79e99dee22c1

 

(2)自然界に知性と力を持つ存在(宇宙の英知)が存在することを示す実験 

「「知性と力を持つ存在」が自然界に現実に存在していることを示すスピンドリフトの大豆の実験」

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/84790af8b83aeac834da2d2ad5acff22

 

(3)仏教ヨーガ 

「仏教ヨーガ: 自分の心を「宇宙の英知」に結びつける具体的な行法」

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/e14583d1efe6b6557eaffc5ef2283a29

 

(4)真言密教: 「宇宙の英知」への祈りによる現世利益  

「大明呪、真言密教、キリスト教の比較」

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/b3ff67420b7d71078a60f8c24e7facb4?fm=entry_awp

 

 

 

1.真如=空=法=ダルマ=宇宙の英知

 

仏教では、自然界と人の心身の作用を次のような広範な要素により説明しています。

 

(a)有為・縁起・現象相(物質世界)

 

五蘊: 色・受・想・行・識 (五蘊とは万物のこと)

六根: 眼・耳・鼻・舌・身・意

六境: 色・声・香・味・触・法

六識: 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識

 

十二因縁: 人間の心身を変化させる十二の要素および人間の心身を構成する十二の要素

出典: 仏陀が説かれた真理、沢辺悟明・沢辺恭一著、三学出版、p.148

 

・無明: 縁に依存しなければ存在できないと思っている無知なる本質

・行: 有為の存在を生じせしめ維持し変化させ消滅させる機能 (生住異滅)

・識: 一様の諸行を識別する機能、識別された性質、認識、遺伝

・名色: 仮に個人として存在させる個別機能、個性、利己作用

・六入: 心身に内在する五官の根、意識の根

・触: 心身に内在する外界との因縁和合作用

・受: 意識・無意識にわたる心身の記憶機能および記憶

・愛: 次々と欲望の対象を生み出す心身の機能

・取: 欲望の対象を取得しようとする心身の機能

・有: 有為法の世界に生存しようとする心身の機能

・生: 心身の無意識作用を顕在化する機能。誕生作用

・老死憂悲苦悩: 顕在化した心身の状態

 

苦集滅道: 「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」の四諦

・苦諦: 人生が苦である

・集諦: 苦の原因は無明である

・滅諦: 苦の根源の無明を滅すれば苦は滅する

・道諦: そのためには、その方法、道がある、八正道を実践せよ。

正見、正思、正語、正命、正業、正精進、正念(思念を正しく使う)、正定(正しい瞑想)

 

(b)無為・空・本質相(ただし、空が物理的に実在するという解釈による)

 

宇宙の万物は本質相では空という一つの統一体(根源体)であり、空の中には縁起・現象相の性質は全くなく、時間・空間もない。

空の中には、五蘊、六根、六境、六識、十二因縁、苦集滅道もない(これは般若心経の有名な一節に記載されている)。

空の放つ(思う)無数の個別化された言葉により縁起・現象相の万物は作られ動かされる。

言葉までは空の性質を持ち、時間・空間がなく、縁起・現象相に現象を生み出す。

空は、縁起・現象相に現象を生み出す知性と力を持つ。

人の心身も、空の言葉により創造された被造物である。

 

人の思う言葉も、空の性質を持ち、時間・空間がなく、縁起・現象相に現象を生み出す。しかし、その力は、空の放つ(思う)言葉よりも弱い。

空の言葉は、地球や太陽や全宇宙の万物を作り動かすが、人の言葉は、そのような力はない。

 

有為(縁起・現象相)と無為(空・本質相)は、別々の2つのものがあるのではなく、一つのものを2つの面から捉えて説明しているのであり、両者は2相一体である(万物と空の二重性)。

 

 

この部分は、空を縁起・現象相の一時的な相関関係で説明しようとする龍樹(ナーガル・ジュナ)により確立された仏教界の常識・定説とは異なる少数派の見解のため、私のブログの調査報告を参照:

 

空に関する調査と考察(2015年3月29日改訂)第1部

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/9e844fa18e68ea9ff91a57b50ee1cc4d

 

空に関する調査と考察(2015年3月29日改訂)第2部

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/4573068d9898834416f0a3ea79e82833

 

大明呪の作動原理: 人の想念は空であり、時間・空間を超越し強力な創造・展開力を持つ(第1部)

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/626e11561b517fb0ab2883e5affa2b33

 

大明呪の作動原理: 人の想念は空であり、時間・空間を超越し強力な創造・展開力を持つ(第2部)

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/63ae92ba4e99ed08597e641fb31d8f22

 

 

ここで、空、真如、仏に関する長谷川洋三 早稲田大学名誉教授の見解をご紹介します。

 

出典:『般若心経』の研究―これは大懴悔の経典である

著者: 長谷川 洋三

1934年、新潟県生まれ。1959年、早稲田大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了。早稲田大学教授を経て、早稲田大学名誉教授

出版社: 恒文社 (1989/01)

 

 

p.166

この空はどういう意味なのだろうか。

空という語彙を用いずして空を表現する他の語彙としては、何が最も好ましいのだろうか。

それに対する筆者の答えは、「根源の大生命」と「み仏の御命」である。

 

 

(A)空が「根源の大生命」のように扱われている例

 

「大品」第二奉鉢品の中で、釈尊は舎利弗に向かって、次のように述べておられる。

 

空中には色も無く、受想行識も無し、色を離れて亦空無し。

空は即ち是れ色、色は即ち是れ空、空は即ち是れ受想行識、受想行識は即ち是れ空なり。

(国訳大蔵経 経部第二巻、27頁)

 

 

右の文を集合論的に整理すると、次の二つの集合になる。

(1)空の中には色・受・想・行・識などはない。

(2)空は、色・受・想・行・識そのものである。

右の二つの集合は一見、矛盾しているかにみえる。

だが、さらに整理すれば少しも矛盾していないことに気付く。

つまり、「空とは現象や精神活動以前からのものであって、しかも現象や精神の働きそのものでもある」という意味なのであり、少しも矛盾しないのである。

 

p.167

この解釈では、空とは、たとえば原子や素粒子などをも作動させしめる宇宙の根源の力を指すものと言える。

宇宙に充満していて、森羅万象の誕生以前のものでありながら、森羅万象そのものでもある「根源の大生命」とでもいうべきものを指しているのである。

釈尊は、物質も精神活動も、この「根源の大生命」そのものであることを看破されたのである。

それは、見ることも計量することもできないから、空という言葉で表現せられたものであろう。

それ自体は、見ることも計量することも出来ないけれど、「(色・受・想・行・識という)現象や働きによって知られ、はっきりと認められる」のである。

それは、宇宙に充満する「実在」であり、「実相」であり、「真如」であり、「真実」なるものであるが、計量不可知であるから「空」と表現され、「法華経」の中では「第一義諸法実相空」と述べられているのである。

森羅万象が生起する以前から宇宙に充満し、宇宙そのものであった、「実在」を実相というのであり、筆者はそれを「根源の大生命」と呼ぶのである。

「法華経」の中の「諸法実相空」という句をわかり易く表現するなら、「さまざまな差別相を持つ森羅万象であるが、その実の相は絶対平等の大生命である」という意味である。

この解釈は十八空のいずれとも矛盾するものではない。

 

 

(B)空が「み仏の御命」として扱われている例

 

ところで、宇宙の全てであり森羅万象の命そのものでもある「根源の大生命」を、筆者は人格的に捉えて「み仏の御命」と呼びもするのであるが、仏典の中で空を「み仏」と同義にみなしている例は、「大品」の曇無竭(どんむかつ)品第八十九の中にみられるのである。

 

善男子、諸仏は従(よ)って来る所無く、去ってまた至る所無し。

何を以ての故に。諸法如は不動相なり、諸法如は即ち是れ仏なればなり。

善男子、無生の法は来る無く去る無し、無生の法は即ち是れ仏なればなり。

無滅の法は来る無く去る無し、無滅の法は即ち是れ仏なればなり。

実際の法は来る無く去る無し、実際の法は即ち是れ仏なればなり。

空は来る無く去る無し、空は即ち是れ仏なればなり。

善男子、無染は来る無く去る無し、無染は即ち是れ仏なればなり。

寂滅は来る無く去る無し、寂滅は即ち是れ仏なればなり。

虚空性は来る無く去る無し、虚空性は即ち是れ仏なればなり。

善男子、この諸法を離れては更に仏無し、諸仏如と諸法如とは一如にして分別無し。

善男子、是の如は常一にして無二無三なり、諸数法を出で、所有無きが故に。

(国訳大蔵経 経部第三巻、372頁)

 

右の経文から、次の結論が導かれる。

つまり、「森羅万象には、それぞれ固有の実体がなく、その本来の真実の相は不変である。

不変なるものは真如であり仏である。

したがって、第一義諸法実相は、仏である。

故に、「第一義諸法実相は空なり」と言われる空は仏である。

そして、森羅万象は仏を離れては存在せず、故に森羅万象は仏である。

なぜなら、仏の仏たる真如と、一切の物の一切の物たる真如とは毫(ごう、少しも)異なることがないからである。

森羅万象が平等であって差別がないといわれるのは、森羅万象が仏であるからなのである。

つまり、空は仏なのである。」

(引用終わり)

 

 

真如 しんにょ/真如

WEB版新纂浄土宗大辞典

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9C%9F%E5%A6%82

一切法のありのままのすがた。如々や如実、如などとも言われる。

真実にして虚妄がないことを真といい、変わることなく常住することを如という。

永遠に変わることのない真実は言葉などで示すことができないが、あえてそれを真如と称した。

元来、縁起の理法や八聖道などの法の普遍真実であることを真如といったが、大乗仏教においてはすべての存在や現象の本性が空であるので、その絶対的一真実が真如とされる。

真如は一切法の本性であり、万有の本体であり、如来の法身の自性でもある。

人為的な判断や分別を通して認知されたすがたではなく、差別的な相を超えた無分別の立場で捉えられる絶対なるものである。

したがって自性清浄心をはじめ、仏性や如来蔵、法身、法界、法性、実相、実際、勝義、円成実性などはこの真如の同義異語といえる。

仏道修行の多くは、この真如を把捉体証することに重点をおく。

(引用終わり)

 

 

また、東京大学大学院 人文社会系研究科、次世代人文学開発センター、大藏經テキストデータベース研究会の『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版(SAT 2012)』では次のような出力があります。

 

大般若波羅蜜多經 (No. 0220 玄奘譯 ) in Vol. 07

T0220_.07.0459b10: 時。不應住諸字及諸字所引。復次世尊。諸菩

T0220_.07.0459b11: 薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不應住神

T0220_.07.0459b12: 通。何以故。世尊。神通神通性空。世尊。是神

T0220_.07.0459b13: 通空非神通。神通不離空。空不離神通。神通

T0220_.07.0459b14: 即是空。空即是神通。由此因縁諸菩薩摩訶

T0220_.07.0459b15: 薩修行般若波羅蜜多時。不應住神通

T0220_.07.0459b16: 復次世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜

T0220_.07.0459b17: 多時。不應住色乃至識若常若無常。若樂若

T0220_.07.0459b18: 苦。若我若無我。若淨若不淨。若空若不空。

T0220_.07.0459b19: 若有相若無相。若有願若無願。若寂靜若不

T0220_.07.0459b20: 寂靜。若遠離若不遠離。何以故。世尊。色等

T0220_.07.0459b21: 法常無常。色等法常無常性空。世尊。是色等

T0220_.07.0459b22: 法常無常空。非色等法常無常。色等法常無

T0220_.07.0459b23: 常不離空。空不離色等法常無常。色等法常

T0220_.07.0459b24: 無常即是空。空即是色等法常無常。由此因

T0220_.07.0459b25: 縁諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不

T0220_.07.0459b26: 應住色乃至識若常若無常。色等法樂苦乃

T0220_.07.0459b27: 至遠離不遠離亦復如是。復次世尊。諸菩薩

T0220_.07.0459b28: 摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不應住眞如

T0220_.07.0459b29: 法界法性法定實際。何以故。世尊。眞如眞如

T0220_.07.0459c01: 性空。世尊。是眞如空非眞如。眞如不離空。空

T0220_.07.0459c02: 不離眞如。眞如即是空。空即是眞如。由此因

T0220_.07.0459c03: 縁諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不

T0220_.07.0459c04: 應住眞如法界法性法定實際亦復如是。復

 

このように大般若経には「神通即是空、空即是神通」と書かれており、仏教の神通力は空の力であることが分かります。

また、真理の世界を仏教では真如と呼びますが、大般若経には「眞如即是空、空即是眞如」と書かれており、空が真如(眞如)、即ち真理の世界であることが分かります。

お釈迦様のような如来とは、真如から来られた方という意味ですが、その真如とは空のことであることが、この大般若経の記載は示しています。

 

 

一切法空は、有名な言葉です。この真如の解説によれば、一切法空=一切法真如、空=真如と解釈できます。

 

如来は真如から来られたという意味です。また、長谷川名誉教授の解説にもあるように、大般若経には空即是仏と書かれていますから、仏=真如=空と解釈でき、

仏=真如=法=ダルマ=無為=空=宇宙の英知=天の父=万物の創造主

となります。

 

 

ダルマとは、次のように説明されています:

 

ダルマ (インド発祥の宗教)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%9E_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E7%99%BA%E7%A5%A5%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99)

 

仏教ではダルマは「宇宙の法と秩序」を表していて[9]、仏陀の教えにも適用されている[9]

[9]"Dharma", オクスフォード世界宗教辞典.

(引用終わり)

 

 

ダルマ=法=真如=空とは、要は、「宇宙(万物・森羅万象)を作り動かす法則と秩序」を意味していますから、「自然界に存在している知性と力を持つ存在」であると考えて良いと思われます。

 

 

また、織田隆弘大僧正の著書に「仏身三種」の解説があります。

 

出典: 加持の力

織田 隆弘 (著)

出版社: 密門会出版部; 増補新版 (2012/12)

 

p.154

仏身三種

 

仏教では「仏身に三種あり」と説きます。

「法身ほっしん」これは自然の律*のことなのです。つまり通仏教(一般仏教に共通な説)で言う真如とか、哲学者の言う真理に当たります。

「報身ほうじん」これは無量劫の長い間修行されて、衆生済度のために西方浄土を作られた阿弥陀様のような如来のことを言います。**

「応身おうじん」とは現実にこの世にお生まれになり説法されたインドのお釈迦様です。

以上のように一応分けていますが、これら三身は本当は一体なのですが、一般仏教では法身仏は説法しないと考えます。

ところが密教では大日如来が人格的に法を説かれるという「法身説法」をとります。

(引用終わり)

 

備考

*三省堂 大辞林

しぜんりつ[2]【自然律】⇒自然法則(しぜんほうそく)①

自然法則(しぜんほうそく)①自然界の現象や秩序を支配していると考えられている法則。自然律。

**補足: 阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩など

 

 

仏身三身は一体であると説かれているように、

真如=自然法則=法身(大日如来)=報身(阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩など)=応身(お釈迦様)

となります。

 

このため、

仏=真如=自然法則=法=ダルマ=無為=空=法身(大日如来)=報身(阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩など)=応身(お釈迦様)=宇宙の英知=天の父=万物の創造主

となりますので、どの御名を唱えても同じことになります。

 

我々人間は、自然界の法則の中で生きていますが、それは、真如の海、空の海の中で生きているようなものです。

 

 

お釈迦様が生きておられた当時の仏教では、

・真如=自然法則=法=ダルマ=無為=空、(宇宙の英知、宇宙・自然界に存在する知性と力を持つ存在)

・真如と心(魂)を恒常的に結合させて融合されていたお釈迦様(覚者、如来)、

・お釈迦様の十代弟子とその他の弟子の修行僧

しか存在しなかったと考えられます。

 

お釈迦様は、人と自然界を説明するために、五蘊、六根、六境、六識、十二因縁、四諦、空を説かれたと伝えられています。

残念ながら、お釈迦様が書かれた経典は1つも存在しません。お釈迦様が、ご自身で経典(教科書)を書かれなかった理由は分かりません。

これらの教えは全て、お釈迦様の死後、数百年経過して、真如と一体化していない凡夫の僧侶が経典としてまとめたものですから、どこまで本当のお釈迦様の教えなのか、不明な点があります。

仏典は絶対的に正しいと主張する人も多くいますが(仏典絶対主義)、恐らく、かなりの説明不足があり、誤りが含まれていると思われます。

 

 

歴史的に実在が確認されている如来は、釈尊(お釈迦様、ガウタマ・シッダールタ)だけです。

釈尊は、自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)を説かれ、自然界と自分の中に存在する空=真如=法・ダルマ(宇宙の英知、万物の創造主)のみを唯一の頼みとして生きていくように説かれました。

決して、釈尊という人間個人を頼みにせよとは説かれていませんし、他人や何らかの経典を頼みにせよとは説かれていません。

 

釈尊の死後数百年後に編纂された大乗経典には、歴史的には存在が確認されていない架空の創作物である多数の如来や如来と同格の大菩薩、そして多数の神々のようなものが続々と登場しましたが、このような架空のものを釈尊が説かれたはずはないのです。

 

そして、釈尊ご自身の像を作ることを禁じられたため、残された仏教徒は、法・ダルマの象徴として「車輪」を使用しました(法輪と呼ばれる)。

 

 

お釈迦様は、自然界と自分の中に存在する真如(空・法・ダルマ)と心を結合させて生きていく仏教ヨーガ=自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)を教えられましたが、その当時の多くの弟子たちはそれを受け入れなかったと仏典は伝えています。

 

仏教ヨーガの詳細は、後の部分の「2. 仏教ヨーガ=自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)」にまとめています。

さらに詳しくは、ブログ記事 『仏教ヨーガ: 自分の心を「宇宙の英知」に結びつける具体的な行法』

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/e14583d1efe6b6557eaffc5ef2283a29

を参照。

 

 

出典: 仏教の全体像を解説した沢辺氏の著書

『仏陀が説かれた真理 ― 付 才能開発法 (仏陀の教説の実生活への活用例)』

沢辺悟明 (著), 沢辺恭一 (著)、出版社: 三学出版 (1983/01)

 

p.287

『しかし、仏陀が示された道案内の進路方向は一般の人々が目指す方向と逆方向になっているため信じることを拒絶されることが多く、さらに道案内に従って進んでいっても、肝心の仏陀となるための道案内の内容(一仏乗)は理解しがたく、示された方向も信じることが難しいので、『法華経』の法師品(ほっしほん)で「この教えは如来在世中といえども多くの者に拒否された。まして仏滅後においておや(梵本)」と説かれているように、多くの仏弟子からも信じることを拒否されています。』

(引用終わり)

 

 

つまり、多くの仏弟子たちは、お釈迦様の教えである仏教ヨーガ=自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)を拒否しており、さらに次のようなお釈迦様の教えとはかけ離れた差別制度と奴隷制度も行っていたことが歴史的記録に残っています。

 

 

p.242

『しかし、史実はほとんどの大乗仏教僧がこの戒律を守らなかったと伝えています。

仏教史によると、厳格な戒律主義の立場をとる南方上座部仏教でもその最初期から仏陀の意志に反して、イッサラ・サマナカ(エリート修行僧)という名の道場とヴェッサ・ギリ(庶民の山) と呼ぶ道場をつくって比丘の出身階級による差別を設け、紀元前後には僧院内で奴隷をかかえていたことが記録されているというように教理と実践面の差がみうけられ、堕落して衰退するたびに僧院内の自浄作用ではなく王室による指導という国家権力の力によって再建されています。

すなわち、厳格な戒律を設けても堕落して衰退するということが史実として存在しているのですから、厳しい戒律を設定し守ることによって仏法の灯が守れると考えることは錯覚にすぎません。

仏滅後に生まれたさまざまな考え方に惑わされずに仏陀の教説を正しく理解することができたならば、ジャイナ教の教理に従った戒律至上主義的な発想や、デーヴァダッダ(提婆達多)の唱えた戒律厳守主義に同調する考え方はしなくなるはずです。』

(引用終わり)

 

 

このようなお釈迦様の教えを無視して誤ったことをやって僧院を支配していた凡夫の僧侶たちが、各種の仏典を作成したのですから、経典の記載内容に誤りや誇張が入り込んでいるのは避けられないと考えられます。

 

このような状態が数百年続いて、紀元前後の大乗仏教、さらにその数百年後の密教の時代になると、凡夫の僧侶たちにより、本来、姿形を持たない無相・空の存在である真如を人格化した多数の如来(阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩など)とその仏像が雨後の竹の子の如く創作されました。

 

もし真如を人格化させた如来を設定するならば、真如は1つだけですから、いたずらに多如来化させて混乱させるのではなく、ただ1つの如来を設定し、ただ1つの真如経という経典(教科書)を作成して真如の働きを説明すれば良かったのです。

 

恐らく、当時のインドから中央アジアにまで広範囲に渡り広がっていた凡夫の僧侶たちの派閥への分裂や見解の相違、そしてバラモン教から仏教に入ってきた僧侶が、バラモン教の誤った悪しき伝統である多神教の形式を持ち込んで、このような多如来化した大混乱を生み出し、仏教をさらに複雑で理解困難なものにしてしまったと考えられます。

 

要は、バラモン教出身の僧侶が、誤った多神教の数多くの神々を真似て、数多くの如来を作り出す愚を犯してしまったのです。

 

 

本当は、真如=法=ダルマ=空という「知性と力を持つ1つの存在」(宇宙の英知Universal Intelligence)が、宇宙・自然界に存在しているだけです。

お釈迦様は、この真実を説いておられます。

 

 

阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩などの大乗経典の如来は、凡夫の僧侶による創作物で架空のもの、つまり虚構であり、本当は存在していないのです。

本来、このような架空の実在していないものに対して祈ったり信じても、意味も価値も効果も何もありません。

 

しかし、これらの如来が、自然界に実在する真如の代用品の別名であるとすれば、これらの如来の名前を唱えることは、真如の名前を唱える仏教ヨーガを行なうことと同じ意味を持ちますから、価値と効果はあると思われます。

 

ただし、そのためには、例えば大日如来や阿弥陀如来や観世音菩薩が、宇宙・自然界に存在する真如=法=ダルマ=空という「知性と力を持つ1つの存在」を意味していることを明確に認識している必要があります。

このことを明確に理解していないと、大日如来や阿弥陀如来や観世音菩薩という言葉を唱えることにより、真如と心を結びつけることができませんから、仏教ヨーガの効果を表すことはできません。

 

加持(仏教ヨーガ)で優れた業績を上げられている高野山真言宗の織田隆弘大僧正は、大日如来や阿弥陀如来を宇宙・自然界を作り動かす存在としてとらえ、南無大日如来(オンアビラウンケン)・南無阿弥陀仏と唱える仏教ヨーガを行い、病気治しや各種の願いがかなうことを実証しています。

 

私としては、「如来」と言えば人間のイメージが非常に強いので、真如を人格化して如来と呼ぶのではなく、宇宙・自然界に存在する知性と力を持つ存在を表す呼び名としては非人格的・非個人的・非局在的(普遍的)な「宇宙の英知(Universal Intelligence)」が好ましいと考えています。

 

 

この他の仏教の経典に登場する様々な神々、例えば、天部の神を代表するものである、

梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)、十二神将、十二天、八部衆、二十八部衆

などのようなものは、仏教から見れば外道であるインドの古来の多神教の神が仏教に取り入れられた完全な誤りであり、何の価値もないただのゴミクズですから、無視しなければならない代物です。

お釈迦様は本来、真如=法=ダルマ=空を説かれたのであり、これらのゴミクズの神々のようなものは説かれていません。

このような愚かなことをして混乱させたのは、お釈迦様の教えを無視して経典を書いた愚かな僧侶たちです。

(参考: Wikipedia天部https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%83%A8)

 

 

恐らく、真如の働きは、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩などの経典に書かれている働きのようなものも含んでいると考えられますが、空=法=真如の解釈を誤っている凡夫の僧侶が書いたこれらの経典の内容が、どこまで正しいのかは不明な点が多いと思っています。

 

例えば、薬師経に見られるような極端な男尊女卑の思想は明らかにインド土着の宗教のバラモン教に由来しており誤りです。

男性も女性も、真如の設計により作られている人体ですから優劣はつけられず、両方とも等しく重要です。

自然界の動植物・昆虫などは、真如により設計され作られ生かされています。

これらの生物の大部分は、雄と雌から構成されており、真如が作り動かす自然界の生態系の維持に両方とも必要な存在です。

人の男女の人体の臓器と機能の違いも、真如により設計されているものです。

男性は、妊娠・出産・授乳はできません、それができるのは女性だけです。

つまり、真如は、明確に生物の雄と雌、人の男性と女性の構造の区別と役割り分担の区別を最初から設計しているのです。

空=真如に関する正しい知識を持っていたならば、極端な男尊女卑のような自然の法則に反することは書かないはずです。

 

私の考えでは、空の解釈を間違っている凡夫の僧侶には、真如=法=ダルマ=空という「自然界に存在する知性と力を持つ存在」を理解することも説明することもできていないはずですから、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩などの経典に書かれている内容の信頼性はかなり低いと考えられます。

 

これら多数の経典に書かれていることを一字一句正しいものとして信じる経典絶対主義ではなく、総合的に何を伝えたいのかという観点で、概要を頭に入れておくだけでよいと思います。

 

(注意: 私のブログで紹介している仏教関係者の「巽直道氏、織田隆弘大僧正、長谷川洋三 早稲田大学名誉教授」は、経典絶対主義の見解です)

 

加持(仏教ヨーガ)で優れた業績を上げられている高野山真言宗の織田隆弘大僧正の著書を17冊、そして大僧正と親交の深い高野山大学の田中千秋教授の著書『大日如来に抱かれて』を読みましたが、オンアビラウンケン(南無大日如来)と唱えれば、大日如来=真如の大慈・大悲・大智により救われると書かれていますが、大日如来=真如の働きに関しては、これ以上の詳しいことは全く書かれていません。

恐らく、これらの人たちも、真如の働きについては、ほとんど知らないのだと思います。

 

 

真如の働きは、簡単に言えば、全宇宙・万物・森羅万象・自然を作り動かし、真如により命を与えられて生かされている子であるわれわれ人間を守り・導き・成長させ、現世利益と浄土往生をもたらしてくれることです。

ただし、そのためには、真如により命を与えられている真如の子である我々の側からの祈りが必要だと思われます。

だからこそ、イエス・キリストは、真如=天の父に対して、「絶えず祈れ」と教えられたのだと思われます。

 

 

2. 仏教ヨーガ=自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)

 

仏教の全体像を解説した沢辺氏の著書

『仏陀が説かれた真理 ― 付 才能開発法 (仏陀の教説の実生活への活用例)』

沢辺悟明 (著), 沢辺恭一 (著)、出版社: 三学出版 (1983/01)

の仏教ヨーガ(自灯明・法灯明)の要点は次の通りです。

 

詳細は、ブログ記事「仏教ヨーガ: 自分の心を「宇宙の英知」に結びつける具体的な行法」を参照

https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/e14583d1efe6b6557eaffc5ef2283a29

 

 

p.51 仏陀の存在となるのに宗派は関係ない

 

仏教でいう自覚とは、 パーリ語の原意 「自ら悟る」、 梵語の原意 「真理に目覚め、 真理を悟る」という意味の原語の漢訳語です。

 

真理のすべてを自覚しようとしたならば、 『法句経」の一七九・ 一八〇偈で 「仏陀の知見は無辺なり」 と説かれ、『法華経』 の方便品で「真理のすべては仏陀と仏陀のみが知り尽しており、 仏陀以外のものは知り尽せない」と説かれているように、

「八正道」「戒定慧の三学」「六波羅密」などの修行法では自覚し得ないほど無量に実在しています。

 

その無量に存在する真理のすべて(真如)が自らの心の中に実在して いるという自覚が「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚であり、その真如と一体化するという最高度のヨーガの実践が 「自灯明 (仏知見)」 の実践です。

 

自らの本質が「真如」に変化するまで、くり返し一度でも多く「真如と一体化する」という修行をすれば「仏陀の存在」となることができるわけです。

 

真理を他に求めることなく自らの心の中に求めるということは簡単なようで、信じ難く理解し難いことなので、釈尊は「四諦」を説かれ、「十二因縁」を説かれ、「無相・空」等々を説かれたのです。

 

「法華経」の方便品では 「難信難解なことであるから信じることによって実践しなさい」と説かれていますが、 仏陀の説かれた真理の正しい理解が得られたならば、当然のことながら信じられるはずです。

 

 

灯明とすベき真如については、 たとえば雑阿含経の中の『尊重経』では、

 

”ただ正法のみありて我をして自覚して三藐三仏陀を成ぜしむ。我まさに彼(法=ダルマ)において恭敬し宗重し奉事し供養し、 彼に依りてしかも住すベし。”

 

と説かれているように 「正法」 あるいは 「法」 と呼ばれていたり、大乗仏教では、「法」「仏性」(涅槃経)、「一法」「実相」 (無量義経、法華経)、「如来蔵」(勝鬘経等)などと表現し、真如を人格化して毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)(華厳経)、「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」(大日経)などと表現したり、高僧は「阿弥陀仏(無量寿、無量光)」「妙法蓮華経」と名づけています。

 

仏陀を存在せしめる本質(真如)を大乗仏教では人格化して「本仏」とも呼んでいますが、「南無妙法蓮華経」と唱える妙法五字は一般に考えられている経題という意味のみではなく、高僧が残された文書である「諸法実相鈔」では、「妙法蓮華経こそ本仏にてはおわしそうらえ」と説かれているように、「仏陀の本質である正法、すなわち妙法蓮華経」という考え方で名づけられたものであり、同じく「日女御前御返事」でも「妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となる」 と説かれているように諸仏の本質の ことをい います。

 

ですから宗派にこだわることなく、 名称にとらわれずに、自らの心の中に実在する「仏陀の本質」と一体化する行をくり返し実践すればよいわけです。

 

本尊を他に求めずに自らの心の中に求めるということが大切であり、自分と仏陀の本質は別の存在であるとしか考えられないならば、「八正道」から修行し直した方がよいでしょう。

 

ただし、 ここでいう心の中とは 「自らの身体から離れた心の状態」のことをいいます。

(引用終わり)

 

 

p.253 (自分の心を真如に結びつける仏教ヨーガ(自灯明・法灯明)の方法)

 

仏教でも「仏陀」あるいは「仏陀を存在せしめる本質」を聖音化(たとえば南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経)して、反復誦唱し、仏陀を心に思い浮かべるように念想するという方法がとられており、その方法によって三昧の状態を得るという「ヨーガ」の実践をしています。

ただしこの方法のみで三昧が得られる人はごく一部の人々です。

 

しかし、「一切法空の真実」を自覚し、「自らの心の中に自らの拠り所とすべき仏陀・仏陀を存在せしめる本質を見出した人」は、仏陀あるいは仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化し、「聖音を反復誦唱する」という「ヨーガ」を実践すると、はやく三昧の境地を得ることができます。

この方法は、心に生じてくる雑念と戦いながら黙して座禅しているより、初心者にとってははるかに効果的に「サンミャク・サマーディ」が得られますから実践してください。

(引用終わり)

 

 

p.294

「一仏乗」とは、唯一(エーカ)の仏陀(ブッダ)の本質が得られる乗り物(ヤーナ)のことを意味しており、「高度な仏教ヨーガ(瑜伽ゆが)を実践して真如と一体化し、『真如すなわち自らの心』となった状態を灯明(ディーパ)としてすべての無明を消滅し、真如すなわち自らの心となった仏教ヨーガ(瑜伽ゆが)の境地を拠り所として住し、他を拠り所としない」という、「真実究極の自灯明・法灯明の状態」で、「真如から生じる智慧(タターガタ・ジュニャーナ)を示現する(ダルシャナ)」という「仏知見(タターガタ・ジュニャーナ・ダルシャナ=梵本)」を実践することをいいます。

すなわち「一仏乗」「自灯明・法灯明」「仏知見」とは、「高度な仏教ヨーガ(瑜伽ゆが)を実践して一時的に仏陀の状態になる」という状態をくり返し実践することをいうのです。

 

自らの本質の転移は、たとえば『法句経』(123)で「よきことが自分にあらわれぬからといってよきことを軽んじめてはいけない。水滴も落ち続ければ瓶を満たすように、よきことを積み重ねれば功徳は満つるものなり」と説かれているように徐々に転移していくものですから、「仏教ヨーガ(瑜伽ゆが)によって一時的に仏陀の状態になる」という実践行も、くり返し実践するという「精進」が必要です。

 

このように、「無量の智慧」を得るためには「仏教ヨーガ(瑜伽ゆが)」の実践が必要なので『法句経』(282)で「瑜伽は智慧を生み、瑜伽なきは智慧の滅びぞ。この得失の二道を知りて、智慧を増すべく自己をそなえよ」と説かれているのです。

(引用終わり)

 

 

要約:

「万物・仏陀を存在せしめる本質」とは、「空、真如、法、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」などと呼ばれる自然界に物理的に存在し作用している知性と力を持つ存在であり、全宇宙・万物・森羅万象を作り動かしている存在です。

仏教では、姿形のない目に見えないこの存在を人格化して、毘盧遮那仏、大日如来、阿弥陀仏などと呼んでいます。

この存在は、自然界に現実に存在する「知性と力を持つ存在」であり、自然・宇宙・万物・人を作り・動かし、全てを知っています。

そして、それは、全ての人の中にも存在し、人の外にも存在しています。

この存在に帰依する言葉を「聖音化」して帰依する言葉をつくり、「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」などと唱え続ければ、

自分の心を「空、真如」と一時的に結びつけ、真如から生じる智慧を自分の心身を通して現すことができます(自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗)) (結合の持続時間は不明)。

 

 

要点:

仏教ヨーガ; 真如=万物の創造主の名前の聖音化と唱名により、自分の心を真如に一時的に結合させ、真如から生じる智慧を自分の心身を通して現すことができる(自灯明・法灯明(仏知見、一仏乗))(結合の持続時間は不明)

 

 

補足1

真如の名前は、自分の好きな名前をつければ良いとラリー・ドッシー博士は著書に書いています。

例えば、著書『祈る心は、治る力』(日本教文社)のivページには次のような名前のリストが挙げられています:

 

『本書で用いられている絶対なるもの、絶対的存在という言葉を、女神、神、アッラー、クリシュナ、ブラフマン、道(タオ)、遍在(へんざい)する心、全能なるもの、アルファでありオメガであるもの、一(いち)なるもの、などの名称に自由に読みかえていただきたく思っている』

 

 

補足2 潜在意識の祈り

「仏教ヨーガ; 真如=万物の創造主の名前の聖音化と唱名(例えば南無宇宙英知と唱える)」を続ければ、この言葉(例えば南無宇宙英知)は、無為・無相・空の性質を持つため全宇宙・全時間に同時に発生すると同時に、その人の潜在意識の個人的部分にも記録されます。

そして、顕在意識(自我)が南無宇宙英知と唱え続ければ、それが潜在意識に記憶され、やがて潜在意識が自動的に南無宇宙英知と祈り唱え続けるようになり、その人にとり南無宇宙英知が当たり前になり、その人の心と宇宙の英知が離れにくくなります。

このような状態になるまで仏教ヨーガを続ければ、真如との結合もやり易くなると思われます。

 

 

 

3.仏教ヨーガ(加持)は、真如の絶対他力により現世利益をもたらす

 

(1)仏教ヨーガが現世利益をもたらすことは証明されている

 

(a)沢辺氏の著書では、仏教ヨーガを実行すれば、苦しみが消え願いがかない、現世利益が得られるとは全く書かれていません。

沢辺氏は、終始一貫して現世利益を完全に否定されており、

現世利益を求める人は仏教ヨーガをやってはならない、

仏教ヨーガをやると現世利益は得られなくなるとまで書かれ、

仏教ヨーガの現世利益をもたらす側面を完全に否定しています。

多くの仏教学者や僧侶は、現世利益を否定していますから、沢辺氏もその説に従っていると考えられます。

 

 

(b)一方、真言密教の織田隆弘大僧正は、

祈る相手の名前、住所、年齢の情報を知って

「オンアビラウンケン(南無大日如来)」とだけ唱え続け、病気を治し、願いをかなえて、高額のお布施を得ておられます。

病気が「治る」というような具体的・指示的な内容は全く唱えていないそうです(非指示的祈り)。

 

また、終戦後の一時期は、南無阿弥陀仏と唱えて病気を治したことも著書に書かれています。阿弥陀如来は本仏とされていますから、阿弥陀如来=宇宙の英知=真如です。

 

この「オンアビラウンケン」は、別の言葉では南無大日如来=南無宇宙英知であり、

真如=宇宙の英知を信じ、敬い、その意思に従う(帰依する)ことを誓う祈りであり、

自分の心を、真如=宇宙の英知に一時的に結合させる仏教ヨーガです。

 

つまり、真言密教の織田隆弘大僧正とその門下の方々が行われている仏教ヨーガの行と証によれば、仏教ヨーガは、現実に病気を治したり、願いをかなえることができ、現世利益が得られるのです。

 

 

これは、沢辺氏が著書で主張されていることとは真反対の事実です。

 

何事も、机上の空論よりは、『実証された事実の方が真実です』から、私には、真言密教の織田隆弘大僧正とその門下の方々により実証されている事実が真実であると思われます。

 

真言密教の織田隆弘大僧正の最大の業績は、仏教ヨーガが現世利益をもたらすことを証明したことであり、現実の生活に役に立つ素晴らしいものであると思われます。

 

 

(c)巽直道氏の「般若心経の大明呪 + 南無観世音菩薩」の混合型の祈りも仏教ヨーガの一種

 

巽直道氏は、般若心経の大明呪により具体的な願いを唱える(指示的祈り)のに合わせて、真如の別名である観世音菩薩(正法明如来)の御名を「南無観世音菩薩」と唱えて、苦しみを解消し、現世利益の願いがかなうことを実証されました。

「南無観世音菩薩」と唱えることも真如と自分の心を結合させる仏教ヨーガですから、巽直道氏の長年に渡る実績も、仏教ヨーガが現世利益をもたらすことを証明しています。

 

 

(2)現世利益をもたらすのは真如の絶対他力

 

では、南無宇宙英知=南無阿弥陀仏=南無大日如来と唱える時、

その願いをかなえるのは何者でしょうか?

祈る人間の心の自力(自我の力)でしょうか?

真如の意思と知性と力でしょうか?

 

織田隆弘大僧正は、これは祈る人間の自力(自我の力)ではなく、「真如=宇宙の英知(大日如来)の絶対他力」だと説明されています。

 

つまり、祈る人が、自然・宇宙・万物を作り動かす存在(真如=宇宙の英知(大日如来)、空)の名前を唱え、

自分の心(自我)をその存在に一時的に結合させる、

すると真如=宇宙の英知(大日如来)は、現象相にいる我々の状況を把握して、

「智慧と力」を発揮して、

願いをかなえて実現させるという作用メカニズムです。

 

その知的判断と力は、祈る人間の自力(自我の力)ではなく、真如=宇宙の英知(大日如来)の智慧と力であると説明され、織田大僧正はそれを絶対他力と呼ばれています。

 

恐らく、南無宇宙英知=南無阿弥陀仏=南無大日如来(オンアビラウンケン)と祈ると、人の心(自我)と宇宙の英知(真如)が一時的に結合して、真如=宇宙の英知の意思と力が実行されるのだろうと思われます。

 

この結合が、恒久的に形成されれば、それはお釈迦様のような「如来」と呼ばれる存在になるのだと思われますが、お釈迦様が去られた後では、如来になられた方は一人もおられないので、我々のような凡夫では、それはできないようです。

 

 

(3)真言宗の仏教ヨーガ(加持)は、非指示型の祈りに見えるが、実は混合型の祈りと同じ形式

 

祈りの科学的研究をされているアメリカのラリー・ドッシー博士は、著書「祈る心は、治る力」のp.166で、非指示型の祈りに関して次のように書かれています:

 

『「御心が行なわれますように」「最善なることがおこりますように」と祈るには、最善の結果が必ず訪れるという信頼と信念が必要である。また、このような祈りは、自分の好みや要求はわきへ置いておくことを意味する。これが非常にむずかしい場合もある。たいていの人間は、自分には何が最善かが前もってわかっている気がして、せっかちに神様になすべきことを命じてしまうからだ。

 

内容を特定しない祈りをするときにも、私たちはこっそり自分なりの心づもりをもっていることが多い。もし病気の人が「御心が行なわれますように」と祈ったとすれば、その人は「まあ、病気が治ってくれてもいいんだけど」と心のどこかで思っていることが多い。

あるいは「御心が行なわれますように。ただし、そのついでに昇進させてください」と祈っていたりする。「御心が行なわれますように」という祈りが、私たちの個人的な要求や願望で汚染されていたら、その祈りは誠実なものとはいえない。』

(引用終わり)

 

 

ラリー・ドッシー博士はこのように書かれていますが、私の実際の祈りの経験から言って、自分の具体的な願いを全く思わないことは不可能だと思います。

私の場合には、「南無宇宙英知」「み心が行われますように」というような非指示型の祈りを行っている場合も、祈りの合間には具体的な願いは必ず心の中に浮かんできます。

具体的な願いを無理に押さえ込もうとしても、うまく行きません。

 

ラリー・ドッシー博士ご自身も、患者のために非指示型の祈りをされているそうですが、内心は、「患者が早く良くなって欲しい」と思っておられるはずです。

早く死んでしまえとは、思っておられないはずです。(患者がよほどの悪党ならば別でしょうが)

恐らく、この具体的な願いは、潜在意識の中にインストールされている思いですから、潜在意識の作用により、自動的に顕在意識に浮かんでくるのだと思います。

 

 

真言宗の僧侶が行う加持(仏教ヨーガ)による非指示的な祈り(オンアビラウンケンと唱える)の際には、僧侶の心の中に、

「病気を治す、願いをかなえる、お布施(お金)を稼ぐ」、

という具体的な思いが伴っていることは確実です。

 

生身の人間である僧侶は、かすみを食べて生きていくことはできず、金銭的な報酬がなければ生きていくことはできないので、お布施のことも心の中にあります。

加持を行なう僧侶にとり、加持は生きるためのビジネスであり金儲けです。

僧侶は、真如に祈り、真如の作用を使って金儲けをしている祈り(加持)のビジネスマンです。

金が絡む僧侶の加持は、この世の常である冷酷非情なビジネスと同じです。

凡夫の僧侶には、如来が持つと言われている大慈悲心はほとんどないと思っておいた方が良いと思います。

それは、我々一般庶民が、生きていくために何らかの仕事について金を稼ぐのと変わりません。

 

基本的に僧侶による加持は、金儲けの部分を含みますから、金のない人のために無料で加持を行うことを僧侶に求めることはできません。

織田隆弘大僧正の著書にも、僧侶に加持を依頼する金のない人は、自分でお百度参りをして加持をしていたことが書かれています。

僧侶による加持は慈善事業ではないのです、そして、僧侶は、大慈・大悲・大智の仏様(真如)ではないのです、ただの普通の人、凡夫です。

 

生きるために金を必要とする祈り手の僧侶のこのような思いと状態は、全知の真如=宇宙の英知には筒抜けですから、真如=宇宙の英知は、これらの状況を全て把握して願いをかなえるかどうかを判断していると考えられます。

 

つまり、僧侶が祈りの言葉として、具体的目標である病気治しを口に出して祈らず、非指示的な祈り(オンアビラウンケンと唱える)をしていても、実際には僧侶の心(潜在意識)の中に、「病気を治す、願いをかなえる、お布施(金)を稼ぐ」、という具体的な思いが伴っているため、真如がそれを読み取って、状況を判断して実現させていることは確実です。

真如の側が祈り手の心や状況を読み取る作用がなければ、真如が具体的な状態や目標を知ることができませんから、具体的な成果を生み出すことはできません。

 

ですから、非指示的な祈りと言っても、実際には祈りの具体的な内容は、祈る人を取り巻く生活状態と心の中を真如が読み取っているというメカニズムです。

要は、非指示的な祈りは、混合型の祈り(指示型+非指示型)と同じ形式になっています。

 

このため、混合型の祈り(非指示型+指示型)にしても良いと思います。

つまり、真如に帰依する非指示型の祈り「南無宇宙英知、南無大日如来、南無阿弥陀仏など」+具体的な指示型の祈り「病気が治る、など」を組み合わせても良いと思っています。

 

ただし、混合型の祈りの場合は、非指示型の祈りが含まれていますから、祈り手の願いがそのままかなうとは限りません。

祈っている人の状態を真如が判断し、真如=万物の創造主が最善と判断したことが実現するだけです。

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