前回の記事「知らずに犯している大罪」についてです。
読んでくださる方に共感していただけるかどうか、自分でもわかりませんが、援助や救済という行為の難しさについて、書いてみようと思います。
テレビ番組「あいのり」のなかで、ほとんどの若者が、「我々は日本の悪い面を反省して、アフリカの人たちを救わなければならない」という意見になりかけたとき、一人の女性の「あいのり」参加者が言いました。
「自分は、そういう、きれいごとみたいなのが嫌いだ。皆の意見には同調したくない。」
私はこの感覚も理解できるつもりです。「人や国を助ける」というのは、深くて難しい問題だと思う。こういうふうに率直に語る人を、頭ごなしに非難したり、考えを改めさせようとしては、いけないように思う。(ただし議論することは重要です。)
私も、実は人道主義的な宣伝には、反発心を感じることのほうが多いです。「愛は地球を救う」というようなキャンペーンにも、心の中には何か全面賛成できないものがある。何か弱々しい、有閑人たちのお遊びに見えてしまう。
アフリカ(特にエチオピア)の飢餓問題は、アフリカ諸国の内政問題だと考えることもできます。先進国は、別に彼らを騙したわけじゃない。住む土地も食糧もない(国家としても個人としても確保できていない)のに、子供を7人も8人も作るという、彼ら国民自身の問題だ。それに人が死ぬことを、それほど残酷と考える必要もない。日本人だって、がんや交通事故で、毎日毎日多くの人が死んでいるではないか。人は死ぬものなのだ。
援助は援助される国や人を、かえって弱くする。自主性や自立性を喪失させてしまう。食糧を与えるのではなく、食糧の作り方を教えてやるべきなのだ、という意見もあろう。しかし、それはしょせん宣教師的なおせっかいなのだ。自分のほうが偉い存在だという驕りが、その背後にはある。そしてそれは自然の摂理に反することなのだ。彼らが本当に飢餓から脱出したかったら、自力で何とかするはずだし、そうあらねばならない。つまり自己責任なのだ。彼らにその能力がないと見るのは、彼らに対する侮辱だ。
あからさまに、こんなことを言う人はいないでしょう。でも「きれいごとは嫌いだ」という発言の背後には、こういう意識せざる心理があるのではないでしょうか。
昨日の自分の記事に対するツッコミの意味で、書いてみました。いままで書いてきた神の話と、かなり矛盾しているかもしれません。
反論のある方、お待ちしています。
読んでくださる方に共感していただけるかどうか、自分でもわかりませんが、援助や救済という行為の難しさについて、書いてみようと思います。
テレビ番組「あいのり」のなかで、ほとんどの若者が、「我々は日本の悪い面を反省して、アフリカの人たちを救わなければならない」という意見になりかけたとき、一人の女性の「あいのり」参加者が言いました。
「自分は、そういう、きれいごとみたいなのが嫌いだ。皆の意見には同調したくない。」
私はこの感覚も理解できるつもりです。「人や国を助ける」というのは、深くて難しい問題だと思う。こういうふうに率直に語る人を、頭ごなしに非難したり、考えを改めさせようとしては、いけないように思う。(ただし議論することは重要です。)
私も、実は人道主義的な宣伝には、反発心を感じることのほうが多いです。「愛は地球を救う」というようなキャンペーンにも、心の中には何か全面賛成できないものがある。何か弱々しい、有閑人たちのお遊びに見えてしまう。
アフリカ(特にエチオピア)の飢餓問題は、アフリカ諸国の内政問題だと考えることもできます。先進国は、別に彼らを騙したわけじゃない。住む土地も食糧もない(国家としても個人としても確保できていない)のに、子供を7人も8人も作るという、彼ら国民自身の問題だ。それに人が死ぬことを、それほど残酷と考える必要もない。日本人だって、がんや交通事故で、毎日毎日多くの人が死んでいるではないか。人は死ぬものなのだ。
援助は援助される国や人を、かえって弱くする。自主性や自立性を喪失させてしまう。食糧を与えるのではなく、食糧の作り方を教えてやるべきなのだ、という意見もあろう。しかし、それはしょせん宣教師的なおせっかいなのだ。自分のほうが偉い存在だという驕りが、その背後にはある。そしてそれは自然の摂理に反することなのだ。彼らが本当に飢餓から脱出したかったら、自力で何とかするはずだし、そうあらねばならない。つまり自己責任なのだ。彼らにその能力がないと見るのは、彼らに対する侮辱だ。
あからさまに、こんなことを言う人はいないでしょう。でも「きれいごとは嫌いだ」という発言の背後には、こういう意識せざる心理があるのではないでしょうか。
昨日の自分の記事に対するツッコミの意味で、書いてみました。いままで書いてきた神の話と、かなり矛盾しているかもしれません。
反論のある方、お待ちしています。
彼女と世界全体との間に「境界」があり、それを越えようとすることを拒み続けているだけである。
その境界は、自身の「知」が生み出しているにもかかわらず。
「○○だから、何かをしなければ」
ではない。
つねに「○○だ」という状況を知りつつ、それがある故に「わたし」があるという「ありがとう」という感謝の念を含めた「情」を保ち続けることができれば、自然と行動が生まれてくるかもしれない。「わたし」が生きていることに対して「ほっといてくれ」と思うのなら、自身に対しての非常に狭い境界(壁)を築き上げるだけの行動しかなしえないであろう。
そして、そういう考え方の差が、(もし信じるのであれば)その人にとっての「神」や「愛」のありようを決定するともいえると思う。
>何か弱々しい、有閑人たちのお遊びに見えてしまう。
たしかに私もそのように見えてしまうタイプですが、最近はこのようなボランティア的活動は所詮自己満足でもいいじゃないか、と思うようになってきました。自分の心の中にある「何もしてやれない」という負債感を少しでも減らすために。
>彼ら国民自身の問題だ。
アフリカの人と話をしてみると、個人個人の持っている能力や教育水準はあるレベルになると相当なものなのです。しかし社会が部族ごとに成り立っていてそれが対立しあって中々アフリカの社会に統一感が生まれないという問題を感じました。そのため世界中とくにアメリカにおいてのワシントンでの有効なフロント活動に至らないために中々巨大な経済システムの餌食という立場から抜けられないのかなと思います。
また彼らの社会は大変情が厚いのですが、依存的な人間関係・経済関係を築きやすく、その生活習慣を直さない限り到底先進国にはかなう事は難しいと感じました。まぁ、あくまでも私の実感の話ですので・・・
> こちらのブログはどれも記事が重過ぎて
> コメントしづらいところがありますね
ですよね。私は、いわゆる”学生運動世代”よりは、ずっと若いのですが、昔の彼らみたいに、深刻ぶって哲学の話や政治の話をする癖のようなものがあるみたいです。
> 最近はこのようなボランティア的活動は
> 所詮自己満足でもいいじゃないか、と思うようになってきました。
本当に私もそう思います。ただ相手にとって、あまり役に立っていないのに(相手の心に届いていないのに)、それに気づかず、ただ金品を恵むだけで、自己満足してしまうことがあるので、それについて、いつか書いてみたいと思っています。
> 社会が部族ごとに成り立っていてそれが対立しあって
> 中々アフリカの社会に統一感が生まれないという問題を
> 感じました。
アフリカの国の多くは、たくさんの、いろいろな部族の集合体なのでしょうね。他部族のことなど、気にかけない。というより、いがみ合って助け合おうとしない。日本のような、国民の一体意識が強い”単一民族”の国は、世界でもめずらしいほうなのでしょうね。(と書くと在日の人とかに怒られるでしょうけど。)
> ワシントンでの有効なフロント活動に至らないために
> 中々巨大な経済システムの餌食という立場から
> 抜けられないのかなと思います。
国のために行動しようという人がいないのですね。
> また彼らの社会は大変情が厚いのですが、依存的な
> 人間関係・経済関係を築きやすく、その生活習慣を直さない
> 限り到底先進国にはかなう事は難しいと感じました。
いわゆる”近代的個人主義”というやつが、未成熟なのですね。これを成熟させるものは、”教育”、”貨幣経済”、”個人所得”、と言ったものでしょうか。”教育”はともかく、後の二者は、人間精神を荒廃させるような気がしてならないです。(やっぱり私は左翼世代?)