いままで何回か書いてきたことの繰り返しになりますけど、私の考えを整理して述べさせていただきます。
断定的に書きますけど、すべて私の主観的な考えです。証拠はありません。
生物とは「身体」を持ち、「誕生」と「死」があるもののことです。「身体を持つ」とは「自己がある」ということであり、「自己」と「非自己」の境界があるということと同じです。
誕生とは、自己の出現であり、死はその消滅です。非生物には、身体も誕生も死もありません。自己もないし、当然、自己と非自己の境界もありません。
ロボットや、一見自律的に動くとみなすこともできるような物体(剛体)に対して、「身体を持つ」とか「誕生と死がある」とみなすこともできますけど、それは人間が、その対象を擬人化しているからであって、その対象のなかには、自発的に動く自己はありません。
自己は「内発的な主体」ともいえます。
「生きている」「命がある」とは、「自己が存続している」ということと同じです。命のない物体は、風化したり錆びたりして自然崩壊することはあっても、「死ぬ」ことはありません。(ロボットの身体の部品は、すべて取り替え可能です。ロボットに死は無い。)
ここでいう自己とは、自意識を持つものに限りません。免疫学でいう自己と同じ概念のものです。
命とは、機械的物質法則から自由になって、自分の生存を維持するために、自由にうごめく、ある意味では気味の悪いものです。命の基本的イメージは、「鼓動」であり「呼吸」です。
機械的物質法則とは、定式化できる運動原理のことです。それによって将来の動きが予測できるもののことです。ある外力や刺激に対して、きまりきった運動(行動)をする場合の話です。
しかし生物は、自主的、主体的に、自分の行動を選択します。行動の99%は、「機械的物質法則」にのっとっていると言えるかもしれませんが、完全に「機械的」ではありません。マンネリを嫌うようなところがある。冒険に出るようなところがある。対面者の意表をつくことがある。
脳のない昆虫や微生物のような生物でも「主観世界」に生きています。これは「ミミズはミミズの世界に生きている」という程度の意味です。あらゆる生物は、外界を認識します。自分にとって有利なものと不利なものを識別し、それをもとに自己の行動を選択(決定)していきます。
外界の客観的な入力(自然物の性質)が、そっくりそのまま生物の内部に記憶として蓄積されるのではなく、生物が主観的に認識した「自分にとっての有利/不利」が、生物の内部に「情報」として形成されます。これが「意味」です。(「意味」の原型です。)
「意味」とは、生物にとっての価値を表すもののことであり、天下り的に与えられるものではなくて、生物の内部に、生物が自分で形成するもののことです。したがって脳もなく、言語も使用しない生物でも、「外界の意味を解釈して自己の内部に保存する」ということが言えます。(これが西垣通教授の情報学の立場です。)
「意味」は生物固体がゼロから形成していくわけではありません。正確に言えば、最初に地球に誕生した生命が内部に形成した「意味」が、それぞれの生物に、それぞれの歴史を通じて、それぞれのかたちで、継承されてきています。西垣教授が言うには、「生物とはその歴史性を抜きにしては語れないもの」です。
「心」とは「命」が自分で自分を意識するようになったもののことです。自分にとって有利なこと、自分にとって不利なこと、行動する上での不確実性、そういったものを、迷い、期待、不安などといったかたちで自己参照して、十分に考え、いちかばちかの短絡的な無謀な行動をしないようにするためのものです。(もちろんそれだけではないですが。)
心は、他の個体や他の生物との関係(生存に有利な)を作る上でも、非常に重要な働きをします。怒り、悲しみ、喜び、そしてその外部表現は、他の個体と有利な関係を築いたり、それを維持したりしていく上で、必須です。というより、種の存続に有利だったから、「心」というものが、いまのように進化したのでしょう。
非生物を材料として、生命(=自己)を人工的に作ることはできません。したがって心(精神)も人工的に作ることはできません。身体を持たないもの、自己を有しないものが、心(精神)を持つことはありません。死んだ生命は、二度とよみがえらせることができません。生命は、いつまでも「神秘的なもの」として、残りつづけざるを得ないでしょう。
生命は、従来の物質原理思考で解き明かすことはできません。宇宙における、物質につぐ、あらたな実在と考えたほうがよいように思います。(物質や物質原理に還元できない)
私は、「命や心」とひとくくりで書くことが多いですけど、両者は、実は同じもの(同根のもの)、という意識が強いためです。
ブログの最新記事に、以前mori夫さんが「教えて!goo」に投稿された質問を取り上げさせていただきました。最初にこれを読んだのはだいぶ前ですが、あんまり面白いので、ずっと記憶に残っていました。というのも、私も同じ疑問を若い頃から抱えていましたので。もしも自分だったら、この質問に何と答えるだろう? そんなことを考えていたら、こんな文章を書いてしまいました。トラックバックをお送りしましたので、もしもお暇でしたら覗いてやってください。
なにが抜けているか?
『生命』の方が寧ろ外界に規定される、ということ。
つまり「関心性」だけでは『生きられない』ということ。
あなたの行論では意味がスタティックな(存在論的な)規定性を(生命側に対して)与える(受理させる)モノであることを指摘しておきます。