不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

「アメリカの階梯」読後感想(6)

2004-10-27 01:35:17 | 哲学
信吾郎は作夢に、こんなことも言います。

《引用はじめ》
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冥界など存在せぬ。人間の死とは……意識という仮構(フィクション)の分解以上のものではない。細胞共生体は緊密に連絡しあい、固体の壁を乗りこえ、多様なかたちで生き続ける。そして引き継がれる理念や希望も同じこと。
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《引用おわり》

そして、最高の理想の理念である「アメリカ精神(自由、平等、民主の精神)」が、人類社会の隅々にまで実現されるようになることが、進歩であり生物進化の目的である。この理念の「乗り物」である人間や社会は、その実現のために努力し、己を役立てなければならない。そう信吾郎は語るのです。

アメリカ精神が理想の理念かどうかは、また別のところで再度考察するとして、「人間の死は意識という仮構(フィクション)の分解以上のものではない」という考えは、どうでしょうか。

本当に生きているといえるのは、一つ一つの微細な細胞だけである。生物個体は、それら細胞の共同生活体的な集積物にすぎない。これは正しい認識でしょうか。

これは「国家などない。民族などない。一人ひとりの個々の人間がいるだけである」という考えに似ています。

文学的(詩人的)な感性を持っている人は、何でも擬人化して見てしまう傾向があると思います。つまり何にでも心や魂を感じてしまう。動植物はもちろんのこと、国家や民族や、文化や文明や、絵画や彫刻にまで「生命感」を感じ、「生きている」と表現したりする。

でもそれはすべて詩人の幻想や錯覚かもしれない。動植物はもちろん、それらを形成している個々の微細な細胞だって「生きている」とは言えないのかもしれない。だから、当然のことながら「死」もない。

遺伝子やミームは、たしかに個体から個体へと、乗り物を乗り換えて、滅びずに「生き延びて」きているでしょう。でも私は、だからと言って、人の命や心が、幻想や仮構だとは思わないです。むしろ命や心こそが実在だと思う。

遺伝子やミームは、いわば楽譜であって、音楽そのものではない。命や心の性質は、まさにいま奏でられている音楽の、即興性・臨場性・繰り返しのきかないただ一回性、そういう性質と非常に似ていると思う。あやうくて、はかないが、幻想ではない。虚構ではない。

生きているとは、どういうことでしょうか?
死ぬとは、どういうことでしょうか?

「我思う、ゆえに我あり」
「年たけて また越ゆべしと思ひきや いのちなりけり 小夜の中山」

デカルトではありませんが、西行でもありませんが、

私がここにいる
私の前に自然や世界や宇宙がある

とわかるのも、私の命や心があればこそです。すべての存在は疑わしいと言えても、私のこの命と心が、ここにあるということだけは、疑いようがありません。

そして死は、命と心の消滅です。
自然や世界や宇宙を、何も感じとれなくなる。未来永劫。

だから、だからこそ、生きているいまこのときが、限りなくかけがえのない貴重なものだと感じられるのだ、と思うのです。

いずれ死ぬとわかるから、生を認識できるし、生に意味と価値が生まれてくるのだと思う。


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1 コメント

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「社会」に、「この私のこの」心と同じものがある... (きすぎじねん)
2004-10-27 04:16:45
「社会」に、「この私のこの」心と同じものがあると信じるに足るものがあるか?
「細胞」に、「この私のこの」心と同じものがあると信じるに足るものがあるか?
なぜだか、「この私のこの」心は、脳を中心とし、脳を含む総体としての人間にあるように思えてしまう。。。
それゆえ、「社会」とか「細胞」とかいった両方向へも広がって存在する。。。

で、グローバリズムといったとき、蜂や蟻や粘菌の小さな生命体の集合体と同一の方向性を考えるならば、多細胞生物としての人間の「統合的な意識」を念頭においてしまいうる。

これはすなわち、「脳」を中心とした「統合的な意識」を、細胞レベルや社会レベルにそのままシフト可能かどうか、言い換えれば、「心の中心の移動が可能かどうか」という議論になろうかと思う。。。

で、よくよく考えてみれば、「心の中心の移動が可能かどうか」とは、「脳」を中心として行われているであろう事を他のレベルに移植可能かどうか?と同義であり、そのまま「人工知能」の開発が可能かどうか?という議論と同義になってしまうのではないだろうか?

と、逆説的に書いてみました。。。
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