不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

なぜ《私》は生まれてきたか

2004-08-28 18:45:00 | 哲学
この文をお読みいただいているあなたを、Aさんであるとします。

10年前のAさんと、いまのAさんは、別人でしょうか? 同一人物でしょうか? 肉体も、性格も、ものの考え方も、大きく変化しているでしょうから、「別人である」ということも可能ですね。でも、mori夫とAさんが「別人である」というのと同じ意味で、「10年前のAさんと、いまのAさんは、別人である」ということはできないですよね。(幽霊の魂が、Aさんの魂を追い出して、乗り移っているのでもない限り。)

「《死ぬまで不変の自己》というようなものはない」と考える方も多いようです。きのうの自分と、今日の自分が、「同じ自分である」と感じられるのは、もっぱら記憶の連続性のためだけであると。記憶の連続性(=同一性)以外に、「《自己》の同一性」のようなものはないと。

しかし私は、年齢に関係なく、記憶とも関係のない、《死ぬまで不変の自己》があると思います。それがその人の「自己同一性」を決定づけています。これを「《私》を《私》たらしめているもの」と考えることにします。そしてそれを、もっと簡単に 魂 と呼ぶことにします。

ちなみにダライ・ラマは、いったん死んだダライ・ラマの魂が宿っている幼児が探し出されて、ダライ・ラマの座につかせられた人です。手塚治虫の「火の鳥」とか、SF漫画、小説なんかでは、生まれ変わりの話がたくさん出てきます。人間が死ぬと魂が遊離して、魂の世界の運命法則にしたがって、別の胎児や赤ん坊の肉体に入り込んでいく。

この話がもし本当であれば、私や永井均が言っている「私を私たらしめているもの」とは、この魂のことになります。そして「私の心を生まれさせたもの(=因果)」とは、前世(とそのまた前世)から続く私の魂であり、魂の世界の法則のことです。

「前世療法」などのオカルト本を読むと、催眠療法で前世を思い出した人の話が満載です。これによると、生まれ変わりは因縁によるものらしい。夫婦仲のとても悪い男女が、400年前の前世では、憎しみ合っていた貧しい農民兄弟であったとか。ある少年が夜尿症がいくつになっても直らないので「前世療法」してみたら、中世の魔女狩りで、女性を水責めの刑にする係りだったとか。(罪悪意識が病気になって現れていた。)現世のカルマが来世を決めるらしい。そしてそれは良縁と逆縁があるらしい。

こういう話を信じるのなら、私がいまの両親の子どもに生まれてきたのも、魂の世界の運命法則によるものだということになります。これが因果。でも科学を知っている現代人が、こんな話を鵜呑みにすることはできないですよね。(なんとなく信じている人は、実は多いみたいですが。)

トンデモの生まれ変わり説を否定する限り、「この私の心」が、この地球に出現したことの因果は、ありません。何の理由もなく、何の原因もなく、突然出現したことになります。そして、一度死んだら、二度と生まれてくることはできない。つまり、一度死んだら、二度と世界や宇宙を認識できない。未来永劫。絶対に。決して。

つまりここで宇宙は消滅する。「「死んだ○○○さんにとって」という但し書きがつくよ」、って言われますね。でも、そういう「主観のもつ宿命」から自由な立場にいる存在って、あるのだろうか。永井均が言うように、「主観が消えても客観は消えない」というのは、「一度生まれることができて、世界や宇宙を知った」という奇跡の内部でのみ語れることなんじゃないか。

しかし科学者に言わせると、たぶん、こうだと思います。

何かが、何の原因もなく、突然出現するわけが、ないじゃないか。考える前提が間違っているのだ。つまり「この私の心」などないのだ。ないものを「ある」と錯覚するから、「因果なく出現した」というような無理が出てくるのだ。肉体や脳から独立した、それらとは別の、「この私の心」などないのだ。肉体の出現ならば、十分に科学的に説明がつく。だから実在するのは肉体や脳だけで、「この私の心」など、脳が作り出す幻影なのだ。

(そんなことを言う科学者は小数派だ、という手厳しい指摘も受けました。)


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