「魂のロゴス」という本に、こういう記述がありました。
「物質世界は、それ自体閉じた領域であって、その領域固有の法則性に従うほかは、いかなる影響もほかの世界領域から受けることはない。これは科学の前提であって、科学的研究の結果、帰納されたものではない。つまり方法論的仮定にすぎない。現代では、教育を受けた人ほど、成績が良かった人ほど、こういう考えが真理であるかのごとく思ってしまう。」
著者は、精神世界が物質世界に影響を与えるという説の、正しいかもしれない可能性について語っているのですが、私は、この科学の前提自体は、間違っていないと思っています。つまり肉体を持たない神や霊などが、何らかの物理現象を起す(例えば十戒を岩に刻みつける)というようなことは、あり得ないと考えます。自然界は、完全に物理化学法則に従って動いていて、それを超越した現象という意味での”奇蹟”は起こらない。タネのない手品はあり得ない。
もちろん科学の法則は、まだすべてが発見されているわけではないです。(ごく一部しか発見されていないでしょう。)だから既知の科学法則では説明のできない現象も、いろいろあると思います。しかし宇宙の自然法則を無視して、オカルトパワーが物質を動かすことはないはず。なぜなら、そんなことがもしあったら、宇宙の成り立ちが崩れるから。
心(精神)を生み出しているものは、直接的には脳ですが、脳細胞や脳内物質の運動・反応も、厳格に物理化学法則に従って起こっています。
だから
「物質世界は、それ自体閉じた領域であって、その領域固有の法則性に従うほかは、いかなる影響もほかの世界領域から受けることはない。」
という記述は正しい。
しかし私は同時に、精神世界の存在も信じます。人間の心がそれを形成していると、感じられるからです。人間だけでなく動植物(命あるもの)は皆、心的なものを持っています。これらたくさんの心が、たがいに大きく影響し合って、精神世界という”場”を作っています。
人々が”気”と呼んでいるものも、この”場”を流れるエネルギーみたいなものと想像しています。(気功だけでなく”雰囲気”のようなものもすべて含めて。)”気”は精神世界だけに存在するものなので、科学的方法では検出できないはずです。これを感じ取れるものは生物だけです。水などの非生命物質がこれを感じ取れるとは、いまのところ私には考えられない。
人間の肉体を動かしているのは、人間の心です。習慣的な行動や、反射的な行動は、無意識に行われますが、判断を要する行動や、感情から起こる行動は、すべて「心が肉体を動かしている」と言ってよいと思います。つまり精神が物質を動かしている。
「ちがうよ。肉体を動かしているのは脳だよ。そして脳を動かしているのは物理化学法則だよ。」
という人もいるでしょうか? これを言う人は、心の実在を認めない人です。
「われ思う(感じる・考える)、ゆえにわれ有り」
何かを感じ、何かを考えている自分が、間違いなくここにいる。この感覚は疑えない。私は、心の実在を信じます。
「私の心は本当は実在しない幻であると思う」
これは自己矛盾発言です。
「「この世に言葉などというものはない」と書かれた言葉」
と同様の自己破綻です。従って、心は実在する。
例えば、人間が道路を作ったり、ビルを建てたりするのは、精神が物質を動かしている現象だと言ってよい。
でも、これは
「物質世界は固有法則で動いていて、他の世界から影響を受けない」
ということと、矛盾しない。
物質と精神は、重なるように同時存在している。そのように私は考えています。
肉体を持たない神や霊は、はたして存在するか? これは難問です。
私は精神世界という”場”の、意志エネルギー的存在として、あり得るかもしれないと思っています。でもそれは、精神世界に属するものなので、科学的方法では観測できない。つまり、人間の幻覚なのか実在なのか、確かめる方法がない。
しかし私はこうも思います。
問題のとらえ方が間違っている。幻覚なのか実在なのかを、区別するのは無意味だし、その必要もない。幻覚? 実在? ともにイエスである。神や霊は、そういう認識カテゴリの範疇を超えている。
美が信じられるなら、神も信じられる。
美の力を感じ取れるなら、神の力も感じ取れる。
「物質世界は、それ自体閉じた領域であって、その領域固有の法則性に従うほかは、いかなる影響もほかの世界領域から受けることはない。これは科学の前提であって、科学的研究の結果、帰納されたものではない。つまり方法論的仮定にすぎない。現代では、教育を受けた人ほど、成績が良かった人ほど、こういう考えが真理であるかのごとく思ってしまう。」
著者は、精神世界が物質世界に影響を与えるという説の、正しいかもしれない可能性について語っているのですが、私は、この科学の前提自体は、間違っていないと思っています。つまり肉体を持たない神や霊などが、何らかの物理現象を起す(例えば十戒を岩に刻みつける)というようなことは、あり得ないと考えます。自然界は、完全に物理化学法則に従って動いていて、それを超越した現象という意味での”奇蹟”は起こらない。タネのない手品はあり得ない。
もちろん科学の法則は、まだすべてが発見されているわけではないです。(ごく一部しか発見されていないでしょう。)だから既知の科学法則では説明のできない現象も、いろいろあると思います。しかし宇宙の自然法則を無視して、オカルトパワーが物質を動かすことはないはず。なぜなら、そんなことがもしあったら、宇宙の成り立ちが崩れるから。
心(精神)を生み出しているものは、直接的には脳ですが、脳細胞や脳内物質の運動・反応も、厳格に物理化学法則に従って起こっています。
だから
「物質世界は、それ自体閉じた領域であって、その領域固有の法則性に従うほかは、いかなる影響もほかの世界領域から受けることはない。」
という記述は正しい。
しかし私は同時に、精神世界の存在も信じます。人間の心がそれを形成していると、感じられるからです。人間だけでなく動植物(命あるもの)は皆、心的なものを持っています。これらたくさんの心が、たがいに大きく影響し合って、精神世界という”場”を作っています。
人々が”気”と呼んでいるものも、この”場”を流れるエネルギーみたいなものと想像しています。(気功だけでなく”雰囲気”のようなものもすべて含めて。)”気”は精神世界だけに存在するものなので、科学的方法では検出できないはずです。これを感じ取れるものは生物だけです。水などの非生命物質がこれを感じ取れるとは、いまのところ私には考えられない。
人間の肉体を動かしているのは、人間の心です。習慣的な行動や、反射的な行動は、無意識に行われますが、判断を要する行動や、感情から起こる行動は、すべて「心が肉体を動かしている」と言ってよいと思います。つまり精神が物質を動かしている。
「ちがうよ。肉体を動かしているのは脳だよ。そして脳を動かしているのは物理化学法則だよ。」
という人もいるでしょうか? これを言う人は、心の実在を認めない人です。
「われ思う(感じる・考える)、ゆえにわれ有り」
何かを感じ、何かを考えている自分が、間違いなくここにいる。この感覚は疑えない。私は、心の実在を信じます。
「私の心は本当は実在しない幻であると思う」
これは自己矛盾発言です。
「「この世に言葉などというものはない」と書かれた言葉」
と同様の自己破綻です。従って、心は実在する。
例えば、人間が道路を作ったり、ビルを建てたりするのは、精神が物質を動かしている現象だと言ってよい。
でも、これは
「物質世界は固有法則で動いていて、他の世界から影響を受けない」
ということと、矛盾しない。
物質と精神は、重なるように同時存在している。そのように私は考えています。
肉体を持たない神や霊は、はたして存在するか? これは難問です。
私は精神世界という”場”の、意志エネルギー的存在として、あり得るかもしれないと思っています。でもそれは、精神世界に属するものなので、科学的方法では観測できない。つまり、人間の幻覚なのか実在なのか、確かめる方法がない。
しかし私はこうも思います。
問題のとらえ方が間違っている。幻覚なのか実在なのかを、区別するのは無意味だし、その必要もない。幻覚? 実在? ともにイエスである。神や霊は、そういう認識カテゴリの範疇を超えている。
美が信じられるなら、神も信じられる。
美の力を感じ取れるなら、神の力も感じ取れる。
詳しくは、私のブログを見てください。
このあたりの考えは、多世界解釈における確率概念の捉えなおしがベースにあります。
これは真です。そうして、
「ちがうよ。物理化学法則を考え、その考えに縛られているのは脳だよ。脳を働かしているのは肉体だよ。」
これも真です。
双方向・相互作用・相互依存。。。
どちらが無くても「この私」は存在し得ない。。。
言葉の論理性をベースに考えるのなら、無矛盾という壁にそって考えていかねばならないでしょう。ただそれだけなのかもしれません。。。
mori夫さんの脳と心の相互的な関係にまつわる話や科学的実証に馴染まない精神世界の実在を信じるという話を読んで、精神の独自性と脳への還元性について少し考えて記事を書きましたのでトラックバックしました。
人間の精神を考える場合には、生理神経学的な機序を明らかにするという自然科学的なアプローチだけでは片手落ちでしょうし、どのような目的や実践の為に行う精神の研究なのかに応じてアプローチを変える必要があると思います。
それでは。