不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

真理という名に値するもの

2005-01-10 00:12:32 | 哲学
これは、きすぎじねんさんから紹介いただいた「婦人と老婆」の絵です。これは婦人(少女)を描いたものでしょうか。老婆を描いたものでしょうか。もちろん、わざとどちらにも見えるように描いたものですね。

この絵の作者が主張したかったことは何でしょう。私が想像するに

世界は、見方によって、まったく違って見えてしまうものなのだ。そしてその様々な「見え方」は、それぞれ「正しい」とも言えないし「正しくない」とも言えない。世界の真実の姿というものは存在しない。逆に言えば、すべての見え方が真実の姿なのだ。

ということでしょうか。(ここでの世界という言葉は、歴史、社会、倫理、神仏といった様々な言葉に置き変えて、考えることが可能ですね。)

これも、きすぎじねんさんに、紹介いただいた「哲学者からの手紙」からの抜粋引用です。

■引用はじめ■
幸か不幸か、我々は生物の進化論的な過程で認識能力を高めてきた。外の世界が本当はどうなっているかは分からないけれど、少なくともそのような認識能力を備えることで、身を守り、子孫を残すという見事なシステムに進化してきたと思う。ところがこの認識能力というのは実は世界をありのままに知覚するという能力ではなく、我々の生存に必要な認識のフレームワークを構築するということに他ならなかった。

我々は世界に触れることによって、そこから世界に関する青写真を作ることになる。しかし、その青写真は、世界をみつめる視線の角度によって微妙に違ってくる。同じ対象を描写しているにもかかわらず、青写真ごとに、微妙な輪郭のずれが生じてくるのだ。

錯覚という言葉は、元来、「正しさ」と「誤り」というものを前提している。しかし、この二つの概念はかなり人為的なもので、本当は、錯覚を単なるフレームワーク同士の衝突とか、「歪み」みたいなものとしてとらえるべきだと思う。

正しさの本当の基準とは何だろうか。これは難問だ。

「見え」も「理論」も我々人間の側のストーリーであって、そんなこととは無関係に世界はある。「正しさの規準」という発想そのものが実はとてもローカルなものなのかもしれない。

宇宙は、霧のように姿をもたない実体だ。僕らは、それに認識の光を当てる。そうすると、世界は、ある形になって見えてくるけれど、光の当てかたによって一様にはならない。それはあたかも、三次元の物体を二次元の平面でスライスするようなもので、当の物体の側面はとらえることができるかもしれないが、それは世界の本性にはならない。

我々は数千年の間、世界のあり方を見つめてきた。そこには幾重にもなった時間の層があり、歴史の中の重みがある。しかし、それは、霞をつかもうとする森の人の姿とどこか似ている。

世界に姿はない。霧の空間は認識というレンズの背後で静かに像を結ぶ。
■引用おわり■

すべての見え方(すなわち人間が、「これこそ真理だ」と思う種々のもの)は、すべて相対的なものにすぎないのだろうか。世界(歴史、自然、生命……)の本当の姿というものは、存在しないのだろうか。それとも存在するのだけれども、人間は絶対に知ることのできないものなのだろうか。

ここでまた問題発言(笑)をします。

私は真理とは、世界や宇宙や生命の「価値ある解釈」のことであり、人間が、その根源的性質である自由によって、そして人間の両手である理と情の協働によって、主体的に創造していくものだと思う。命と心の本質である自由性によって、自らにとって価値ある「見え方」を構築していくことが、「真理を発見していく」のと、同じことなのだと思う。これは詭弁や方便ではないです。科学と文学は、究極的には矛盾しない。

そしてその真理は、命と心を滅びから救う。そういうものこそが真理という名に値する。


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3 コメント

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そもそも「科学と文学が矛盾する」と、いいだした... (きすぎじねん)
2005-01-10 02:29:24
そもそも「科学と文学が矛盾する」と、いいだしたのは誰なんでしょうか?
確かに、科学「的表現」とか、文学「的表現」という言葉はあります。
それは「知的・客観的・理論的」と「情的・主観的・散文的(かな?)」という方向性の違いであり、それこそ、錯視的なのではないでしょうか?
なぜだか人々は、そういったものを通して、「真理」だと叫びたくなるようなものを探してしまおうとする。。。それゆえに、(逆説的に)錯視という概念が生まれるのではないでしょうか?
一つの真理(と呼べるもの)は、「個々人が、全体へと貫き通そうとする無矛盾の矛の一本であり、全体から個々人へと向かう光を映す無矛盾の盾の一枚である」と、そんな気がしています。盾と矛の方向性が一致するとき対消滅のように矛盾がなくなる。矛盾が解消されたと感じるところには、もはや真理などないかのごとくに平然と生活を送っていけるのかもしれない。。。
でも、それが錯視の一面でしかないと知ったとき、その「一つの真理」を貫き通そうとするのだろうか?
何の矛盾も感じないというところにこそ、背反する真理・矛盾が隠されているのかもしれないですね。。。
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きすぎじねんさん、ありがとうございます。 (mori夫)
2005-01-10 21:27:00
きすぎじねんさん、ありがとうございます。

>そもそも「科学と文学が矛盾する」と、いいだしたのは
>誰なんでしょうか?

私が勝手にそう思っているだけかもしれません。科学それ自体は、純粋な学問であり、自然法則究明手法ですから、それが何かと矛盾するというようなことは、あり得ないのでしょうね。

>確かに、科学「的表現」とか、文学「的表現」という
>言葉はあります。
>それは「知的・客観的・理論的」と
>「情的・主観的・散文的(かな?)」という方向性の違いであり、
>それこそ、錯視的なのではないでしょうか?

そうです。私が科学と文学の矛盾と言ったのは、正確には、「科学的なとらえ方と文学的な感じ方による、世界の見え方の違い」、ということでした。

>なぜだか人々は、そういったものを通して、「真理」だと
>叫びたくなるようなものを探してしまおうとする。。。
>それゆえに、(逆説的に)錯視という概念が生まれるのでは
>ないでしょうか?

科学が報告してくれる、種々の法則は、どうも「真理」という名に値しないように思うのです。(と言うと科学者に怒られますが。)科学は、たとえば楽器のしくみや、音波(空気振動)の状態や、脳細胞の働きや、脳内の化学物質変化ばかり調べて、それを合理的に説明しようとします。でもそれでは、音楽とは何か、とか、心とは何か、という本当に知りたい問題には、さっぱり迫れないのです。

「宇宙とは何か、宇宙はなぜ存在するか」
「人間とは何か、人間はなぜ生まれてくるか」
「人間の生の本当の目的は何か」

これこそが本当に知りたい問題です。ある人は宗教的な教えに、その答えを見つけます。ある人は、科学が報告してくれること以外は考えようとせず、「生に意味も目的もないよ。生物は遺伝子の乗り物にすぎないよ。そして遺伝子は、ただの記号だよ」と言って、平然としています。

でも文学趣味の人間は、宗教にも科学にも、満足できないです。精霊とか、霊魂とか、精神とか、神仏の実在が、確かに感じられる。宇宙の存在目的も、それらと深い関係があるように思える。しかし、旧来の民族宗教や、それに毛の生えた程度の、スピリチュアリズムにも、満足はできない。そして、やはり科学を無視することもできない。

こんな、自分自身の内心の思想的葛藤をふまえて、科学と文学は矛盾しているが、究極的には、矛盾しないだろう、などと言ってみたのでした。

>一つの真理(と呼べるもの)は、「個々人が、全体へと
>貫き通そうとする無矛盾の矛の一本であり、全体から
>個々人へと向かう光を映す無矛盾の盾の一枚である」と、
>そんな気がしています。盾と矛の方向性が一致するとき
>対消滅のように矛盾がなくなる。
>矛盾が解消されたと感じるところには、もはや真理など
>ないかのごとくに平然と生活を送っていけるのかもしれない。。。

すみません。この部分、意味が見えません。

>でも、それが錯視の一面でしかないと知ったとき、
>その「一つの真理」を貫き通そうとするのだろうか?
>何の矛盾も感じないというところにこそ、
>背反する真理・矛盾が隠されているのかもしれないですね。。。

科学も、宗教も、文学も、それぞれがすべて「錯視」だということでしょうか。それとも科学が「真実」で、宗教や文学が「錯視」だということでしょうか。

少女にも見えるが老婆にも見える。どちらが真実か。

森は生物たちの生存競争の修羅場か。それとも生物たちが共生するオアシスか。

私はその矛盾を、より深い眼力によって見つめ続けることで、より深い真理への道へと進めるように思います。(ヘーゲルの言う”止揚”?)
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分かりにくくてすみません。。。 (きすぎじねん)
2005-01-11 02:30:11
分かりにくくてすみません。。。
個々の「捉え方」にて「捉えられた姿」は、無矛盾・論理的であれば、それぞれ「(知的に)真」だということです。いったん、そのような認識をしてしまった「捉え方」は、特に、無矛盾であるならば、普段意識しないでいる。
「科学的」に捉えようとするのも一つの姿だし「(mori流)文学的」に捉えようとするのも一つの姿でしょう。
そういった捉え方で捉えられた姿はどちらも真であるゆえに、錯視的ではないのだろうか?
ということです。
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