息子たちが小さい頃。
車に乗る時、ごはんを食べる時、靴を履かせる時…正直なところ早く自分でやれるようになりなよ、と思ってしまうような場面はありました。
でも僕は、
(あと何回こうしてあげられるのだろう?)
って思うようにしていた。
その回数は数えてもいないし、もちろん覚えてもいない。
意識してないうちににその「回数」は終わり、存外にその時間はあっという間に過ぎ去った。
いつからか勉強しなさいよ?とか身だしなみをちゃんとしたら?とか要望のレベルが上がっていく自分にも気付いていた。
【どちらでもいい】
そんな題で息子に手紙を書いたことがある。
自戒のような手紙だった。
要は、勉強しようがしまいがどちらでもいい。
行って欲しい学校も、なって欲しい職業もない。
違う人間なのだから違う人生であることは間違いないし、影響は与えることは出来ても、人に他人を変える力などはない。
まして、父さんが常に正しいというわけでもなければ、世の中で正しいとされていることが必ずしも正しいということでもない。
生きていてくれれば、それでいいんだ。
そんな旨を伝えてきた。
すっかりと大人になり、優しく礼儀を心得、素直な子たちに育った気がする。
手前味噌ではなく、本人たちがそのようにオートで育ってくれたのではないかと思うほど立派である。
本当に立派。
話は遡って、彼らが小さい頃。
遊びに連れて行ったら「遊び潰す!」という僕の中のテーマがあった。
キャンプでもなんでも。
ヘッッッッッットヘトになるまで、遊ぶ。
普段、僕は厳しいからね、その時ばかりは「ダメ」と言わない数日間にしたりした。
先日、長男が帰省してきたもので嬉しくなってアベテツ一家と遊びに出かけた。
男のみの一家同士。
カップラーメンでよかろう。
カップラーメンがよかろう。
みんなで風呂に入る。
小さい頃から変わらない。
変わったことは、自分の頭は自分で洗ったりするってこと。
自分のことは殆ど自分でしちゃう。
夏休みに入って、
「修行のような時間だ…」
と殆どの親御さんたちは言うけれども、本当にそうでしょうか?
楽しいし、いい機会じゃん。
親子と言えども、キチンとした人間関係がないといけないと思う。
いつか必ず、それぞれの人生になるのだから。
だから彼らがいつか誰かにそうできるように、思い出という心のブースト剤を持たせてあげたい。
躾ではなくてさ、挨拶はする、させる。
おはようだけではなく、全ての「あいさつ」
可愛がられるようになって欲しい。
思い通りにならないのは当たり前のことです。
自分とは別な人間なのだから。
思い通りにしてはいけないのです。
自分とは違う人格なのだから。
自分とは違う。
自分の求めていることとは違う。
自分の想像と違う。
そのように不満を数え始めると、人はすぐに不幸になる。
眼前にある楽しさとか嬉しさ、幸せを数え、そういう生き方を見せることしか僕には出来なかった。
そうしないとファミコンを買ってくれなかった!
という一点のみで家出する!というワガママな子と変わらんし、そんな子にしたくなかった。
そして、そのまんま大きくなったらヤバい。
かなりヤバい。
「ないものはないし、あるものでどうにかするしかない。」
どこに行っても、僕はそうだった。
教えることなんて出来ないから、動物がそうするように、僕はそういうことを見せてあげることしかできなかった。
だから彼らは、そうなった。
彼らは、僕から見てそうなりたいと思える人になった。
でもね。
やっぱりまだ僕の可愛い子たちなんです。
人おもいのいい子たち。
遊び潰してやった。
そうすると、あの頃と変わらない子どもに戻る。
今日から東京。
明日には戻ります。