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自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆震災とマスメディア-10-

2011年05月31日 | ⇒メディア時評
 金沢大学で「マスメディアと現代を読み解く」という共通教育授業を担当している。これまで3回にわたって、震災とマスメディアをテーマに、現地での取材を交え講義してきた。その中で論議のポイントとして話してきたことをまとめる。これまで取材した被災地での記者やカメラマン、ディレクターの有り様は、震災の当事者ではない記者たちが現場で浮いている状態だった。

         震災とメディア、遺体写真をどう考えるか
 たとえば、2007年3月の能登半島地震で実際に私自身が目の当たりにした光景は、輪島市門前町でただ一つのコンビニで食料を買いあさるテレビ局のスタッフの姿であったり、倒壊のしそうな家屋の前でじっとカメラを構え余震を待つ姿だった。記者やディレクター、カメラマン、ADも人の子である。お腹も減れば、ジュースも飲みたい。また、余震で家屋倒壊のシーンを撮影したい、「絵をとりたい」という気持ちは当然であろう。ただ、被災者への目線、被災者との目線がすれ違い、それが違和感を生んでいた。

 今回の東日本大震災は大きく違っていた。広範囲での災害だっただけに、地域のマスメディア(ローカル紙やブロック紙、ローカルテレビ局)そのものが被災者となった。取材で訪ねテレビ局の社屋を見せてもらった。外見はそのままだが、社屋の上の鉄塔が揺れた5階(総務や役員室)は天井があちこちで落ちていた。自家発電や取材車のためのガソリンの確保、食料の確保などの課題が次々と襲ってきた。身内に犠牲者が取材スタッフもいる。だから、報道制作局長は「被災者に寄り添うような取材をしたい」とローカル番組では避難所からの安否情報を、ニュースでは生活情報に視点を注いだ。これから何十年とこのメディアの被災者目線が地域に生かされていくのなら、ローカルメディアの新たな姿がそこに確立されるのではないかと期待もした。

 学生たちにあるテーマを投げかけ、意見を書いてもらった。こういうテーマだった。「【設問】日本のマスメデイア(新聞・テレビなど)は通常、遺体の写真を掲載していません。読者や視聴者の感情に配慮してのことだと考えられます。一方で、海外メディアはリアリティのある写真を掲載しています。以下の問いのどちらかを○で囲み、あなたの考えを簡潔に述べてください。」。少々シビアなテーマだ。震災報道では、新聞もテレビも遺体が映された写真や動画はない。ある新聞社が写真特集で、遺体にかけたれた布団から足だけが出ている写真が唯一、マスメディアを通じて見た遺体写真だった。ただ、海外のメディアは毛布にくるまれ顔がのぞく遺体を親族ではないかと覗き込む人々の遺体安置所での写真を掲載し、ネットでも掲載している。日本のメディアは、遺体に関して露出することにかなり神経を使っているのである。

 こうした日本のメディアの姿勢への学生たちの反応は、「現状でよい」が154人。「見直してもよい」が81人。二者択一だったが、どちらも丸で囲まなかった者が2人いた。一番多かった現状肯定派の言い分は、1)見る側への心理的な影響(トラウマ、PTSDなど)、2)人権・人の尊厳、プライバシーへの配慮、3)別の表現方法がある(ネットやデータ放送など)、4)日本人の独自の文化、メンタリティーである、など4つに大別できた。中には、「その遺体写真を見た幼い子どもたちがトラウマになったら誰が責任をとるのですか」と強く反対する論述もあった。

 一方、見直し派はの言い分は、1)「現実」「事実」を報道すべき、2)メディアはタブーや自己規制をしてはならない、3)見る側の選択肢を広げる報道を、に概ね分けることができた。遺体の見せ方には配慮は必要としながらも、事実や現実を意図して隠すことに違和感を感じ取った学生が多かったようだ。ある学生は「テレビは嘘は言わないが、真実も言わない」と手厳しい。

 こうした議論はマスメディアの中でもぜひしてほしい。238人の学生の意見でも熱く論じる者が多数いた。国民的な論議になるかもしれない。

※写真は、5月11日に気仙沼市に営まれた大漁旗を掲げての慰霊祭。

⇒31日(火)朝・金沢の天気   はれ

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マスコミはどう向き合うのか (岩田秀樹)
2011-06-05 23:44:28
少々古くなった感はあるが原文のまま転載するので読んでいただきたいと思う。私も釧路沖地震で震度6強を味わい。今は震災後の神戸で暮らし、故郷の能登はまさかの震災に遭遇している。因縁めいたものを感じてはいたのだが、今回の地震には恐れていた原発事故を誘発した。原発安全神話の片棒を担ぎ続けたのもマスコミである。ならば今は反省の弁があってもおかしくないし、CMに出演し原発の安全を訴え続けた芸能人や文化人たちは反省の弁や行動があってもよいのではないだろうか。そんな中新聞の整理中に一つのコラムを見つけ食い入った。原発についてではないが貴重なコラムではないか。ジャーナリストはどうあるべきか、勇気を持ったコラムではないかと思う。
自在コラムの読者諸氏にもぜひ感想をお聞かせ願いたい。

神戸新聞 夕刊(20011/05/21)論説サロン
 13年前に書いたコラムに研究者から問い合わせの電話をいただいた。すぐには内容を思い出せなかったが、話しているうちに記憶がよみがえってきた。「市民のための工学」と題した文章はこんな内容だった。
 
阪神・淡路大震災以前、土木学者は「日本の高速道路は地震でも倒れない」といった発言をしていたが、高架高速道路は倒壊した。なぜ倒れたのか。国は「想定外の地震」とするだけだ。市民の素朴な疑問への答えはまだ出されていない。
 13年前、土木学会関西支部は震災の教訓を生かすため、分厚い報告書を発行した。そこにも分かりやすい答えは記されていない。コラムを書いたのはそれがきっかけだった。
 土木工学は英語で「シビル・エンジニア」という。直訳すれば「市民の工学」だが、そうした学問になっているだろうか。「震災後、土木工学は市民に近づいたのか」と13年前、素朴な疑問を呈した。
 電話してきた研究者はその問題提起を受け止め、考えたいという。東日本大震災後、「想定外」があらためて語られる中で、エンジニアに何が求められているか。土木学会に所属する研究者や技術者有志の会への参加を誘われ、その場で昔のコラムの意図を説明することになった。
 素人の少々乱暴な意見かもしれないが、出席者は、市民のための工学、リスク情報の開示などをめぐり熱心に議論してくれた。すぐに答えが出る問題ではないが、真摯な姿勢には専門家の良心が感じられた。話し合いは継続するという。
 今回の震災後、土木学会長らは緊急声明で「想定外という言葉を使うとき、専門家としての言い訳や弁解であってはならない」と述べた。市民の感覚に近づくことを期待したい。
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