自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★能登の旋風(かぜ)-7-

2008年09月30日 | ⇒トピック往来

 2005年4月にスタートした「自在コラム」はきょうで500回を数える。簡単な統計を算出してみる。月換算(42ヵ月)で平均11.9回を掲載。ざっと3日に1回という計算。スタート当初は毎日書いていたが、ここ1年はサボリが多くなっている。アクセス数は昨日(29日)は98、ページビューは385だった。42ヵ月の平均値はデータがないので出せないが、毎日平均アクセスはざっと80ほどか。意外な人から突然に「先日のコラムで書かれていた○○さんの話の中で…」と質問され面食らうこともある。いろいろな方に読んでいただいている、というのが実感だ。

         次なるステップへ

  さて、シリーズ「能登の旋風(かぜ)」は里山里海国際交流フォーラム「能登エコ・スタジアム2008」のイベントで拾った話題を紹介している。9月13日から17日にかけての「能登エコ・スタジアム2008」は3つのフォーラム、6つのプログラム、1つのツアーから構成されていたが、17日にシニアコース(シニア短期留学)の修了式をもって、すべてのメニューを完了した。また、同日は生物多様性条約のムハマド・ジョグラフ事務局長の能登視察も終了した。一連のイベントメニューの中でのVIP視察だった。

  今回のイベントは、キックオフシンポ(13日)であいさつに立った中村信一金沢大学学長も谷本正憲石川県知事も強調したように、2010年の国際生物多様性年に向けての予行演習の意味合いもあった。ひとまずはホップ、ステップ、ジャンプのホップを踏んだわけだが、もう次なるステップへ向けて動き出している。2009年の能登エコ・スタジアムの持ち方、それを2010年の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の関連イベント「金沢セッション」「能登エクスカーション」に結びつけるかについての方向性だ。無から有を生じさせる、前例なき模索でもある。

  今回のイベントで印象に残った2枚の写真。持続可能なこと、それは地下に封じ込められた化石燃料を掘り出して、燃焼させ、二酸化炭素を排出することではない。二酸化炭素を吸収し、光合成によって成長した植物をエネルギー化すること。里の生えるススキ、カヤ類を燃料化する試みが始まっている。それらをペレット化して燃料、あるいは家畜の飼料にする。奥能登では戦後、1800haもの畑地造成が行われたが、そのうち1000haが耕作放棄されススキ、カヤが生い茂っている。それをなんとかしたいとの発想でバイオマス研究から実用化の段階に向けて試行が続いている。能登エコ・スタジアムのコース「バイオエコツーリズム」ではその試みに興味を持った若者たちが大勢集まってきた。そして実際にススキを刈り取り、ペレット化を体験したのである。上の写真はその刈り入れの様子だ。地域エネルギーの可能性を感じさせる光景に見えた。

  もう一枚は生物多様性条約事務局長のアハメド・ジョグラフ氏。COP10の能登エクスカーションの視察で輪島市金蔵地区を訪れた=写真・下=。里山に広がる棚田、そして律儀に働く人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と痛く感動したのだった。精神論ではなく、この里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿にジョグラフ氏は感動したのだ。このジョグラフ氏の感動をそのまま2010年の国際生物多様性年への取り組みとして具体化させることになる。

 ⇒30日(火)夜・金沢の天気    くもり

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☆能登の旋風(かぜ)-6-

2008年09月28日 | ⇒トピック往来

 能登エコ・スタジアム2008のシニアコース(シニア短期留学)の期間中、父親が奥能登・門前(現・輪島市門前町)の出身という東京の女性Mさんと、横浜市鶴見区にある総持寺と縁があるという横浜の女性Nさんをお誘いして門前地区を訪れたという話を前回述べた。実は自分自身にもある目的があった。能登半島地震(07年3月25日)で被災した、ある家はいまどうなっているのか確認したかった。

        「震災とメディア」を考えた現場に再び

  能登半島地震の発生翌日、被害がもっとも大きいとされた門前地区に入った。住民のうち65歳以上が47%を占める。金沢大学の地域連携コーディネーターとして、学生によるボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいかを調査するのが当初の目的だった。そこで見たある光景をきっかけに、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真・上=。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問があったからだ。  当時、カメラマンたちが狙っていた半壊の家はいまどうなっているのか確認したかった。その家はカメラマンたちが期待したようにはならなかった。つまり、余震での倒壊は免れた。しかし、住めるような状態ではなかったので、そのままになっているのか、取り壊して更地なっているのか、再建されているのか…。何かの折に再び訪ねてみたいと思っていた。

  MさんとNさんをお誘いして門前入りした9月16日午前、車を降りて、問題のシーンと遭遇した場所に再び立ってみた。その民家は再建途中だった=写真・下=。まもなく完成するだろう。おそらくこの家の家族はまだ避難所生活と想像するが、まもなく新居での生活が始まるだろう。そう考えると、正直にうれしかった。震災から1年6ヵ月余り。それにしても、被災者とメディア側の溝は深い。メディア側で被災者の目線というものを体験しなければこの溝は埋まらない。そこで、「震災とメディア」の調査報告書には下記の一文をつけた。

  -そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で、現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。-「金沢大学能登半島地震学術調査部会平成19年度報告書」より

 ⇒28日(日)夜・金沢の天気   はれ

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★能登の旋風(かぜ)-5-

2008年09月27日 | ⇒トピック往来

 能登エコ・スタジアム2008のシニアコース(シニア短期留学)の受講生11人の中に父親が奥能登・門前(現・輪島市門前町)の出身という東京の女性Mさんと、横浜市鶴見区にある総持寺と縁があるという横浜の女性Nさんがいた。総持寺はもともと門前にあったが、明治の大火で本山を鶴見に移した。焼けた寺はその後再建され、祖院となった。9月16日午前のプログラム自由時間を利用して、MさんとNさんを誘って門前地区を訪ねた。

      ルーツ探しの旅

  門前地区は昨年3月25日の能登半島地震で震度6強の強い揺れに見舞われ、全壊家屋もここに集中した。総持寺の手前にある興禅寺を訪れた。震災で寺は山門と地蔵を残し崩落した。再建は始まったばかりで、基礎のコンクリート部分が出来上がった状態だった。山門の下には「再生」と書かれた賽銭(さいせん)箱が置かれてあった。再建協力を呼びかける札を読むと、「仏弟子の初心に還りたいと思います。どこまでやれるかわかりませんが、やってみようと思います」と書かれてあった。65歳以上の高齢者が47%も占める過疎と高齢の街。ここで寺を再建するというのは相当な覚悟だろう。「どこまでやれるかわかりませんが、やってみようと…」の文言に住職の苦悩の決意がにじむ。

  次に訪れた総持寺もまた被災し再興途中だった。僧堂の再建工事は屋根の部分まで進んでいた。MさんとNさんはここで「瓦寄進」をした。瓦に祈願の文字を書き、お布施をする。亡き父親が当地出身というMさんは「先祖供養」と書いていた。鶴見の総持寺と縁があるNさんは「一家繁栄」を祈願した。Nさんはさらに総持寺と縁を感じることになる。僧堂の建築現場に近づいてみると、長男が勤める建築事務所(東京都)がこの僧堂の設計・管理に携わっていたのだ。「大変名誉な仕事をさせてもらっている。親として素直にうれしい」と目を輝かせた。

  さらにここからルーツを訪ねる旅が始まる。Mさんの父親の生家を訪ねることにした。Mさん本人も幼い頃に何度か訪れたことがある。ただ、Mさんの記憶は「剣地南(つるぎじみなみ)」という地名と「川のそばの家」という2点。先祖はここで造り酒屋を営んでいた。屋号を「黒兵衛(くろべえ)」といい、「真善美」という銘柄の酒をつくっていた。ところが父親が事業に失敗して東京に行く。Mさんは東京で生まれた。現在は輪島市門前町剣地となっている住所にMさんの父親の生家跡を探したが、かつての「黒兵衛」という屋号の酒屋を記憶する人はいない。あきらめて帰る車の中で、Mさんは「弁護士だった息子が能登の父の実家をいっしょに訪ねてみようと話していたんですが、その息子は45歳のとき腫瘍を患って他界しました。それから12年経ちます…」と語り始めた。約束を果たさぬまま先立った息子への思いも募ったのか、Mさんの顔は曇りがちだった。

  そのときだった。「剣地」で探すのではなく、「南」で探してどうかとひらめくものがあった。車を降りて、土地の人に「近くに南という在所はありますか」と尋ねた。すると、「それなら阿岸川の山手にあるよ」と教えてくれた。ここで「川」と「剣地南」がつながった。川沿いに車を走らせると、北陸鉄道バスの「南」バス停があった。ここでMさんと車を降り、道で出会ったお年寄りに「ここにかつて造り酒屋がありませんでしたか」と尋ねた。すると古老は「『くろべえ』だろう。向うの一角がそうだったよ。いまは当時の蔵しか残っていないが…」と杖を上げて指し示してくれたのだ。Mさんはすかさず「私は黒兵衛の娘です」とお礼を言うと、古老は驚いた様子だった。

  Mさんの父親の実家は戦前に人手に渡り、いま当時のよすがをしのばせるものは酒蔵の一部を改造した民家だけだ。それでもMさんは周囲を眺め、しばらくたたずんでいた。Mさんはいま84歳、およそ80年ぶりに訪ねた父親の生家、祖先の地だった。

 ⇒27日(土)午後・金沢の天気   くもり

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☆能登の旋風(かぜ)-4-

2008年09月24日 | ⇒トピック往来

「能登エコ・スタジム2008」では3つのシンポジウム、6つのイベント、1つのツアーが行われた。そのツアーとはシニアコースと銘打ったスタディ・ツアーのこと。日本旅行の関連会社とタイアップし、50歳以上のシニアを対象に全国から募集して集まった11人がツアーに参加した。正式な旅行の募集名は「金沢大学シニア短期留学」で、旅行代金は1週間で19万円余り。9月11日に金沢で集合し、金沢城の石垣や建築を勉強。14日から能登に入った。能登エコ・スタジムのイベント全体の中で、個人的に一番苦心したのがこのツアーだった。何しろ人生の甘いも酸いもかみ分け、目と舌が肥えている人たち。論客が多く、ごまかし、まやかしは一切通用しない。しかも最高齢は84歳で、ツアーの主催者側に相当なホスピタリティ(もてなし)精神がないと相手は満足しない。この人たちに納得いくスタディ・ツアーとしてのサービスを提供するにはどうしたらよいか。

         そこにある観光資源              

  参加者の構成は東京都3人、兵庫県3人、大阪府2人、滋賀県1人、京都府1人、神奈川県1人である。年齢は60歳から84歳。男女比は女性7人、男性4人の構成。11日に開講式があり、懇親会があった。さっそく「シニア短期留学を研究する協議会をつくってはどうか」「金沢人、不親切論」なども飛び出して、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の状態となった。「論客が多すぎる」。これが第一印象だった。反省もあった。参加者には予めパンフレットで講義内容を簡単に説明してあったが、金沢大学がどのような学習サービスを提供してくれるのか、イメージとしてはインプットされていなかったのだろう。要は、説明不足。だから、懇親会での話が講義内容に集中するのではなく、ベクトルがバラバラな方向に展開したのだった。出だしはこんなふうだった。

  参加者11人のベクトルが合ってきたのは14日の夕方だったろうか。能登半島の先端、珠洲市寺家(じけ)地区のキリコ祭りを見学したときだった。地元の若い衆がせっかく東京や大阪から来てくれたのだからと、高さ12㍍もあるキリコを引き回してくれたのだった。そして、区長さんがキリコのことについて説明してれた。この一件で参加者たちの心はぐっと能登に引き寄せられたようだった。「能登半島の最果てに、エネルギッシュで気持ちのいい若者がいるね」「あの輪島塗のキリコの修理に1000万円もかけたんですって。心意気が違う」など。能登のキリコ祭りという共通の話題ができた。この夜、国民宿舎「のと路荘」で夕食の後、だれかれとなく誘い合ってカラオケ大会が催された。十五夜の月が見附島(通称「軍艦島」)に浮かんでいた。

  15日、地元の古老からトキが能登の空に舞っていたころの話や、鳥類の若手研究者から、最近飛来したコウノトリの生態観測の調査の講義を受けた。私は古老に質問をした。「なぜ、トキは絶滅したと思いますか」「土地の人たちが捕って食べたのではないですか」と刺激的に。古老は「そうです。私も食べた経験があります。当時、産後の滋養によいと言い伝えられていました。サギのような臭みはなく、あっさりとした肉です」「トキは早苗を踏み荒らすとされ、農家の人たちはトキに対してよい感情を持っていなかった」。息の詰まるような緊張したやり取りだった。古老には申し訳なかったが、トキの絶滅の背景を知る上で貴重な証言だった。その後、堰を切ったように参加者からさまざま質問が飛び出した。

  古民家の庭に獅子舞が舞い=写真=、祭りゴッツォをいただく。ゴッツォとは当地ではご馳走のこと。この土地ならでは料理に舌鼓を打つ。ツアーのフィーナーレが近づいた16日のこと。獅子舞だけでも正直、感動ものだった。「ひょっとこ」が獅子の頭を尻で踏んで、獅子を怒らせる。それを天狗が諌(いさ)めるのだが、獅子が治まらない。天狗がひょっとこをきつくしかりつけて、獅子は納得したか、ようやく治まる。そんなストーリーである。獅子舞を見物した後、古民家でいただいた料理の中で昆布巻きが妙に旅情を誘った。相当な時間煮込んだのだろう、昆布が軟らかくニシンに昆布の旨みが十分に浸み込んでいた。

  17日の最終日、金沢大学の能登学舎で修了証書の授与式、そして校庭で記念植樹をした。植樹したのはノトキリシマツツジ。能登の固有種で5月のゴールデンウイークには真紅の花びらをつける。ノトキリシマツツジは長寿木で現存するのは350年ほど。6本植え、傍らに11人全員の氏名を記したプレやート(プラスチック)をかけた。

  ツアーの期間中、祭りの季節に素顔の能登を見ていただいた。地域の人々との対話、郷土料理、土地の歴史や自然といったものがすべて学びの対象となり観光資源となるものだ。能登にはそんな観光資源がふんだんにある。ただ、それをどう手際よく提供することができるか。感動や発見は案外、タイミングかもしれない。小手先のサプライズや演出はシニアの人たちには通用しない。

 ⇒24日(水)夜・金沢の天気    はれ

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★能登の旋風(かぜ)-3-

2008年09月22日 | ⇒トピック往来

  奥能登の農家には「あえのこと」という田の神を迎える年中行事がある。稲の生育と豊作を願い、田の神をまつる農家の儀礼で、毎年12月と2月に行われる。儀礼は家の主人が中心となり、家内に迎え入れ、風呂や食事でもてなす。いまではわずかな農家でしか伝承されておらず、国の重要無形民俗文化財でもある。この儀礼の特徴は田の神があたかも実在するかのように振る舞う主人の仕草にある。

       ホスピタリティの「大学」

  というのも、田の神は目が不自由とされ、迎え入れる主人は想像力をたくましくしながら、「田の神さま、廊下の段差がありますのでお気をつけください」「料理は向かって左がお頭つきのタイでございます」などとリテールにこだわった丁寧な案内と説明をすることになる。これはある意味で高度なホスピタリティ(もてなし)である。招き入れる家の構造、料理の内容はその家によって異なり、自ら目が不自由だと仮定して、どのように案内すれば田の神が転ばずに済むか、居心地がよいか(満足か)とイマジネーションを膨らませトレーニングする。これがホスピタリティ(もてなし)の原点となる。万人に通用するように工夫された外食産業の店員対応マニュアルとは対極にある。

  文化庁は7月30日、能登の「あえのこと」を国連教育科学文化機関(ユネスコ)が来年から作成する無形文化遺産のリストに、日本からは第一弾として登録を提案すると発表した。日本から登録を目指すのは、能楽や人形浄瑠璃文楽、歌舞伎と合わせ17件。後世に伝えるべき文化財として国際的に知名度が高まれば、観光面などへの波及効果は大きい。ちなみに「あえ」とは「餐」の字を当てる。

  能登にはヨバレという風習がある。夏祭り、秋祭りが集落単位で行われ、神輿(みこし)や山車(だし)、キリコ(奉灯)が繰り出してにぎやか。自宅に親戚、友人、知人を招き入れる。招かれることをヨバレという。その家の祭り料理をヨバレゴッツォという。酒も入る。家族全員がホスト役となった、年に一度の盛大なホームパーティーである。ヨバレた側は今度、自らの集落のお祭りの際には呼んでくれた人を招くことになる。招き、招かれる。この祭りを通じて能登の人たちは幼いころからホスト、ゲストの振る舞いの所作を身に着けることになる。3歳の子供が客人に座布団を出し、中学生ならば熱燗の加減が分るといったふうにである。

  能登エコ・スタジアム2008では、能登の祭りをテーマに「キリコ祭りフォーラム」(9月16日・珠洲市)を開催した。フォーラムのオプションとしてヨバレ体験をした。民家の座敷に上げてもらい、赤ご膳でもてなしを受けた。ここで感じたことだが、もてなしを受ける側(ゲスト)ともてなす側(ホスト)とでは同じ座敷でも見える風景が異なるものだ。ただ、2つの立場を理解することは人の素養としては必要なことだ。

  日本の温泉観光は「ホスピタリティ産業」とも呼ばれる。中でも、能登の和倉温泉の加賀屋は「プロが選ぶ日本のホテル旅館百選」(主催:旅行新聞新社)で28年連続日本一に選ばれた名旅館だ。加賀屋だけではない。一客一亭でもてなす、レベルの高い旅館や民宿も能登には数多くある。加賀屋の小田禎彦会長から聞いた話(7月11日)だ。「能登は人をもてなす人材の宝庫です」と。

  祭りでもてなしを受ける側(ゲスト)ともてなす側(ホスト)を小さいころから体験し、トレーニングを積んでいる。つまり、意識をしなくても能登の人たちはホスピタリティの高度な実践教育を受けている。これをプロ人材として生かしているのが和倉温泉でもある。その権化(オーソリティ)が加賀屋ということになる。まさに能登は「ホスピタリティの大学」なのだ。しかも、小中高と一貫の。その原点は、目の不自由な田の神をもてなす「あえのこと」だと考えている。さしずめ建学の精神といったところか。(※写真:能登エコ・スタジアム2008「祭りヨバレ体験」=9月16日、珠洲市)

 ⇒22日(月)夜・神戸の天気  くもり

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☆能登の旋風(かぜ)-2-

2008年09月21日 | ⇒トピック往来

  おそらく今回のイベントで一番のVIPとも言える生物多様性条約事務局のアハメド・ジョグラフ事務局長が9月16から1泊2日で能登を訪問した。2010年の国際生物多様性年の「仕掛け人」である。この年、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10、名古屋市)が開催される。その関連会議を石川県に誘致するために、金沢大学、石川県、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット(金沢市)などが条約事務局に働きかけている。

      カメラを構えたジョグラフ氏

  実は今回のイベント「能登エコ・スタジアム2008」もその関連会議のシュミレーションとしての意味合いで金沢セッション、能登エクスカーションが構成された。ジョグラフ氏の能登訪問は2010年の能登エクスカーションの「下見」との意義付けもある。もし、ジョグラフ氏がここで「能登で見るべきもの、学ぶべきものはない」と感じれば、2010年の能登エクスカーションは沙汰やみになる。迎えるスタッフもプラン段階から気を遣った。では、ジョグラフ氏の反応はどうだったのか。

  まずジョグラフ氏のコースを紹介しよう。15日午後に金沢入りし、16日午後から能登訪問。キノコ山の保全活動などをツーリズムにしている「春蘭の里」(能登町)を訪ねた。その後、輪島の千枚田を経由して17時には金沢大学「能登学舎」(珠洲市)に到着。この時点で能登を150㌔走行し、疲労の様子もうかがえた。しかし、ジョグラフ氏が初めて自らのカメラを構えたのは能登学舎の近くにあるビオトープでのこと。広々とした水田地帯の山側に接した休耕田を生物の生息環境に配慮した湿地にしてある。ジョグラフ氏の目がくりくりと動いたのは、案内人のK氏が説明したとき。K氏は地元の小学校の校長で、ビオトープで育む生き物について熱心に教えている。「このビオトープは学校の教育の一環で子供たちが利用している」と説明した。ジョグラフ氏も環境問題を子供たちの教育に生かすことに力を注いでいて、途上国の小学校に木を植える運動を進めている。「グリーン・ウエーブ」運動と呼んで、日本でもその輪は広がりつつある。ジョグラフ氏とK氏、互いに共感するところがあったようだ。

  17日は、海の生き物を調査している「のと海洋ふれあいセンター」(能登町)で足を止めた。次に、輪島市の山中にある金蔵を訪れた。日本の里山の原風景とも言える棚田がなだらかに広がる。限界集落とも呼ばれる高齢化した地域。それでも人々は律儀に田を耕し、その収穫時に稲はざを立てる。ジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と感想を述べた。

  私は部分的にしか同行できなかったが、「夢にも描けなかった光景が現実となった」との思いを抱いた。水稲栽培では一枚の田の面積が小さく生産性は低い。機械化の効率が悪い分、手がかかる。ため池の管理にも骨が折れる。それでも祖先から受け継いだ農地を「もったいない」と人々は律儀に耕してきた。結果、里山環境は保たれ多種多様な生き物が生息する環境になっている。その里山の人々をジョグラフ氏が評価してくれたのである。

 里山で大切なことは、情緒的な側面も大切なのだが、新たな価値評価を与えて、求心力をつけることだと考える。SATOYAMAはすでに生態学の研究者の間では国際的な認知を受けつつあり、国連大学高等研究所が中心となって研究を進める「里山里海サブ・グローバルアセスメント」も具体的に動き始めている。こうした研究が科学的な裏づけをもって、世界に情報発信できれば、日本人が見る里山の風景もまた一変する。里山の国際評価が加速する。そんな旋風(かぜ)をジョグラフ氏の訪問で感じた。(写真:珠洲市粟津のビオトープでカメラを構えるジョグラフ氏)

 ⇒21日(日)夜・神戸の天気   くもり

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★能登の旋風(かぜ)-1-

2008年09月20日 | ⇒トピック往来
 いま能登には旋風(かぜ)が吹いている。金沢大学が国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット(金沢市)、石川県などと連携してつくる「里山里海国際交流フォーラム開催委員会」(委員長・中村信一金沢大学学長)は9月13日から4日間にわたって「能登エコ・スタジアム2008」を実施した。その運営メンバーとしてこの数ヶ月かかわったが、その実感が冒頭の言葉だ。

 まず、「能登エコ・スタジアム2008」の概要を説明しよう。金沢大学などが企画し,地域自治体と連携して開催した初めての大型イベント。4日間で3つのシンポジウム、6つのイベント、1つのツアーを実施した。生物多様性などの環境問題を理解するとともに、海や山を活用した地域振興策を探ろうという内容。13日に開催したキックオフシポジウム「里山里海から地球へ」=写真=には市民ら280人が参加し、国連大学の武内和彦副学長(東京大学教授)や生物多様性ASEANセンターのG.W.ロザリアストコ部長、女子美術大学の北川フラム教授が講演した。

 14日からは能登半島に場所を移動。6カ所で「能登エクスカーション」を開催し、延べ500人余りの参加があった。「里山里海国際交流フォーラム開催委員会」は来年以降も継続し,2010年の国際生物多様性年に開催される生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で予定される関連会議の石川県開催を支援していく。

 「なぜ能登に」とよく言われる。答えは一つ。「能登が熱くならないと、石川、北陸全体が活気づかない」と。過疎化、少子高齢化の能登半島、特に奥能登(輪島、珠洲、穴水、能登2市2町)は10年以内に人口は20%減少する。海と山、歴史があり、そしてよき人がいるのに人が減る。ある意味で、ここは日本、あるいは東アジアで起きている「地域の過疎化現象」のモデルでもある。逆に、この能登に「再生モデル」を創造できないか、そんな思いで「能登エコ・スタジアム」に参画した。

⇒20日(土)朝・金沢の天気   はれ
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☆総選挙へのシナリオ

2008年09月01日 | ⇒メディア時評
  前総理の突然の辞任のときも、そして今回も驚いた。福田康夫総理が1日夜、官邸で緊急に記者会見し、退陣する考えを表明した。8月の内閣改造後も求心力は回復せず、臨時国会の召集を控えて政権運営の継続は難しいと判断した、という。それにしても、総理が2代続けて1年足らずで辞任するのは異例の事態だ。

 辞任の理由をメディアの記事から拾うと。福田氏は「国民生活を考えた場合、態勢を整えた上で国会に臨むべきだと考えた。新しい布陣で政策実現を図っていかなければいけない」と強調し、参院で野党が多数を占める「ねじれ国会」を念頭に「私が首相を続けて国会が順調にいけばいいが、私の場合には内閣支持率の問題もある」などと言及。辞任を決めた経緯に関しては8月29日の総合経済対策の取りまとめを踏まえ、「先週末に最終的に決断した」と明かした、という(日経)。

 ここで意外だったのは内閣支持率をとても気にしてたということ。最新の朝日新聞社の世論調査(8月30-31日実施・電話)の結果で、福田内閣の支持率は25%。前回調査(同1-2日)の24%に引き続き低い水準だった。むしろ福田氏が気にしたのは不支持率で55%、前回と同じだった。総合経済対策を打ち出した直後にもかかわらず、国民には響かない、しかも同じ与党の公明サイドから「バラマキ」と一部批判が出て、「与党内支持率=福田離れ」に限界を感じたのではないか。

 福田内閣の支持率は就任直後が53%(07年9月)だったが、年金記録問題をきっかけに30%前後(12月)に下落。後期高齢者医療制度が始まった今年4月に25%となり、ガソリン税を道路財源に使うための法案の再議決を受けた5月の調査では19%まで下がった。一度「19%の地獄」を経験したのだから、今回の25%はそう気にするほどでもないと言ってしまうと気の毒か。

 アメリカのブッシュ大統領も苦笑いしているだろう。森、小泉、安部、福田と4人も総理が変わったのだ。国民はどう思うだろうか。「官僚がはびこるのはよくない。霞ヶ関改革が必要だ」と政治家が言ったとしても、一国の総理がコロコロ変わると、かえって霞ヶ関の官僚にはしっかりとしてもらわなければと思うのが国民の心理だろう。実はここが日本の政治が行き詰っている点なのだ。

 ともあれ、福田氏は自民党に総裁選の実施を指示したので、今月中旬に新総裁が決まり次第、正式に内閣を総辞職する見込み。新内閣も体制を整えた段階で来春の国会明けで解散となる。しかし、新内閣でスキャンダルが出れば年末に衆院解散、1月に総選挙だろう。総選挙へのシナリオはこのどちらかだろう。

⇒1日(月)夜・金沢の天気   はれ
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